2.卯月
沫村での朝。水面はひとつの部屋の中に入る。
脇には昨晩香で誘惑した夜流戸が控え手には水を張った角盥を持っている。
思った以上の効能に水面は満足げに笑った。
(これだったら島に流した使えそうな何名かは残しておけばよかった)
そう後悔してももう遅い。今頃は彼らは土蜘蛛の餌食になっているのだから。
部屋の中は相変わらず甘い匂いで充満していた。
奥にいる紅葉色の髪の青年に笑いかけた。
「おはようございます。よく休めましたか?」
「………休んでほしいならこれを外して欲しいのだが?」
須洛は皮肉げに笑った。念の為彼の両手はしっかりと縄でくくりつけている。逃げられないようにするためだ。
普段ならこんな縄を引きちぎってしまえるのにと香で力が出せない須洛は歯がゆく感じた。
そんな須洛を愛しそうに水面は見つめた。
「一晩中香を嗅いだというのにまだ自我を保っていられるのですね。さすが須洛様です」
だが香はじっくりと効いてきているのがよくわかる。そっと両頬を包み込んでも彼は何の抵抗も示さないのだ。
(もう少し濃度を高めに強いのを調合しましょう)
そうすればあともう少しで彼の精神は落ちるだろう。
早速調合し直した香を炊く。その匂いに須洛は意識が朦朧となってくる。
「おい。夜流戸」
傍らに自身の従がえる鬼に声をかける。夜流戸は何の反応も示さない。ただ水面に言いつけられた仕事をこなすのみである。
汗だくになった須洛の体を水で塗らした手拭でふき取っていく。
「っち」
須洛は忌々しく舌打ちをした。
昔の自分だったらこの程度のこと振り切って今でも水面に一発殴り殺せるのに。
今はまだぎりぎりの状態で自我を保っていられる。だが、このまま続けばこうなってしまうのか。
そうなっては自分は果たしてどうなるのか。
「千紘………」
今の情けない姿を見られたくない。
そして自我を失い、水面の言いなりになった自分など見られたくない。
◇ ◇ ◇
蒼江に案内される先には確かに鬼三名、人五名がいた。人ははじめ犀輪の姿に怯えていた。土蜘蛛の次はなんだと。
蒼江が心配ないと人を宥める。
仕方なく犀輪は老人の姿に戻った。まだこちらの方がこわくないだろうと踏んだのだ。
そして犀輪は一人の鬼の下へ近づいた。
「久しいな。卯月」
尼僧姿の女性である。
その女性の姿を見て千紘は驚いた。
彼女は陽凪と水面に似ていた。はじめ尼僧姿故に陽凪だと錯覚してしまうほどに。
確か彼女の母は陽凪の曾祖母と姉妹ということだから血の繋がり故なのだろう。
彼女が陽凪・水面の母といわれても思わず納得してしまいそうになる。
「犀輪様、お懐かしゅうございます」
卯月は恭しく頭を下げた。
「しかし、何故ここに。あなた様ほどの方が水面姫に捕らえられるとは思えません」
「っほっほ、当たり前じゃ。水面はわしを警戒してこの島に近づかせるなどせんじゃろう。故に姫に協力してもらった」
卯月は犀輪が示す千紘の方を見る。
「あなたは」
「御暈一族の須洛の妻じゃ。三の姫と呼ばれておるでの。姫は此度の出来事にいてもたってもいられず水面の説得にとりかかったが例のごとくここへ流された。そしてわしはその船にこっそり忍び込みこの島に潜入することができたというわけじゃ」
それに千紘は苦笑いした。その言い分では自分が間抜けのようではないかと思った。だがこうして島に幽閉されている人々と合流できたのだからよしとすべきなのだろう。
卯月はじっと千紘を見つめた。そして両手を地面につけ頭を垂れた。
「え、ちょっと………頭をあげてください」
「いいえ。水面姫の愚かな行いであなたは数々の危険な目に遭ったのです。お詫び申せずにはいられません」
それに千紘は困ったように言う。
「確かに危なかったかもしれない。けど、陽凪姫のおかげで無事だったし………でもあなたが頭を下げることなんてないわ」
「いいえ。娘の愚行を止めることができなかった私のせいなのです」
「ですがあなたが謝ることでは………て娘!」
その言葉に千紘は口をぱくぱくさせた。
確か水面は陽凪の妹で、二人は先代長姫の白尼僧の娘で、そして目の前にいるこの女性は水面を娘と呼ぶ。
どういうわけかさっぱり理解ができなかった。
