もう一人の女神。(りんご視点)
「新原さん、ちょっと来てくれない?」
朝、教室へ着いて間もなく、純の使いっ走りである女子生徒二人が、犯罪者を見下ろす警察官のような目つきでりんごの机の前に立った。
秋も深まって肌寒いほどに涼しくなっているとは言え、短くない通学路をせっせと歩いてきたばかりで疲れているし、まだ眠いし、何もかも気乗りがしなかったが、どうせ呼び出しがあるだろうと予測してもいたので、りんごは大人しく席を立って二人の後に続く。
連れて行かれた文化棟二階のコンピューター室の前には、腕組みしているところまで予想どおりに純が不機嫌そうに立っている。
女子生徒に肩を小突かれながらその前に立つと、純が薄く開いた目でじろりとこちらを睨み、開口一番尋ねてきた。
「ねぇ、りんご。あんた、お母様に決闘を申し込んだって、冗談よね?」
委員長本人から聞いたのだろう。なら、自分から言うことなど何もない。りんごが肩をすくめてみせると、
「ほぅら、やっぱりお母様の冗談だった」
純は声を甲高くしてそう言い、左右を取り巻く女子生徒たちと一緒になってけらけらと笑う。
だが、決闘をすることになったのは本当で、こちらとしては何一つ笑えない状況なのだから黙ってその様子を眺めていると、突然、純がムッとしたように眉間にシワを刻み、こちらの胸ぐらを掴んだ。
「何よ、その生意気な顔は。あんたも笑いなさいよ」
不機嫌なブルドッグみたいな顔で言いながら、りんごの胸ぐらを強く持ち上げる。と、何かに気づいたようにその目を落とした。
「あんた、まだそんなの持ってたの?」
その視線の先には、スカートのポケットから顔を出した携帯電話のストラップがある。純はりんごの胸から手を放し、そのアマガエルを掴んでポケットから携帯電話を引っ張り出す。
「ちょっ、ちょっと、純。それは――」
フン、と純は鼻で笑い、片手に携帯電話を、もう片手にストラップを握り、古びて弱くなっていたそれらを繋ぐ紐をブチンと千切った。
「いつまでもこんな物を持ってるんじゃないわよ、目障りだわ」
携帯電話をこちらへ突き返しながら、アマガエルをゴミのように投げ捨てる。
ほとんど音もなく薄暗い廊下を転がったそれを、りんごは自分でも不思議なほど冷静さを保ちながら拾い上げ、
「ねぇ、純。あたし、もう黙ってないから」
純に背を向けながら言った。純が小学校の修学旅行の時に買ってプレゼントしてくれたストラップをポケットへしまい、乳拝みをしてエアパイツ――『エルガー』を両腕に出現させる。
かぎ爪のように鋭い手で拳を作りながら三人のほうを振り向き、その物々しい鉄甲を見せつけるようにしながら、純を正面切って睨みつける。
「あたしは戦う。自分自身に胸を誇れるようになるためにも……。だから、もうあたしの邪魔はしないで。あたしは、バカでどーしようもないあんたのためにも戦ってあげるんだから」
「バ、バカって、あんた、誰に向かって――」
「あんたに決まってんでしょ。あんたがあたしに何をしようと、あたしはまた昔みたいにあんたと友達になる。『同じのをつけよう』って、そう言ってあたしにストラップをプレゼントしてくれたあんたを取り戻してみせる。
絶対、諦めないから」
そう啖呵を切ってやると、こちらがエアパイツを持っていることによほどショックを受けたのだろう、純はその口をフグのようにパクパクさせながら後ずさり、
「こ、このことはお母様に言うから! 憶えてなさい!」
と、情けないことこの上ない言葉を残して、取り巻きを引き連れながら足早に教室棟のほうへと戻っていった。
もう大丈夫。
そう頭の中で呟くと、エアパイツは自然と両腕から姿を消す。りんごは残されたひと気のない廊下でポツンと佇みながらしかし、妙にさっぱりとした気分だった。
――ずっと言いたかったことが、ようやく言えたからかな……?
