鬼金吾 ~金吾中納言と鬼島津が入れ替わったら~
慶長5年9月10日(1600年10月11日)
俗に言う関ヶ原の合戦の10日前、西軍の将は一堂に会していた。
その中に“金吾中納言”小早川秀秋の姿もあった。
彼は15,000と言う大軍を率いており、西軍・東軍共に彼を引き入れようと必死に条件を吊り上げていた。
その結果として西軍側は“豊臣秀頼が成人するまでの関白就任への後押し、および上方2ヶ国の加増”を約束し、東軍側も“50万石以上への加増”を約束していた。
条件的には西軍の方が良いのだが、秀秋は西軍の大将格である石田三成に対して、あまり良い感情を持っていなかった。
それは豊臣秀吉の存命中である慶長の役の直後に、戦で活躍したのにも関わらず、筑前・筑後から越前へ大幅な減封を言い渡されている事に原因がある。
越前へ移った後、代官として秀秋の元領地に入ったのが三成であり、秀秋が減封に際して泣く泣く解雇した多くの家臣を、三成が雇い入れていたのだ。
秀秋はこの事から三成が秀吉に諌言をし、自分を陥れたのではと考えていた。
もっとも秀吉は筑前・筑後を、始めは三成へ代官で無く領地として与えようとしたが三成は断っており、秀秋の勘違いであるのだがそれを知るすべは無かった。
『ん~、もう少し内府(家康)の条件が良ければ断然東軍なんですけど・・・今の僕が36万石くらいですし、ちょっと50万石じゃ弱いですよねぇ。』
秀秋はそんな事を考えていたが、現在は西軍の軍議のまっ最中である。
「金吾には丸山に布陣して貰いたいが、如何か?」
「えっ?あぁ、良いですよ。」
同じ秀吉の猶子であった宇喜多秀家が声を掛けてきた。
秀秋は思わず返事をしてしまったが、すぐ後に後悔する。
『丸山ってめっちゃ最前線になりそうじゃ無いですか!こんな所に布陣したら裏切りにくいです!』
「ちょ・・・ちょっと厠に行ってきます!」
若干ビビッた秀秋は、もよおして来たため厠に向かい席を立った。
『ふぅ~・・・何だかんだで西軍の方に参加しちゃってるし、寝返るって言うのも気分悪いしなぁ~。いっその事、条件良いし西軍で頑張るのもありかな?』
秀秋は厠に行ってまで、そんな事を延々と考えていた。
まれに見る優柔不断っぷりである。
一方、秀秋が席を立った後の議場では、一人の男が夜襲をかける事を提案したが、他の将達に断られていた。
「じゃから言うておろうが!この戦、勝たないと何の意味も無い!夜襲でも奇襲でも、勝つためなら何でもするべきじゃ!」
「しかし島津殿、すでに我々は数で勝ち、時間もあるので布陣でも有利になり得る。奇策に頼らんでも十分に勝てる以上は、無理をする必要は無いと考えますが。」
夜襲を提案したのは島津義弘。“鬼島津”の異名を持つ戦の天才である。
一方でその提案を却下したのは総大将の石田三成。彼は戦のセンスがまったく無い訳ではないが、その生真面目な性格からあまり奇をてらう事を好まなかった。
この二人の意見は決して両方とも間違えではない。
義弘の考えは“戦で何があるか解らないから、やれる事をやる”と言う信念から来ており、三成の考えは“何も無ければ自分達が有利なんだから、自分から動く必要は無い”と言う総大将として冷静であろうとする意思から来ている。
かの武田信玄で有名な風林火山で言えば、風火と林山の真っ二つに割れたようなものである。
そのため本来ならこの場でもっと熱い議論になってもおかしくないのであるが、義弘の案があっさり却下されたのは、東軍と西軍を天秤にかけている将もこの場には多く居たためである。
自分の利益の為に寝返るかどうかを計ってる者達にとって、何が起こるか予測が出来なくなる義弘の案は好ましくないと言う事だ。
「もう良い!わしは陣に戻らせてもらう!」
短気な所がある義弘は、この状況に苛立ち席を立つ。
そしてそのまま他の将のほうを見回しながら出口へと歩き出した。
そこに厠が済んだ秀秋が、相変わらず半分上の空で戻ってきた。
その結果・・・
ゴチンッ!
