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男たちの日曜日  作者: 中島 遼
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real#0 2

 「ほんとにそうなの?」

 ポットに残ったコーヒーをカップに注ぎながら、彼は驚いて詩織を見る。

 「うん」

 「順風、だったっけ?」

 「……うん」

 確かに彼らの結婚一つにしても、双方の親に反対されたりなど、かなりの紆余曲折があったのは事実だ。だが、

 「全部丸く収まったし、順風って言わなきゃ世間に申し訳がないだろ」

 終わってみれば逆風というほどでもなかったと今では思う。

 村山はコーヒーを一口すすった。

 (苦労してないと言えば嘘だけど、結局はその程度のことだ)

 少なくとも、彼のプライドをずたずたにした夢のことを思えば何だって我慢できるような気がする。

 あれ以上の苦しみは、きっとこの先も永遠にないだろう……

 「……すごいわね、そんな風に思えるって」

 詩織は感心したようにこちらを見る。

 「涼ちゃんって強いのか、ただのお人好しなのかどっちかしら」

 村山は苦く笑う。

 もちろん、どちらでもない。

 (……単に軟弱なだけだ)

 そう、彼の優柔不断さは夢の中でパーティを壊滅させた。

 誰も責めないが自分は知っている。

 危ないと思っていたのに井上から携帯電話を取り上げることができなかった自分の甘さ。井上が怪しいと気づいてからも、追い払うこと一つできなかった自分の善人面した意気地なさ。

 そして、まんまと彼の演技に騙されて暁を失ってしまった不甲斐なさを……

 「ねえ」

 「……ん?」

 詩織は両手でコーヒーカップをくるむように持った。

 「今まで聞かなかったのが不思議なくらいだけど、どうして医学部を選んだの?」

 「……って言われても、実家が病院で長男だったらどうしようもないじゃないか」

 「私は一人っ子だったけど、強制されなかったわ」

 「桐原の小父さんはそういうの、理解あったからな」

 桐原は彼らの結婚より大分前に他界しているため、村山は今でも彼を義父と呼ばず、幼い頃からの呼び方で呼んだ。

 「やっぱり私、親不孝だったかな」

 「やりたいことがあったんだから仕方ないだろ」

 「大学受験したときは、会計士になるなんて思っても見なかったわよ。でも涼ちゃんは違うでしょ?」

 「俺にとっては、何になりたいかで悩む必要がなかったことの方がありがたい」

 小さい頃から親戚も近所の人も、彼が医学部を受験することを当然のように思っていたし、そう口にした。

 そのたびに姉は済まなさそうな顔で彼を見て、後でこう謝った。

 「……ごめんね、涼ちゃん。私がもっと賢かったら良かったのに」

 そして彼はその都度、姉に向かって首を振った。

 「僕はお医者さんになりたいからいいんだ」

 そう言ったときの嬉しそうな姉の顔を見るのが好きだったし、彼女を悲しませないためなら遠い未来の職業選択権を放棄することなど平気だった。

 それにその後もずっと、他に目指す目的が存在したこともなく……

 (……本当に?)

 自答してから再度それは真実だと思う。

 一年ほど前、自由に生きている悪友に向かって羨ましいとこぼしたら、それじゃあお前は何になりたかったのかと問い返されて言葉に詰まった。

 別の道が用意されている人生を夢想したことはあるが、自分から取りに行くほどの魅力を感じたことは確かにない。

 「大体、俺に就活なんてできると思うか?」

 「レーサーになりたいって言ったの聞いたことあるよ」

 「……いい加減、子ども扱いするのはやめてくれ」

 「血を見るの、あんなに嫌いだったのに」

 村山は呼吸を一つ置いた。

 「慣れれば何てことない」

 彼は子どもの頃から血を見るのが嫌いだった。

 血を見て失神したことも一度や二度ではなく、大学の実習での自失回数は歴代トップだと笑われたことさえある。

 一番強烈だったのは、研修医になってまだ日の浅い時期の事だ。

 血や内臓にはすっかり慣れたと思っていたのに、自動車事故で運ばれてきた頭部の割れた患者を見て本物の持つ臨場感で気が遠くなった。でも……

 「毎日見てれば、割と平気になる」

 「……今でも覚えてるわよ。あのトイレの写真。事情を知らなかったら変態だって思うとこだった」

 村山は笑った。

 「悲鳴あげて飛びだしてきたよな。でも、パンツをちゃんとあげてたのが凄い」

 本当はいけないことだが、一番苦手だと思う症例写真を数枚カラーコピーし、トイレにでかでかと貼っていた時期がある。

 詩織が遊びに来た時、剥がすのを忘れていて一悶着あったのだ。

 「怒るよ、本気で」

 もちろんそんな自分を村山はずっと恥じており、そのため血もにじむような努力をしている。

 外科を選んだ理由はほとんど煙草だったが、それでも虎穴に入ってその欠点を克服しようと思ったのは事実だし、失態を演じないようにしようと自制することは精神修養の役にも立った。

 (……血が嫌いなぐらいが外科にはちょうどだ)

 手術中の出血をいかに些少に押さえるかについて、動脈走行のバリエーションから手技に至るまで必死で勉強、練習もした。

 血の海が本当に怖いので、少なくとも腹の中にある血管ならどれがどのように出血したらどう処置するのがベストかぐらいは完全に把握した。

 初めて人の肌に針を刺したときの衝撃も、この頃には遠い過去になっていて。

 手術中の予想外の事態に対して、ここ数年来のどの新人よりも冷静に対処ができると研修先の病院で誉められたのはそのお陰だと思う。

 しかも彼は先輩医師が驚くほど手術の上達が早かった。

 もともと手先は五ミリ四方の紙で無意識にツルが折れる程度には器用で、スタミナも集中力もある。

 少し慎重すぎるきらいはあったが、それゆえうっかりミスもない。

 また極めて運のいいことに、どこの病院に行っても彼の指導医はすこぶる手術がうまく、かつ教え上手な男ばかりだった。

 それまでの人生、姉以外の人間から褒められるという経験がなかったので、嬉しくて彼も一所懸命頑張った。

 すると使える奴ということで次々に難易度の高い手術の助手に抜擢され、合併切除を伴うような摘出術を任されることさえあった。

 救急病院では悪戦苦闘で過労死寸前の毎日だったがかなり色々な症例も見たし、その処置も学べた。

 (なのに……)

 今の病院に来てからは、忙しい割にはあまり向上しているような気がしない。

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