後悔はない。やれるだけ、やってやる。秋の空のように突き抜けた心境で、りんごはその足を急いで踏み出す。
朝のホームルームが始まる前に、エアパイツ強化装置という名の変態ブラジャーを外しておかねばならない。
純は変わってしまった。
あれは忘れもしない、純が十四歳になった、その翌日のことだった。
急に自分を無視するようになり、それまでの温和な性格からはまるで人が変わったように、少しでも気にくわないことがあると怒鳴り散らすようになった。
何歳も年の離れた年上の女性をまるで召使いのように従えて歩くようになり、同時にぶくぶくと太っていった。
いったい彼女に何が起きているのか。それを理解したのは、自分が乳安委員会の『おっぱい検定』を受けた時、つまり『下等乳民』として乳ワールドに迎え入れられた時だった。
純は乳安委員会の委員長である母親から、既にこの世の秘められた仕組みを教えられていたのだ。
思えば、純が無視をしたり怒鳴り散らしていたのは、決まって自分よりも胸の小さな女子に対してだった。
純は既に十四歳であった時から自分たちとは違う世界に生き、そして備えていたのだ。まるで冬眠前のクマのごとく、ほどなく自分を待ち受ける過酷な環境に備えて、その身体に充分な『脂肪』を蓄えていたのだ。
――でも、あたしは忘れない。昔の優しい純を。あたしの幼なじみの純を……。
乳ワールドという世界が、純を壊した。誰よりも優しく、か弱かった純を連れ去ったのだ。
だから、自分は戦わなくてはならない。彼女を取り戻すために。大好きな幼なじみを救い出すために。
……と、自分が熱く決意をたぎらせているというのに、勇登は一体なんなのだ。
今朝から、たったの一言も自分に声をかけてこない。わざわざこちらから挨拶をしてやっても、生返事しか返さずに目も合わせない。
確かに、自分たちはもう乳安にマークされているのだから、不用意に会話をしないほうがいいに決まっている。だけれども、無視して放っておかれるこちらの不安だって考えてほしい。
――何か一言くらい、今日の予定くらい教えなさいよ、バカ勇登……!
昼休みの指定席である文化棟三階のトイレの個室に腰を下ろし、毎朝、母が作っておいてくれる弁当の包みを開く。
トイレで孤独に弁当をつつくなんてきっと惨めなことなのだろうが、もうすっかり慣れている。これしきのことにいちいち侘びしくなっていては、女は生きていけないのだ。
まずは卵焼きを――と、それへと箸を伸ばしたのと同時、ポケットで携帯電話が震動した。表示を見ると『非通知』だが、
「勇登?」
『よく解ったな』
非通知で電話かけてくるのなんて、あんたくらいよ。りんごは呆れながらそう呟き、それからハッと思い出して尋ねた。
「ねえ、勇登。あたしはこれからどうすればいいの?」
『ああ。それを伝えようと思って今電話をかけている。今日は……放課後に俺たち二人で、もう一人の女神に会いに行く』
「……はっ?」
と、りんごは思わず弁当を膝から落としそうになる。
「もう一人の女神? な、何よ……それ? どういうこと?」
『どういうことも何もない、そのままのことだ。じゃあ、昨日と同じくアパートで待っている。委員長との決闘が確約されたのだし、江口がまた乗り込んでくることは考えにくい。だから、安心して来てくれ』
「ちょ、ちょっと――」
こちらの話など一つも聞かず、勇登は相変わらず一方的に通話を切ってしまう。
――もう一人の女神? もう一人の女神って、どういうこと? あたしが女神なんじゃないの?
そうりんごは困惑するが、困惑すればするほど、『よく考えれば、そんなにおかしなことでもないことで戸惑っている自分はなんなんだ。嫉妬でもしているのか』と思えてきて腹が立ってきた。
――なんであたしがこんな気分にならなきゃいけないのよっ! あのバカっ!
額に汗が浮くほど箸を握り締めて、りんごは声の限りに心の中で叫んだのだった。