バタッ!バタッ!
「義弘殿!?金吾!!??」
怒りで周りが見えていなかった義弘と、上の空で周りが見えていない秀秋。
なんと、二人はお互いの頭を派手にぶつけて倒れてしまったのだ。
西軍の諸将は大いに慌て、軍議をそっちのけで二人をそれぞれの陣まで運んだのであった。
・・・・・
一夜明け、ここは島津の陣内。
昨夜頭を激しく打ち、眼を覚まさぬ義弘の横では、甥の島津豊久が心配そうに見ていた。
「うっ・・・うぅ。」
「!?伯父上!大丈夫ですか!?」
豊久は義弘に駆け寄る。
「ここは・・・君だれ?」
「伯父上!?いかん、混乱しておられる!!」
この時、確かに義弘の中の意識は混乱していた。
だがそれは記憶の混乱ではなく、自分より年上の見ず知らずの男性から、伯父上などと呼ばれた事によってだ。
そうこの時すでに、小早川秀秋の精神が、頭をぶつけた衝撃によって島津義弘の身体へと入っていたのであった。
秀秋は混乱しながらもすぐに周りを見渡す。
そこには一面が島津十字の旗印が翻り、自分の身体を見ると明らかに自分のものとは違う手、そして自分を叔父上と言う年上の男。
「あの~、僕は誰に見えます?」
秀秋は思わずその男に尋ねてしまう。
「何言ってるんですか!伯父上はわしの伯父、島津義弘じゃないですか!」
その答えに更に混乱する秀秋。
『なんで僕が義弘殿になってんの!?』
秀秋は得意技である思考の迷路へのダイビングをしそうであったが、すでに昨夜から状況が変わっていたため、豊久が急かしてきた。
「叔父上!混乱している所悪いが、他の諸将も動き出してる事だし、わしらも動き出さんといかんです!」
そう、昨日の軍議の結果決まった布陣場所へと、全軍が移動を始めていたのだ。
下手にこの場に残っていると、東軍に各個撃破される可能性もあった。
「えっと、僕らの布陣場所はどこだっけ?」
「聞いてないです。伯父上が聞いているのでは?」
ちなみに島津軍は数もあまり多くなかった為に特に重要視されておらず、軍議の最中で事故があり有耶無耶になったため、布陣場所は特に決まっていなかった。
「うんと、僕らの軍の人数はどれくらいだっけ?」
「・・・2,000じゃないですか。龍伯の伯父上(島津義久)が兵を送ってくれてれば、寡兵と侮られずに済んだのに・・・」
この時、島津の内部は長兄義久と次兄義弘の間で意見が割れており、義弘は自分の動かせるだけの兵しか揃えることが出来ないでいた。
『ヤバイ!僕の安全を確保する為に15,000も兵を連れてきたって言うのに、たった2,000で戦えっていうの!?』
秀秋は焦った。
そりゃ誰でも15,000あったものが、急に2,000になれば焦るものだ。
兵じゃなくて財布の中身でもそうなのだから、秀秋のうろたえ様も理解できるであろう。
「そんで伯父上、わしらはどこに布陣するんです?」
『えっと、こうなったらなるべく僕の軍の近くにしよう。もし僕の中身が義弘殿なら島津の軍を守ってくれるかも知れないし。』
「僕たちは小早川軍の近くに布陣するよ。」
「はっ!ではその通りに。」
こうして、秀秋は打算的に元々の自分の軍である、小早川軍の近くに布陣するのであった。
一方、小早川の陣の方でも同様の騒動があったが、こちらは中身が義弘の秀秋が大暴れをした所、兵を十人以上動員し何とか縛り上げた。
その後布陣をする際に、鬱憤が溜まった義弘は勝手に松尾山に布陣してしまい、更に一悶着あるが結局そのまま布陣を続けた。
