聖域への潜入。その1
既に日は沈み、西の空をわずかに残して辺りはすっかり夜の暗さの中に落ちている。
街中の割合大きな面積を占める公園なのだが、白い外灯がぽつりぽつり灯っているだけで、その下を通る人影はほとんど見られない。
昼間はウォーキングをする人たちやベビーカーを押す人たちで賑わうこの緑豊かな公園も、日が沈めば不気味なほどにひと気が消える。外灯の白い光のために、木立の合間を埋める闇がいっそう濃く見える。
勇登はパーカーのフードで顔を隠しながら、そんな公園の奥へ奥へとりんごと共に向かっていく。
この公園の中央あたりには、ぐるりと大きな円を描いて高さ五メートルほどのレンガ塀が設けられている。
それは割合最近作られたような、レトロ風の洒落た佇まいで木々の奥に立っていて、これを始めて見た人ならば、これは美術館か何かだろうかと、そう思って思わず入口を探してしまいかねない雰囲気を周囲に漂わせている。
だが、実際にそう勘違いする人などおらず、さらにはこの壁に関心を持つ人さえ皆無なのである。公園の入り口からただ真っ直ぐ進んだ先にぽっかりと路が空き、その先には何やら魔法の街のような不思議な灯りがあるにも拘わらず……。
騒ぎを起こしたくはないから、遠目にしか眺めたことがなかったその場所――乳パラダイスへ、勇登は夜陰に紛れて忍び込んだ。
塀は凹状に内部へとくぼんでおり、そのくぼんだ位置は既に『乳聖石』の結界の中である。第一段階はクリアした。そのくぼんだ位置となっている、両脇を塀に囲まれた十メートルほどの通路を歩きながら、りんごが囁いた。
「今更だけど……もう引き返せないのよね」
「そうだな。だが、俺たちは利害の一致した仲間だ。愛だの恋だの、そんな曖昧な感情で結ばれたような、漠然とした関係ではない。だから、どうか俺を信じてくれ」
「解ってるわよ。あたしも、もう覚悟を決めたんだから、その責任は取るわ。やるならやるで、徹底的にやってやろうじゃない」
りんごはニヤリと笑いながらそう言って、不意に勇登の手を握った。勇登はビクリとりんごから距離を取り、
「な、なんだ!? 急に手を触るな!」
「え?『なんだ?』って……あんた、あたしに先導をお願いするって言ってたじゃない」
キョトンを目を丸くするりんごに、勇登は耳を熱くしながらこほんと咳払いして、
「い、いや、まだ大丈夫だ。案内は、あの門を抜けてから頼む」
そう言うと、門番が後ろ手に手を組みながら立っている鉄柵の門へと突き進んでいく。なんなのよ、とブツクサ言いながらりんごは後をついてきて、ほどなく勇登はその門番の前に立った。
すると、濃紺の一般的な警備員の制服を着たその若い門番は、制帽のツバの下からじろりと舐め回すように勇登と、それからりんごを見て、
「貧乳が、なんの用だ? ここで働く職員でもないだろう」
自分も貧乳であるにも拘わらず、そう厳しい口調で言う。
その顔立ちは怜悧さを感じさせるほどに整っていて、眼差しは刺すように鋭く、暗がりの中で光っているようにさえ見える。背は百六十センチほどでりんごと同じくらいだが、ボーイッシュな髪型のせいもあって、その雰囲気は男性的である。
だが、勇登が臆すことなくじっとその目を睨み返していると、りんごが慌てたように口を開いた。
「あ、あの……きゅ、急に人手が必要になったって知り合いの人に頼まれて、そ、そのお手伝いに来たんです、あたしたち」
「そのような話は何も聞いていないが……まあ、いいだろう。だが、『乳民基本台帳』のチェックをさせてもらうから、ちょっとそこで待っていろ」
門番はそう言うと、おそらくは門番の詰め所である、右手にある鉄製のドアへと足を向けた。すると、りんごが勇登の襟首を掴んで耳打ちする。
「ちょっと、本当に大丈夫なの? あんたまさか、何も考えないでここに来たんじゃないわよね?」
「おい、ふざけるのも大概にしろよ、お前」
と、勇登は声を尖らせて言う。りんごにではない。門番の背中に向かってである。
門番がじろりとこちらを振り向く。りんごは凍りついたように呼吸を止め、まるでしがみつくように勇登の腕を抱き締めるが、
「……ぷっ」
峻厳に影を濃くしていた門番の目元が、見る間にへなりと弛む。門番は右手で後頭部を掻きながら、その繊細に整った顔に屈託ない笑みを広げる。
「あははっ。ごめんごめん。そんな怖い顔で睨まないでよ、勇ちゃんったら」
へ? と固まるりんごにも笑みを向けてから、その門番は詰め所の扉を開き、
「さあ、こっちだよ。ほら、入って入って」
