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乳ワールド-異世界降誕ノ章-  作者: 茅原
女神降誕ノ章
22/61

女神の仮面。その1(りんご視点)

 パチリと明かりのスイッチを押す。と、広々としたリビングが目の前に白く照らし出される。


「お、お邪魔しまぁす……」


 玄関をくぐる時にも言ったのだが、思わずまた挨拶をしてしまいながらりんごがそこへ足を踏み入れると、「どうぞ」と軽やかな足取りで先を歩いていた翠花が、急にダッと駆け出した。


 テーブルにしがみつくようにして、その上にあった何かを抱え込み、こちらを見ることもなく一直線に隣の部屋へと入っていく。が、三秒としないうちに戻ってきて、扉を後ろ手に閉めながら真っ赤な顔でこちらを見る。


「ど、どうかしましたか?」

「い、いえ、なんでも……ちょっと、テーブルの上が散らかっていたから……」


 と、翠花はほっと安心したような溜息をつきつつそう言い、


「どうぞ、そんな所に立っていないで、楽に座っていいのよ? あなたのお母さんに私は言ったでしょう。私は別に下僕としてあなたをここに住まわせるのではないと」

「は、はい……」


 今日も仕事で忙しいらしい母には、報告を電話で済ませた。母はそれに戸惑っていた様子だったが、自分が翠花と代わると、実際に頭を下げていることが解るような声の調子でその言葉にひたすら「はい、はい、お願いします」とひれ伏していた。だが、翠花はそんな母に、


「私は、りんごさんを下僕にするつもりはありません」


と、確かにはっきりと言っていたのだった。


 キッチンへと向かっていく翠花の横顔は、その言葉を口にした時と同じように凛然としている。その表情に思わず見惚れてしまいながら、りんごはややベージュがかった白い布のソファに腰を下ろし、着替えなどを押し込んできたボストンバッグを足元へ置く。


 それから、このソファと同じように、基本的に白っぽい無地の家具で揃えられた清潔な部屋を見回して、なんの気なしに尋ねる。


「下僕は、誰も使っていないんですか?」


 ええ、と明かりの点けていないカウンターキッチンの向こうから、どうやらコップを洗い始めながら翠花が寂しげに微笑んだ。


「確かに巨乳派には貧乳の人を召使いのように使っている人が大勢いるけれど……私にはそんなことはできないわ。できるわけがない……」

「あ……」


 そうだった。緊張で、翠花の事情を思わず忘れてしまっていた。余計なことを口走った自らの口をりんごが押さえると、翠花は水を流している手元からちらりと目を上げてテレビのほうを見る。


「そこに、写真があるでしょう?」


 その視線を追うと、テレビ台の片隅に置かれてある白い写真立てが目に留まる。そこには、セーラー服姿で金管楽器を膝に載せ、こちらに向かってピースをしている少女が写っている。


 その顔はとても翠花に似ているが、その夏の青空のように快活な笑顔や、翠花よりもだいぶ短めな髪の毛、それに何より胸のサイズのために、そうではないとすぐに解った。


「この人が妹さん……ですか?」

「そう。とても可愛いでしょう」

「はい。じゃあ、この子があいつの好きだった人、なんですね……」


確かに、こんな可愛い子が傍にいれば、それは恋をしてしまうのも当然だろう。と、りんごが女ながら共感してしまっていると、


「新原さん」


 翠花がややその目を尖らせながらこちらを見た。だが、すぐに自信なさげにその目を伏せて、


「その……人のことを、『あいつ』なんて言ったりするのは、あまりいいことじゃないと思うわ。あなただって、そんなふうに言われたら……やっぱり、少しイヤでしょう?」

「は、はい。そうですね。すみません……」


 あいつがこんな細かいことを気にするだろうか? それは解らないが、ともかく翠花がこの言葉に不快感を感じるなら控えないと。と、りんごは慌てて頭を下げる。別に、翠花が巨乳派の最高峰であるから、思わずヘコヘコしているというのではない。礼儀に礼儀を返している。ただそれだけの話である。


和花(わか)――私の妹は、とても美しい女性だったわ」


 蛇口から出る水音に消えてしまうような細い声で、翠花は言った。


「身も心も美しくて……特にその心は、あまりにも美しすぎたの。だから彼女は、どうしても耐えることができなかった、この酷い世の中に……」

「…………」


 なんの言葉を返すこともできなかった。しかし、おそらく翠花も返事を求めてはいなかった。独り言のようにそう言ったきり口を噤み、無言のままコップを布巾で拭くと、背後の冷蔵庫を開いた。その中から大きなお茶のペットボトルを重たげに取り出し、その蓋を開けようとそれを掴むが、


「っ……く、はぁ、開かない……」


 軽く息切れまでしながら、固くて開かなかったらしい蓋から手を放して、泣きそうな顔でうなだれる。


「だ、大丈夫ですか、翠花さん」

「ごめんなさい、新原さん。こんなことさえもできないなんて、私は本当に生きる価値もない――」

「い、いや、御山さん。なんでペットボトルの蓋くらいでそんなことになるんですか。っていうか、たかがペットボトルの蓋を開けるくらい、諦めないでくださいよ」

「でも、これ凄く固くて……手が痛いわ……」

「じゃあ、あたしにやらせてください」


 蝶よ花よと育てられて、ペットボトルの蓋も開けたことのない生活をしてきたのだろうか。いや、一人暮らしをしているのだからそんなはずはない。でもそれにしたって、こんなこともできないようじゃ一人暮らしも何もないだろう。