ちなみに”西軍の頭脳”大谷吉継は、小早川軍が松尾山へ布陣した事を不振に思い詰問しに行くが、簀巻きの状態で『ここが内府をぶっ殺すのに一番良いんじゃ!』と暴れる義弘を見て、『あっこいつ裏切る気はないな』と思って放っておいた。
ついでに自分の陣を気持ち本陣寄りに移動していたので、単に近寄りたく無かっただけかも知れない。
慶長5年9月20日(1600年10月21日)
主君筋である松平忠吉のための物見と称した井伊直政の部隊が、敵と遭遇した事により戦闘が開始される。
これが直政による抜け駆けであるか、偶発的なものであったかは定かではないが、関ヶ原を舞台にした大戦は始まってしまったのである。
西軍と東軍は一進一退の攻防を繰り広げていた。
一進一退である理由としては、西軍でも屈指の兵力を持ち、東軍の側面・背後を突ける位置に布陣している、毛利軍と小早川軍が動かずに居たことが大きかった。
特に毛利軍は前方に配置する吉川軍が邪魔をしており、長宗我部軍共々動けず、合わせて33,000もの兵が遊兵となっていた。
そんな中で、島津の軍勢を率いる秀秋も動かないで居た。
その理由はただ単に2,000じゃ心細いからなのだが、豊久達は自分達を侮った三成達への意趣返しと共に、軍を動かす機をうかがっているのだと好意的にとらえていた。
一方の小早川陣営、こちらを率いる義弘も先ほども触れた通り、まったく動かないでいた。
これは急に大軍を率いる事になった義弘が、兵を動かしやすいように、また自分の得意とする戦術を行うために、軍の再編を急ピッチで行っていたからである。
義弘は最初は混乱していたが、この大戦で大軍を指揮する機会を楽しんでいたのだ。
そうこうしている内に正午が過ぎた頃、小早川軍が布陣する松尾山に向けて鉄砲を発射する部隊があった。
その部隊の旗印は三つ葉葵、徳川家康の軍である。
家康は内応の約束をしていたのに、まったく動こうとしない小早川軍に対して業を煮やしていた。
そして催促の為に、自らの鉄砲隊を小早川軍の目の前まで出し、威嚇射撃を行ったのだ。
家康は秀秋が優柔不断で臆病であることをよく理解しており、こうする事で小早川軍が寝返るであろうと確信を持っていた。
だが家康が威嚇射撃をした相手は、臆病どころではなく鬼であった。
「あのクソジジィ!誰に向かって鉄砲打ってやがる!!元はと言えばあいつが俺らを伏見城に入れてれば、こんな事にならなかったんじゃい!!」
義弘は元々東軍に付くつもりで来たのに、鳥居元忠が守る伏見城を助けようとした所を無碍に断られ、成り行きで西軍に参加する事になったのだ。
その恨みも相まって、義弘は家康に対して激怒するのであった。
「お前等!!!あのクソジジイの軍に突撃じゃ!!わが軍の力をみせてやれ!!」
「「「「「はっ!!」」」」」
十分な時間を使い軍を掌握した義弘の命に、小早川軍は見事に応えた。
“1頭の羊に率いられた100頭のライオンより、1頭のライオンに率いられた100頭の羊の方が強い”などと言う言葉もあるが、この瞬間、確かに小早川軍は強兵と名高い島津軍に負けないだけの力を発揮していた。
こうして小早川軍は射撃をしてきた徳川軍に対して、もの凄い勢いで襲い掛かる。
その結果として家康は貴重な鉄砲隊を無駄に壊滅させる事になる。