と、軽薄にも感じられる様子で勇登とりんごをそこへ招き入れる。
机とファイルを並べた本棚、簡易的なベッド、それから天井にぶら下がった白熱灯の照明と、門の内と外へ繋がる二つの扉だけがある、その四畳半ほどの部屋に入ると、勇登はようやくほっと肩から力を抜く。
「お前一人なのか、和?」
「うん、そだよー。だから、寂しくってさー」
言いながら、和と呼ばれたその警備員はベッドの下から段ボール箱を取り出し、にへらと笑いながらそれを開ける。その中には、折り畳まれた警備員の制服と、黒々とした長い髪の毛がある。
「ほら、勇ちゃんに言われたとおり、二人分の制服、用意しといたよ。あと、カツラとか女装用のグッズもね」
「ありがとう、和。礼を言う」
と、勇登は早速その制服を取り出し、サイズの小さいほうを、まだ目を白黒しながら勇登の腕に抱きついていたりんごに手渡す。
「りんご、これを着ろ」
「え? あ、う、うん……」
と、りんごが目を丸くしながらもそれを受け取ると、勇登はすぐさま今着ている服を脱ぎ始めた。ちょっと、とりんごは怒りながらこちらから目を逸らすが、そんなことをしている場合ではない。
「何をしている。お前も早く着替えるんだ。俺たちはここに遊びにきているんじゃないんだぞ」
「そ、そんなこと解ってるわよ。い……いいわよ、解ったわよ。裸にでもなんでもなってやるわよ!」
「おい、和。帰りにはまたここで着替えて帰るから、俺たちの服はここに隠しておいてくれ」
「オッケー」
と、和は本当に大丈夫なのかと疑いたくなるほど軽く頷くがしかし、友人であるこの人物ほど、勇登が乳ワールドにおいて信用できる人間はいないのだった。
だから、その軽薄さに思わず苦笑してしまいながら、変装アイテムを装着し始めると、りんごもいよいよ観念したように部屋の隅でこそこそ着替えを始めた。
すると、マシュマロのような白い肌と、いちごシャーベットのような薄桃色の下着を露わにしたりんごに、和が右手で顎を触ってニヤニヤと笑いながら歩み寄った。
「へえ、君が噂のりんごちゃんかー」
「え? あ、あの……?」
いつもの気勢はどこへやら、警備員の制服で身体を隠し、やけに気弱に肩を窄めるりんごに、和は容赦なくずんずんと歩み寄り、りんごの顔をぐっと覗き込む。
「なるほどなー、確かに勇ちゃんが惚れ込むだけあるよ。ホント、超可愛い。うわ。よく見たら、マジで可愛いなー」
「おい、和。りんごが怯えている。あまり近づくな」
ワイシャツのボタンを留めていた途中だったが、見かねて勇登は和の肩を背後から掴む。すると、和はやはり明るく微笑みながら、
「だいじょぶだよ、何もしないってば。だって、この子は勇ちゃんの宝物なんだから」
「それよりも、彼女は今日もちゃんとここに来ているんだろうな」
「彼女って……ああ、翠ちゃんのこと? うん、来てる来てる。どーせ今日も一人で部屋にこもってるだけだろうけどね。用がないなら家にすぐ帰ればいいのに、やっぱ寂しいんだろうね。
だから勇ちゃん、上手く翠ちゃんに会えたらさ、優しく抱き締めてあげてよ。それとも、ボクを抱き締めたい?」
「笑えない冗談はやめてくれ」
「えー、どうして? 笑ってよ」
と、肩を掴んで揺すってくる和の手を払いながら、勇登は警備員のスーツに袖を通す。見ると、りんごも既にほとんど着替え終えている。ネクタイの結い方には戸惑っていた様子だったので、それを手伝ってやっていると、
「勇ちゃんの頼みだから、ボクはなんでも聞くよ」
和が静かに言って、さらに耳打ちする。
「でも、ボクは今はオトコで、男の子たちに秘密をバラすんじゃないかって、むしろ乳安に監視されてる側でもあるんだ。だから、ここから先は何もしてあげられないよ。それは許してね、勇ちゃん」
「そんなことはとうに解っている。こうやって協力してくれているだけでも充分にありがたいんだ。これ以上の迷惑をかけるつもりはないさ」
言って、りんごがスーツに袖を通すのも手伝ってやってから、変装のシメとして腰まで届くような黒髪ロングのカツラを頭に被り、頭の上が真っ平らな警備員の帽子をその上に載せる。
「行くぞ、りんご」
ここが安全だからと言って、のんびりとはしていられない。ズボンのチャックをわたわたと上げているりんごに勇登はそう言うと、和に目で礼を言ってから、乳パラダイス内へと歩を踏み出す。
と、そこに広がるのは、門の外とはまるで異なる光景である。
ガス灯のような暖色の灯りに照らされた英国風庭園。それが、ぐるりをレンガ塀に囲まれた広い空間に広がっているのだった。




