5.再開
千紘は社の中でじっと息を潜める。手には相変わらず小刀を持ちいざというときに応戦できるように構えていた。
「姫さま」
小鬼が心配そうに見上げてくる。
「陽凪姫の結界は完璧です。向こうからしてみればこの社を認識できないようになっております。だから安心してお休みください」
ずっと緊張した面持ちだった千紘はふっと柔らかく笑った。
「ありがとう。でも、私何もしていないし。せめて見張りくらいはしたいの」
そう言いながら千紘は小鬼の頭を撫でる。小鬼は何か言いたげにしながらも何も口にしなかった。
「でも外からは認識できないなら須洛は本当にここへ来てくれるのかしら」
陽凪が言うには須洛は必ず来ると言っていた。どうしてそう確信できるのかやはり千紘には理解できない。
それに結界が張られては森に来たとしても千紘たちの元を素通りしてしまうのではなかろうか。
「大丈夫です。とうりょは陽凪姫の結界を視る為の目を持っていますから」
「目?」
「とうりょは力は鬼の中でもかなりのものですが、目も鬼の中で一等素晴らしいものです」
須洛には物の真の姿を見る力を持っているという。だからこそ幻術に惑わされることもないし、ある程度の結界を見破ることもできる。
「その力があったからこそ姫さまを見つけることができたのです」
紅葉少将の屋敷で無為に過ごす千紘を見たときのことを話しているのだろう。
陽凪が言うのは千紘は須洛の惚れた姫の生まれ変わりだという。
「信じられない」
千紘はぽつりと呟く。
「だって私は前世の記憶なんてないし、本当に須洛が好きだった姫なのかわからない。須洛にはじめて会ったときも何も感じなかったわ」
普通の人は前世の記憶など持たない。
だからこそ千紘は本当に自分が須洛の思い人なのか確認しようがない。
「あなたは知っているの? 前世の私を」
「いえ。ただ……五百年前よりとうりょは姫を捜していたと聞いております」
五百年前というとまだ京の都がなかった時代だ。その時代に自分はどこで須洛に出会ったのだろうか。
「ひょっとして須洛が今まで私を大事にしてくれたのはただ惚れた姫に似ていただけなのかな」
そういうと小鬼は困ったように千紘を見た。千紘は眉を八の字に寄せて笑う。
「て、ごめんね。うじうじしちゃって………」
ぎぃ。
木の戸が開く音がして千紘ははっとした。
ひょっとして須洛が来てくれたのだろうか。
前の不安を他所にそんな期待を持ちながら振り返る。
だが期待は裏切られた。
「やれやれ、こんなところにいましたか」
直垂姿の浅黒い肌の美男子がにこやかに千紘に笑いかけた。
どうしてと千紘は声を出せず口をぱくぱくさせる。
ここは陽凪が結界を張り、見つからないようにしてくれたのだ。
「ええ。磐南は見つけることはできませんでした。さすが急ごしらえで土蜘蛛の目を誤魔化す結界を張るとはと陽凪姫には感服します」
しかしと椋木は続けて言った。
「私の目は特別でしてね。結界で認識できなかった社を見ることはできました」
見つけることができれば後は触れればすむ。この結界はあくまで認識できないようにするためだけに作られたものだ。触れればすぐに結界は解かれる。
「ま、まさか。とうりょと同じ目を持っているなんて」
小鬼はわなわなと震えた。
その横を風が切る音がした。
千紘はあっと驚く。先ほどまで眠っていた陽凪が社の中に落ちていた棒を拾いそれで椋木に襲い掛かったのである。
振り上げられた棒を椋木は難なく受け取り陽凪の襟を掴み体勢を崩した。
床に押し付けられた瞬間陽凪の顔は苦痛に歪む。一瞬だけだが腹を庇う仕草をしていた。
(怪我が……)
先日、土蜘蛛によって追わされた傷が今の衝撃で痛んだのだ。千紘はきゅっと唇を噛み、小刀を両手で構える。
「困った姫たちだ」
椋木はため息をつき、陽凪を磐南に預る。そして、千紘の方へ近づいた。
「ひ、陽凪姫を放しなさい!」
千紘は間合いをとり椋木に怒鳴る。椋木は恐れずむしろ千紘のその様を見て微笑ましく感じたらしく笑った。
「大丈夫です。おとなしくするならこれ以上の暴力は振るいません」
だから小刀をこちらによこしなさいと椋木は手を差し伸べる。
その前に小鬼が立ち尽くした。
「姫さまに近づくな! ………ぎゃふ」
小さな小鬼は椋木に蹴飛ばされて横へと転がっていく。
「おや、すみません。小さかったので気づきませんでした」