そして卯月の言葉に蒼江と人は驚いた表情をあげた。対して犀輪と他の椿鬼は困ったように顔を見合わせている。
「ど、どういうことなんですか?」
「全ては私の罪………やはりあのときあの子ともども死んでいればよかった」
卯月はそう悔いてやまなかった。そして昔のことを千紘に語る。
卯月はかつては村の結界を張る巫女の一人であった。母から譲り受けた強大な力は長姫に次ぐとまで言われ幹部になる日の近いとされていた。
同様に彼女には百程年の離れた兄がいた。喜月という名のとても美しい椿鬼であった、彼は妹と異なり結界術は優れていない。だが、薬の知識や調合の腕は一族の右に出るものはいなかった。椿を使った薬をいくつか開発したこともあり、その腕を長姫に認められている。
二人はとても仲がよく誰もが羨む美しい兄妹であった。
卯月は兄をとても誇りと思い、そして兄よりもすばらしい男などいないと思った。対し兄の喜月も卯月を可愛いく思い目に入れても痛くもないという溺愛っぷりであった。
そんな二人が次第にお互いの想いが男女のものへと発展してしまったのだ。そして二人は同母の兄妹でありながら一夜を共にしてしまう。だめだとわかっていても二人とも止めることはできなかった。
この一夜限りにしようと誓っても二人は思うように離れがたかった。
そしてついに恐れていた事態が起こる。
卯月が身ごもってしまったのだ。
同母兄妹の恋愛はあってはならないこと。その上で子供までできてしまっては一族中からなんと謗られるか。
「どうしましょう。お兄様」
涙ながらに訴える妹に兄は苦しげに言う。
「一緒に逝こう」
そして二人は沫山の隣にある有鈴山の中へ入る。そこには喜月が研究用に建てた小屋があった。そして、そこは二人が睦言を交わしていた場所であった。
そこで喜月が香炉を炊く。喜月は薬の知識が豊富で毒についても精通していた。これでなるべく苦しまずに死ねる毒の香を作ったのだ。
甘い匂いが小屋の中を充満する。その中二人は手を繋ぎ意識を手放していった。
だが卯月が目を覚ました先は地獄ではなかった。
死んだはずの有鈴山の隣、沫山の白尼僧が篭っている祠である。
「目が覚めましたか?」
声をかけたのは美しき長姫であった。
彼女は喜月と卯月の感情に気づいていた。だが愛しい男と別れた彼女は二人に兄妹だから諦めるようにとは言いづらくそのままにしていたのだ。そして昨日胸騒ぎがして有鈴山の喜月が好んで研究用に使っている小屋へ行くと二人が倒れていた。
「あまり無理はするな。腹の子に響く」
それを聞き卯月ははっとした。何故自分はここにいるのだろうか。
「あ、兄は………」
それを聞き白尼僧は悲しげに俯いた。それが何を意味するか理解して卯月は嘆いた。
「すみません。私がたどり着いた時は既に喜月は死んでいた」
せめてまだ間に合いそうな卯月だけをつれここで介抱したという。
「どうしてあのまま死なせてくれなかったのですか!」
絶望のまま卯月は長姫に叫んだ。その叫びに白尼僧はただ悲しく申し訳なさそうにしていた。
「どうせこのまま生きても私とこの子は生きてはいけない。一族から後ろ指を指されて辛い目に遭うだけだわ」
「私が何とかしよう。だから体を大事にしなさい」
白尼僧にとって喜月と卯月は年の離れた親類。陽凪を除けば数少ない身内である。ここで死なすのはあまりに悲しい。
だから生き残った卯月と腹の子をなんとか助けてやりたいと思った。
そしてひとつの方法を考え付いた。
「生まれてくる子を私の子にしましょう。長姫の娘ならば誰も悪いようにはしないだろう」
誰もいない山奥にこもりっきりの長姫が知らずうちに身ごもったのは山の精霊のせいだと解釈してくれるだろう。
「そうなったら陽凪姫のお立場は」
父親が他所の鬼だということで一部から陽凪を快く思っていないものもいる。もしこの子が白尼僧の子でしかも父親は山の精霊だと思い込まれたら、この子こそ長姫に相応しいと思う者が出るだろう。
「大丈夫じゃ。何があろうと私の跡取りは陽凪だけ。この子はあくまで次代の長姫の妹にすぎんとはっきり長老衆に言おう」
果たしてそれで納得してくれるのか不安はある。だが卯月はそっと腹をさすった。
