8.愚かな鬼、愚かな人の娘
「…………」
須洛は山をふらふら降りながら、ぼうっとしていた。突然の三の姫の拒絶反応が余程堪えたのだ。
一体どうしたのだろうか。
須洛が三の姫の過去を知っていると知った瞬間の彼女の反応。
あれはどういうことだろうか。
そんなに知られたくないことだったのか。悲しげな表情で叫ぶ三の姫を思い出す。今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「傷ついたの、か?」
それは須洛の一番したくないことだ。言うのではなかった。
報せなければ良かった。
私、何も知らないのね。
ふっと脳裏に響くのは古き記憶。三の姫と同じ台詞を言った古き記憶の中に眠る少女。
私、いっぱい知りたい。だから、須洛たくさん話して。外のことを………里の外、宮の外、あなたのこと……私はもっといっぱい知りたいの。
「須洛」
下から声がした。須洛ははっと翡翠の目を大きく見開く。下に見えたのは自分は何も知らないから知りたいとねだり少女の無邪気な笑顔。
だが、よく見ればそこにいた者は笑っていなかった。真っすぐと真剣に須洛をみあげている。三の姫だった。
「姫」
三の姫は息を切らしながら山道をひとつずつ登って行く。慣れぬ山道でふらりとしており、危なっかしい。そう感じた須洛は地を蹴って飛び、三の姫の元へ一気に近づいた。
「姫、どうした?」
ちゃき………
金属の音を聞き、須洛は身構える。三の姫が両手で小刀を握り刃をこちらに向けていたからだ。
「あまり、驚かないのですね」
三の姫の静かな声に思わず苦笑いしてしまった。
「驚いているさ。だが、こんな堂々と向けられるとは思わなかった」
か弱い三の姫のことだから、へたな戦いを避け夜に警戒を完全に解き眠る時を狙ってくると思っていた。
「いつから気付いていたのですか?」
「そうだな………姫が里に入った時、一応初対面の時に抱きついただろう」
あの時に三の姫の懐に固いものを触れた。それは形から小刀だとすぐにわかった。
それを聞いて三の姫は悲しげに微笑んだ。
「ずっと侮られていたのね」
「違う」
「どう違うのっ。同情から私を嫁にしたり、暗殺を試みようとしていた私を見て影で笑っていて………」
三の姫は一歩ずつ須洛の傍による。しかし、須洛は微動だにしない。須洛ならば三の姫から小刀を奪うことは容易であるはずだ。
「何で何もしてこないの?」
「俺は姫を傷つける気はない」
「私、本気であなたを殺すわよ」
「姫になら殺されても構わない」
そう言う須洛を、三の姫は驚いたように見つめる。
「何、それ………里はどうするのっ!」
「俺一人いなくても十分やっていけるようにしているつもりだ」
「本当に、殺してしまいますよ?」
「ああ、構わない。ただその前にふたつ頼みがある」
三の姫は首を傾げながらそれは何だと尋ねる。
「姫の名が知りたい」
「………」
「これを聞かなければ俺は死んでも成仏できない」
どこから本気で冗談かわからない。三の姫は小さく呟いた。
「千紘」
ぽつりと聞こえる名を聞き逃さず須洛は反芻する。そして、今までにないくらい破顔した。
「千紘かっ………良い名だ。良い名だな」
胸に刻むように千紘という名を呼ぶ。おかしな反応である。名を聞き出せてどうしてそんなに嬉しそうにするのだろうか。
「もうひとつは何です? どうせ大したことのないことでしょう」
ふたつのうちひとつが千紘という名を聞きだすということくらいなのだから。
「いや、大事だ。一番大事で重要なことだっ」
須洛は力説する。どうだろうと千紘は溜息をついて一体それは何なのかを尋ねる。
「千紘、幸せになれ」
名前以上に予想したいなかった頼みごとに千紘は唖然とした。
この鬼は愚かだ。
千紘は自分が愚かであると自覚しているが、目の前の鬼はそれをさらに上回る愚かさである。
どこの世界に退治してくる者の幸せを頼む鬼がいる。
そんなばかげた話を聞いたことがない。
