real#0 4
(……ふう)
手が無意識のうちに煙草を探していることに気がついて、彼はそれを引っ込めた。もう禁煙して数ヶ月になるのに、こんな癖だけはいつまでも治らない。
仕方なく、テーブルの上の籠からチョコレートを取る。
「あら?」
銀紙をめくっていると詩織が不思議そうにそれを見ている。
「もうこれだけ? 昨日足したはずなのに」
「……煙草をやめたら口が寂しくて」
「いいな、私が一日でこれだけ食べたら、きっと顔中吹き出物だらけよ」
詩織は頬杖をついて村山を見る。
「涼ちゃん、やっぱり最近変わったね」
「そうかな」
「何となく、若返ったような気がする」
「……まさか」
彼は思わず眉をよせる。これ以上変なことが自分の身体に起きていなければいいのだが……
「肌も赤ちゃんみたいにすべすべだし、何よりこの頃楽しそう」
ほっとしてチョコを口に入れる。どうやら禁煙効果が皮膚に現れただけのようだ。
「それまではがさがさでいつも不愉快そうだった?」
「そうじゃないわ。肌なんかは小学校時代から変わらないけど」
詩織は少し言葉を切った。
「以前は人生投げてるって感じだったのに、今は違うから」
何となく村山は渋い顔になる。
「夢がない奴ってのはよく言われたな」
「夢というのとはまた違うんだけど、確かに野心めいたものがなくて、現状に満足しすぎちゃってるっていうか、自分に執着がないって言うか……」
ぎくりとした村山は、それを隠すためにチョコを再び手に取った。
それは、ついこの間まで村山本人ですら気づいていなかった彼の暗い部分である。
「……例えば?」
「そうね、随分前のことだけど一番印象的だったのは、将来のことどう考えてるって質問したとき」
「覚えてないな」
「今、充分幸せだから、将来の事なんて考えられないって言ったの」
「そうだったかな」
「本当なら、今の仕事がやりがいがあって楽しいってとるべきだったんだろうけど、私にはとても刹那的に響いた」
彼はぼそっと呟く。
「……そうなのかもしれないな」
だが、詩織は首を横に振る。
「だから今、貴方が生き生きしていて良かったって思ってるの。ほんと、死んだお父さんに見せたかったな」
「なんで?」
「ずっと涼ちゃんのこと、心配してたから」
「え?」
銀縁眼鏡の奥で優しく笑う目がふと甦る。
姉と詩織がどこが面白いのかわからないような遊びに熱中しているとき、彼はいつも桐原に連れられて書斎に行った。
そこで学校の話をしたり、一緒に図鑑を見たりした。
父の親友だったのに、何もかもが正反対なのが不思議だったあの頃。
ただ、配偶者運の悪さだけは共通し、詩織の母は彼女が小学校六年の夏に急性肝炎で亡くなっている。
「お父さん言ってた。もっと我が儘で奔放に育ってもおかしくない環境で、どうしてあれほど遠慮がちな性格になったんだろうって」
村山は少し笑った。
「千代さんのせいさ」
千代は村山家にいる住み込みの家政婦だ。家事だけではなく、姉と彼のしつけ兼教育係でもあり、古い流儀でびしびしと叱った。
「それもあるだろうけど……」
続きを待ったが彼女は何も言わない。
仕方なしに彼は言いたくないことを言う羽目になった。
「小父さんが俺をよく思ってなかったのって、それかもな」
「だから何度も言ったけど、お父さんが私たちのことを反対した理由は、相手を決めるには早すぎるってことと、できれば養子を取りたいって思ってたからよ」
村山は微笑む。建前で誤魔化されるほど自分だって馬鹿じゃない。
桐原が、頼りなく危なっかしい彼に最愛の娘を渡すことを拒んだとして、どうして彼を責められよう。
「……もし小父さんが生きてたら、養子を取った?」
「何を言ってるの?」
詩織は呆れたようにこちらを見る。
「もし、お父さんが私たちの結婚を許してなかったら、遺言は違う文言になってたわ」
村山は頷く。
確かに養子について、彼は一言も触れていなかった。
死んだ桐原のたった一つの遺言、それは、
……相続者はこの家に住むこと。
それは、代々桐原家の相続者が引き継ぐ言葉だと誰かから聞いた。
父一人娘一人という彼に似た境遇の詩織は愛した父の望みを叶えるために、今もそれに従っている。
本当は村山だって、こじんまりとした一戸建てやマンションで新婚らしい雰囲気を味わってみたいと思わないでもない。
このだだっ広く、部屋数ばかり多い家は、彼ら二人が住むにはあまりにも大きかった。
詩織の祖母が亡くなった折、元々は平屋建てだったのを、古くてどうしようもない部分を壊して二階建てに増改築して十五年経つ。
でかい割には居住空間として使えるのは主に新館の部分だけだ。
週に二回はハウスキーピングに来てもらって掃除を頼まねばならないし、桐の名所としてローカルでは有名な山続きの庭も、広いばかりで維持費も馬鹿にならない。
それにあまり思い出したくない出来事が、この家の二階の突き当たりの部屋で起こったこともあったので……
「お父さんは涼ちゃんに、もう少し何かにこだわって欲しいと思ってたから、きっと今頃喜んでると思うよ」
少し村山は眉をひそめる。
それは初めて聞く話だ。
「だって、ほんとに何にも執着しないんだもの」