「ほほぉ~、中納言殿も中々やりますなぁ。アレではうかつに突出してきた鉄砲隊じゃ耐えられないでしょう。」
秀秋と豊久は松尾山の麓から小早川軍の動きを眺めていた。
『マズイ。アレじゃもう東軍に裏切るなんて無理だよなぁ~。となると西軍に勝ってもらうしかないや!』
本来自分が率いる筈の軍が徳川軍に襲い掛かる様子を見て、秀秋はそんな事を考えていた。ここに来て、ようやく西軍に付く決意を固めたのだ。
小早川軍はその勢いのままに、徳川軍本隊に襲い掛かる。
その様子を見て、秀秋は豊久に提案してみた。
「ねぇ、小早川軍に呼応して僕らも攻めあがった方が良いかな?」
「それは良くないですな。われらは寡兵ゆえ、30,000にもなる徳川軍とまともにぶつかれば全滅は免れないでしょう。側面や背面を突こうにも、他の東軍もいますし、下手すると挟み撃ちにされますな。無論命を惜しまねば内府の首はとれるでしょうが。」
「いやいやいや、それならもう少し待とうか。」
西軍に付こうと決意しても、やはり秀秋は秀秋であり、命は惜しかった。
正午から一刻ほど過ぎた頃、徳川軍に襲い掛かった小早川軍であるが、徐々に松尾山の方へ向かい後退していた。
『あれ、こっちに退いて来てるよ。元々うちが15,000で、向こうは少し減らしたとしても元々30,000だし押されてきたか?ってそれは不味いじゃないか!?』
「ねぇねぇ、ちょっと陣を動かさ・・・」
豊久に陣を動かすと言う体の、逃げる事を提案しようとした秀秋であるが、小早川軍の動きを見つつ真剣な顔をする豊久の前に言葉が詰まる。
「整然と後退・・・松尾山に向かい・・・内府の軍は釣り出され・・・!!??伯父上、われらが動く機会、ついに来ましたな!」
「・・・はい?」
「伝令!南宮山へ連絡を!!よろしいですな、伯父上?」
「・・・はい。」
豊久は何かをつかんだ様子であり、すぐに毛利・長宗我部軍が布陣する南宮山の方へ伝令を走らせた。
そして、秀秋にはまったく解っていなかった。
時刻は更に一刻が経った頃、徳川軍は小早川軍を松尾山の麓で追い詰めようとしていた。
元々の兵数の差を利用し、小早川軍を半包囲の状態におこうとしていたのだ。
「ふん、金吾め。寝返らないばかりか、わが軍に襲い掛かるとは・・・いささか見誤っていたか。しかしこうなってしまっては、どうする事も出来まい。」
家康は自分の予定が狂った事に対して、小早川秀秋と言う人物の評価を改めていた。
だがここで小早川軍を叩いておけば、素早く勝利する事は難しくとも膠着戦に持っていける。
そうなればいずれは秀忠の軍が関ヶ原に到着し、自分の勝ちだと考えていた。
しかし・・・
パンッ!パンパンパンパンッ!
突然聞こえ来る猛烈な銃声。
「何!?どうした!!??」
周りを見ると徳川軍が騒然としている。
良く見れば倒れている兵もいる。
『と言う事はあの銃声は自軍の物ではないな。であればどこから・・・』
パンッ!パンパンパンパンッ!
ヒュヒュヒュヒュ・・・・パシパシッ!
家康が周囲を確認していると、二撃目が徳川軍に襲い掛かった。
更には弓矢までも多く飛んでくる。
その撃ってくる方向を見定めると・・・
「松尾山だと!?まさか伏兵を置いていたのか!!??」
そう、小早川軍は徳川軍にただ押されて後退していたのでは無かった。
自分達を囮にして、伏兵が潜むこの場所まで徳川軍を引き込んだのだ。
これぞ、島津の必勝の策“釣り野伏せ”!!
