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男たちの日曜日  作者: 中島 遼
31/42

real#7

(……まずい)

 焦燥が村山を支配する。

(ここにいては駄目だ)

 思いはするが、身体は金縛りにあったように動かない。

 そうして気づけば彼は狭い空間に閉じこめられていた。

(……ここは)

 ぼんやりと知覚したのはそこが彼の死体置き場だということ。

 積まれているネズミの山は、彼が親指と人差し指でひねり殺したものたちだろう。

 白いのもいれば、ヌードマウスもいる。

 器用な彼は他の人間よりも手早く、しかも苦しませずに彼らを殺せた。

 もちろん自分の実験用ばかりではない。

 不器用な初心者がやると、頸椎を外しきれずに半身不随のまま片足を引きずるようにしてネズミがよたよたと歩く。

 見てられなくて手伝ったら、瞬殺するなら村山ということで彼はその学友が大量に殺すときによく呼ばれるようになった。

 手のひらの上の、ほのかに温かい死体。

 命の持つ苦しいほどの重さと薄っぺらい軽さが、村山の中で瞬時共存する。

 いや、小動物ばかりではない。

 豚も結構いた。練習台になって内臓を摘出された彼らは、麻酔のためにぐったりとして動かない。

 それとも、もう死んでいるのか。

 ふと、豚の納入業者の声が頭に響く。

 彼は言っていた。犬や猫は動物愛護団体がうるさいが、豚は家畜だから殺しても構わないと。

(殺しても、構わない命って?)

 もちろん、この世がきれい事だけでできていないことぐらいわかってる。 

 命に軽重があることぐらい、誰だって知ってる。

(だのに)

 胸を貫くこの鋭い痛みは何だろう? 

 消えていく無抵抗の命。あれを奪ったのは、他ならぬ自分なのに……

(……あ)

 よく見ると人もいる。

 実物を見たことのある者もいれば、写真で見ただけの者もいる。

(でも、俺が手を下した訳じゃない……)

 本当にそうかと心は自問した。

 良く見れば、目の前の若い男は今でも時々夢に見る顔だ。

 研修医になってしばらく経った頃、交通事故で何人もの重体者が運ばれてきたとき、彼が診察順位を後ろにしたために命を落とした。

 意識は清明で、バイタルも問題なかった。身体を調べたが、微妙な打ち身痕の他は特に目立った外傷は見られなかった。

 誰がトリアージしようと一緒の結果だったと周りの先輩たちは言ったし、訴訟になることもなかった。

 そう、他に重症者があれだけいたのだ、優先順位が下がってしまったのは、

(仕方ない?)

 そうでないことを自分だけはわかっている。

 だから夢で会うたび、何かその兆候がないかをいつも必死で探すのだ……

 では、その横は?

 全身打撲でボロ屑のようになった死体。

(……これは俺がやったんじゃない)

 だが、彼が崖から突き落とした者たちは、多かれ少なかれこうなったはずだ。

 その隣にいる、落ちた煉瓦の横にぐったりと横たわる男は?

 思わず目を閉じたが、視野に変化はない。

(……いや、駄目だ)

 次に見せられる死体を想像し、彼は恐怖する。

(嫌だ……)

 もうこれ以上、見たくはなかった。

 血の海。

 おびただしい血の海。

(やめてくれ……)

 彼は喘ぎ声をもらした。恐怖で身体はがたがたと震える。

 若い女の死体。

 目は飛び出し、耳から脊髄液が流れている。抉れた頭部からは脳漿がはみ出していて……

(詩織!)

 叫ぼうとしたが声は出ない。

 ……お前など、生まれてこなければ良かったのに。

 どこからか声が聞こえた。

 詩織? それとも他の誰かの呪詛なのか?

(……俺は、知ってた)

 自分が生きるに値しない人間であることを。

 だがそれでも死ぬのは怖い。きっかけを探し続けていたのはそのためだ。

(運でも人でも何でもいいから、誰かが殺してくれるのを……)

 絶望が彼の中から泡のようにはじけ、そしてそれらも闇の一部となる。

(俺は……)

 だが、そのときだった。

 不意にひらめくあの日のビジョン。

(いや……)

 村山は目を見開いた。

(違う!)

 すんでの所で彼は思い出す。

(俺が刺したのは腹だ)

 位置からいえば正中線上、十二指腸のやや下側、恐らく腹大動脈までを一突きに……

(では、これは?)

 村山は頭を振った。ではこの死体は何だ? 夢の中で彼が殺ったはずのこの死体は……

 恐る恐るよく見ると、死んでいる女は腹から血を流している。

 頭は無事だ。

(っ!)

 声にならない村山の悲鳴を聞いてか、詩織はいつもの笑顔のまま彼の方を向く。

 その冷たい指が彼の喉にかかった。

(……だから、桐原のおじさんは結婚に反対した?)

 喉に食い込む指に、徐々に意識が遠くなる。

(こうなることがわかっていた?)

