4.逃亡
千紘は天井を見てぼんやりと床が僅かに揺れているのを感じながら目を覚ました。
「………っ!」
今自分の状況を改めて思い出し慌てて起き上がる。
「何じゃ。まだ湊まで間があるから休んでおいてよかったのに」
陽凪はくすくすと笑って千紘におはようと挨拶をする。千紘は顔を赤くしておはようございますと小さく呟く。
「姫さまぁ」
小鬼はぴょんと千紘の肩に乗る。つぶらな瞳でじっと千紘を見つめる。
「おはようございます」
すると小鬼の目から涙が流れた。自分は何か悪いことをしたのだろうかと千紘は小鬼にどうしたのかと問いかける。
「いえ、何だか悲しくて………姫さまの御髪が痛んでおります」
そういわれて千紘は自分の髪を撫でる。そういえば前に比べて艶がないしごあごあした感触である。
「ああ、嘆かわしい」
囚われて髪の手入れをする暇がなかったのだからしょうがないではないか。
そう言うがそれは慰めにも気休めにもならない。
「おぉう……おお」
「あのね。今大変なときだからね。髪は後回しでいいでしょう」
「朱音さまにしかられる」
小鬼としては朱音に千紘の髪の手入れを任されているらしく大事のようである。
もしこの痛んだ髪を朱音が見たらどんな目に遭わされるだろうか。
そう考えると小鬼はうわぁんと泣き出した。
滅多に怒ることがなく飄々とした朱音であるが髪にはかなりうるさい。
しかも、彼女としては千紘の髪をいたく気に入っているようで小鬼にしっかり手入れするように躾けたそうである。
にこにこ笑顔で小鬼の餅のようにふくよかな頬をびよんびよんに伸ばされて頬を紐で結ばれ御簾の飾りとして干されてしまうのではと小鬼は想像しぞっとした。
一度そういう目に遭った小鬼がいたらしい。何でもお気に入りの髪の手入れの用具を壊されたとかで。
陽凪はにこりと笑って小鬼を安心させる。
「大丈夫じゃ。無事沫村に戻れたら一族が開発した自慢の新型椿油を進呈しよう」
朱音は髪の手入れ用にいろんな場所から手に入れた椿の油を揃えているらしい。その中でお気に入りなのが沫村産のもので、須洛が今回沫村に行く際お土産にと言われていたらしい。
陽凪の言葉に小鬼はおおっと嬉しく叫び明るくなった。
「そのために何としてでも土蜘蛛から逃げ出すのじゃ。だから姫の身を共に護ろう」
そう言うと小鬼はこくりと頷いた。
◇ ◇ ◇
ようやく湊についたらしく船がとまった。
椋木に言われるまま外に出る。
その前に顔を見られないように袿を頭にまで被る。
ずっと船の屋形の中に押し込められていた千紘にとって数日振りの外である。
降りた先の湊は随分活気があり人の往来が激しい。
あまりの賑やかさに千紘は驚いた表情をした。それを椋木は笑って言う。
「耶麻禰様」
若い青年がにこやかに近づいてくる。椋木の部下らしい。名は磐南という。耶麻禰というのは椋木のことだろうか。
「ああ。車の方はどうです?」
「準備しています」
そのとき千紘はふらりと揺れ陽凪の肩にもたれる。
「姫、如何した」
心配するように陽凪は袿で顔が隠れた千紘を見つめた。
「うん。長い船旅で疲れちゃって……」
弱弱しく呟く千紘に陽凪は椋木を睨んだ。
「すまぬが、少し休ませてやれぬか。姫にとってははじめての船旅でしかも誘拐されている身でかなり疲れているようじゃ」
「あれが椿鬼の長姫と例の……」
磐南はじっと袿で隠れている姫を見つめる。椋木はこくりと頷いた。
「ほんの少しだけ休みましょう」
「耶麻禰様っ」
陽凪の願いをあっさりと聞き届けた椋木に磐南は反対する。
「仕方ありません。鬼の我らと違い人はか弱い生き物ですし」
そう言い予定を変更させ一泊だけ宿をとることにした。
磐南がとった宿は結構綺麗な宿で千紘は揺れない床で横になりほっと息をついた。それを見て陽凪は心配そうに覗き込む。
「船の揺れがこたえたか」
千紘ははっと上半身を起こし首を振った。
