今日一日を振り返るために
「はぁー生き返りますね」
異世界訪問の後、ボクと女神はいつもの銭湯の湯船の中にいた。
あの後、寝台特別急行列車を降りた二人はすぐに神界にり、ここに向かったのだ。
自宅に風呂があるというのによく、毎日ここに通えるものだと思うが、彼女には彼女なりのこだわりがあるのだろうし、別にいやということはない。
だから、ボクはなにも言わずに湯船で体を伸ばす。
それにしてもだ。今日の午後に訪れたあの世界は、結局のところどういった経緯であのような結果になったのだろうか?
女神はあの世界で起きたことについてあまり詳しく語らなかったが、ただ一言だけ、“これは私たちの関与によるものじゃない”と言っていた。
つまり、彼女は遠まわしに別の力の関与による異世界転生、もしくは異世界トリップを存在を認めているということなのだろう。もしかしたら、その調査をするためにあのような形で別行動をとったのかもしれない。
つくづく女神のことが分からなくなる。
行動が突拍子もないように見えて、深く考えてみるとそれなりに意味がありそうだと思えてしまう。
深く計算して行動している頭脳派か、はたまた何も考えていないバカなのか……それがわかるまでには相当な時間を要するだろう。
ボクは湯船のなかで大きくため息をつく。
「レイちゃん。どうしたのですか? 幸せが逃げますよ」
「いや、なんでも」
まさか、あなたのせいですなんていうわけにはいかないので適当にはぐらかす。
気になると言えば、転生庁における閻魔の行動だ。
女神の言葉を額面通りに受けとれば、女神と閻魔の間で転生に関しての確執があるということなのだろうが、いったいなぜあのタイミングで姿を現したのだろうか?
偶然といって片付けてしまえば、それまでなのかもしれないが、女神の言動を見る限り何か引っかかる。
女神は問題なしとしながらも閻魔から見えれば問題のある青年。
彼が話したこと以上に何があったのだろうか?
もしかしたら、女神が気付いていないだけで何か問題を抱えていたのだろうか? いや、それはおそらくない。
女神は基準にきっちり合致したといっていたから、女神的には問題なかったのだろう。
一つ浮かび上がる可能性としては女神と閻魔の基準の違いがあるという可能性。
あの状況から見て、その可能性が一番高いようにも見える。認識や規則の違いから争いに発展するケースというのは珍しくない。
ボクはもう一度小さくため息をついた。
「レイちゃん。だから、ため息ばかりをついていると……」
「あっあなたは!」
ため息のことを注意しようとする女神の声をかき消すように甲高い声が響く。
真坂と思いながら声のした方を見れば、ある種の予想通り閻魔が風呂桶とタオルを持って立っていた。
彼女は女神を見つけるなり、女神めがけて駆け寄ってくる。
「閻魔さん。走ると危ないですよ」
女神が注意したその直後、閻魔は床に落ちていた石鹸で足を滑らせて盛大にひっくり返った。
「あーあーだから、言わんこっちゃない」
女神はあきれ声でそんなことを言う。
しかしなぜだろうか? その表情に“してやったり”という言葉が浮かんでいるのではないかという錯覚してしまう。
そもそも、自分と女神しかいない銭湯の浴場で“偶然にも”入り口と女神がいる場所を直線で結んだ線で“たまたま”見えにくいような場所に石鹸が待ち構えていたのだ。
閻魔の様子を見る限りでは彼女は昼間の出来事の影響もあってか、女神のことしか見ていなかったようだし、その行動自体も女神からすれば予想通りだったのかもしれない。
「レイちゃん」
女神はにやにやとした笑みを浮かべながらボクの方を向く。
「何?」
嫌な予感しかしないが、返答しないという選択肢はないので仕方なく彼女の言葉に返答を返す。
「どうやら閻魔さんがケガをしたようなので椚のところに連れて行って治療をしましょうか? あぁもちろん、ちゃんと服を着せたうえでですけれど」
女神はにやりと人の悪そうな笑みを浮かべてボクの方を見ている。
まさに嫌な予感が的中した瞬間であった。
体の小さい閻魔を抱えて浴場から出ていく女神の後姿を見て、ボクはもう一度ため息をつく。
治療してもらいましょうではなく、治療しましょうと言ったということは何かをするつもりなのだろうな……などと考えながら、ボクは女神の背中を追いかけはじめた。
*
神界の街の中にある椚の診療所。
最初に来た時は気づかなかったが、この診療所の建物は周りの建物に比べて一回り大きく、作りもかなりしっかりとしているように見える。
診療所なのだから当然かもしれないが、それでもなんだか意外だと思えた。
女神は服を着せた閻魔をおんぶしたまま、“椚診療所”と書かれた看板のすぐ横にある門から中に入っていく。
その看板にある診療時間の表記からして、とっくの昔に診療時間外なのだが、急患なのでしょうがないだろう。
「椚。いるんでしょう? 出てきてください」
女神は診療所の扉を開けるなり、声を上げる。
