7.躊躇い
土蜘蛛の瘴気を中てられ無事祓ってもらったとはいえ三の姫の肉体への負担はかなりのものであった。
寝込むということはなかったのだが、体が思うように動けない。
自由に出歩くことができるようになるには数日かかるという。
仕方なく三の姫は部屋の中で静養することとする。
須洛が見舞として桜の枝をとってきてくれた。
「………ありがとう」
「本当は姫の部屋から見える場所に桜を咲かせたかったのだが」
三の姫がこの里に来る前に須洛は自らの手で三の姫の部屋から見れる場所に桜の木を植えたという。言われてみれば確かにまだ幼い木がある。
「でも、嬉しい。桜の花は好きだから」
「都の姫の部屋がある部屋付近に小さな桜の木があったな」
「ええ………よく知っているのね」
小さな桜の木、春にほんの少しの間だけ三の姫はその可憐な花を楽しむことができた。母が実家から持ってきた木だという。
ほんの少しの間しか楽しめないというのは桜の花がすぐに散ってしまうというわけではない。
三の姫の異母兄が恋人に文を出す際添える為にとってしまうのだ。そして北の方や異母姉も所望し下男が切り取ってしまう。
おかげで桜の木は咲けばあっというまに花のついている部分がなくなってしまう。毎年そうされているうちについにその桜は花を咲かすことがなくなってしまった。
「あの桜の木、いつ咲くようになるのかしら」
「うまくいけば来年、ほんの少しだけ花をつけるだろう」
「そう………」
三の姫はそれまでここにいるつもりはない。
須洛には助けられた恩もある。こうして大事にされているのもわかる。
だが、彼は鬼の棟梁で、………都の者たちが畏れる妖怪なのだ。
私の前では無害なそぶりを見せるが、もしかすると外では若い娘や子供の血肉を求めているのではなかろうか。
三の姫が幼い頃から聞いた大江山の鬼はそんな話だったと思う。
今は無理でも、体調が治り次第………この鬼を討たなければ。
なのに、須洛はそんな三の姫の内面に気付かずに毎日こうして花などを届けてくれる。
「姫は花が好きだからな」
それを聞き、どくんと心が高なるのを聞いた。
去年、様々な贈り物を贈ってくるこの鬼に困り、花ならば受け取りますと文を書いたのだ。それ以来鬼は高価な品物は贈らず代わりに花を届けるようになった。
まだ彼はそのことを覚えており、三の姫の花を贈ってくるのだろうか。
「姫、体調がよくなったら里の外を出よう」
「え?」
それはどういうことだろうか。里の外は危ないものがいるから出てはならないと言っていたのに。
「なに、俺と一緒なら問題はない。姫が喜びそうな場所が大江山にあるんだ」
そこへ連れて行きたいと須洛は言う。それは一体どういう場であろうか。内心不安に思いつつも、好意を以て言ってくれているのだからここは一言何か言うべきであろう。
「………その、楽しみにしています」
そう言うと須洛はにかっと少年のように笑う。
本当によく笑う鬼だ……
◇ ◇ ◇
五日程経ち、三の姫の体調はすっかりよくなった。
須洛が大江山の良い場所を案内するというから、歩きやすく髪を背のもとへまとめ結い袿姿も壺装束にする。
準備ができらことを報せると須洛はすぐに迎えにきてくれた。
「輿の準備を」
「必要ない。俺がついているんだ」
鬼が姫の為に輿を用意させようとするが、須洛はそれを蹴る。
「いざとなればこのようにすればいい」
そう言い須洛は三の姫の体を抱き抱える。三の姫は久々の高い視界に少しおどおどしてしまう。
「あの、須洛様………歩けますので下ろして下さい」
「何を言う。昨日まで療養していたのだから、気にせず夫に頼れば良い」
高い視界におどおどする三の姫がよほどおかしいのか須洛は笑ってなかなか下ろそうとしない。
そのまま門を出て、里の道を歩かされる。姫を抱えた鬼の棟梁はとても目立つ為、農作業をしていた里の者たちは注目した。
「おや、姫様………最近見なかったが、元気になったようだ」
よかったよかったと言う里の者たちが棟梁の方へ近づき、餅や菓子を三の姫にあげようとする。
「え、こ、……こんなにたくさん」
「とてもうまいのですよ。仲良く食べて下さい」