 りんごは腕まくりしながら、翠花の人格を表すようにキレイに片づいているカウンターキッチンへと入ってペットボルトを受け取り、その蓋を軽く捻る。が、


「ん? ちょ、ちょっと待ってくださいねっ……? くっ……何これ? なんでこんな固いのっ……!?」


 翠花の言うとおり、手が痛くなるほど捻ってみても、ただの小さなプラスチックのくせにその蓋は微動だにしない。こんな物に負けて堪るかと顔が熱くなるほど踏ん張っていると、翠花が過保護の母親のように慌てた様子で言う。


「新原さん、いいのよ、そんなこと……! あなたの手が傷ついてしまったら……!」

「いいえ、開けます! 絶対、意地でも開けますからっ!」


 怒鳴るように答えて、りんごは持てる限りの力を振り絞り、冗談のように固い蓋を回そうと試みる。と、バキンという、これまでおよそ聞いたこともない音を立てて、それはようやく回ったのだった。


「あ、ありがとう、新原さん……」


 りんごからペットボトルを受け取りながら、翠花は唖然としたようにその目を丸くする。りんごは肩で息をしながら首を振り、


「い、いえ……こんな物に負けるなんて絶対にイヤだっただけですから。それに、あたしは――わたしは、御山さんのパートナーなんですから、できることはちゃんと手伝わないと、ですよね」

「……そう」


 と、翠花は、ともすれば冷たく見えてしまうほど精緻に整った顔に、ふわりと温かみのある笑みを広げる。


「彼の言う通り、あなたは本当に美しい人ね……。そうね、あなたの言う通り、私たちは互いを支えるパートナーなのだから、まずはもっとお互いを親しく呼び合いましょう?」

「親しく、ですか?」

「ええ。私のことは、どうか『翠花』と呼んで? 私も、あなたのことを『りんご』と呼ばせてもらうから」

「は、はい。じゃあ……翠花、さん」


 うん、と翠花はやや垂れ気味のその大きな目を細めて、


「じゃあ……りんご、あなたに一つ、お願いごとをしてもいい?」

「お願いごと?」

「ええ。そこの戸があるでしょう?」


 と、翠花はリビングに面している横開きの戸――先ほど翠花が何かを抱えて駆け込んでいった戸を目で示し、


「あそこには和室があるのだけど、そこをあなたの部屋にしてもらおうと思うの。でも、しばらくちゃんと拭き掃除をしたりはしていなかったから……」

「解りました。掃除くらい任せてください」

「そう。それなら、お願いするわ。その間に、私は晩ご飯を作っているから」


翠花の作ってくれる料理とはなんなのだろう? きっとその繊細な指先から細やかな味わいの逸品が作り出されるに違いない。でも、いつもより多くて重たい食材を前にして挫けてしまったりはしないだろうか。


 そう期待と不安とを抱きながら、りんごは風呂の脱衣場にある洗面台の下に置かれてあった雑巾とバケツを翠花から受け取ると、自らの持ち場へと向かった。


 しかし、戸を開けてその部屋の中へ入ってみると、そこは既に掃除の必要もないほど片づいているのだった。置かれている家具は何もなく、ある物と言えば、床の間で無意味に佇んでいる額縁立てのような物だけである。


 特にどこも掃除の必要性など感じないが、やると言ったからにはやるのが礼儀というものだ。よし、とりんごは念入りに腕まくりをし直して、掃除に取りかかった。


 と言っても、畳の目に沿って雑巾をかけ、床の間や敷居も拭いて、それで終わりである。だが、ふと気づく。和室へ入ってすぐ右横の位置にある、どうやらクローゼットらしい場所の扉がほんの微かに開いている。


 ――このクローゼット、あたしが使っていいのかな?


 そう思いつつ、何気なしにりんごがその扉へ手を伸ばすと、


「どうしたの、りんご?」


 いつのまにか戸口に立っていた青いエプロン姿の翠花が、にこやかに微笑しながら尋ねてきた。不意に声をかけられて、りんごは思わずギクリとしてしまいながら首を振る。


「い、いえ、なんでも。あ、掃除、大体こんな感じでいいと思うんですけど……」


 そうね、と翠花は満足そうに部屋を見回し、


「じゃあ、りんごはリビングで休んでいて? 料理ができるまで、もう少し時間がかかるから」

「ああ、いえ、私もお手伝いします。私は客としてここに来させてもらってるんじゃないんですから」


 そう? と翠花は絶えずにこやかにリビングのほうを振り向いてしかし、


「ああ、そうだわ」


 一歩踏み出して、すぐに立ち止まる。


「ちなみに、そこのクローゼットは開けないでほしいの。そこには、私のプライベートな物が入っていて……」 

「え? ああ、そうなんですか。はい、解りました」


 頷くと、翠花はその墨を流したように輝く黒髪をさらりと揺らしながら、微笑んだように細めた目でこちらを見つめながら言う。


「……信用しているわよ。あなたのこと」

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