6.闇
月明かりの夜。五日前、望月であった月は今は随分と欠け更待月となっている。それでも、夜闇の里を淡い光で照らし続けていた。
門にいる鬼がその月を眺めながら番を務めていると、影が五つ程門に近づいてくる。それを見て鬼は頭を下げる。
「お帰りなさいませ、棟梁」
現れたのは里の長、鬼の棟梁である須洛であった。
「何か変わりはないか?」
「姫が里を散策なされました。小鬼がついていたので自由にさせましたが」
「ああ、構わない。今や姫はこの里の者だ。出来る限り自由にさせてくれ」
ただし、と須洛は念を押す様に言う。
「里の外に出さないように注意しろ」
「はい。その辺は外出の際釘を刺しておきました」
「念の為、外出の際はなるべく小鬼か誰かをつけさせろ」
「自由にさせろって言うのに、お目付をつけるのね」
朱音は意味心に須洛に指摘する。
彼女も須洛と共にどこかでかけていたようである。
衣装は小袿ではない。他の鬼たち同様に動きやすく水干姿である。
「姫の為だ。お前は姫が一人里を出るのをよしとするか?」
「まさか、かよわい姫一人外を出歩かせるなど危ないわ」
紅葉髪の美女はくすくす笑いながら応える。
「なら聞くな」
「今日はどこで寝るの?」
「姫の寝所だ」
「何もしないのに?」
「今は疲れて、お前のからかいに付き合ってやるつもりはない」
「はいはい。では愛しい姫の寝顔をみながらしっかり疲れを癒してちょうだい」
朱音はいじわるげに言う。須洛はむすっと口をへの字にしたが、何も言うつもりはない。
三の姫が須洛を受け入れられる状態になるまで手は出さないと断言したのだ。
だから須洛はまだ三の姫に手を出せていない。
ただし、出来る限り三の姫と同じ寝所で寝ようとした。
一応夫婦となったのだから別々に寝る必要はないと三の姫が言ったからだ。
だが、未だに三の姫は須洛との夫婦の営みに慣れずにいる。
あれから一度、三の姫に口吸いをすると三の姫の手が震えていたのだ。
これでは夜に事を進めるのは難しい。
だから須洛は三の姫の寝顔を見ながら寝るだけに留まっていた。
はっきりいうと生殺し状態である。できることならば手を出したい。
だが三の姫を悲しませることは絶対にしないと心に誓っている。
手を出したい、悲しませたくない。
その二重の想いが相反し、須洛を苦しめる。
だが、須洛はそれでもよいと思っていた。
可愛い三の姫の寝顔を見ながら夜を過ごせるだけでも今は幸せだと感じている。
もうこんな夜更けだから三の姫はすでに眠ってしまっているだろう。里を散策してさぞ疲れているだろう。
須洛はそんなことを考えながら、三の姫の寝所へと足を運ぶ。
それを後ろから眺めながら朱音は手を顎に添えながら不敵に笑った。
「私の予想では十日はもたないわね」
「それは朱音が毎日棟梁を煽るようなことをするからでしょう」
共に外へ出かけていた鬼が朱音にそう訴える。
彼が言うように朱音は毎日須洛に「まだ手が出せないの? 結構がんばるわね」とからかいの言葉を投げかけるのだ。それに須洛は気にしていないというように無理に造り笑いをし、耐えているのだった。
「あらあら、そう言いながらお前たちが影でかけをしているのは知っているのよ」
須洛が三の姫の合意を得ないまま手を出すか、合意を得てめでたく手をだせるか。
鬼たちは影でこっそりとかけをしていたのだ。かけの賞品は里で最も人気の高い酒である。かけに勝った鬼たちのみこの酒を山分けすることになっているのだ。
「ま、良い夫婦になってくれればいいのだけど」
朱音は優しく笑った。それに鬼たちは和むように笑みをたたえる。
須洛の葛藤を肴に楽しむ部下たちであったが心の底から須洛の幸せを願っていた。
◇ ◇ ◇
こ、これは………
目を開けて三の姫は思った。今までにない絶好の機会なのではないかと。
三の姫はかなり朝早くに目が覚めてしまった。目を覚ますと目の前で深く寝ている須洛の顔がある。しばらく様子を見るととても疲れているのか、起きる気配がまだない。三の姫が動いても少し声を出してみても微動だにしないのだ。
(ここでようやく寝首をかくチャンスが訪れるなんて)
そして昨日はここから里を抜け出す道のりをしっかりと確認した。
三の姫は寝所の中に隠していた小刀を取り出そうとする。それは傍らに几帳や御簾に干された衣の中に隠れている。
身を乗り出し、袿から出ようとすると須洛がぴくりと動き出す。
起きてしまったのではないだろうかと三の姫はどきどきして様子を見るが彼の瞼が開く様子がない。それにほっとするが、それはつかの間のことであった。
彼の太い大きな腕が三の姫の腰にかかる。そしてぎゅっと強く抱きしめられたのだ。
(ぎゃあああああああああああ!)