「誰かと結婚して、子供産んで、子供育てて、結婚した奴とにこにこ笑って孫の誕生を喜ぶ。そんなありふれた幸せでいいんだ。………本当は、俺が幸せにしたかった」
「どうしてそんなことをっ」
「変か?」
「変、おかしいよ」
「おかしくない」
須洛は千紘の腕を取り傍に寄せ、抱き締めようとする。千紘は慌てて刃を上の方に向けた。
鬼の腕の中にすっぽりと入ってしまった千紘の頭を優しく撫でながら須洛は囁く。
「ずっとずっと好きだった娘の幸せを願うのは当然だろう」
それを聞いて千紘は体中の力を抜いてしまった。そしてするりと小刀が地面に落ちる。からんという音と共に千紘はふらりと崩れる。彼女を落とさないように須洛はぎゅっと抱きしめた。
ああ、本当に愚かな鬼だ。
こんな時に私を好きなどと言わないで欲しい。
胸の奥がじわりと熱く苦しいではないか。
鬼の胸に顔を埋める。顔がとっても熱く火照ってる。
「鬼が、人の娘を好きだなんて聞いたことがない」
「ここにいるぞ」
愚かな鬼………
殺そうとしてくる人の娘を大事に大事にして、好きだと囁くなど。
こんな愚かな鬼は見たことない。
だが、それ以上に愚かな人の娘はそういないだろう。
「なら、幸せにしてよ。あなたの妻になってしまったんだから責任とって幸せにしてよ」
震える声を必死で抑え、須洛にそう願う。気づけばぽろぽろと涙が流れていた。須洛は困ったように笑い、千紘の頬を撫でる。
そうされると妙に落ち着いて行く。もっと撫でて欲しいと思ってしまう。
あんなに怖ろしいと思っていた鬼なのに。
私は、この鬼を好きになってしまったのだ。
「千紘、好きだ」
「………」
「千紘」
「何度も呼ばないで」
「呼びたいんだ。ずっと呼びたかった」
撫でてくる手はとてもごつくて固い。でも、とても優しい手である。
千紘は甘えるように須洛の胸に頬をこすりつけ、須洛のぬくもりを確かめた。
◇ ◇ ◇
その夜、渡辺綱が泊っていた村人の家に一匹の鳩がやってきた。鳩の足には文が括り付けられている。それを見て綱は文を取り出し、広げた。
文は思っていた通り千紘の書いたものであった。
『綱様
この私の為に大江山まで来て下さりありがとうございます。聞けば何日も山を捜索していたとか。
あなたが私を想って下さっていたとは思っていませんでした。その為取り乱してしまったことをお許しください。
ですが、私はその想いに応えることができません。
人の娘だった私は鬼の妻になってしまいました。
身も心も鬼に委ねてしまったのです。
愚かな娘と思われるでしょう。こんな娘のことなどいなかったと思って下さって構いません。
あなたに出会ってからの半年間、とても楽しいものでした。
ただ一言、お礼を申し上げます。あなたがかけてくださった恩、決して忘れません。
恩を仇で返す真似をして申し訳ありません。』
◇ ◇ ◇
あの後千紘は須洛に抱えられ鬼の里へ戻った。袿は上から羽織っただけで、髪がぼさぼさの千紘を見て朱音は何があったのかと尋ねてくる。
「喧嘩?」
その言葉に須洛は何も言わずただ苦く笑うのみである。それを見て朱音は眉をしかめ呟いた。
「け、けだものっ」
「何を想像したかあえて問わないでおくよ」
ぴくりと青筋を立てながら須洛は朱音の失礼な言動を不問とした。
「戻ってきてしまった………」
あの時、須洛に小刀を突き付けた時はもう戻ってこないつもりだった。須洛と刺し違えるつもりだった。
だが、千紘は須洛を殺せなかった。そして選んでしまった。
人の綱ではなく鬼の須洛を。
(そう言えば綱様になんて伝えれば……)
きっと今頃麓の村で千紘の帰りを待っているだろう。もしかしたらあまりに遅く山を登っているかもしれない。
本当は、一度麓の村へおり綱に説明してから戻ろうと思っていた。
しかし、いざ綱に会ったら何と言えば良い。
鬼に惚れたから自分は都へ帰れない。
それを言った時、綱はどう思うだろうか。
(私はずるいことをしてしまった)
