real#0 1
こちらは「いつもと少し違う朝に」の続編です。前作からお読み頂いた方が流れはスムーズかと思います。
なお、この小説はフィクションです。
作中、病院、大学などの描写がありますが、全て空想であり、モデルはありません。
今日は待ちに待った日曜日だ。
外は十一月の木枯らしが吹き荒れているが、家にこもるつもりなので関係ない。
(……休みだ)
鼻腔をくすぐるコーヒーの香りの中、村山はしばしの幸福感に浸る。
(ついに休みだ!)
七月に妙な夢を見たせいで、十月の初めまで彼はその対策にかかりきりであり、休日どころか休憩時間すら全くなかった。
そして十一月。
対策が終わればゆっくりできるという期待は裏切られ、それからもほとんど休みらしい休みはない。
このところ流行っていた酷い下痢を伴う風邪に同僚が相次いでやられたため、当直シフトの変更を余儀なくされた。
もちろん手術のローテーションも大幅に変わったため、術後管理の夜勤も倍増している。
先週などは手術を三日後に控えた担当患者の容態が急変し、一命は取り留めたもののずっと病院に泊まり込みの状態だったし、一昨日はさあ帰ろうと思った途端に隣町の県道で大きな交通事故があって駆り出された。
(さて、どこから手をつけるか)
書斎には半年前の東京出張の折りに何とか時間を見つけて走った秋葉原での買い物が、梱包も解かれずに積んだままになっている。
最初はマザーボードのバイオスをアップデートし、メモリとCPUをちょこっとカスタマイズするだけのつもりだったが、色々物色するうちにそれでは我慢できなくなって、最新のマザーボードも追加で買った。
もちろん今持ってるものよりも搭載メモリーは格段に大きい。
増設CPU用の冷却装置は市販品が気に入らなかったので、自分で作るつもりだ。
(……まずはその辺りからかな、やっぱり)
村山は子供の頃から機械いじりが大好きだった。
家業が病院でなければメカニックな仕事についていたに違いない。
もし、そんな人生が自分の前に用意されていたならきっと……
彼は一つ頭を振る。
そういう馬鹿げたことを夢想するのは随分昔にやめたはずだ。
「おーい、コーヒー」
代わりに彼は妻の詩織を呼んだ。
「せっかく淹れたのに、冷めちまう!」
慌てて詩織が携帯のメールをやめて、こちらにやってくる。
「ごめんね、先に飲んでてもらったら良かった」
「……それじゃあ何のために淹れたのかわからない」
村山の視線に気づき、詩織は携帯をテーブルに置いた。
「明日、出張が入っちゃった」
「急だな」
「文句は国税局に言って」
詩織は会計士で、中規模の監査法人に勤めている。
彼女がいるのはその支所だった。
名古屋に転勤の話もあったが、それは断りこの近辺を主に見ているが、それでも色んな地域への出張は拒否できないらしい。
「場所は?」
「山梨」
「そりゃ日帰りは無理だ」
直線距離なら近いが、ここからだと山の周りを東京経由でぐるりと回るしかないので移動だけでも半日仕事となる。
「明後日は直帰だから、いつもより早く帰れるけど」
「俺は明日当直入ってるし、逆にちょうどいい。火曜日は何事もなければ待ち合わせして、どこか外で食事しようか」
「……三十二時間連続労働後で大丈夫?」
「全く睡眠が取れないわけじゃない」
当直には二種類あり、病棟当直と救急当直がある。
そして明日は身体にきつい救急当直だった。
「嘘ばっかり。……せっかく私も早く帰れるんだから晩ご飯作るよ」
村山が勤務しているのは、この近辺にある三つの町の中で最も大きい私立の急性期対応、救急指定の総合病院である。
人口もそこそこ多く田舎の割には若い人が外に出て行かない土地柄なので、年齢の偏りなく救急には人が来て、当直は寝てばかりもいられない。
村山の父親と、詩織の亡き父親である桐原は祖父の代から、彼の勤める病院の共同経営者だったので、医者でなくても彼女はその辺りをよく知っていた。
(……まあ、病棟当直だって何かしらあるけどな)
ふと彼は眉をひそめた。
(だのに、あの日に限って何事もなかったなんて)
夏の初めのとある当直で、珍しくまとまった睡眠を取った日がある。
その夢の中で彼は生きながら地獄を見た。
微笑んだ詩織が彼に向かって突然包丁を突き出す。思ったよりも強い力に無我夢中で刃物を取り上げたが、気がつけば勢い込んで首を絞めに来た彼女の腹にそれがずぶりと……
「涼ちゃん?」
声の鋭さに思わずびくりと顔を上げる。
「……え?」
「何か嫌なことあったの?」
じっと見つめる黒い瞳から目を逸らし、そして言い訳のようにコーヒーを喉に流し入れる。
「……別に、何も」
彼が詩織を手にかけることは決してない。そんなことがないよう全て手を打ち、秋の初めに敵は倒した。
それらは全てもう済んだことだ。
「……あのね、昨日、澄恵ちゃんと買い物に行ったの」
「姉さんと?」
何となく村山はほっとした。
その言葉で、詩織の心配が病院内のゴシップだとわかったからだ。
彼の実姉である志村澄恵の夫は、若いが彼の病院で最も権威のある第一内科の部長であり、姉も父親の私的な接待や四方山事の手伝いをしている。