悪気はなかったのだと涼しい声で椋木は言う。千紘は小鬼を心配し駆け寄ろうとしたがその前に椋木が立ちはだかる。
千紘はぐっと頬を引き締め椋木を睨みつけた。
「どうして私たちを狙うの? 大江山を手に入れる為?」
それを聞いた途端椋木はおかしげに大声で笑った。千紘は何か変なことを言ったのだろうかと訝しむ。
確か椋木たち伊都馬一族は京の朝廷を恨み復讐するために丁度良い位置の大江山を欲していると聞いた。その為に土蜘蛛は九州から東へと勢力を伸ばし、御暈一族や傘下の一族の里の周囲をうろついていると。
「いえ、確かに伊都馬一族は大江山を欲しています。彼らは陽凪姫とあなたをその為の人質にと考えです。ですが私はもっと別の方に目的があります」
「別の目的?」
一体他に何があるのだろうか。
千紘は必死に考える。
それに椋木はたいしたことではないと笑いながら教えた。
「私個人のただの私怨ですよ。私の目的は御暈一族の棟梁を苦しめることです」
その為に御暈一族の棟梁たる須洛が大事にする千紘を誘拐した。
このまま九州に連れ戻したら椋木は返すつもりはないと言う。
「す、須洛を苦しめるって……どうして。須洛に何か恨みでもあるの?」
「先日、私と陽凪姫の話を聞いたでしょう」
それを言われ千紘はどきりとした。
もしかしてあの夜千紘が聞き耳を立てていたのに気づいていたのか。
「陽凪姫の父と私の母は兄と妹………そして罪を咎められ真鬼一族を追われた身」
その為に角を半分奪われた。二度と真鬼の里に戻れないように真鬼としての力も失った。
それ故に二人は各々行き着いた先の鬼の里で苦しい思いをした。真鬼として認められず、ただ他所者の鬼として疎外され続けた。
陽凪の父はそれに耐え切れず沫村を出たが椋木の母は違った。
「弱り果てた母は外に出る勇気すら持てませんでした。ただ父と私を頼りに細々と行き衰弱していく身に苦しみ最期を迎えました」
まだ幼かった椋木にすがり、故郷を懐かしむ母は本当に弱い鬼であった。
病床で涙を浮かべる母の姿を椋木は忘れることができない。
それを聞き千紘はどう言っていいかわからなかった。
鬼のしきたりとかはまだ理解できない。ただ椋木の母親のことを気の毒だと感じる。だが、それが須洛と何か関係があるのだろうか。
そう聞きたいのだが聞いていいのか躊躇する。
それを解した椋木は千紘に言い含めた。
「私と陽凪姫の片親を咎人に陥れたのは御暈一族の棟梁・須洛なのです」
それを聞き千紘はさぁっと血が引くのを感じる。千紘はちらりと陽凪の方を見つめる。磐南に押さえつけられている陽凪は悔しそうに千紘から視線をそらした。
違うとは言わない。椋木の言っていることが本当なのだと陽凪が言っているようであった。
「須洛が陽凪姫を長姫として認めたのは過去の償いからでしょう」
椋木の説明に千紘はかたかたと震えながら尋ねる。
「す、須洛が何を」
それに千紘はぐっと呻いた。椋木に強く顎を捉えられて上を向けさせられたのだ。あまりに強い力で後の首が痛い。
苦しいながらに見上げると椋木はじっと千紘を見つめた。その瞳からは柔和な笑みはなくひどく冷たいものである。
「この様子では何も知らされていないようですね」
(何も知らされていない? 何を)
わからないという千紘に椋木は心底軽蔑すると目で訴える。今まで千紘に向けた柔らかい表情が嘘のようである。
「己の役目を果たさず人の姫として生まれ、再び愛した男に愛されようとはつくづく浅ましい姫だ」
「役目?」
役目とは何のことであろうか。千紘には全く理解できない言葉である。
「やめよ!」
陽凪は椋木に声を荒立てた。磐南に抑えられながらも毅然という。
「前世のことは今の姫には関係のないこと。それに咎ならば須洛はきちんと受けておる」
「陽凪姫はお優しいのですね」
椋木は穏やかに言う。だが千紘の顎を捉える力を緩める気配がない。あまりに強い力で千紘は眉を顰める。
「しかし解せませんね。己の役目を蔑ろにしながらも美しい肉体と魂を持ち………」
つくづく世の中とは不条理であると椋木は呟く。そしてじっと千紘の姿を嘗め回すように見てくすりと笑う。
「ならばもう一度役目のために生きてもらいましょう」
その瞬間千紘の体に今までにない恐怖が襲い掛かる。土蜘蛛に襲われたときよりもずっと恐ろしい何かに恐怖した。それが何かわからない。ただ椋木に役目という単語を聞いただけで胸が苦しく息ができない。体中からぶわっと冷や汗が出るのを感じた。