無論、家康もこの戦術の事は知っている。
もしも戦っている軍が島津軍であったならば、警戒して引っかかる事も無かっただろう。
だが戦っているのは小早川軍。率いるのは優柔不断で臆病な(筈の)小早川秀秋である。
まさか自分を囮にする策に出るとは、欠片も思っていなかったのである。
そして小早川軍のこの動きから、伏兵が居る事を理解していたのは、この戦場でもう一人居た。
「殿!後方から新たな敵が!!旗印は島津十字!!」
「なんだと!?」
そう、元々“釣り野伏せ”をお家芸とする島津軍。その中で“軍法戦術に妙あり”と謳われた”戦の天才”島津家久の息子である豊久。
彼は小早川軍の動きから“釣り野伏せ”の匂いを感じ取っていたのだ。
義弘も元々の自分の軍である島津軍の位置は気にしていた。
そして豊久を信頼しており、自分がこの様に動けば必ず豊久が動くと信じていたのであった。
「くっ、こうなったら伊勢街道を通って退くしかな「伊勢街道に敵影!旗印は七つ酢漿草!!」・・・」
ペタンッ
その報告に絶句し、座り込む家康。
豊久は南宮山へ“家康を罠に嵌めるから兵を割いて欲しい”と伝令をだしていた。
これによって、前方(中仙道方面)で動かない吉川軍が邪魔で、戦闘に参加できないでいた長宗我部盛親の軍が、伊勢街道の方へ下りて進軍してきたのである。
逃げ場を失い完全に包囲された家康の軍は狂乱状態となり、兵達は我先にと逃げ出していた。
精強である筈の自軍の醜態を見て、家康の頭は逆に澄んでいた。
「義元、信長、秀吉・・・ようやく訪れたと思った機会じゃったが、わしの・・・徳川の天下は夢の彼方であったか・・・」
もはや逃げ切れぬと悟った家康は本陣で自刃。
臣従し逃走し、耐えに耐え抜いた57年の生涯に幕を閉じるのであった。
・・・・・
「それにしても伯父上と中納言殿の意識が入れ替わってるとは・・・。未だに信じられませぬが、あの見事な“釣り野伏せ”を見れば伯父上だと納得できます。」
ここは小早川の陣内。
中には義弘の身体に入った秀秋と、秀秋の身体に入った義弘。それに豊久を含む島津の家臣と小早川の家臣が集まっていた。
そこで秀秋と義弘の二人は、中身が入れ替わっている事を確認し合い、周囲に話したのだった。
関ヶ原の大戦は西軍の大勝に終わっていた。
家康を討ち取った小早川・島津・長宗我部軍は、三成や秀家等の軍と戦う福島・井伊等の軍に側面から襲い掛かる。
また家康が自刃した事を知った吉川広家はさすがに不味いと思い、ようやく進軍し毛利軍と共に東軍の背後から襲いかかった。
これによりわずか1日で関ヶ原の大戦は決着がついたのであった。
戦の後、吉川広家の行動は当然問題視された。
恐らく最低でも広家は切腹、最悪吉川家は断絶となるだろう。
だが、この小早川・島津の軍ではそんな事よりも大きな問題があった。
「それで、どうすれば戻れるんでしょうか?早く戻らないとせっかく関白になれるって言うのに・・・」
「げぇ、お前さん治部少輔(三成)とそんな約束しとったんか。俺は嫌だぞ!公家の相手とか面倒臭そうだし。」
そう、どうすれば二人が元に戻れるかであった。
「う~ん、伯父上と中納言殿は頭をぶつけたって聞いたので、やっぱりもう一回やってみるしか無いですなぁ。」
豊久はとりあえず頭をもう一回ぶつけ合えば戻るんじゃないかと提案する。
「おい、ちょっと待て。そんな簡単に戻れば苦労はしねぇだろ。」
「意識失うほど頭ぶつけるなんて、僕は嫌だよ!」
二人は元に戻れるか解らないのに、頭をぶつけるのが嫌だった。
そんな往生際が悪い二人を見て、豊久は周りの兵に指示を出す。
「おぅお前達、伯父上を縛り上げろ!・・・あっそっちじゃなくて・・・いや、やっぱり両方とも縛るんじゃ!」
豊久の号令で、二人は縛り上げられる。
「おい豊久、何するんだ!止めろ!!」
「僕は関白になるんだぞ!もっと丁寧にあつかってぇ!!」
豊久は二人の意見を丁重に無視し、兵たちを呼んで縛り上げられた主君二人を抱えさせる。
「よぉ~し、せ~ので行くぞ!」
「「「「「ウッス!!!!」」」」」
屈強な島津兵達と、急ごしらえで屈強になった小早川兵達が返事をする。
兵たちはそれぞれ縛り上げられた主君を抱え、思いっきり助走距離をとる。
その場に居る全ての者(当事者を除く)の心が一つになり、思い切り反動をつけ助走を開始する。
「「「「「「せ~の!!」」」」」」
ゴチンッ
某企画の決戦投票に負けた方です。負けた方が先に投稿とはこれいかに?
と言うわけで、もしも小早川秀秋と島津義弘の意識が入れ替わったらと言う話でした。
いやぁ本当にこれだけで歴史が変わるとは、恐るべし島津と言った所でしょうか。
え?主役は秀秋じゃ無いのかって?
秀秋は大分へたれてましたね!(爆)