添い寝の日が続いてもこんなに彼が強く三の姫を抱きしめたことはなかった。初日以来のことである。
三の姫の頬が逞しい胸板に押し付けられる。
どくんどくんと須洛の心の臓の音がよく聞こえてしまう。それに呼応するかのように自分の心の臓も大きく音を立ててしまっている気がする。
(いやぁあああああああああああああ、離して離して)
三の姫はどんどんと須洛の肩を叩くが全くぴくりと動かない。
そうして、三の姫はそのまま小鬼たちが起こしにくるまで須洛の胸の中で落ち着くことなく拘束されたままであった。
これだけで朝はかなりの疲労感を感じる。
「姫さまぁ、起きて下さい。とーりょもです」
蔀戸を開け三の姫の部屋に朝の陽ざしを入れた小鬼はぴょんととび下り、未だに二人の枕もとへと近づいた。
「起きて下さい、とーりょ!」
小鬼はぺちぺちと須洛の頬を叩く。何度も叩きようやく須洛は重い瞼を開いた。
「うぅん、あ? 姫、起きていたのか?」
「ええ………」
未だに胸板に押し付けられている三の姫はげんなりとした声をあげる。
「どうした? 随分疲れている様子だが」
「そう思うなら離して下さい」
小さく静かにお願いする三の姫の言う通り須洛は腕の力を緩める。ようやく解放された三の姫は右手を敷物につかせ、むくりと起きあがる。先ほどまで須洛の大きな腕が触れていた腰と背中を撫でる。
「うぅ、あなたに絞殺されるかと思いました」
「大丈夫だ。俺はこれでも寝相がいい。かよわい姫を絞殺す程の力を出すことなどない」
先ほどの光景を見てどうして寝相がいいといえるのだ。この男は。
そうつっこみを入れてやりたいところであったが、今の三の姫にそんな元気などない。代わりに不審そうな眼差しを送る。
「なんだ、その目は………本当だとも。俺は幼い頃兎とよく寝ていたが、兎を絞殺したことなど一度もなかったぞ」
どのくらい昔の話をしているのかさっぱりである。
だが、一応幼年期ならば力もそれほど強くないため兎は無事だったのではないか。
「仲がいいですねぇ」
小鬼たちはむふふと笑いながら二人分の朝餉を持ってくる。無論水を張った角盥も忘れてはいない。
三の姫は角盥の水で朝の顔を清めた。須洛はすでに小鬼の用意した朝餉に箸をつけむしゃむしゃと食べている。
「ところで姫よ。昨日は里を散策したそうではないか」
そう言われ三の姫はびくっとした。その散策によってここから逃げ出す道順を頭の中で整理しているところだったのだ。
「どうであった?」
「どうとは?」
「この里のことだ。姫の目から見てこの里はどう映った?」
須洛は三の姫の鬼の里の感想を聞きたがっているようである。自分の考えを悟られていないことに三の姫は安堵し、しばらく昨日見て来た里の様子を思い出す。
「とても良い里だと思います。里を一望できる場所を見たときは美しい田畑と山の景色に見とれてしまいました」
それだけではない。山の麓で見た道具以外にも見たことのないものがたくさんあり、三の姫の好奇心を刺激していた。そういえば昨日文を頼んだ鳩は無事綱の元へ飛んでいったのだろうか。
三の姫の好感的な感想に須洛はおおいに喜んだ。
「そうか……姫がこの里を気にいってくれてよかった。里のものは自由に見てくれて構わない。ああ、中には俺か管理者の許可を得ないと入れない場所もあるが、それは姫にとってつまらぬものが多いからあまり気にするな」
後半の部分が何か引っかかるが三の姫は頷いた。ひょっとしたら見てはならぬおぞましいものがあるのかもしれない。気になるが、心的外傷を受ける程のものをわざわざ見たいとも思わない。