さすがに病院でその大声はどうなのかと言いそうになるが、それよりも先に奥の方から椚の声が飛んできた。
「女神様。診療所で大声はやめていただけますか? 用があるなら、入り口横のベルを鳴らしてくださいと前から言っていますでしょう。それに今は診療時間外です」
「急患ですよ。ほら」
女神はそう言いながら背中に担いでいる閻魔を見せる。
「……その方って閻魔様じゃないですか?」
「そうですよ。銭湯でひっくり返ってしまったようでして……まだ目を覚ましませんし、見てもらえませんか?」
「何がこうなったらこの幼女が銭湯でひっくり返るのよ……」
女神とその背中に担がれる閻魔を交互に見た椚は言外に“お前が何か仕掛けたのではないか?”というニュアンスを持っているように見える。
しかし、女神は素知らぬ顔で答えを返す。
「さぁ? 偶然、床に落ちていた石鹸で足を滑らせたみたいですよ」
「偶然にも床で落ちていた石鹸でですか……まぁそういうことにしておきます。処置をするので連れてきてください」
彼女は女神を先導するように診療所の奥の方へと歩いていく。
椚の後には、閻魔をおんぶした女神、ボクの順で続いて行った。
それにしても、夜の診療所というのは何とも不気味だ。灯りが少ないということもあるのだろうが、それ以上に木造の診療所の建物と消毒のにおいが余計に不気味さを醸し出しているのかもしれない。
先頭を歩く待合室から続く廊下の一番突き当りにある“処置室”と書かれた扉を開けて中に入る。
見た目に反して……などと言えば失礼なのかもしれないが、処置室内はきれいで多くの機器が設置してある。
女神は閻魔を処置室の中央にあるベッドに寝かせて、それを見届けた椚がてきぱきと手早く準備を整える。
「見た感じ血は出ていないみたいだし、とりあえず患部を冷やしましょうか。それと念のためにいろいろ調べてみるから、いったん待合室に言っていてもらえますか?」
「それじゃお願いします。レイちゃん。行きましょうか」
椚の指示を聞いてボクと女神は処置室から出ていく。
診療時間外の上に今日は入院患者もいないようで診療所内は静かなものだ。
ボクと女神の足音だけが廊下に響く。
「それにしても、あそこまできれいにこけるとは思っていませんでした」
「……あーやっぱり、わざとだったの?」
「いえいえ。わざとではないですよ。あくまで偶然です。それでも、あまりにもきれいに転んだので驚きました」
女神は真剣な表情を浮かべている。
その顔を見ていると、本当に偶然だったのではないかと思えてくるのだが、その一方であまりにもきれいに転んだという言葉がわざとだったという可能性を引き出してくる。
相変わらず、この人の考えていることは分からない。
ボクは心の底からそう思った。
その後、待合室に戻るまで二人は終始無言だったのだが、待合室についてイスに座るなり、女神はポツリとつぶやいた。
「……まったく、閻魔さんもしょうがないですね。あの方は……」
ここにきて、ボクは女神の閻魔に対する呼び方が“閻魔様”から閻魔さん”に変わっていることに気が付いた。
その変化に何の意味があるのかわからないが、考える必要もないかもしれない。
おそらく、いつもの気まぐれだろう。
「レイちゃん」
そんなことを考えているボクに女神は至って真剣なトーンで話しかけた。
「なんですか?」
「……レイちゃん。布石はすべて打ちました」
「はい?」
ボクは女神が言った言葉の意味を理解できなかった。
そんなボクの頭に女神はポンと手を置く。
「……今は理解できなくていいので適当に聞き流しておいてください。まぁとりあえず、これから起こることは大切なことなのでちゃんと見ておいてくれると助かります。多数の世界において見える多数の争いにおいて必ずしも正義と悪の戦いというのはありません。むしろ、片方が正義で片方が悪の戦いなどあり得ないでしょう。戦いは一方の正義ともう一方の正義にぶつかり合い。片方の正義からいえば、もう一方の正義は悪であるし、反対から見ても然りです。そのことだけ忘れないでください……あなたは、あなたの思う正義についていけばいいのです。私はあなたが何を選ぶのかということについて意見を言うつもりはありません」
女神はそういうと、すくっと立ち上がった。
「……そろそろ行きましょうか。さすがにこれ以上帰るのが遅くなるのはいただけません。そもそも、私たちが待っている必要など皆無なのですから」
彼女にしては冷たくそう言い放つと、女神はそのまま診療所の出口の方へと歩き出す。
よく見れば、座っていた椅子のよく目立つ場所に“申し訳ありませんが、帰らせていただきます。女神”と書かれた置手紙がある。
「ちょっえっ待って!」
唐突に帰ると言い出した彼女の行動に戸惑いながらもボクは女神の背中を追いかけて待合室を後にする。
診療所を出たころには夜空に浮かぶ上弦の月はすっかりと雲に隠され、何とも不気味な夜の闇が町を飲み込み始めていた。