記憶にないながらも魂で反応しているのだと椋木は楽しげにその様を見る。
「ご安心を。役目のときまでは大事に大事にしま………っ」
最後まで言い切れず椋木は横からの衝撃に体勢を崩す。その瞬間千紘を掴む手が緩み千紘はくらりと後ろに倒れそうになった。
それを後ろから支えられ千紘は何があったか周りを見る。椋木は崩れ床に突っ伏していた。千紘は首を傾げ支える腕の主を見る。
懐かしい紅葉色の髪と碧色の瞳の青年が千紘に笑いかけていた。
土蜘蛛が現れてずっと怯えていた小鬼は嬉しそうにはしゃぐ。
「とうりょ!」
須洛に助けられたのだとわかった千紘は何か言おうと思ったがその前に須洛に強く抱きしめられた。
「どこも怪我はしていないな」
「うん」
「よかった」
心底安心する声に千紘は熱いものがこみ上げてくるのを感じた。
「で、でも………陽凪姫がひどい怪我をして」
千紘は磐南に抑えられている陽凪の方を向く。そこにはすでに磐南の腕から逃れている陽凪の姿があった。傍には須洛の部下である藤依と夜流戸がいた。どうやら磐南を払いのけ救い出してくれたようである。
磐南はさすがに御暈一族の鬼二人相手には苦戦すると踏んで後ろに下がる。そして耳慣れない音で何かを叫ぼうとしたが途中椋木に止められた。
「少しお喋りをしすぎたようです」
御暈一族の鬼たちに追いつけられるとは。話す暇もなく無理やりでも伊都馬一族の仲間のいる場所へ二人を運ぶべきであった。
「お前が沫山に忍び込んだ土蜘蛛か」
須洛はじっと椋木をにらみ付けた。とても恐ろしい形相である。
椋木はそれに皮肉げに笑って頷いた。
「よくも姫を攫ったな。だがこれではっきりした。御暈一族は伊都馬一族を完全に敵と見なす!」
今までは伊都馬一族の土蜘蛛があちこちをうろついていてもさしあたりのない関係を保ってきていた。だが須洛の大事な妻である千紘を誘拐し、傘下一族の長姫まで危害を加えたことは見捨てることができない。
須洛は完全に伊都馬を敵だと宣言した。
これにより土蜘蛛は大江山や御暈に関わる鬼の里を安易にうろつくことができなくなる。いつ御暈の鬼が伊都馬の里を襲っても不思議ではない状況となった。
これに椋木は楽しげに笑った。
「はい。弁明はしませんよ」
そして磐南に下がるように命じる。
「ここで戦っても負けるのが目に見えていますから下がらせていただきます」
「まさか俺がお前を逃がすとでも思っているのか?」
須洛は厳しく言い渡す。
「ええ。思いますよ」
椋木はあっけらかんと応えた。そして陽凪の方を見る。
陽凪は唇を結び厳しい表情で椋木をにらみ付けた。だがほんの僅かにどこか悩む表情が見え隠れした。
それに椋木はふっと微笑んだ。
「ではごきげんよう」
そう言い椋木の周りは黒い霧に包まれる。須洛は部下に命じ夜流戸は霧の方へ突っ走った。しかし、夜流戸が向かうよりも早く霧はなくなり同時に椋木の姿も消えた。
「全く勝手に俺の周りを荒らすだけ荒らして逃げ足は速い」
須洛は忌々しいと舌打ちした。
千紘はぎゅっと須洛の袖を握る。それに気づき須洛は険しい表情をときにこやかに笑った。
そして頬を撫でる。愛しむように優しく。
その感触が本当に久しぶりで千紘はほっとした。
「よかった。千紘がいなくなったときどんなに慌てたかしれない」
須洛は心からそう呟いた。
「あ、の………心配かけてすみません」
千紘はようやくそう言った。それに須洛は首を横に振った。
「いや、俺も悪かった。お前とはじめての旅だというのに放ったらかしにして、仕事優先にして」
「いいの。だってあなたは一族の長だし」
棟梁としての責務というものがあるはずだ。千紘にはそれはわかっていた。わかっていたがどこか寂しいと感じたのは事実であるが。
「そうだ」
千紘は思い出したように陽凪の方へ振り向いた。陽凪はどうしたのだと首を傾げ笑った。
「陽凪姫が怪我をしているの。それに、この子も椋木に蹴られてしまったから心配だわ」
いつの間にか千紘の肩にちょんと座っている小鬼を千紘は示す。
「姫さま私は大丈夫ですぞ」
「だめよ。ちゃんと手当てしなきゃ。強く蹴られたのだし」
千紘がまるで幼子を叱るような口調で言うのを見て須洛は笑った。
「すぐに宿をとって医者を呼ぼう」
それを聞き千紘はほっとした。ほっとしたらとても眠くなる。
うとうととしていると須洛がそっと抱きしめてそのまま千紘は彼の腕の中に眠ってしまった。