「あとは………里の外を出ないでくれ」
「一度里を出ると戻って来れない言いますし」
「ああ、それは問題ない。その時は俺が連れ戻せばすむことだ。だが、里の外は危険なものがあるから、姫一人出歩かせるなどできん。今は特に」
それは三の姫の後を追った渡辺綱のことを暗に言っているのではないか。
ひょっとしたら里の外で綱と鬼の攻防戦が繰り広げられているのかもしれない。
となると綱の身が心配である。
(綱様はとてもお強いし、心配はないと思うのだけど………)
数々の妖怪退治で認められているつわものがそう簡単に鬼に倒されるとは思わない。うまく切り抜けてくれていると三の姫は思った。
そして、早く須洛の首をとり彼と合流しなければと強く思ってしまう。だが、今の状態ではそんなことができない。一番彼が油断している寝ている間が三の姫には丁度いいのだ。
先ほどのことは本当に惜しいことであると三の姫は悔しいと思ってしまった。
朝餉をすませると須洛は仕事があるからと早々に三の姫の部屋を出てしまった。残された三の姫は今日は何をして昼過ごそうか考える。
(そういえば昨日の鳩が気になるわ。綱様が近くにいるのならもう戻ってきているかもしれない)
そう思い三の姫は出かける準備をした。それを見た昨日案内した小鬼はぴょんぴょんと跳ねながら自分も一緒に行くと言った。三の姫ははいはいと言い抱き上げる。小鬼は嬉しそうに飛び跳ねて三の姫の肩に乗った。
◇ ◇ ◇
「ああ、姫様か」
鳩の世話をしていた呼鳥はやってきた三の姫に軽く会釈する。
「昨日出した鳩はもう戻って来たよ。随分早いから結構近くにいる奴に文を出したんだな」
それを聞き綱がすぐ傍にいるという実感が湧く。
「ええ、山の麓の村の人なの」
大江山の侵入者の存在を知られたくない三の姫はそういい適等に言う。
「それで返事は?」
「ないな」
それを聞き三の姫は肩を落とす。それでは綱に本当に渡っているのかわからない。綱が山にいるという確信的なものにできないではないか。
だが、外の誰かに渡っているのは間違いない。それにより綱の手に渡ることを信じ、三の姫は呼鳥の家を後にした。
次に向った先は里の出入り口である。せっかく出歩くのだからこのまま館に帰るのもと思い、時間潰しに里の景色をのんびり眺めようと思った。
だが、出入り口に辿りつくと里の外を出ると言うのはどういうことであるのかと少し興味があった。
小鬼が言うには里の外に出たら自力で戻ることができなくなるというではないか。それが本当か確かめてみたかった。
ざくりと前を進み、出入り口に近づく。あまりに近づくので小鬼が不安そうに声をかける。
「大丈夫よ。ちょっと出たくらいなら問題はないのでしょう? ちょっとどんな感じか見てみたいの」
「だめです」
小鬼はふるふる震えて三の姫を思いとどまらせようとする。肩で震え落ちそうになるのを三の姫は手に受け止めて両手に抱える。
そして一歩、外に出た。
ざぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ
風と共に木々の葉が擦れ一気に音をたてる。それと同時に視界は暗くなってしまった。急に暗くなる為三の姫はぎょっとした。
ああ、この感じは………
鬼の里に入る直前に感じた仄暗さである。まるで深い森の中に彷徨いこんでしまったような。
後ろを見ると小さく光が見える。それは灯りもない真っ暗な部屋の壁に小さな穴があり、僅かに光が差し込んでくる感じに似ていた。
