3.閨
「千紘、まだ起きてるか?」
部屋の中に入る前に須洛は声をかける。すると中でもぞりと動く気配がした。
「あ、はい」
須洛はまだ起きているのを確認して中に入る。部屋の中ではすでに袿を脱ぎ寛いでいる姿の千紘がいた。
須洛の声がしたので早く袿を着ようとしたが、その前に中に入られて慌てて上に羽織る。
「そのままでいい」
須洛はそう言い寝所の中に潜り込んだ。横になり、千紘に寝るように言う。
千紘は袿を脱ぎ几帳にかけて寝所の中に入った。
「あ、須洛」
「ん」
「今日はごめんなさい」
汐に流され心配をかけたこと。自分の都合で食事の席を途中で立ったこと。
「お前は謝ってばかりだ」
須洛にそう言われ千紘はしゅんと項垂れた。その落ち込んだ様子に須洛は苦く笑う。
「はじめての海はどうだ?」
「はい。とても大きくて、あんな大きな泉、初めて見ました」
それを聞きぶふっと須洛は笑った。海を泉と勘違いしているとは予想外である。
夫に笑われ千紘は何か変なことを言ったのかと首を傾げた。
「ああ、いやいいさ。泉ね。確かにあれは大きな泉だ」
「何だかとても馬鹿にされている気分です」
千紘はむすりと拗ねたように見せる。そしてすぐに曇った表情を見せた。
「でも、とても怖かったです。まさかあのようにすぐに水が高くなるなんて」
「ああ、あれはシオというやつだ」
「シオ?」
「海じゃ半日周期に水があのように高くなる。朝は潮、夕方は汐と呼んでいる」
「何故、水が高くなるのでしょう」
「うぅん、昔教えてくれたばあさんが言うには月が水を引っ張っているとか。その辺は俺もよくわからない。海は俺の領域じゃないしな」
「おばあさん?」
須洛の口から出た思わぬ言葉に千紘は首を傾げた。須洛は大江山の鬼・御暈一族の中では最年長に入る鬼である。それ以上の年を召した者は空閑御くらいだと朱音が昔説明していた。
そんな須洛がばあさんと呼ぶ程の者がいるのか。
「ああ、ちょっと前までここの椿鬼の長をやっていた女鬼さ。水面の母親でもある」
「水面姫の母上?」
その椿鬼の一族の中では最年長の女鬼。頭もよく知恵がまわり、物覚えもよいという。
その為、人々が鬼や妖に困っている時は相談にのり、また自然現象の対策方法も講じていた。水濠の作り方、貯水池、橋の造り方も知っており、旅をしては必要な場に人にその技術を教えてあげたという。
何百年も生きているのに衰えない美しさ、肌の瑞々しい白さにより人から白尼僧と呼ばれ慕われていたという。
この村で結界を張る術を考案したのも彼女だという。
だからこの村の人や鬼からは崇拝の対象でもあった。
須洛自身、彼女には頭があがらない時期があったという。
「随分立派な女性だったのですね。今はどちらに」
「十数年前に八百年生きたらもうこの世に未練はないとか言って、山の中へ消えてしまった。そのまま誰もあいつの姿を見た奴はいない。俺も何度か会いに行ったがもうあの山には鬼がいるという気配がなかった。多分、寿命がつきて人に見られないまま消えたんだろう。ばあさんらしい最期さ」
須洛の瞳が少し寂しげに揺れた。それを見て千紘は何だか切ない気がする。
「須洛はその方が好きだったのね」
「ん、まぁ、俺には母親がいなかったし。棟梁始めた際はいろいろ相談にのってくれたからな」
一族の前では言えない悩みを何でも聞いてくれた。そして須洛の悪いところを気にせずに叱った女性で、母親のようなおおらかな性格を持っていた。
「……ねぇ、今須洛は母親いないって」
「ああ」
別のところに興味を移す千紘に須洛は苦笑いして話す。別に隠すつもりはなかったのだが、とうに昔のことだからすっかり忘れていた。
「俺の母親は俺を産んですぐに死んだんだ」
「病とか?」
「いや、角を失って衰弱死だ」
鬼にとって角は大事な器官だというのを以前聞いたことがある。