「いいえ、これは手はず通りでして」
手はずというのは船の中で陽凪から言われたことを実践したのである。すぐに土蜘蛛の鬼たちにがんじがらめにされ車で移動せずにこの湊でしばらく時間を稼ぐ。隙あらば彼らの手から抜け出そうという算段。
そのためにわざと疲れたそぶりをしていたのだ。
千紘はあくまで演技だったというが陽凪の目は誤魔化しきれなかった。
「顔に疲れが出ている。少しだけ休もう」
陽凪がそっと千紘の頬を撫でると千紘は項垂れる。
「ほんの少しだけ……でも大丈夫です」
陽凪の足手まといになるわけにはいかない。今が好機なのである。
心配そうな表情で見つめてくる陽凪に千紘はにこりと笑った。
白湯を持ってきた宿屋の女性が入ってくる。陽凪は彼女を眠らせ小袖をはいだ。
その小袖を着るようにと陽凪は千紘に渡す。千紘は袿と袴姿を脱ぐ。
陽凪は千紘の袿を宿屋の女性に着せて横にさせる。
「ん? ちょっと」
千紘は小袖姿の自分自身を見て違和感を覚える。髪が長すぎてとてもした働きの侍女には見えない。
都の女性の嗜みとしてずいぶん伸びた髪は身の丈以上でいくつか結い上げ結んでみるがやはり不恰好である。
悩んだ末千紘は懐から小刀を取り出し髪を切る。
「ひ、姫さまぁ!」
気づいた小鬼は悲鳴をあげる。真っ青である。
侍女の身支度を整えていた陽凪は小鬼の声にあっと口を開けた。
「なんということを」
千紘は髪を腰あたりまで切ったのだ。これを結えば小袖によく合う長さである。
小鬼はぴょんと跳ね切り落とされた千紘の髪を切なく見つめた。
複雑な表情をする陽凪に千紘は苦笑いした。
「これでどこからどう見てもした働きの女ですよね」
「そうだが……何も切らなくても」
「いいんです。いざというとき邪魔になりますし、それにこの髪をこの人につければ私がこの部屋にいると椋木に思わせ、しばらく時間稼ぎになります」
そう言いながら切り落とした髪を広い横になっている女性の髪に付け足す。袿で顔を隠しどうみても姫が横になっているように見える。
いまだに嘆き悲しんでいる小鬼を広い胸元の襖の中に入れる。そして陽凪に向きにこりと笑った。
「さぁ、行きましょう」
部屋の外を見ると廊の向こうに見張りの鬼がいた。確か磐南といったか。
「私が注意をひきつける。その間に姫は侍女になりすまし宿を出るのじゃ」
「陽凪姫はどうするのです」
「安心せよ。姫が無事抜け出した頃に後を追う」
どうやってと思うが陽凪は絶対の自信があるようなので任せることにした。陽凪がまず部屋を出て磐南の元へ近づく。何か話し込みその間に千紘は部屋を出た。
磐南の視界から外れた場所まで行く。草鞋を見つけてそれで庭を出て裏口から出た。
気づかれずに宿の外に出られて千紘はほっとする。
「どうやらうまくいったようじゃ」
上から声がしてびっくりした。垣根を越え陽凪が降りてきた。
「陽凪姫、どうやって」
確か磐南に話しかけて、それから外に出たら不審に思われる。
「なに、厠へ行くと言って適当に撒いた。さすがに姫を置いて逃げたりしないだろうとあやつ油断しおった」
陽凪はくっくっとおかしげに笑う。
「姫には悪いがしばらくその姿のままでいてもらうぞ」
「ぜんぜん大丈夫です。むしろ動きやすいですし」
ずるずるとした袴や袿に比べると丈が短く軽い。少しすーすーするのが気になるくらいだ。
「では参ろうか。まずは村を出よう。近くに森があるからそこで土蜘蛛たちの目を誤魔化しながら逃げるぞ」
「森? 陽凪姫は近くに森があるというのを知っているのですか」
「ああ、何度かこの湊には来たことがある。ある程度の地理は把握しているから安心するがいい」
陽凪は胸を張って言った。
◇ ◇ ◇
部屋の中で女性は縮こまって正座をしていた。目の前には端正な顔立ちお直垂姿の男が感情のない視線を女性に送る。傍にはこれはまた同じく綺麗な顔立ちをした青年が控えていた。