須洛に抱きかかえられたままの三の姫は村人たちから餅や菓子を受け取る。少し持ちづらそうにしているので、女性が気を聞かせそれを藁で包んでくれた。これで携帯しやすくなっただろう。
「あ、ありがとうございます」
「気をつけてな」
「棟梁から絶対はぐれちゃだめですよ」
そう言いながら里の者たちは三の姫たちを見送った。須洛に運ばれ、里の出入り口に出た。
「いいか。ここから先の外は一種の迷路になっている。闇の中では決して俺から離れるなよ」
「この状況で離れるも何もないと思う」
まだ三の姫は須洛に抱きかかえられている状態である。これで三の姫が須洛からはぐれるというならどうはぐれるのだと質問したい。
「それもそうだな」
須洛はははっと笑って、里の出入り口を一歩前へでる。瞬間風の切る音と共に視界が真っ暗になる。
「これも結界の一種なの?」
「まぁ、そんなところだ」
須洛は三の姫を抱えながら闇の中を歩く。
「あの、やっぱり私歩けます。それに重くないの?」
「軽いぞ。これくらい山を超えて遠い国へ走っても全然苦にならない。姫はもう少し肉をつけた方が良い」
「…………」
三の姫は少し眉を寄せむぅっと唇を尖らせる。一体どうしたのだと須洛が尋ねると。
「須洛様は胸の大きい女が良いのね」
それを聞いて須洛はぶはっと吹きだす。
「な、な………何を言い出す。姫っ」
「お披露目の時朱音さんが言っていました。須洛様は巨乳がお好みだと」
肉付けについて言われついそのことを思い出してしまう。
「いや、俺は………別に、姫ならばこぶりでも一向に構わない」
「どうせ私はこぶりです」
ずんと暗くなる三の姫はさらに唇を尖らせ拗ねてしまった。それから二人は何を言って良いのかわからず、そのまま沈黙してしまう。
闇を抜けて普通の山道に入った。その時のすっと闇が風に飛ばされるように一気になくなる。
(慣れる気がしないわね)
須洛は三の姫を抱えたままひょいひょいと山の頂上を目指し駈ける。それなのに、彼の息は全く乱れる様子がない。先ほど豪語していたことは嘘ではなさそうである。
「あっ………」
三の姫は身を起きあがらせ、林の中に囀る鳥の音を聞く。
「あれは何と言う鳥?」
「ああ。ヤマガラだ。雀の一種だ」
「あ、あの植物は?」
見たことのないものを見つけては三の姫は質問をしかける。先ほどの不貞腐れはどこへやら。
須洛はひとつずつ答えてやる。
「須洛様は物知りね」
「これくらい山で生きていたら普通さ」
「………何だか『伊勢物語』みたい」
三の姫は自分の今の状態をそう語る。
伊勢物語で主人公の男と駈け落ちの為に攫われた姫の話がある。姫は外のものが珍しくて、些細なものを目に止めては男に質問していった。
抱える男は都で一番の風流な男で、三の姫を抱えているのはごつい腕の鬼なのだが。
「姫は攫って欲しかったのか?」
「別にそういうわけじゃない。ただ、私は何も知らないのねって思って」
「それくらいどうということはない。これから俺の妻としていろいろと知ればいいさ」
「…………」
妻という言葉を聞き、三の姫は苦く笑う。
「さぁ、着いたぞ」
いくつも山道を超え着いた場所は何と言う絶景か。
三の姫はそこから見る風景はほうっと溜息をついた。
大江山の頂きでなければ見れない光景である。いくつもの山が並び、それを見下ろす。下をいくら見ても山の麓が見えない。空にある雲もとても近くに感じた。
「すごい天の上にいるみたい」
「この程度で天の上か」
素直な感想を笑われて三の姫はむぅっとまた唇を尖らせる。
「はは、すまない。大江山の主として是非この光景を姫に見せたかったんだ」
「うん、……ありがとう」
「冬になればまたここに来よう。その時は本当に天の上にいる心地を覚えるだろう」
そう言われると興味が湧く。果たしてどのような光景に変化するというのだ。
ぐぅ………
腹の音が鳴り三の姫はかあっと顔を赤くした。
「そうだな、里の者からもらったものを食べるとしよう」
「うん」
須洛は適当な場所に座り横に三の姫を侍らせる。三の姫は手に握っていた餅と菓子をとりだし須洛と半分ずつ山分けした。随分な量をいただいてしまったな。いくつか食べてお腹が膨れたのに、まだ半分も残っている。
「こんなに貰ってなんだか悪いなぁ」