愛する者と育んだ御子であるこの子を生みたいと思ってしまった。それが許されないことだとわかっても心のどこかで白尼僧の提案がうまくいけばいいと甘く考えてしまった。
回想は終わり卯月は悲しげに俯いた。
「私が愚かでした。やはりあの子はあのとき一緒に死なせればよかった」
嘆く姿を千紘は複雑そうに見つめた。
(なんだか水面姫が可哀想だわ)
それを口にしてしまいそうになり慌てて口を塞ぐ。
彼女の今回したことは許されないことである。それにここにいる人たちは水面のせいで死に掛けているのだ。一緒に流された多くは土蜘蛛の餌食になったというしその中にこの人たちの大事な人もいただろう。
だがそれでもやはり先ほどの感想は覆ることはなかった。
このように母親にあの時死ねばよかったなど思われるなど可哀想である。
父から存在を忘れられただけでもどんなに辛いことか。
「それを水面姫はご存知なのかしら」
ようやく千紘の口から出たのはそれである。
それに卯月は頭を振る。
「いいえ。自分こそ長姫に相応しいと思い込んで自分の出生を微塵も疑っていませんでした」
卯月はなんとか水面は長姫に相応しくない出自なのだと教えようとしたがその前に捕縛されこの島に流されてしまった。
「私と長姫以外で知っているのは陽凪姫、須洛様、犀輪様」
陽凪と須洛、犀輪は白尼僧から聞いたのだという。その上で陽凪を長姫としてよろしく頼むと言われたそうだ。
「さてここで話していても埒があかん。ここから脱出する手口を考えねば」
犀輪は結界術を使う椿鬼二人に声をかけた。
「主らの術を教えてもらおうか。普通のじゃない。村全体を覆う結界の仕組みを」
「それがなんになる?」
壮年の姿の椿鬼が首を傾げた。
「だいたいこの島に覆われている結界術も村全体の結界術も基本は同じじゃ。ただ使い方が異なるのみ。ならわしがその仕組みを理解しこの島の結界を壊そう」
「な、そんなこと………できるはずが」
犀輪はそれに笑い黒い羽の青年の姿へと一変した。おそらくこの中で一番呪術に秀で強い者であろう。椿鬼たちもそれはわかっている。
「それならば我らに任せれば良い」
「それだと時間がかかるだろう。いっそ一度綺麗に壊してしまった方がてっとりばやい」
「てっとりばやいって」
千紘は苦笑いした。そういえば沫村に来る際も思ったが犀輪はずいぶんと思いっきりのしやすい男のようである。かなりお年を召され思慮深い方かと思いきや。
ひょっとしたら須洛と長くつきあえたのはこの性格故かもしれない。
「しかし、なぁ………」
「犀輪様に任せましょう」
しぶる壮年の男に別の椿鬼が言った。比較的若い姿である。
「ここであれこれ話す時間すら惜しい。それに水面姫の目的を考えると急いだ方がいいでしょう」
「水面姫の目的?」
千紘は首を傾げる。それに椿鬼は困ったようにそれ以上は何も言わなかった。
「私に関係することなのですか?」
嫌な予感がした。千紘は曖昧な不安を払拭したく椿鬼に詰め寄る。
「それが………水面姫の目的は長姫と御暈の棟梁の妻の座。言いにくいのですが、水面姫は香に怪しげな薬や術を混じらせ須洛様を自分のものにしようと企んでいます。そう話しているのを聞いたのです」
「ほう。それは大変じゃ。あやつは幻術はきかぬが馬鹿だから香の毒に自分からかかりに行くだろう」
犀輪は人事のように呟いた。
「う、嘘………。まさかそんなこと」
できるはずがないと思った。だが自分がここに来る前甘い香が満たされた部屋で待たされ、そこで意識を失ってしまった。あれが椿鬼の言う香に術を染み込ませたものならば、もしそれに誘惑するものをいれたらどうなるのだろう。
(想像したくない)
千紘はその場に崩れ、卯月がそれを支えた。
しばらくぼんやりとしていた。犀輪が椿鬼から術についていろいろ聞き頭の中で整理している様子である。それを何もすることなくぼんやりとしていた。
時折脳裏に浮かぶ須洛と水面の姿に首を横に振り涙が浮かぶ。
そんなときふわりと優しい香りがした。
横を見ると香袋を差し出す卯月がいた。
「この香は気分を落ち着かせる効果があります」
そう言われ千紘はそれを手にとり香袋の香りを確かめた。確かに気分が落ち着いてくるような気がする。
「ありがとうございます」
千紘はそう言い卯月に返そうとしたが卯月は首を振り千紘に持つように言う。