陽凪によって眠らされた宿屋の侍女は目を覚ますとこのような尋問を受けるような状況になってしまった。尋問といっても何も聞かれていない。だが、目の前で冷たい表情をする男に見つめられるとつらい。
自分はただ仕事で客人に白湯を運んだだけだというのに。
侍女は困ったように男に事情を話した。事情といっても何も知らない。ただ気づいたら眠らされていたとしかわからない。
「あ、あの……」
「いえ、すみませんね」
椋木はようやく表情を崩して侍女に笑いかけた。先ほどとは打って変わって優しい雰囲気となる。
「お転婆な連れがとんだ粗相をしてしまいました。おいおいお詫びをさせていただきますので今回はご容赦を」
そう言い恭しく頭を下げられる。侍女はとんでもないと首を横に振った。
「い、いえ……ただちょっとびっくりしてしまって。あの、姫たちを追わなくてもよいのでしょうか」
もうすぐ夕暮れになる。賑やかな湊町でも夜になると人気はなくなり物騒となる。
「宿屋から捜す人を集めましょうか」
侍女の申し入れに椋木はやんわりと断る。
「それには及びません。仕事があるでしょう。お戻りください」
そういわれて侍女はそそくさと部屋を出ようとする。そして思い出したように椋木に言った。
「あの、着替えたらこの袿を後でお返しします」
「ええ。部下にお渡しください」
椋木の言葉に侍女はほっとする。
自分の身に着けている衣装は千紘のものである。こんな素敵な衣を今まできたことなくて侍女はときめいてしまうが同時に落ち着かない気分だった。
侍女が去って椋木はにこやかな表情を戻しため息をついた。
それに磐南は頭を下げる。
「申し訳ありません。油断しました」
「まぁ、いずれ行動を起こすだろうと思いましたがこうもあっさりとやられるとは」
椋木は床に落ちているひと束の髪を拾った。千紘が小刀で切り落とした髪である。ずいぶん量があり、そこそこの長さの鬘が作れるのではという量である。
「まさか髪を切るとはね」
千紘が陽凪と話していた磐南の横を通るとき長かった髪が短かった。さすがに姫が長く保っていた髪をばっさりと切るとは想像できず磐南は侍女に化けた千紘にたいした注意を向けていなかった。おまけに袿で顔が見えなかったので気づけなかった。
椋木は改めて千紘の残した髪の長さを確認する。この長さでは今の千紘の髪は腰のあたりくらいだろうか。
「思った以上におもしろい姫だ」
普通の姫ならば簡単に手放すことができない長い黒髪をあっさりと切り捨てる。しかも下女と同じ程の長さは姫にとってはとても我慢のできないものだろう。
(確かあの姫は京の貴族の姫だったはず)
だったら綺麗な着物を着て美しく着飾るのに慣れているはず。突然下女の格好をするのに抵抗があるはずだ。
なのに、彼女はそれらをたやすくしてしまった。
「水面姫ならまずはしないでしょう」
沫村にいた水面は自分の髪を自慢していた。そして自尊心が高く自分の美貌を損なうことを許さないタイプの人だった。
「それで如何しますか?」
磐南は椋木から与えられる指示を待つ。それに応えるように椋木は笑った。
「今すぐに追いなさい。ただしできる限り傷つけないように」
それに磐南は頷き部屋を出た。外に出ると名を呼ぶ。それに呼応して黒い霧が磐南の周りを覆う。
そして霧がなくなったところで磐南の姿がなかった。
「さて、私も報告したら姫たちを追いましょうか」
部屋に残った椋木はそう呟きながら、用意した布でそれに千紘の髪を纏めて包んだ。
◇ ◇ ◇
湊町を出た二人の姫はそのままの足で森の中を歩く。
「この森の中に社があった。ひとまずそこを目指そう。何か結界の媒介にできそうなものがあるかもしれん」
椿の花さえあれば急ごしらえで結界を張れるのだが。
陽凪はそう呟く。
千紘はこくりと頷きながら少しため息をついた。
「すまぬな。もう少しの辛抱じゃ。社で結界を張って休めるようにする故」
