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旭図加春秋

1.28422176651

作者: 弥生 久

 遠い昔の話だ、と祖母は言った。

 

 祖母はそのときもう九十歳で、寝たきりで、そのくせお喋りで、縁側のあるいつもかび臭い部屋にいて、そしてそこが僕の唯一の居場所だった。

 

 その部屋で、僕はいくつもの話を聞いた。その中のひとつが、1.28422176651の話だ。

 

 遠い昔の話だった。


        

        ○


 

 その少年には、親がいなかった。はじめからいなかったのか、死んでしまったのか、それはわからない。前者のほうがありえそうだとも思える。

 

 ともかく、少年はひとりだった。

 

 周りの大人たちは、あいつは不幸を呼ぶ呪われた子だよと言った。その証拠に、一言も喋ったところを見たことがない、奴は唖にちがいない、と。

 

 確かに、彼はほとんど喋らなかった。けれど、実際には彼は唖ではなかったし、喋ることもできた。しかしまた、彼にはあまり人が見えていなかったというのも事実ではあったと思う。

 

 この話は元々、彼から聞いた。

 1.28422176651の話。

 月の孤独の話。


 

 光にはね、速さがあるんだ。

 

 光はこの世でいちばん足が速いけど、でもそれでも月からここまでかけてくるのに1.28422176651秒かかる。

 

 たとえばね、君が遠くから誰かが泣いているのを見たとする。

 光はとっても速いから、遠いったってそのくらいの距離なら一瞬でかけてこれる。

 だからその人が泣いて、ほとんどまったくの同時に君もそれを悲しめる。

 

 でもね、月はそうじゃない。

 月がたとえ今この瞬間にこの世から消えてしまっても、僕たちがそれを知るには一秒と少しかかる。

 

 そのあいだ、月のために悲しむ人間は、ひとりだっていないんだよ。


 

 彼はあまり喋らなかった。そのかわりに、彼は月を愛していた。来る日も来る日も月を眺め、少しでも月をその孤独から救いだそうとしているかのようだった。

 それは、人のかたちをした孤独の姿そのものだった。

 月を眺めている間、彼の魂は地上を離れ、月へと近づいていたのかもしれなかった。

 

 ある日、彼はいなくなった。

 神隠しにあったのだとも、物の怪にさらわれたのだとも言われた。

 様々な噂が立っては消えていき、最後にはひとつだけが残った。

 

 いわく、月に行ったのだ、と。

 

 彼が本当に月に行ったのかどうかは、とうとうわからなかった。

 でも、そうだったらいいなと思う。

 そうだったら、月も彼もひとりぼっちじゃなくなるから。

 互いに孤独をわけ合えるのだから。


 この話は、これでおしまい。


        

        ○


 

 そして月は、1.28422176651秒の孤独を繰り返しながら、今も闇夜のなかに浮かんでいる。










       

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― 新着の感想 ―
[良い点] 儚いお話ですね。とっても読みやすかったです。 [一言] タイトルに吸い寄せられましたw
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