「あの光が見えなくなってしまうとじりきで戻るのはむりです」
小鬼は光の説明をする。同時に早くあの光に戻りましょうと三の姫を説得する。
「そう、ならまだ大丈夫ね」
三の姫は呑気なことを言う。そして一歩また一歩と前へ進んだ。後ろから差し込む光はまだ見える。まだ大丈夫だと思い三の姫はまた一歩と前に進んだ。
三の姫の歩が進む度に小鬼はびくりと身を震わせる。
「姫さま、早く、早く戻りましょう」
あまりの震えっぷりに可哀想に感じられた三の姫は一度小鬼を里に置いて行く為に戻ろうとした。
「姫!」
突然若い男の声がして三の姫ははっとした。その声はとても懐かしいものであった。
三の姫は外側の方をもう一度見つめる。
「っ………綱様」
そこには切れ長の風貌をたたえた一人の武士が立ってこちらを見つめていた。
(ああ、綱様だ………懐かしい。本当に、数日前に会ったのにそれがもう何年も昔のように感じられる)
綱の顔を見ると急に恋しい心地がした。
しかし、どうやってここに?
ここを見つけるには特殊な術か道具が必要だというのに。
「姫の後を追い山を彷徨っていたのです。ようやくあなたを見つけることができた」
「ああ、綱様。会いたかったわ。文は届いたかしら? 鬼の里はここよ」
綱を鬼の里へ招こうとしたが綱はそれ以上こちらへ近づく気配がない。綱は悲しげに首を横に振った。
「残念ながら私はそちらへ行くことができない。ここから先、何か強い力が抑えつけてて………」
それが結界の一部なのだろう。
「姫、こちらへ来て私を引っ張ってくれないか?」
そう言い手を前に出す。三の姫は素直にその手を引っ張る為彼の傍まで寄ろうとした。小鬼はばしばしと三の姫の腕を叩き止めようとするのだが。今までにない程ひどく怯えている様子である。
「大丈夫よ、私の友人なの」
小鬼を安心させるように三の姫は微笑みかける。そして綱の手が触れそうなところまで近づいた。
「じゃぁ、私が引っ張るからね」
「ああ、早く手をとってくれ」
綱は急かすように言う。そんなに急かす必要などないのにと三の姫は苦笑いして綱の手を取った。
「くっ、くつくつ」
三の姫の手が触れてがっしりと握った綱は不敵そうに笑った。綱がこんな風に笑うところは見たことない。三の姫は首を傾げて綱の様子を見つめた。
「ありがとう、ありがとう。おかげで鬼の里へ入ることができそうだ。見たところ人の娘のようだ。今まで見た中で一番旨そうな匂いがするよ」
「綱様?」
綱の言い方が怖ろしいものに変わり三の姫はぞくっとした。
めきめきめき
綱の体が音を立て引裂かれて行く。内から蛹が返るように綱という繭を破り中から大きな足長蜘蛛が現れた。
「っひ………」
綱の中から化け物が出てくるとは思わなかった三の姫は急いで手を放そうとする。しかし、手は引っ込むことができない。よく見れば掴まれていた手にはしっかりと白い繭の糸のようなものがびっちりとついているではないか。それはべとべとしてとても気持ち悪い。
走ってなんとか引きちぎれないかと思ったが、足にも糸が絡みついている。足長蜘蛛の行動ひとつで糸が動き、身を崩した三の姫は地に転げてしまった。
「ああ、なんてうまそうな匂い………鬼の里の者にこんな旨そうなものがあったとは。ひょっとして贄か何かか。これはとんだ御馳走だ」
顔をまじまじと覗く蜘蛛の姿があまりにおぞましく三の姫は足をばたつかせ蜘蛛の胴部を蹴る。
「おお、元気元気」
蜘蛛は長い足ひとつで三の姫の足を抑えつける。蜘蛛の太い糸で縛られた上だからこれで三の姫は身動きひとつとれなくなってしまった。