「それだけお前が可愛いんだ。ありがたく貰っておけ」
「でも、何だか悪い………」
「姫はまだ慣れないか?」
「え?」
突然須洛が話題を変えて来たので何のことであろうかと首を傾げた。
「まだ大事にされるのが、慣れないか?」
それを聞き、三の姫ははっとした。須洛から無意識に離れようとするが、須洛は三の姫の腕をとりそうさせない。
「危ない。ここは足場があまりよくないから姫の足ではすぐ転げ落ちてしまう」
翡翠の瞳が真っすぐと三の姫を見つめる。それを見ると三の姫は吸いこまれそうな感覚を覚えた。
「なんで知っているの?」
三の姫の生い立ちを。三の姫があの紅葉少将家で大事にされて育たなかった。むしろ疎外されながら日々を過ごしていた。
そのことを須洛は知っているのだろうか。
「ああ、知ってる。俺はお前が十一の頃からずっと見ていたんだ」
「ずっと」
「正確には定期的に様子を見に来る程度だったが」
乳母を失い西の対の隅で一人孤独に過ごしていた三の姫を須洛は見ていたのか。
何だか居た堪れない気分になり下を俯いてしまう。
「寂しげに過ごす姫を見て、何度攫おうかと思った………声をかけようと思ったか」
だが、突然鬼に攫われては三の姫は怯えるに違いない。まだ幼い少女なのだから、怖がって泣きだすだろう。
「うまく姫を怯えさせず攫う方法が思いつかないまま姫は裳着を済まされた」
あまりに粗末な裳を与えられただけのものだったが、それでも三の姫は十四で成人を迎えた。そして変わらず北の方や異母兄姉たちにからかわれる日々。
紅葉の宴の時も、北の方も異母姉も出席しているというのに姫だけは呼ばれることがなかった。
少しずつ憤りを覚え我慢ができなくなった須洛は紅葉少将に三の姫の求婚を申し込んだのだ。
これに動転した紅葉少将を見て、それからどうするか様子を伺った。
少しでも娘を大事に思う仕草を見せるかどうか。もし、微塵も見せなければ遠慮なく三の姫を嫁にもらおうと。
そして半年過ぎても紅葉少将は三の姫に対して無関心であった。
「どうして、私なんかを?」
嫁にもらおうとしたのだろうか。
確かに傍から見れば可哀想な娘だっただろう。
「同情?」
三の姫ははっと皮肉気に笑う。
ああ、何もできない愚かな姫は鬼にまで見くびられてきていたのか。
「………して」
「姫?」
須洛は心配そうに三の姫の顔を伺う。
その瞬間、しゅんと空を切る音がする。三の姫は懐から小刀を取り出し、その刃を須洛にぶつけたのだ。
「放してっ!」
三の姫は躊躇なく自分の腕を掴む須洛の手に刃をつきたてようとする。さすがに須洛は三の姫の腕を放さざるを得なかった。
ざっ
放された瞬間に三の姫は転げ落ちる。しかし、すぐに体勢を整えその場を立ち去ろうとする。
「姫っ」
須洛は急いで三の姫の肩を掴むが三の姫は帯を解きするりと抜ける。袿を脱ぎ捨てて山を降りてしまった。
「来ないでっ………来たら私、死ぬからっ!」
その脅しで須洛はびくりと反応し、その場を動けなかった。三の姫は須洛が追ってこないのを確認し、山を降りる。
「はぁはぁ………」
軽々と登った須洛と対照に三の姫の息はすぐにあがってしまう。
だが、三の姫は立ち止まらなかった。
立ち止りたくなかった。
(知られていた。見られていた………私があの家でどんな扱いを受けていたかっ)
須洛が今まで三の姫にしてきたこと。大事に扱い、三の姫の心を尊重し傷つけないでいてくれたこと。
それは全て同情によるものだったのだ。
(そうか………そうか)
こんな美人でもない触り心地もいいと思えない痩せた体………こんな役立たずを鬼が好むはずがない。
お優しいことに鬼は三の姫の境遇を同情し、わざわざ嫁にもらおうとしたのだ。
こんな娘など誰も貰おうなんてしない。
「あはは、は、は………ああ………馬鹿みたい」
何を勘違いしていたのだろうか。
一瞬でも思ってしまったではないか。
須洛が自分を好いてくれていると何を自惚れていたのだろうか。
自分がとても情けない。恥ずかしい。
気づけば三の姫は滝の元にいた。この大江山に始めて来た鬼と待ちあいの場所に。
「うぅ………」