「……例えば?」
「そうね、例えば付き合う相手とか」
「え!」
詩織は笑った。
「そもそも涼ちゃん、相手探すの面倒くさいから私と付き合ったって言わなかったっけ?」
「あ、いや、まあ……六割八分ぐらいはそうだな」
「何よ、その微妙な数字」
残りの三割二分はプライドだ。
村山は小さな頃から密かに桐原に憧れていた。
穏和で優しい、どんなときにも声を荒げるようなことはない学者肌の紳士。
だから父が提案した詩織との縁談を彼に拒否されたことは、あの頃の村山には大きなショックだったのだ。
正直、それまで詩織のことはずっと妹としか見ていなかったし、もちろん女として意識したことなど一度もなかった。
桐原はそんな彼の気持ちすら、見透かしていたのかもしれない。
(だから)
村山は衝撃の余りに詩織に交際をもちかけてしまった。
桐原に認められなかったという憂さを、詩織で晴らしてやろうと思わなかったといえば嘘になる。
ところが村山の自分勝手な申し込みを詩織は意外にあっさり受け、そうして二人の付き合いが始まったのだ。
とはいえ、詩織は地元の高校三年、彼は関西の大学に進んだことからいきなり遠距離で、しかも恋愛感情が極めて希薄な状態ではじまった交際である。
つきあい始めたからと言っていきなり接し方が変わるわけでもないし、お互いにそういう話題を避けるようなところもあったので特に進展もなく。
そんな彼が実際に詩織に本気になったのはそれから数年経った三回生の時。
(……だから)
すぐに他界してしまった桐原には、彼らのことは伝わっていない。
そのことは微かな罪悪感として今もなお心をうずかせる。
(俺が何に対しても執着がない……から、小父さんは俺たちのことを反対したのかな)
しかし、彼のその性癖は、村山にしてもあの夢を見て初めて知った事実である。
驚くほど脆い自分の自我を目の前に突きつけられて彼は苦悶した。
悔しさと恥ずかしさのあまりに握った拳の爪痕が、二日ばかり消えないほどに……
「ところで今日の晩ご飯、何が食べたい?」
「ネギが一杯入ったみそ汁、サツマイモ入り」
詩織はにっこりと笑う。
「本当にこの頃変わったね。いつだって何でもいいって言ってたのに」
「そう……だったかな?」
もう一つチョコを口に入れると今度は飲み物が欲しくなった。
コーヒーはもうなかったので、村山は煎茶の缶を取る。
湯飲みに先に湯を入れて少し冷ましてから、茶葉の入った急須に入れる。こうしないと千代に怒られた。
(……ああ、くつろぐ)
詩織とこれだけ会話をしたのも久しぶりだ。
最近、家に帰ってもただ寝るばかりの日々が続いていた事を思うと、このくつろぎは天からの贈り物のようにすら思われて……
「……ん?」
何か聞こえたような気がして耳を澄ます。
〈……けてっ……〉
するとさっきよりもクリアに暁の声が頭に響いた。
〈おじさんっ! 聞いてる? 聞こえたら僕の家に電話してよ、早くっ!〉
急に立ち上がった彼を、詩織が怪訝な顔で見上げた。
「……いや、ちょっと患者さんのことで指示し忘れたことを思い出して……」
「大変ね」
「いや、それほどでもないけど、ちょっと電話を一本入れておくよ」
頭に響く声に集中しながら少し早足で隣室に行き、携帯で電話をかける。
「もしもし……」
名を名乗ろうとした村山の声を遮って、泣きそうな小学生の声が聞こえた。
「良かった、おじさん……じゃなくて先生、待ってたよ!」
暁の母は彼が村山をおじさんと呼ぶことを許さず、先生と呼びかけるよう指導したらしい。
それで最近、彼は呼び方がぎこちない。
「そんなに大事な話なら、そっちから電話をしてくれても良かったのに」
暁はテレパスだが、妹の夕貴を除いては送信しかできない。
そして村山は暁の声を受信はできるが送信ができなかったので、いつも頭に響く声は一方通行だ。
「だって今日は忙しいって言ってたから」
そういえば、暁からの遊びに来ないかという誘いにそういう断りを入れた記憶がある。
「で、僕の言ったことわかった?」
「ほとんどわからなかったから、悪いけどもう一度説明してくれるかな?」
「夕貴と萌姉ちゃんと圭兄ちゃんが大変なんだ」
この三人に暁を含めた四人は村山の戦友だった。夢でも、そして現実でも、彼らは地球に出現した緑の怪物を共同戦線を張って倒している。
「三人とも、サンギョーハイキの箱に入って出られないんだ。なのにペンギンが来てそれを持って帰るって。でも持って帰ったら三人とも死んじゃうんだ!」
「産業廃棄の箱って何だ?」
「小さい銀の箱だよ、虫が食ってるから回収するらしいんだけど」
「……すまない、俺には難しすぎてさっぱりわからない」
だが暁が本気で怯えているということはわかる。電話では埒があかないということも。
「とにかくすぐそちらに行くから、それまで大人しく待ってろ、いいな?」
「うん、それまでペンギンを止めておくよ」
何だかよくわからないまま、村山は詩織に適当な嘘をついて単身愛車を走らせた。
村山の家の北にある山を二つ越したふもとに暁の家はある。制限速度を無視して走れば、三十分もかからない。
ちらりと車の中の時計を見ると、時刻は十時半になろうとしていた。