胴体と足は巨大な蜘蛛で、顔はおぞましい鬼の顔をしていた。
口から赤い舌が出てくる。とても長くそれは三の姫の首筋を這う。
「あ、………」
その舌の這いずりがあまりに気持ち悪く三の姫は青ざめ目をつぶる。
「おお、怖がるな………もっと怖がれ。人の娘よ、主が恐怖に打ち震えればそれだけ主の血肉は美味なものになり、力の蓄えにもなる」
「えいっ、えいっ……姫さまを放せ!」
糸から何とか逃れていた小鬼は必死に蜘蛛の足を蹴る。顔は青ざめ怯えているが、三の姫の危機を何とか救おうと懸命に戦っている。蟻の攻撃程度にしか感じられない蜘蛛はくつくつと笑う。
「はは、また旨そうな………娘の前では味は劣るが、主も後で食ってやるから待つがいい」
(ああ、どうなってしまうの………私。このおぞましいものに食べられてしまうの)
恐怖に震える三の姫の姿を堪能した蜘蛛は大きく口を開きまずは三の姫の首筋からはじめに食おうとする。
ぼたぼたと唾液が三の姫の顔に垂れる。
あと少し三の姫の首に蜘蛛の口が届くと思ったその時、三の姫はもう駄目だと観念した。
どかっ
突然強い衝撃が体に加えられ、大蜘蛛はうめき声をあげる。
一体何があったと蜘蛛は衝撃のあった方を見る。そこには紅葉髪の鬼がいた。
怖ろしい形相で蜘蛛を睨みつけている。
「ようやく見つけたぞ」
須洛は拳を握りしめながら呟く。
「俺たち一族の縄張りに土足で入り、あちこち踏み荒らしやがって……その癖、俺たちが現れるとちょろちょろと隠れる」
須洛の瞳は怒りの色に満ちている。
「そして何よりも許せないのが俺の姫に汚く触りやがる」
彼の拳がさらに強く握られる。首筋には太い血管が浮き上がっているのがありありと見える。
「ひ、ひぃぃっ」
蜘蛛が三の姫を盾にしようと動くがそれよりも早く須洛は蜘蛛の胴部を一発殴る。その音はひどい轟音で、仄暗い闇の中でも振動しているのがわかる。蜘蛛の胴部はめきりと窪みそこから赤い血が吹き出る。
衝撃により蜘蛛は横へと流れ崩れた。
どすんと大きな地揺れが続くように響く。
蜘蛛はそれから全く動かない。今の衝撃で事切れてしまったようである。
「とーりょ、姫さまが姫さまがっ!!」
小鬼は青ざめ三の姫の腹の上に乗り必死に須洛に訴えかける。
「わかっている」
須洛は三の姫の方に走り寄り、姫の体にからみつく蜘蛛の糸を引きちぎった。まだ三の姫の足と手に糸が絡みつくが、これで完全に蜘蛛から引き離せた。
「姫っ」
三の姫は蜘蛛の大きな口を見て観念したように目をつぶり、瞬間気を失ってしまった。ぺちぺちと頬を叩いても三の姫の意識が戻る気配がない。
「中てられたかっ」
須洛は舌打ちをし、三の姫の体を抱き上げる。
「棟梁!」
後から近づく須洛の部下の鬼たちが集って来た。
「お前たち、あれの処分を任せた。手が空いている者は、巫童を呼びこの場を清めさせる」
そう言い三の姫を抱え、里へ走った。
◇ ◇ ◇
ものすごい形相で走る須洛の姿に里の者は何事かと不安そうに見つめた。
「姫様を抱えておったな」
「病を得たか? 大丈夫か?」
そういう心配の声をよそに須洛は門を通り館よりもずっと奥にある社へ向った。
「空閑御! 入るぞ!!」
乱暴な音を立て扉を開ける。社の中は外の騒ぎとは対照にとても静寂な雰囲気を保っていた。
真っ白な髪の巫女・空閑御は慌てる須洛とは対照的に落ち着いた笑みをたたえた。
「大変な御様子で」
「わかっているなら早く見ろ!」
どかどかとあがりこみ、空閑御の前に三の姫を横にする。