気遣いの言葉に千紘は慌てて首を横に振った。
「わ、私はいいのです。陽凪姫の方こそまだ傷が癒えていないのに」
「まぁ、私は一応鬼だから人より丈夫なんじゃよ」
安心させるように笑う陽凪であったが、すぐに険しい表情になる。
「っち。思ったより早く勘付きおった」
その呟きに千紘は不安そうに小鬼を抱きしめた。
一体何がどうしたのかと尋ねると想像していた通りの答えが出た。
「土蜘蛛の匂いじゃ。この森に土蜘蛛が徘徊しておる。私らを捜しに放たれたのじゃろう」
それを聞きぞっとした。
あの恐ろしい化け物がこの森を徘徊しているとは。いつ遭遇するかしれないということか。
「急ごう。あれに見つかるより前に椿か社を見つけるのじゃ」
そうすれば結界を張りひとまず安全圏を確保できる。須洛が来るのを待てば良い。
さすがに御暈の棟梁相手に応戦するほど相手も馬鹿ではないはずだ。
陽凪はそういうが千紘は少し不安に感じた。
(本当に須洛が来てくれるのだろうか)
来たこともない町、森まで千紘たちの為に来てくれるのだろうか。
陽凪が言ったことを信じたくないというわけではない。
だが、そんな都合の良いことが起こりえるとは思えない。
「こっちじゃ。姫」
陽凪は千紘の手を引っ張り森の奥へと急ぐ。いくつもの木々を越え、足早に歩く。だんだん疲れてきて千紘は息を乱すようになった。それでも陽凪は足を止めない。それだけ彼女も余裕がなくなってきているのだ。
歩いた先に見えたのは小さな社。祠と言った方がいいのかもしれない。
ここが先ほど言っていた社のようだ。
「中へ」
陽凪は千紘を祠の中へ入れる。陽凪は指を強く噛みそこから血を滲ませる。
「我が血を糧に我らを護る壁となれ!」
そう叫ぶやいなや大きな風が吹き荒れる。それに陽凪は頷き社の中へ入り戸を閉めた。
「先ほどは何を」
「急ごしらえの結界じゃ。この社に棲む精霊に頼み結界を張るのを手伝ってもらった。これで奴らの目を欺けるだろう」
まだ血が滲む指を見て千紘は小袖の端を裂いた。そしてそれで陽凪の人差し指を巻く。
「この程度何ともない」
笑う陽凪に千紘は悲しげな表情を浮かべた。そっと陽凪の手を両手で包み込む。
「私の為に血を流して………なのに私は何もできない」
ごめんなさいという千紘に陽凪はくしゃっと頭を撫でた。
「気にするでない。まぁ、こうなったのは私の身内のせいであるし致し方ない。それに姫の為だけではない。須洛の為もある」
「?」
「もし姫に何かあれば須洛は苦しむ」
その姿を見たくないのだと陽凪は言った。それに千紘は複雑な表情をした。
否定はしていてもやはり彼女は須洛に惹かれているのではとかんぐってしまう。
こんな時にこんなことを考える自分の浅ましさがいやになる。
それを感じ取って陽凪は苦笑いした。
「だから、ちが、うと………」
陽凪はすべてを言い終わる前にくらりとゆれる。千紘は慌てて彼女の体を支える。
「いや。少し疲れたようじゃ……すまぬが少し横になって良いか?」
「はい」
勿論だめとはいえない。ここまで陽凪はどれだけの仕事をしてくれたのだろうか。
ただでさえ傷を負い弱っているというのに。
千紘は横になった陽凪の顔をじっとみる。顔色が少し悪く見えるのは決して気のせいではない。
(やはり無理をしているのね)
千紘は懐にしまっていた小刀をとりだす。かつて刀の扱い方を教えてくれた若い武士からもらったものである。
いざとなれば自分がこれで応戦しよう。
人の娘がどこまでできるかわからない。だが、ここまでがんばってくれた陽凪が安心して休めるように千紘は気をしっかりしなければならないと思った。
土蜘蛛を前に足を竦めて怯えるような失態だけはしないようにしなければ。
そう思いながら社の戸を見る。すでに夕が暮れ外から入る光はなくなっていた。真っ暗な社の中千紘はぎゅっと小刀の柄を掴んだ。小鬼は心配な表情でそれを見つめていた。