理解されないことでも、今まで千紘に親切にしてくれた綱に別れの挨拶もせず文ひとつで済ませようとするなど。冷たい者がすることだ。
何度も悩みながら文を完成させた時は日が沈んでいた。
千紘は小鬼に頼んで呼鳥の元へ連れて行ってもらった。そして呼鳥の鳩の足に文をくくりつけ、届けたい相手を想う。
千紘は空高く飛び立つ鳩を見上げる。そしてぽつりと呟いた。
さようなら
◇ ◇ ◇
もう文は綱の元へ届いているだろうか。
千紘は部屋の外を出て、空を見上げる。ここへ来た時は望月だった月はほとんどかけてしまった。
「っくしゅ」
日の沈みきった夜は随分と冷える。今の千紘は袴姿である。袿も羽織らずに部屋の外を出てしまった。
「千紘、良いか?」
「須洛様」
ああ、そういえばもう休む時刻である。とはいえ、今宵須洛が千紘の部屋を訪れるのは随分早い気がした。いつも千紘が寝静まった頃あいに部屋に潜り込むから。
「姫に渡しておかなければなと思って」
須洛はそう言い懐から小刀を取り出す。それは先ほど須洛に向けた小刀であった。
自分を殺そうとした刃を須洛は返して着たのだ。これに千紘は困惑する。
「え、……でも」
「何を戸惑う。これは千紘の小刀だろう」
「あなたを殺そうとした者に殺そうとした小刀を返すなど」
「気にしていない。それにこれに少し勝手に細工を施した。空閑御に頼んで呪術をかけてもらった。護身用に持っておくのが良いだろう」
また土蜘蛛など外敵が現れた時、千紘の身を守ってくれるように。
「それに大事なものだろう」
「何故、そう思うの?」
「空閑御が言っていた。この小刀には想いが籠っていると」
それを聞き千紘はちくりと痛む物を感じた。
「おそらく千紘を守りたいと強く思う者からのものだろう」
須洛は千紘の手をとり、小刀を持たせる。ぎゅっと握りしめると心の奥がまた痛む。
「な、どうした。千紘っ」
ぽろぽろと涙を流す千紘に須洛は慌てる。
「か、勝手に呪術をかけてしまってすまないと思った。だが、それだけ元の持ち主が千紘を想って渡したものなら……呪具にしやすいと思って」
「この小刀をくれた方は、私を好きだと言っていました」
「…………」
去年の秋はじめて会った時から千紘のことが好きだったと。
傍にいたいと………
剣を千紘に教えてくれた。そして、何かと千紘の相談に乗ってくれた。
都を出る際、彼は千紘に小刀を渡した。
幼い頃に愛用していたものです。きっとこれが姫を守ってくれる。
千紘はその時彼の想いに気付かず、それを鬼退治の道具としてみていた。だが、それは違った。千紘を想い千紘の為に幼い頃より愛用していたものを彼はくれたのだ。
それに全く気付かない自分の愚かさにほとほとあきれ果てる。
だが、もう千紘は綱に会わない。会えない。
「私、ずるい………こんなに想ってくれた人が目の前にいたのに、気付かないで」
「千紘はその者が好きか?」
「嫌いじゃない。けど、その人の好きとは違う………」
この里に来る前に、綱の想いに気付きそれに応えていたら……と心のどこかで考えてしまう。
ひょっとしたら綱のことを好きになっていた自分がいたのではなかろうか。
そう考えるが、そんなことは想像できない。何故なら今千紘が好きなのは目の前にいる紅葉色の髪の鬼なのだ。
静かに暮らしていた千紘の世界に入り込み騒がしくしたこの鬼以外に考えられなくなってしまった。
須洛は涙を流す千紘の頬に触れ涙を拭きとる。千紘は須洛の手に触れ、そっと握る。
「須洛様、好き」
「ああ、俺も千紘が好きだ」
須洛はぎゅっと千紘を抱きしめる。千紘の肩がひんやりしているのを触れる。
「随分冷えているな。部屋に入ろう」
「もう少し、このまま………」
「風邪をひく」
「大丈夫、須洛様がとても温かいので」
「………そうか」
須洛はそっと千紘の髪を手で梳く。愛しそうに何度も触れる。
千紘は須洛の腕の中でその温もりを感じる。気持ちよくうとうとしてきて、瞼を閉じるとそのまま体を須洛に預けるように寄りかかった。