「ああ、これは蜘蛛の瘴気ですね」
三の姫の体にまとわりつくものを見て空閑御はそう述べた。目を閉じたままだが、空閑御には見えるようである。
それは三の姫の手と足に未だ纏わりついている糸ではない。三の姫の体の中に入り込み、三の姫の体を蝕む者を見て述べたのだ。それは毒よりも厄介なものである。人の体だけでなく魂まで傷つけ、じわじわと苦しめてしまう。そして、命を奪う。瘴気のまわりが早い程命を失う危険性が高い。
この程度の瘴気は鬼にはどうということはない。軽い風邪をひいた程度のものだ。
だが、人の子である三の姫には重い苦しみを与え命を奪ってしまう。
だから須洛は慌てているのだ。
「早く祓え!」
「はいはい………でも、その前に」
空閑御は声をかける。
社の奥から五人の巫童たちが現れる。
皆、八歳程の幼子たちであった。
彼女らは空閑御とは対照的に黒い髪をしており、白い巫女装束を身に付け頭に簡略な前天冠をつけている。
空閑御を補佐する巫女たち……巫童である。
「二人は里の外の蜘蛛の元へ行き場を清めなさい。残りは三の姫を蝕む瘴気を祓う為に必要なものを揃えなさい」
そう言うと五人はこくりと頷き、社を出る。そしてしばらくすると三人が戻ってくる。
一人は清められた水を汲んで来て、一人は清められた塩を持ってきて、一人は榊の枝をとってきた。
「今から祓いをしますからあなたたちは補佐を頼みます」
空閑御の言葉に三人の女童はこくりと頷いた。
◇ ◇ ◇
三の姫は闇の泉の中にぽつんと立っていた。
ぴちゃぴちゃと体にまとわりつく水はとても気持ち悪い。
それに息苦しくもあった。
急いで地面の方へあがろうと動くが体にまとわりつく水はねばねばしておりそれが白い頑丈な糸となり絡みついた。
足まで絡め取られ身動きが取れない三の姫はそのまま闇の泉の中へ沈む。
(ああ、苦しい………私はこのまま死んでしまうのかしら)
死ぬと言うのはこんなに苦しいものであったのか。
昔は死んでも良いとさえ思ったことが何度もある。だが、何をしていいのかわからず無為に過ごすだけ。時折尋ねてくる異母兄たちは三の姫を何もできない役立たずとからかってきたものだ。
(私は、このまま何もできないまま終わるの?)
そう思うとひどく悲しく感じる。やはり自分は異母兄姉たちが言うように何もできない役立たずなのかと実感する。
去年の秋、妖怪退治で有名な渡辺綱が現れた時三の姫は思った。自分にも鬼を退治することができるのではないか。もし鬼を討ち取ることができれば鬼に怯える者たちは一人でも減る。それによって死んでしまっても何かを成したという実感がわけるのではないかと。
小刀を得て鬼を退治しようと考えたのはその為だ。
何もしない、何も知らない、何もできない愚かな娘のまま日々を意味なく過ごすのが嫌だったから。
この半年間三の姫にとってとても有意義な時間を過ごした。綱にいろいろ教えられ、小刀を持つのにも大分慣れ、今まで外を出歩くことがなかったのに自分の足で歩くようになった。
この半年、これほど三の姫が自分は生きていると実感したことはあっただろうか。
やりがいを感じたことはあっただろうか。
(何も為せてないけどね………)
苦しいながらも口の端で苦笑いを刻む。もう息をしようという気にもなれない。
このまま気を失えば後は目を覚ませば三途の川のほとりで眠っていたりして。
三途の川を渡ればきっと母がいて乳母がいるに違いない。
母のことは覚えていないが、乳母の木野はきっと私の姿を見て喜ぶだろう。
(母上も喜んでくれる?)
