2.婚儀
結婚というものは男が姫の元へ通い、承諾を得れば三日三晩通い三日夜の餅を食べ、翌日は祝宴が行われる。
それが三の姫のよく知る結婚というものであった。しかし、この山における結婚は異なる。
いや、実際は違うのかもしれない。わざわざ山の外から嫁を招き入れたのだから。
どうやら、三の姫がこの鬼の里に来た時にすでに結婚は成立したものとみなされているようである。後はお披露目と呼ばれる、棟梁の妻になったことを里の者に報せる挨拶の宴があるくらいなのだろう。
部屋で休んでいると時間が訪れたのか朱音が現れた。傍らには小鬼たちが桶にたくさんの湯を入れて持ってきている。
それで体の汚れを取られ、衣装を着換えさせられてしまった。何の柄もない無地の衣装を着せられ、これから何があるのかと聞く間もなく輿に乗せられた。
(一体どこへ連れて行かされるのだろうか)
すでに日が沈み真っ暗でおぼつかないというのに、輿を運ぶ鬼たちはしっかりした足取りで目的地へ進む。どうやら鬼たちは夜闇の中でもしっかりと見えるらしい。
ようやく到着した先は里の奥にある古い木の建物であった。何の飾りもない質素な建物である。
建物の外には棟梁の鬼が千紘を待っていた。輿から下りる三の姫に棟梁の鬼は気遣いの言葉をかける。
「姫、よく休まれたか?」
「ええ、とても………棟梁様の心遣いに感謝します」
「他人行儀な言い方はよしてくれ。今日より夫婦になるのに。おお、そうだ」
棟梁の鬼は思い出したように相槌を打った。
「そういえば俺の名をまだ言っていなかった。俺の名は須洛。外の奴らは俺を酒呑童子とか呼ぶが、姫は俺のことを須洛と呼んでくれ」
棟梁の鬼・須洛はにかっと笑って自己紹介をした。
酒呑童子にも人らしい名前があるのね。
須洛はこの建物について説明する。
「ここは神社のようなものだ。俺たち一族の祖先が祀られている」
つまり鬼の一族の祖となった鬼がこの社で神として大事にされているということらしい。そして三の姫をここに連れて来たのは棟梁の妻として挨拶をさせる為なのだろう。
「中には誰も?」
「いや、仕える巫女がいる。入るぞ、空閑御」
須洛は扉を開く。中には神社らしく鏡が安置され、その前に女性が座っていた。彼女の容姿を見て千紘は驚いて目を見開いた。
三の姫よりも幼い少女である。
そしてその少女は真っ白な髪をしていたのだ。まつ毛も真っ白。
まつ毛は剃られその上に化粧を施されているのであるが、おそらく真っ白なのだろう。
目は静かに閉ざされわからない。口元にはただ静かな微笑みを讃えていた。
衣装は古風なもので、飾り気のない白い無地の衣を身につけている。首には翡翠の勾玉の首飾りをかけ、額には前天冠というものを被り少女の首が少し動くとしゃらりと音を奏でる。
静かに佇むその様子は神秘的でまるで姫神様が目の前にいるかのように思えた。
少女は目を閉ざしたままにこりと三の姫に笑いかけた。
「その方が三の姫ですね」
「おお、そうだ」
三の姫の代わりに須洛が答える。
少女は脇に置いてあった御幣を両手で持ち、すっと立ち上がった。御幣を前に出しお辞儀をする。
「よく来てくれました。私は空閑御……この社に仕え守る巫女を務めさせて貰っています」
「あ、はい………どうも」
ぺこりとお辞儀をする空閑御につられてお辞儀をする。
「さぁ、姫………社の主に挨拶を」
薦められるままに三の姫は鏡の前へ引き寄せられる。
「挨拶と言われても、何をすれば良いのか」
そもそもこの社ではどういった者として祀られているのかさっぱりである。休憩しているときに教えてくれればよかったものをと内心館で待つ朱音を責めてしまう。とはいえ、あの時部屋から追い出したのは三の姫本人だったししょうがない。いや、追い出すきっかけを作ったのは朱音なのだが。
「大丈夫です。普通にすれば宜しいのです」
(普通というと普通に神社に挨拶しているようにすればいいのかな)
幼い頃に教えられた通りのことをしてみる。自信がなくちらりと空閑御の方へ目を移すが彼女は相変わらずにこにこと笑ってて何も言ってくれない。
(うぅん、失敗したらごめんなさい。祟らないでください)