 強いて目を開けると詩織の顔からもどんどん血の気が失せていく。それは全て体外に溢れんばかりに出ていく出血のせいだ。

 その原因は……

「お前のせいだ」

 暗闇が実体のように彼を血の海へ突き飛ばす。

「お前のせいだ。お前が殺したのだ」

 いつかどこかで聞いた言葉が、ゆるやかに彼を押し潰した。

「死ね、死んで償え!」

 身をこわばらせ、恐怖から逃げようともがいたが無駄な努力だとはわかっている。

 闇はすでに赤い。

 彼が戻るべき場所は最初からそこしかなかった。

「……ですか」

 悲鳴を上げることもできず、分裂した血潮が彼のあちらこちらを食い荒らし終わるのを村山は目を見開いたまま待ち続け……

「大丈夫ですか?」

 突然、辺りが色を取り戻す。

「!」

 びくりとして顔を上げると、ペンギンが心配そうな顔でこちらを覗き込んでいた。

 村山はまだ歯の根も合わないほど震えていたが、辛うじて小さく頷く。

「とりあえず、汗拭きますね」

 ペンギンはまるで手術中に看護師がするように、額の汗をハンカチでぬぐってくれた。

「あ、ありがとう」

 暑くもないのに、身体はびっしょりと汗で濡れている。

「良かった。一時は本当に心配しましたよ。メディアによると、時々落っこちたまま帰ってこない人もいるそうですからね」

「……落っこちるって、どこに?」

「もちろんソフトが見せる幻覚ですよ。識者の中には自らの内的宇宙と言う人もいますが」

 問うような眼差しを向けた村山に、ペンギンは慌てたように身体を振った。

「いや、貴方は最初っから大丈夫だと思っていましたし、事実問題なく作業を続けていらっしゃるじゃないですか。何と言っても検査では堂々合格してましたからね」

 言い返す気力もなくて、村山は目を閉じた。

 どうしようもないほどの疲れが彼の上に重くのしかかる。

「おじさん、僕に何か手伝えること、ある?」

 村山は気力を振り絞って瞼を開けた。

「ごめんな、暁、……大丈夫」

 心配そうな顔に頷く。

 暁がずっと村山に気を遣っていることに、彼は随分前から気づいている。

 作業の邪魔にならないようにとペンギンとの雑談をやめて部屋の隅でじっと座っていた。

 ペンギンが額を拭いてくれたハンカチには、特撮ヒーローのキャラクターが描かれている。

 彼が用意したのに違いなかった。

 そんな暁に不安を与えてどうする?

「あ、そうだ」

 村山はまだ血の気の引いた顔に無理に笑顔を作った。

 そしてジーンズのポケットから財布を出す。

「もし良かったら、自動販売機で何か飲み物を買ってきてくれないかな」

「それだったらコンビニに行くよ。自転車で十分ぐらいだし」

「坂道はきついぞ?」

「いつも走ってるから平気。で、何がいい?」

「ブラックって書いてある熱いコーヒーが三つ。それと、コンビニに行ってくれるんだったら、チョコレートも」

「どんなチョコ?」

「イチゴとか抹茶とかじゃなくて、普通のミルクチョコレートがいい。できれば板になってる奴で、カバーが茶色か赤のを三枚。わかんなかったら何でもいい」

「わかった。……ぺんぎんさんは何がいい?」

「だから我々の名前はそれではありません」

 ペンギンはシューシューと聞こえる長い名を二つ発音した。

「だって、難しくて音にできないんだもん」

「……まあ、発音ができないなら仕方がありませんが」

「で、何にする?」

「私には選択できるだけの情報がありません」

 暁が困った顔で村山を見つめたので、彼は頷いた。

「コンビニには何が売ってるの? って聞いたんだよ」

「何って、オレンジジュースとか、菓子パンとか」

 暁はにこりと笑った。

「何だったら、一緒に行く?」

「そうですね、でも……」

 ペンギンはちらりと村山を見た。

「私はこの方と残っていますから……そうだ、君、一緒に行ってきたまえ」

「はい。」

 存在感のあまりない無口な方のペンギンがすっと動いて暁の横に並んだ。

「準備は万端です」

「おいおい」

 村山はさすがに呼び止める。

「歩いていくんじゃないんだろ?」

「そっか、ぺんぎんさんは自転車乗れなさそうだよね」

 ペンギンが村山を見た。

「自転車と言うのはどの程度の速度ですか?」

「そうだな、行きは下りの坂道だから暁で十五キロ毎時間ってとこかな」

「なら、大丈夫でしょう。時々短距離ワープすれば追いつけます」

 暁が村山に手を振った。

「じゃ、行ってくるね」

「おい、ペンギンも一緒なんだから無茶するなよ。車道にはみ出たりしないように気をつけろ。坂道の手放しは禁止だからな」

「わかった。それで信号は青でも右見て左見て、もう一回右だよね」

「合格。お前、賢いな」

 元気よく飛びだしていった二人を目で追ったペンギンは、彼らが階下に消えた後、ゆっくりと村山の方に振り向いた。

「幻覚は疲れに比例して出やすくなるといいます。貴方も少しお休みになられてはいかがですか? その方が能率も上がるし、そもそもこういう作業では定期的に休憩を取ることが義務づけられていたように記憶しています」

「……そうだな、そうさせてもらおうか」

 実のところ、疲れを取るというよりも、再びその装置に触れることの恐怖が彼にそう言わせた。

 少なくとも心を平常に戻すための時間が欲しい。

「気休めかもしれませんが、アルファ波増幅睡眠キットというのを持ってきています。お貸ししましょう」

「ありがとう、助かるよ」

「それくらいのことなら何でも言ってください」

 村山はペンギンから三角のシールを受取り、言われた通りに十五分と念じた後、それを眉間に貼った。

「……あ」

 意識が急速に薄れていく。

 だがそれは決して暗いものではなく、穏やかで優しい波のような眠りだった。

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