覚えていない母の面差しを想像する。だが、どんな顔か全然思い浮かばないのだ。
そしてその顔に笑顔が刻まれるかわからない。
(思えば母上のことは、父上同様に知らなかったわ)
三の姫にとって父も母も遠いものである。ろくに会ったことがない。ろくに話したことがない。
父と会話をしたのも都を旅立つ日の一度っきりである。
その時のことをふと三の姫は思い出す。一度思い出すと次々と回想が広がって行った。
父は三の姫を全くみようとしなかった。三の姫が乗る牛車はまるで大きな飾られた棺のようにしか思っていない。そんな目をしていた。
この時、三の姫は父は自分のことなど既に死んだ者と思っていたのだろう。
三の姫を大江山の麓の村に送った者たちも村に依頼の賃金を渡してそのまま三の姫に何も声をかけずに去ってしまった。
まるで三の姫という死体の処理を任せ立ち去って行くように感じた。
自分を生きている者と接してくれたのは三の姫の元へ訪れた渡辺綱と麓の村人たちであった。彼らと語らえば自然と悲しいと思わない。
やはり自分は生きているのだと実感できた。
そしてその実感をさらに明確なものにする為に三の姫は鬼退治を決行しようとしたのだ。
(無理だったけど………)
今出会った化け物を見て三の姫は身動きひとつ取れなかった。その時感じたのは自分の無力さ。
やはり自分には無理なのか。
そう諦めながら三の姫は落ちて行く。
闇の泉の底へ深く深く。
深く沈んでもまだまだ沈んで行く。
この深さはどこまで続くのだろうか。
(永久に?)
がしりと急に右手に強い力を感じる。誰かに腕を掴まれた感触である。
(誰?)
それは強く大きな手であった。その手は力強く三の姫を底から引き上げようとした。
目を開けるが、闇の泉の中で手の主が見えない。
(誰? 誰なの?)
深く深く沈んでいた三の姫はついに水面上まで引き上げられる。引き上げられると同時に強い光が顔にかかり、眩しいと顔を顰めた。そして、ようやく見えた手の主を見た。
美しい紅葉が目の前に広がる。
(いや、これは………紅葉じゃない)
紅葉に見えたものをじっと見ればすぐに誰かわかった。
それは三の姫を嫁に欲しいといった鬼の棟梁だった。
◇ ◇ ◇
「う、………ん」
三の姫はぼんやりと目を開け、じいっと目の前の紅葉の髪の鬼を見つめた。
「姫、起きたかっ。良かった」
三の姫が目を覚ましたのを確認した須洛はがばっと三の姫の胸に顔を埋めた。
「須洛……さ、ま? えと」
よく見れば自分は須洛の腕の中に抱かれる形で眠っているではないか。今の自分の状況を理解できない三の姫は何があったか記憶を手繰り寄せる。
「気分はどうでしょうか? 三の姫」
空閑御は覗きこむように三の姫の様子を伺った。相変わらず目は閉じられているが、それでも空閑御はしっかりと三の姫の姿が見えていると言わんばかりに静かに笑う。
「空閑御さん?」
「はい、空閑御です」
「あの、私は………」
「三の姫様は蜘蛛の瘴気に侵され危ない状況でした」
蜘蛛という言葉に三の姫はぞっと背筋を凍らせる。里の外を出るとおぞましい大きな蜘蛛が三の姫に襲いかかって来たのだ。今も首筋を這う舌の感触を覚えている。
「あの蜘蛛は………」
「あれは土蜘蛛と呼ばれる妖怪です」
空閑御は土蜘蛛の説明を続けた。
体は人の何倍もの大きさで、足は長く胴体には鬼の顔がある。その口には鋭い牙がありそれで人を咀嚼する。
口から毒を吐くこともあり、また不思議な術を使う蜘蛛もいた。それにより人を惑わす。人が自分の元へ来るように自分の身を人が一番会いたい者の姿に見せるという。