それだけに情報はすぐに姉夫婦の元へと集まった。
「なんか言ってた?」
「何か困ったことがあったら、いつでも相談してって」
十歳上の姉は村山にいつも優しい。
顔は父親に似て丸く、どちらかといえば愛嬌のある柔和で優しい表情をしている。性格も穏和で争い事が嫌いだった。
彼が二歳の時に母親が交通事故で他界したこともあり、姉及び実家に住み込みの家政婦として働いている千代が実質上の女親だ。
「そういや、最近顔を見てないな」
「だったら来週の土曜日に澄恵ちゃんのお誕生日、一緒にお祝いしない? 真緒ちゃんも喜ぶわ」
真緒は村山の姪で、小学校四年生である。
姉に似た可愛い子で、村山にとても懐いていた。
村山の幼なじみである詩織も、小さい頃から彼の姉にはよく遊んでもらっており、今でもちょくちょく個人的に行き来をしている。
なので彼ら三人だけの時にはお義姉さんではなく、昔同様にお姉ちゃん、あるいは澄恵ちゃんと呼ぶ。
「でも、義兄さんに悪いし」
「土曜日は出張でお留守らしいの。だから、澄恵ちゃん、夜も空いてるって」
「……そっか」
義兄はやせ型の怜悧な男で、如才はないし仕事も出来る。
かなり遠くはあったが、詩織の祖父の妹の縁者にあたるので、桐原の一族と言えなくもない。
だが村山は志村についてはあまり良い感情を持っていなかった。
二人の結婚式の時に当時中学生だった村山が号泣し、式場から父親につまみ出された話を義兄に何度も語られて肩身の狭い思いをする程度ならまだいい。
腹立たしいのは、彼の顔をつくづく見ながら姉の前で言ったあの台詞。
「君が女で、澄恵が男だったらよかったのにな」
姉が義兄の言葉を笑ってフォローしたことさえ許せなかった。
(……俺は、ああはならないでおこう)
嫌でも耳に入る噂話から、志村が女性にだらしないということを村山は知っていた。
しかも彼はこともあろうに自分の女性経歴を飲みに行った席で後輩に語り、経験が多い方が人間は大きくなるなどと自慢したという。
村山の父親に取り入って見合いにこぎつけ、姉を奪ったあの執念は何だったんだと思うとさすがの彼も嫌な気分になる。
「澄恵ちゃん、ものすごく会いたがってるよ。だって涼ちゃんのことばかり話すもの」
「そう言いながら、女三人で集まったら俺だけ除け者になるんだ」
「じゃあ、お義父さんもお呼びする?」
「冗談はそこまでにしてくれ」
ちょっと口調がきつくなったので、我ながらしまったと思う。
彼は言い訳がましく言葉を継いだ。
「……どうせもう姉さんに聞いてるんだろ?」
「何を?」
守秘義務を伴う仕事についているだけあって、詩織の口は堅い。
「最近、親父によく叱られてる、とかさ」
「へえ、そうなんだ」
「……白々しい」
村山は少し膨れた。
「俺のことなんだから、陰で何て言われているのか聞く権利ぐらいはあるんじゃないか?」
詩織は不思議そうな顔でこちらを見る。
「……何だ?」
「涼ちゃん、この頃、変わったなって思って」
「何が?」
「前まではそんなこと、全然気にしなかったのに」
黙って村山が見つめると詩織は笑った。
「澄恵ちゃんが心配してるのは叱られたことじゃなくて、この年になってもまだ叱られっぱなしってことよ」
父の修造は厳格で昔風の男であり、小さい頃から彼を面と向かって可愛がるようなことは一度もなかった。
小学生の時にはちょっと泣いたら男らしくないという理由で長時間の正座を強要したし、高校の時には九時を過ぎても通話を切らなかったと言う理由で、彼の携帯を風呂に投げ込んだこともある。
今でも他の先生たちの前で怒鳴りつけることなど日常茶飯事だ。
「……悪かったな、成長しなくて」
「違うわよ、澄恵ちゃんは、涼ちゃんがずっと我慢してるのが可哀想なんだって」
「……別に我慢なんてしてないけどな」
確かに苦手でもあり怖くもあったので、あらゆる場面で彼が父に従順だったのは事実だ。
元々意志薄弱であり、自分の考えを貫く努力をするぐらいなら、多少納得できかねることであろうとも諾々と従った方が楽だというのもある。
だが、
「誤解があるようだから言っておくけど、俺はいつもいつも親父の言うがままに動いている訳じゃない。人生が順風だったから特に口応えする必要がなかっただけだ」
苦労知らずのお坊ちゃまと言われ続けて三十年。
皆が口を揃えて言うのだから、実際そうなのだろうと思う。
片親しかいない奴など他にもいたし、外科病棟でもよく悲しい場面に遭遇するが、住み込みの家政婦が常時家にいる者など見たことがない。
欲しい物が手に入らないという経験もないし、大学時代もいい部屋に住んでいて仕送りもたっぷりあって、それが当たり前だった。
(……お金がなくて入院できないって病院逃げ出す人もいるのに)
それに姉や親戚はもちろん、彼の周りの人間全てが父を褒める。
あまり一緒にいたことはないが、彼らの説明する修造は偉大であり、村山ごときが反抗できるような存在ではないように思えた。
むしろ接触が少ないからこそ、彼は父を父としてではなく本の中の偉人のように尊敬することができた訳で……