三の姫はそう願いながら、自分の思った通りの挨拶を行った。
「こ、これでいいのかしら」
「はい。では、私の前で須洛様と並んでください」
言われるままに須洛の隣に並ぶ。
御幣を前に差し出し、空閑御は口を開く。それは先ほどまでの柔らかな口調ではない。静かに淡々と、だがどこかすごみを含んだ声で言葉を発する。
祝詞を唱えているのだ。何と言っているのか理解できない。古い、もうほとんど使われることがなくなった言葉なのだろう。
三の姫はちらりと須洛の方を見つめる。須洛はこちらの視線に気づかずただじっと静止していた。
横から見ても随分と整った顔立ちなのがわかる。
空閑御と並んで立つと鬼というよりは神の世界の住人と思ってしまうなと三の姫は内心思った。
◇ ◇ ◇
祝詞を聞かされ長い時間が経っていた。社の外を出ると夜空に美しい月が昇っているのに気づいた。輿に乗り館に戻る途中私は月の美しさにうっとりとした。
「綺麗………今日は望月だったのね」
「ああ、だから今日にしたんだ。婚儀は」
共に館に戻る須洛が三の姫にそう言う。
「ふぅん」
「姫には悪いことをしてしまった」
「?」
突然何を言い出すのだと三の姫は首を傾げた。
「都では結婚というのは………恋文を交わしたり、恋の歌を作ったりするらしいな。だが、俺は、今都でどのような歌が流行っているかわからない。下手なものを出して姫に見限られるのは嫌だった」
「…………別にいいです。私は歌作るの苦手だから」
苦手というより知らないと言った方がいい。幼い頃から母と乳母を亡くした三の姫に和歌を教える者はいなかった。他の姉妹に比べると顔立ちも特に際立つものがない。父も去年三の姫が鬼に求愛されるまですっかりその存在を忘れていた程だ。彼女は西の対でひっそりと物憂げに過ごすだけだった。
だから歌などは知らない。わからない。
「そうか、それは……助かった」
三の姫の言葉を聞き須洛はほっと胸をなで下ろす。
「去年の秋から色々と物を贈ってくださっていたのはあなたでしょう?」
「おおっ、わかるか! しかし、本当に花でよかったのか?」
「…………」
子供のようにはしゃぐ須洛の声に三の姫は苦い顔をした。
彼が贈って来たものはどちらかというと困るだけの品であったのだ。
去年の秋より、毎朝、三の姫の部屋の外に贈り物が届けられるようになった。
嫁にと決めた三の姫の為に鬼が送ってきているのだ。
櫛や紅、櫛箱、唐物の衣などの高価な品ばかりでどうしたものかと困り果てた。
ひょっとすると盗品かもしれない。ならば、それを使うわけにはいかない。
できることなら持ち主の元へ返してあげよう。
そう思い、相談できる綱に引きとってもらっていた。
それでも、贈りものはどんどん増えていき一筆文を書きそれを部屋の外に置いて寝た。
『贈り物をいただき大変ありがたいのですが、これ以上高価なものはもらえません。花は喜んで受け取れますが』
どうやら文は受け取られたようで、それからは贈り物は花一択となった。
毎日別の花が贈られる。時には名も知らない雑草の類まで贈られてくるのだ。
水に生けられるものには出来る限り生けたが、用途が見いだせないものはそのまま朽ちてしまう。仕方ないので三の姫は古紙にひとつずつその草花を筆に描いてみた。色具は持っていないので、横にどんな色か特徴を細かく書きこんで。
良い暇つぶしにはなったと思う。
だがそれだけである。
◇ ◇ ◇
館に戻って三の姫は寝る準備をする。部屋に用意された寝具を見る。
新品の畳みが引かれている。こんな綺麗な畳みは使ったことがない。
部屋の中の調度品も、何もかも美しいものが揃えられていてどうにも落ち着かない。
だが、自分の為に用意してくれた寝床なのだからここで眠るしかない。
三の姫は葛篭から袿を取り出す。それで包まるように横になった。
(来るならいつでも来なさい)
袿の中に小刀を隠し、そう不敵に笑った。
横になると瞼が急に重たくなるのを感じた。
昼は慣れぬ山道を歩き、夜は社で巫女の前で祝詞を延々と聞かされたのだ。本人が思っている以上にかなり疲れが溜まっている。