だから三の姫はあの時渡辺綱の姿を見たのだ。そして見事に網にかかってしまった。
「最近この大江山に侵入し踏み荒らしていた為、須洛は数人の鬼を引き連れ討伐にでかけていたですよ」
だから、最近は館にいることが少なかったのだ。ようやく顔をあげた須洛は不機嫌な声で言った。
「俺が思うにあれは九州から来た奴だ」
「九州? 何故九州から土蜘蛛が」
「九州の鬼の一族がこの山を拠点に欲しがっているのですよ」
空閑御はにこりと笑った。
九州の鬼の一族は古くから土蜘蛛を使役し君臨してきた。
彼らは手足が長い上に湿った洞穴の中で暮らす為、鬼というより土蜘蛛の一族と呼ばれています。
本人たちは棲んでいる場所が伊都馬山の為、伊都馬一族と名乗っているが。
しかし、大和――今の都の朝廷からずっと昔の先祖がこれを討伐してしまった。
生き残った鬼の一族は九州の山奥にひっそりと生きながらえるしかなかった。
そして彼らは今も大和への恨みが消えず呪い続けている言います。
「それに大和の様子を伺う為の拠点として九州よりも最適なこの大江山に目を光らせました。度々使者が送られていた時期もありましたが………」
「全て握りつぶした」
須洛は当然この山を九州の伊都馬一族に渡すつもりはない。
そうしているうちについに実力行使に移り、彼らの使い魔である土蜘蛛がこの山を踏み荒らすようになったのだ。
先ほど須洛が退治したのはそのうちのひとつにすぎない。
また別の土蜘蛛が山を踏み荒らしに現れることだろう。
「退治してしまったのですか?」
三の姫は須洛が土蜘蛛を退治したことに驚く。
「ああ、本当は姫が受けた苦しみ以上の苦痛を与えてやりたかったが、気づけば死んでしまった」
「下手に痛みつけては呪いを受けますよ?」
空閑御は窘めるように須洛に注意する。それに須洛ははっと笑う。
「岩山に引き籠って土蜘蛛を送りつけるじめじめした奴の呪いなんか跳ね返してやる」
何とも勇ましい言葉だ。
須洛は顔を上げ三の姫の方を見つめた。何度も三の姫の安否を気遣うように髪を撫でる。
「姫、もう体は大丈夫か?」
「え、………」
「先にも言いましたが、三の姫はあの土蜘蛛の瘴気に中てられてとても危険な状態だったのです」
「しょ、瘴気っ」
三の姫は思い出したように叫んだ。
早く身を清めねばならないではないか。
「ご安心を。すでに瘴気は祓い終わりました」
空閑御はくすくすと笑い、榊を見せる。
「空閑御さんが祓って下さったのね。ありがとう」
「いいえ、このくらいお安いご用ですよ。お礼ならば須洛にも。姫の魂が体から引き離されないようにしっかりと抱きとめていたのですよ」
そう言われ三の姫は先ほどのことを思い出す。闇の泉の中から引き上げられる感触を。引き上げてくれた手は須洛のものであった。
(あれは、夢じゃなかった………)
「須洛様、私………」
「良かった。目を覚ましてくれて本当によかった」
須洛はぎゅっと三の姫の体を強く抱きしめる。その腕が震えているのを感じ三の姫は困ったような表情を浮かべた。
(心配してくれた? 何故………鬼なのに)
もし三の姫が死んでしまってもまた新しい娘を迎えればいいことじゃないか。
なのに、須洛は三の姫の代わりなどいないと言うように三の姫の生還を心から喜んだ。
「姫、これからは勝手に里の外を出ようとするな。せめて俺が………一緒の時以外はやめてくれ」
そう言う彼の言葉は強く優しく温かなものであった。
本当に彼は三の姫を大事に想っている。
それなのに、軽い気持ちで里を出ようとしたことをひどく後悔した。
「ごめんなさい………」
三の姫は心の奥から謝った。そして須洛の肩に顔を埋めた。