角は外界との順応性を高めるため、鬼は人では耐えられない灼熱の焔の中でも冷たい水の中でも耐えられる。だが、角を失えば人よりもずっと弱い存在となる。人が平気な普通の空気の中でも瘴気のように体を蝕むのだ。
「角を何故失ったのでしょう」
「五百年以上も昔は国も荒れていたからな。争いに巻き込まれて角を折られ、命からがら大江山に流れ着いたと聞いている」
それから当時の御暈一族の棟梁の加護により霊域で養生していたが、一行に角が回復する兆しもない。そんな中須洛の母・独楽姫は棟梁に願い出た。
せめて自分の一族の血を絶やしたくない。どんな形であれ、子を産みたいと願い出たんだ。そして棟梁はそれに応じ、独楽姫と契った。
こうして生まれたのが須洛であった。ただでさえ衰弱しているというのに、鬼の棟梁の子を産む程の大事を背負いかなりの負担があったという。そして須洛を生んですぐに独楽姫は安心して息を引き取ったと言う。
「で、親父には他に棟梁にできる子供がいなかったから俺が御暈一族の棟梁に収まったというわけだ。実際棟梁になったのは親父が死んでからだから、五百年前くらいのことだ」
「………」
千紘にとって途方もない年月の話である。だが、須洛にはすでに親はおらず母親というものを知らないというのは初耳だった。
「知らなかった。須洛は母親を知らなかったのね」
自分も生まれた間もなく母を失ったが、それは須洛も同じであった。なのに、須洛はそれを微塵も感じず棟梁として里の者から慕われる程にしっかりしている。
「まぁ、何百年も昔の話だしな」
千紘からすれば老人を何度もやっているくらいの年月である。だから須洛にとってはもう母が恋しいとかそんな感情はない。
「私は自分が恥ずかしい」
千紘は袿で顔を隠し呟く。
「夫のことを知らないし、姫なのに筝もできない。海ではみんなに迷惑かけちゃうし」
「それは仕方ないことだ。誰も迷惑なんか思っていない」
須洛はそう言いながら千紘の髪を撫でた。
「水面姫はすごいなぁ」
その言葉に須洛はぴたと止まる。
「都からこんな離れた場所でも、わざわざ都から呼びよせてお香や和歌や筝を勉強しているんですって。私なんか全然そんなこと思いつきもしなかった」
「香や筝が習いたいのか?」
「違います。ただ、私は……姫なのに、何も持っていないし、得意なものなんてないし、せめて鬼の首をとって手柄たてたら何か変わるかなと乗り込んだ短絡な考えしか持っていなかったし」
最期の部分を聞いて須洛は苦笑いした。
千紘が須洛の元へ嫁いだのは須洛の求めに応じてのものだった。だが、千紘はこれは鬼の寝首をかく好機と慣れぬ小刀を持ち乗りこんで来たのだ。それを知っているのは当の標的だけである。
須洛は千紘を好いている、千紘にだったら殺されても良いと無防備を貫いた。千紘は自分を大事に思う須洛に少しずつ惹かれて行き、ついに殺せなくなった。
そして、須洛の妻になろうと思い今彼の傍にいる。
「なのに、私、それに甘えて物語に没頭したり、妻らしいことをひとつしようとしなかった」
それが恥ずかしいと千紘が嘆く。
「水面姫だったらそんなことはないわ。きっと仕事で疲れた須洛を慰めて、筝を弾いたり気遣ってあげたわ」
「何故、それで水面の話になるんだ」
千紘は顔を真っ赤にして須洛を見る。須洛はじっと真っすぐ自分の方を見つめている。魅惑的な翡翠の瞳が千紘を強く捉えていた。
「先ほどから様子がおかしいが何があった。水面が何か言ったのか?」
「いいえ、……ただ、須洛と水面姫が並ぶととてもお似合いで私よりもずっと……っ」
最後まで言わせてもらえず千紘は強く須洛に抱きしめられた。
「馬鹿だなぁ。そんなことを気にしていたのか」
「馬鹿? そんなこと?」
千紘にとってはかなり悩んだことである。そうかそうかと須洛は子供にするように千紘の頭を撫でる。