一度瞼を閉じると三の姫はそのまますやすやと寝息を立てる。
深く夢の中へと誘われて行く。
だからこそ気付かなかった。部屋に入ってくる物音に。
須洛が三の姫の部屋に入って来たのだ。
三の姫の方に近づき袿に手をかけられても彼女は微動だにしなかった。寝息を立てて深く眠っている彼女を見て部屋に入って来た須洛はくつっと笑った。
愛しげに三の姫の髪を撫で、頬に触れる。若い娘の瑞々しい肌を撫でながら小さな唇を指でなぞる。小さく息を吸い吐くその動きをじっと見ているままに己の頭を下ろす。ゆっくりと己の唇と三の姫の唇を重ねた。
唇におこる感触に三の姫は薄く目を開く。そして大きく目を見開いた。
目を開けると自分は紅葉色の髪の男に口吸いされているではないか。
「んぅ………」
苦しそうに手を動かすと三の姫が起きたのに気づいた須洛が唇を放す。
「ぶはっ!」
三の姫は口を抑えぜぇぜぇと息を切らす。心臓は一斉に早鐘を打つ。どくどくと自分の鼓動が今までにない程耳に届くのを感じた。
「な、ええ?」
「くくく」
姫の反応がおかしかったのか須洛は腹を抑えて笑う。
「どう、して……あなたが、ここに」
「何を言っている。俺とお前は夫婦なのだから、夫が妻の寝所に入って何も悪いことはないだろう?」
子供に言い聞かせるように髪をを梳いてくる須洛の目に見つめられ、三の姫はどきりと大きく揺らぐ。
「あ、………そうよね。あはは………」
「では、姫よ。続けて良いな?」
「続けるって………っ」
何をと言う前に須洛は再び三の姫の口を吸う。今度は深く、激しく。
(口吸いてこんなにきついものなのっ、息が………)
鼻で息をするという考えが思いつかない三の姫は苦しげに眉を顰める。ようやく放されたと思うと今度は首筋に須洛は口を近づける。強く吸ったり時には甘噛みをしてくる。
「あ、うぅ………」
片手で器用に三の姫の着ているものを崩していき、帯にも手をかけようとする。しゅるりと衣ずれの音が響き、三の姫は何とも言われない抑圧感に苛まれた。
もう少しで帯の結いが完全に解かれようとして須洛は途中でやめてしまった。じっと三の姫を見つめている。
「大丈夫か?」
「ひっく………うぅ………」
三の姫はぼたぼたと目から大粒の涙を流してしまった。
はじめて接触してくる異性というものに感じ、恐怖を抱いてしまったのだ。
こう言う時、どうすればいいのか知らない。わからない。
誰も教えたことなどなかったのだから。
鬼退治の訓練に手伝った綱もこういうことがあるというのを教えてくれなかった。それは男である綱が、三の姫がはじめて異性を意識した時の内情の変化を想像できなかったためだ。
「うぇ……ひっく」
「…………」
須洛は目の前で泣く三の姫にしばらく硬直したが、すぐに乱れた衣装を整えてやった。緩んでいた帯もまた結び直す。
そして落ち着かせる為に、ぎゅっと優しく抱きしめてやり頭を撫でてやる。
「いや、ひっく………放して」
三の姫は首を横に振って須洛の腕から逃げようとする。幼い女の童のように泣きじゃくる三の姫に須洛はどうしていいものか困り果てた。
「悪かった。姫が嫁に来てくれて舞いあがって、少し急ぎすぎてしまったようだ」
「でてって」
三の姫は袿で顔を覆い、小さい声で須洛に出て行くように言う。須洛はぽりぽりと頭を掻きながら、三の姫の言う通り部屋の外を出た。
だが、泣きじゃくる三の姫をこのまま放置するのはあまりによしとは思えない。
須洛はすぅっと息を吸い、小鬼たちを呼んだ。小鬼たちは床の下から、天井から飛び出し須洛の前に出てくる。手には枕が握られててどうやら彼らは今就寝していたようである。重たい瞼をひろげつぶらな瞳で何か用なのか尋ねて来た。
「寝ているときに悪いが、姫の傍にいてやってくれ」
「姫さま、泣いているのですか? とーりょが泣かしたのですか?」
「まぁ、そんなところだ」
小鬼たちの無邪気な言葉に須洛は苦笑いする。
「明日仲直りするから、傍にいて慰めてやってくれ」
「はい」
小鬼たちはするりと三の姫の部屋へ入って行った。小鬼たちが入って行くのを見て須洛は廊の欄干に手を置き、その場に座り込む。そして大きく息を吐いた。