安藤さんと自殺志願者
月明かりが照らす高原の崖に木枯らしが吹く中、二人の親子が眼下の崖下を見下ろしている。
「おかあさん。こんなところで何をするの?」
「落ちて別の世界に行くんだよ。落ちた後は昇るんだよ」
「のぼって、どこにゆくの?」
「苦しみのない素敵な世界だよ」
こどもはふうんと返事をした。
「さあ、行くよ」
母親はこどもの手を取って足場の無い前に歩き出した。
「やめろ!」
母親の肩を掴む手。それによって母親と子こどもは崖から落ちることなく止まった。
「誰? あなたには関係ないことで――」
「あるよ!」
母親が振り返ると可愛らしい女の子。高校生くらいだろうか。
「全く、給料以上の労働を強いられる身にもなってよ。いい? せめてまだ死ぬな! 頼むよ!」
「はぁ?」
母親はただ顔をしかめるだけだ。自殺を止めてくれたのか、それとも何か彼女自身の都合なのかわからなくて複雑な心境に気付く。
「おねえさんだあれ?」
こどもが笑いもせず、恐れることもなく、訊ねる。
「お姉さんはね、安藤だよ」
「ぼくはね、田治米真也だよ」
「真也! 名前を教えなくていいの」
母親がずいと前に出る。
「それで? 安藤さんには私たちの自殺を止める権利がおありで?」
「今はあります」
安藤が真顔で返事をした。
「そもそもどうしてこんな人気のないところにいるの? その時点で怪しいわ」
「それはお互い様です」
「ねえ、じさつってなあに?」
こどもは澄んだ目で母親を見る。
「今からすることよ」
母親はこどもの手を引いて再び崖から落ちようとするが、やはり安藤が止める。
「いい加減にしろ! もうすぐ終わるから! あ、ほら!」
「え?」
南の空を指さす安藤。母親はその指が示す先をと見る。安藤は無線機のようなものを取り出して、話し出した。
「斉藤さん、団体様のご案内終わった? ああ、そう。ああ、いや。ちょっと案内するかもなんだけど、団体様とごっちゃになったらあたしたちもオルさんも面倒かなって。うん、ありがとね」
無線機をしまって、にこやかに笑った。
「本当は勘弁してほしいけど、あとはお好きにどうぞ」
結局、困惑したまま母親はこどもを連れて飛び降りて死んだ。
暗闇の中、鋭い痛みを越えて目を開くと母親の側にはこどもがいて、そして安藤も目の前にいた。
「本日は、死神の安藤が天界控室へのご案内をいたします。そこでオルさんこと閻魔大王の審判を待つことになりますが、オルさんの見た目だけは割と怖いので視覚的恐怖をご覚悟ください」