「姫には香の匂いがしませんのでよければそれを使ってください」
確かに自分は何の香りもつけていない。そんな余裕がなかったのだが。
「ありがとうございます」
千紘はありがたくそれを頂戴し懐に入れた。
「水面の件でずいぶん苦労なされたようで」
卯月は申し訳なさそうに再び頭を下げた。
「そ、そんな………さっきも言いましたがぜんぜん何もありませんでした。ちょっと怖い思いをした程度で陽凪姫に助けていただいて」
「………陽凪様にも申し訳ない」
千紘の言葉に卯月は悲しげに俯く。
「真実を知っても水面を妹として接し、留守をあの子に任せる程信頼を寄せてくださったのに。それを仇で返す真似を………。そして姫をこんな島に流して須洛様をかどかわそうなどなんと浅ましい」
「あの、卯月さんは水面姫に会ったことは」
「いいえ。季節折々の行事にたまに顔を合わせる程度です」
「母と名乗ったことはないのですね」
「そんな………長姫の妹と一介の世捨て椿鬼としてしか会ったことはありません」
母と名乗ることなど許されない。そう卯月は思い込んでいた。
自分の娘が謗りを受けずに生きていられる。卯月にとってそれが何よりもありがたく、それ以上のことを望むまいと思った。
もし母と名乗れば今まで白尼僧や陽凪がしてくれた配慮が無駄になってしまうような気がして卯月は水面に母と名乗ることはできなかった。
「白尼僧は水面姫には」
「白尼僧様は山の奥にこもりっきりでたとえ子の陽凪様であっても彼女の許しがない限り会うことはできなかったそうです。それでも陽凪様は他の者に比べ会う頻度は多かったと思いますが。水面は必要最低限しか会っていないと」
「そうですか」
それでは何だか悲しすぎである。
長姫の家系だからそれが仕方ないことなのかもしれない。
だけど、それでは母と思っている女性からほとんど相手にされていなかったと感じてしまうのではないか。
「お話くらいしてはどうでしょう」
「え?」
「あなたが母というなら水面姫にきちんと話をしてあげては………その、何といいますか。私が言えることではないと思うのですが、それではまるで母から遠ざけられているように思われて悲しいなって思うのです」
例え卯月が遠くからでも我が子の水面を見守っていたとしても水面自身それはわからないのだ。実際に話をして触れてもらわなければ気づけないのだ。
母と思っている女性には会いたいときに会えず、実際の母は遠くから見ているだけで話すらしてもらえない。
「それはとても悲しいことだと思います」
悲しいことを別のことで埋めようとしたのではないだろうか。例えば自分は他所の鬼の血を引く陽凪と違い純潔の椿鬼だ。だから椿鬼の長姫に相応しいのは自分だと。
そうした思いを少しずつ増長させていったのかもしれない。
そこまで言って千紘ははっとした。気づけば自分と水面を重ねて考えていた。立場も何もかも違うというのに何をえらそうに言っているのだろうか。
「す、すみません。水面姫のしたことは許せないことですが、やはり………出自のことを考えると複雑だったのかなと思います」
ぽかんとしていた卯月はすぐににこりと優しく微笑んだ。
「姫はとてもお優しい方ですね。酷いことをした水面をそこまで思ってくださるなんて」
そういいながら卯月は千紘の手をとった。優しく両手で包み込む。
とても温かい手で千紘はつい頬を赤く染める。
「いえ、私はそんなに」
優しいといわれるほどの者ではない。現に水面が須洛と一緒になっているのを想像しただけでもやもやして嫌な気分になってしまう。水面を邪魔とさえ思ってしまう。
「あ」
(そうか。水面姫は私を邪魔と思う程嫉妬して、そこまで須洛のことが好きだった)
きっと長い間好いていた殿方が自分以外の姫を娶ってそれが自分よりも容姿が劣った姫だったらさぞ面白くなかっただろう。
別のことを考えはじめた千紘に卯月は決めましたと宣言した。
「私はすべてをあの子に話します。出自のことも全部。そしてその上であの子ともう一度話をしてみます。例えておくれでもあの子とできる限り距離を縮めます」
その表情はとても優しいもので千紘は思わず微笑んだ。間違えなく今の卯月の顔は母親のものだった。