「愛しい姫は嫉妬をしていたのか。成程、夫としてこれ程嬉しいことはない」
「ち、ちが……」
千紘は否定できずうぅと呻いた。
「私を妻にして良かったの?」
自分でも嫌になる卑屈な気分。きっと今のことで須洛は呆れたのではないか。そう不安になりながら口にした。
「ああ、良かった」
「美人じゃないし、胸もないのに」
「……また胸の話か」
朱音が昔千紘に言った「須洛は巨乳好き」というのが相当気になっているようである。
「俺はこの先何があろうと千紘を愛するし、千紘以外を妻になんか考えられない。それとも千紘は俺が嫌か?」
「い、いえっ」
千紘は顔を真っ赤にしながら首を振った。
「須洛はとても大事にしてくれて、優しいし、大人だし……それに比べて私は子供だからとても恥ずかしくて」
「それは違うな」
須洛は千紘の言葉を否定する。
「俺は千紘が思う程大人でない。正直に言えば嫉妬深いし、駄々もこねる」
「そんなところ見たことない」
「お前に呆れられたくないから見せないだけだ」
千紘に拒絶されたはじめての夜などはかなり落ち込んで、例の小屋の中で一人過ごしたものである。先月まで物語に夢中になる千紘が全く構ってもらえず例の小屋にまた籠ったことがある。
朱音からは鬱陶しい、気持ち悪いとまで言われている。だから千紘には教えれない。
「須洛でも嫉妬するの?」
「ああ、するな」
物語に千紘を取られた時はどんなに羨んだことか。物語というものを世に生み出した作家を恨んだくらいだ。
そして、千紘が大江山に来る前に千紘によくした侍のことも実は嫉妬している。だが、千紘がその男ではなく自分を選んだということでひとまず嫉妬の感情は抑えられている。時折千紘を捜しに大江山へやってくる例の男のことは気がかりであるが、人の身で鬼の里に来れるわけもないと放置している。一応千紘によくしてくれた男だから本人の気が済むまで捜索させてあげようと判断してのことだ。勿論、里には来させないし、千紘を渡す気など毛頭ないが。
「だから何も不安に感じるな。俺はお前以外を妻にする気などない。お前以外考えられない」
そう優しく呟くと千紘はうとうとと瞼を閉ざす。とても疲れていたし、須洛の強い断言に安心してのことだ。
すやすやと寝息をたてる千紘を須洛はいとしげに見つめた。
そして苦笑いする。
(はぁ、いつになったら俺は千紘と契れるんだ)
未だに彼ら二人は夫婦の契りを交わしたことがない。初夜は千紘がまだ不慣れで心の整理がついていないこともあり断念した。
三ヶ月の間何度かそういう雰囲気になったことがあるが、いざ行為に及ぼうとすると千紘はあり得ない程に震えるのだ。言葉では大丈夫と言うが、まだ慣れない様子である。
だから未だにこうして一緒に並んで寝る程度のことしかしていない。
(俺の我慢強さがここまでとは自分でも感心する)
五百年以上も生きているからその辺の自制は普通のより強いのだろう。だが、一度たがが外れるとどうなることやら。
(き、嫌われないよな)
一番畏れているそれが故に未だに無理にことを進めたことがない。
◇ ◇ ◇
夜更け、うす暗い部屋の中灯りも点さずに水面はぶすりと不機嫌な表情であった。
今日の装いは完璧なはずだった。
今までの中で一番良い袿を揃え、髪も昨日のうちに綺麗に洗った。お香もわざわざ上級の伽羅を手に入れ新調した。
これも須洛に見てもらうために。
何がいけなかったのだろうか。
都に出ても恥ずかしくない美姫。そう都から来た客人たちにも褒められた。都に是非来てくれとまで言われたことも何度もある。
二年前までは一族の為、仕事の為にと嗜んで来た教養。だが一年前のある日より水面は都の貴族たちですら思わず見とれる最高の姫になるべく精進したのだ。
それも全ては須洛に見てもらう為。二年前に教養を身につけるべく一層努力するようになったのはある噂を耳にしたがため。