走りつかれた三の姫は地面に膝をつき座りこむ。上を見ると青い空が広がり、聞いたことのない鳥の囀りが聞こえてくる。澄んだ景色………だが、今はこれを堪能する気分は起きない。
「姫」
突然呼ばれ三の姫は身構える。来るなと言ったのに須洛がついてきたのだろうか。
そう思ったが、違った。
そこにいたのは………
「綱様」
半年間、三の姫に剣を教えた武士・渡辺綱であった。
「綱様? 本当に綱様?」
「ああ、私だ」
綱は確かめさせるように三の姫の手を握る。一瞬びくりと震えたが、綱の手はとても温かい。
今度は土蜘蛛が化けているものではなく本当に本物である。
「すまない。こんなに遅れて………例の鬼の里というのがなかなか見つけられず、結界について近くの神社の者に尋ねたのだがとんと知る者もいなくて」
「いえ、あれは鬼の一族でも一部の者しか出入りできないようなので」
「それよりも姫、どうしたのだ。袿は? 随分とぼろぼろではないか」
三の姫は髪は随分と乱れ、袿は着ずに袴姿でその衣類はかなり土汚れがついていた。ここまで降りてくる間に何度か転んだ為だ。
「まさか、鬼にひどいことをされてっ………おのれ、鬼め」
綱は怒りに震え、刀の柄に手をやる。
「あ、えと………違うんです」
先ほどに比べ、綱に再会できたことで三の姫の心は随分と落ち着きを取り戻していた。
来るなと怒鳴り散らした時の須洛の顔を思い出す。澄んだ翡翠の瞳は戸惑いでいっぱいでとても悲しそうにしていた。
どうしてあんなことをしたのか自分でもわからない。
ただ、がっかりして………悲しくて、どこかで期待していた自分が無償に腹立たしくて自暴自棄になってしまっていたのだ。
(私、………須洛様に惚れられていなかった、同情から優しくされているんだと思ったらとても苦しくなって。ひょっとして私は………)
まさか、そんなはずはない。
そんなことあってはいけない。
だって自分は大江山の鬼の棟梁を討ちにここまで来たのだ。嫁というのも彼を油断させるための手段でしかないと思っていた。
「姫?」
「わ、私………」
「何も言わなくて良い。辛かったであろう。姫、この山を出よう」
それは撤退するという意味か。
三の姫は悲しげに首を横にふる。
「私………何もできなかった」
「良いのだ。後は私に任せれば良い」
このまま帰るのは嫌だ。このまま家に帰ってもあの家に自分の居場所などない。
戻ってしまう。
何もない、役立たずの娘に戻ってしまう。
それは三の姫が何よりも畏れていたことである。
「姫、頼むから私と都へ戻って欲しい。そして、もし姫が良ければ………」
私の妻になってくれ。
耳元で囁く言葉を聞き、三の姫は大きく目を見開き綱を見た。
「実は、私は去年の秋初めて会った時より姫が………好きだった」
「私、を? い、いつから」
「鬼に見初められ大変な立場だというのに、自分で道を切り開きたいという姫の真っすぐな瞳をみてから。実は、剣を教えていたのは姫とお近づきになりたいという下心があってのこと………軽蔑なされますか?」
綱の言葉に三の姫はふるふると首を横に振った。それに安堵した綱は三の姫の髪を梳く。愛しそうに。
「でも、私………私は」
私はどうしたいのだろうか?
三の姫は頭の中で考えるが何も思いつかない。自分のことを好きだと言ってくれる者がこんな目の前にいるなど全く気付かなかった。
だけど変だ。何も感じない。胸の音も驚く程平然としている。
もし、これが須洛だったら………
それを考えた瞬間三の姫は頭を抑え蹲る。
「ど、どうした」
綱が心配そうに声をかける。
「つ、綱様………」
「うん」
「私、用事があります。お願いですから麓の村へ先に戻ってください」
「なっ、そんなことは………」
「お願いですっ。この用事を済ませなければ私は、私は………都に戻ることができない」
切なく震える声によほどのことがあるのだろうと綱は悟った。
「では私も行こう」
「いいえ、これは私の問題です」
三の姫は真っすぐと綱を見つめた。それは去年の秋に見せた眼差しと同じものである。
ああ、これは………何を言っても無駄だな。
綱はそう感じ、頷く他なかった。
「では、姫よ。必ず麓の村で落ち合おう」
三の姫はにこりとほほ笑んだ。そして、先ほど自分がいた山の頂へと登る。