序.空の上
月夜の空に空を飛ぶ大きな鳥がいた。
鳥ではなく羽の人。黒い髪の端正な顔の男に担がれ千紘は空を移動していた。
「………」
千紘はじっと自分を運ぶ男の顔を見た。未だに信じられずにいたのだ。
先ほどまで小柄な老人だった男がこんな若々しい姿になるとは。
やはり鬼たちの世界は予想しないことが多いということか。
「何じゃ。どうした? それとも揺れすぎて気持ちが悪いとかか」
あまりにじろじろと見られたのか犀輪は声をかけた。その声音はとても優しいものである。
「いえ。本当にあのおじいさんなのかなって」
実際いつの間にかすり替わったのではないかと思う。
千紘の言葉に犀輪はおかしげに笑った。
「そうよの。突然のことで理解できんじゃろう。あの姿でいる方が多いし須洛たちからは常に老人扱いよ。あやつらよりもうんと年寄りじゃから別に構わんが」
「一体いくつなんでしょう」
須洛よりも年上というと五百以上生きているということだろう。
「ふ、御暈の空閑御が生まれた頃よりずっと前から生きている」
そう言われ里の社に住む白髪の巫女を思い出す。確か彼女は須洛よりもずっと年上で千は生きていると聞く。
つまり目の前の男も千を生きているということか。
犀輪といい、須洛といい、陽凪といい一体どうやってあの若い姿を保っているのだろう。
ふと先ほどの陽凪の顔を思い出す。犀輪によって外へ飛び出す千紘を呼び止めようとしていた。
(やっぱり怒っているかな………)
よくよく今の状況を思い出す。
自分はただ須洛が水面を処罰する前に何とか止めなければと思った。
その思いを口にして今なぜこうして犀輪の腕に抱かれ空を移動しているのか。
こんなことになるとは思いもよらずに未だに頭が追いつかない。
ようやく落ち着いて考えるがやはりわからない。
悩んでいるうちに犀輪は目的地についたことを知らせた。
沫山の頂に下ろされ千紘はゆくりと地に足をつける。今まで空を移動していたから足元がおぼつかない。ふらりと体がぐらつくとそれを犀輪が止めた。
「ありがとうございます。え、と………どうして私を連れ出したのでしょう?」
確かに自分は須洛よりも先に沫村に行くことを望んだのだが。
それで犀輪が聞き送り届けてくれる義理はないはずだ。
千紘の疑問に犀輪は笑って言う。
「なんの。ただの興味本位で協力したまでじゃ」
「興味本位?」
「姫が何をするか」
それを聞かれ千紘は困ったように眉を顰めた。
何をしようにもどうするかなどまだ何も考えていない。
ただあのままではよくないと思っただけで。
それを口にして犀輪はがっかりするどころかにやりと笑った。
「ふふ、ではこれから何が起こるかわからぬということ。楽しみじゃ」
何が楽しみなのかよくはわからない。
だが千紘の願いを叶えてくれたことに感謝はすべきなのだろう。
千紘は改めて頭を下げ礼を述べた。
◇ ◇ ◇
千紘は覚えている道筋を辿り椿鬼の水面のいるであろう屋敷へと向かった。
先日須洛とともに宿泊した場所である。
門の中に入ろうとすると建物の奥から侍女が現れた。確か水面の侍女の伊山である。
伊山は暗闇の中で千紘の姿を認め驚きの表情をあげた。髪はずいぶん切って下女のような短さであるが間違えなく千紘だと認識したのだ。
「水面姫に会わせてほしいの」
「………」
千紘の頼みに伊山は複雑そうに眉を寄せた。
「どうしてここへ。ひょっとして須洛様が」
須洛がすでに沫村にやってきたのかと警戒の色をあらわにする。それを安心させるために千紘は首を横に振った。
「須洛はまだこちらに来ていないわ。その前に話がしたいの」
しばらくして少々お待ちをと言い千紘を部屋へと案内した。そこは水面が私用で使っている部屋で甘いお香の匂いがかすかにする。
何の香だろうと気になるが、今はそれを考える場合ではない。
千紘は胸に手をあてて考える。果たして水面姫は話を聞いてくれるだろうか。
自分が水面を説得して須洛に謝罪をさせれば彼女の罪も軽くなるのではというのが千紘の考えである。
(都合のいいことを)
だがこのままにしては須洛は水面にどんな罰を与えるかわからない。須洛は自分の前では優しい人であるが怒るととても恐ろしいと聞く。
それに先ほど宿を出る際の須洛の表情はとても恐ろしかった。今にも水面を殺しかねないほどの形相。
陽凪は妹の弁明をせず処断を全て須洛に預けてしまった。
とても頼もしく優しい陽凪が水面をやすやすと放り出すのが悲しかった。
(いえ、思い起こせば水面姫の方がひどいことしているけど………)
土蜘蛛をおびき寄せ、陽凪が土蜘蛛に殺されても別に構わないと冷然と言った水面を思い出す。
かたりと音がして千紘ははっとした。
扉の方から美しい少女が現れた。水面だ。
千紘は姿勢をただし水面を迎える。
対して水面は冷たい眼差しを千紘に向けた。
「驚いたわ。まさか戻ってくるなんて」
ようやく言った言葉はそれであった。千紘は千紘に向いて言った。
「水面姫、どうしてこんなことを」
「こんなこととはどういうこと?」
水面は首をかしげ笑った。
「須洛が今こちらへ向かっているわ。すぐに陽凪姫の汚名を撤回し自身の罪を悔い改めてください」
「まぁ、姉さまは土蜘蛛を手引きした裏切りものよ。汚名ではなく真実だわ」
あくまで自分のしたことを悔いる気配はないようである。千紘はそれでも引き下がれなかった。
「お願い。須洛はとても怒っているわ。今からでも遅くない、か……ら」
突然眠気がやってきて千紘はことりと倒れてしまった。
「ふぅ、思ったより効果が出るのは遅かったわね」
水面はやれやれといった具合に香の匂いの元へ辿る。
それは水面が考えた薬と調合してつくった新作の香であった。効果は睡眠を促すもの。人の身の千紘でこれだけ時間がかかったのだから鬼に対してはもっと時間がかかるかもしれない。
「本番はもっと強いものを使わなければ」
そう呟きながら水面は小間使いの鬼を呼び寄せた。
「この女を阿輪島へ」
そういうと鬼たちは頷き千紘を連れ去ってしまった。