須洛が都のある姫に懸想している。都に上がる度その姫の姿を見ようといつもその邸へ参っていると言う。
去年の秋にはその姫の家にわざわざ嫁とりの申し出をしたとか。
須洛は都の姫がお好みなのか。
そう思った水面は一生懸命都の姫のようにと努力した。
須洛に一人の女として見てもらおうと思ったからだ。水面は幼い頃より大江山の鬼の棟梁に懸想していたのだ。なのに、全く相手にはされない。
それどころか千紘のことをいつも気にしている素振りを見せている。
それが溜まらなく悔しい。
そして何よりも悔しいのは千紘である。
須洛を射とめた姫だかたどんなに素晴らしい美姫だろうと思えば、何のことない。どこにでもいる平凡な娘ではないか。あれでは美しい袿を身につけてなければそこいらの下女と間違えられても不思議ではない。
「私があの娘よりも劣っているとでも」
そんなことはない。何かの間違いだ。
「くくく」
突然天井闇の中で笑い声がして、水面は険しい表情でその方を睨む。睨んだ先からするりと光る線が垂れて来た。その線の先には小さな蜘蛛がついている。
「何ですか。耶麻禰」
「水面姫はとても不機嫌な様子で」
「これが不機嫌でいられずにいられる!」
忌々しい揶揄する言葉に水面はついきつい口調になる。
「お前、口には気をつけなさい。誰のおかげでこの沫村に出入りできると思うの?」
「おお、それは申し訳ない。椿鬼の美しき姫よ、お許しを」
仰々しい詫びが勘に来る。だが、それよりも未だに水面にとって腹立たしいのは千紘という存在である。
「ああ、あの噂の姫君か。御暈の棟梁が是非にと乞うた花嫁」
「見ての通り大したことのない娘でした。須洛様はどうしてあんな娘に」
「いや、いや、水面姫はお気づきになりませんでしたか?」
蜘蛛の言葉に水面は首を傾げる。何が言いたいのだと問うと蜘蛛は応えた。
「あの姫は素晴らしい素質を持っている。とても美味な血肉の匂い、あれは贄に最適の素質だ。おかげで俺の部下があの匂いにつられ出て行こうとしていた。まぁ、止めたがね」
そうでもしなければ須洛たち一行に殺されていたし。
「ふぅん、美味な血肉の匂いねぇ」
「椿しか食さぬ草食鬼ではあの素晴らしさはわかりませんでしょう。いやはや御暈の棟梁が羨ましい」
あれだけの美味な血肉を傍に侍らせるのだから。
「………ひょっとして須洛様はあの姫の血肉に酔うているのでは」
蜘蛛の言葉を聞きながら水面はそういう考えに至った。
そうだ。食欲と愛欲を間違えているのではないだろうか。
そうに違いない。
それならば納得できる。
あの娘が須洛を夢中にさせている理由が。
「そうよ。須洛様があんな娘に懸想などするはずがない」
水面はほっと安堵したように言う。
「だが、このままでは須洛はずっとあの姫を大事にするだろう」
「何とかあの娘を須洛様の前から消す方法はないのかしら」
「それなら、考えがある」
それは何と水面は身を乗り出して尋ねた。それに蜘蛛はおかしげに応える・
「海に攫われたことにすればいい。夕方、例の姫は貝広いに夢中になり、汐に気付かずに海に取り残された。ならば、また同じように誘導すれば良い」
そうすれば須洛とて捜索の手がない。海は彼の領域外なのだから。
その案に水面はくすりと笑った。
「そうね。ならどうすれば」
「水面姫があの姫に海で一人いられるような状況を作ればいい。そうすればあとは俺が何とかしよう」
だがひとつ頼みがある。
「あの姫を是非頂けないか?」
あれだけの美味な血肉は滅多に存在しない。一族の元へ持ち帰り、極上の贄にするかそれか自分の食用にしてしまいたいというのだ。
「相変わらず悪食ね。あなたたち土蜘蛛は」
水面は侮蔑の表情で蜘蛛を睨む。
「でも、いいわ。あの姫が須洛様の傍からいなくなるなら勝手にしちゃって」
水面の言葉に蜘蛛は闇の中で笑った。それは何ともいえない不気味なものであった。