2.水面姫
「うぅ、ちょっとしみる」
湯の中に入った千紘は左腕の傷の痛みに眉を顰めた。擦り傷程度ですんでよかった。手当をしてくれた鬼の話では痕は残らないそうである。
「姫さま、お湯加減はいかがでしょう?」
桶の中に湯を注ぎそのお湯に使っている小鬼は千紘の傍まで手探りで近づいてくる。桶がまるで船のように漕いでくる。
「うん、ちょっと熱いけど気持ちいいわ」
千紘はにこりと笑う。
この温泉につかるまでまず濡れた体を拭きながら、鬼の手当を受けていた。その間くしゅりと何度かくしゃみをしたのだが。
夏というのに夕暮れを過ぎたら随分と冷え込み驚いた。自分がびしょ濡れだったからだろうか。
傷の手当てが済みようやく温泉に入って良いという許可がおりた。そして今冷え込んだ体を湯で温めている。
「………」
「姫さま?」
千紘はふと先ほど自分を助けてくれた者を思い出す。日焼けした肌に須洛と同じくらいの体格の男。
「あの人にもお礼を言わないと」
けど、どこの誰かもわからない。帰る途中須洛に聞いてみようと思ったがとてもそんな状況ではなかった。
「姫さま」
向こうから女性の声がする。この邸に仕える侍女の鬼なのだろう。
「そろそろおあがり下さい。湯でのぼせてしまいます」
「ええ、そうね」
千紘は立ち上がり、湯から出た。体から湯気が出ている。
その上で侍女は真新しい白布で丁寧に千紘の体を拭いた。
新しい絹の衣を用意してもらい、それを見に着ける。
「お、もうあがったのか」
着換えた後に須洛が入ってくる。
「残念だ。一緒に入ろうと思ったのに」
心底残念そうに呟く。だが反対に千紘はほっとした。
(良かった。丁度あがって)
湯船の中では一糸纏わぬ姿をしているのだ。もし須洛が入ってきたら貧相な体を見られて、恥ずかしくて仕方ない。
「とーりょ、随分遅かったですな」
千紘の肩に乗った小鬼は須洛にそう言う。
「ああ、ちょっと邸に仕える鬼たちから話を聞きだしていたからな」
須洛はほこほことさせている小鬼の腹を撫でる。小鬼はくすぐったそうに震えた。
「千紘、明日は一緒に入ろうか」
そう言われてどきりとする。改めて名で呼ばれ、そのように言われると湯で熱くなった体がまた熱くなる。
「わ、わ……」
「何を恥ずかしがる。俺とお前は夫婦だろう?」
そうだった。
千紘は須洛の妻なのだ。
だが、未だに千紘は須洛と夫婦の営みをしていない。
初夜の頃怯えた千紘に合わせて、心の準備ができるまでは何もしないと須洛は誓ったのだ。
今まで一緒の寝所で寝ても、それ以上の段階には進んでいない。
それは全て千紘の為であった。
(どうして私に合わせてくれるのだろう)
そう考えるが、今までその問いを須洛にしたことはない。すればまるでそれを求めているかのように取られるではないか。
「では俺は湯につかってくる。姫は部屋でゆっくりとするがいい」
「はい」
そう言われ用意された部屋はとても落ち着いた雰囲気のものであった。少し古めかしい屏風や調度品は馴染んでいる。
小鬼は千紘に葛篭から取り出した持ってきた袿を示した。あれを羽織るのが良いと。
「申し訳ありません、一人じゃ姫さまの着付けが」
いつもは三人いる小鬼たちであるが、旅に出る際須洛が一匹で十分だと言いこうなったのである。
「良いのよ。一人で着付けは慣れているから」
都に居た時はある程度のことは一人でやってきた。だから一人で袿を羽織るなど難しいことではない。
手に取った袿の青朽葉色がとても落ち着いていていい。千紘の衣類を揃えてくれた須洛に本当に感謝である。
(あ、そういえば。海に溺れかけたときの衣)
海から引き揚げられ気付いた時は自分は小袖と張袴のみの姿であった。
自分を救った男が水を吸い過ぎてあのままでは引き揚げられなかったという。
(結構高かったのに……)
いや、それは男のせいではない。むしろ千紘は男に感謝している。
袿をなくしてしまったのは全ては自分の無知さのせいである。
はじめての海に夢中のあまり汐に全く気付かなかった。気付く暇くらいあっただろうに。
己の不甲斐なさが何とも情けない。
「姫さま、お食事の準備ができました」
「え、ええ。ありがとう」
侍女の言葉に千紘は慌てて身支度を整える。侍女に言われるまま案内された母屋ではとても豪勢な食事でいっぱいであった。
そのほとんどが山の上では見たことのない海の幸を使ったもの。
それに小鬼がうっとりとさせ、涎を垂らしているのがみえる。
早く食べたいとぷるぷるとさせていた。
「早く席につきましょう」
千紘は小鬼を抱え、示された自分の座席に座った。隣にはもうひとつ座席がある。
「御暈の棟梁のお席です」
どうやら須洛がここに座る予定のようである。
千紘は改めて目の前の料理を見た。さまざまな色合いで彩られた魚料理、また見たことのない菓子。
「それは大陸より伝えられた菓子なのです。姫さまのお口に合えばいいのですが」
はっと気づいたらいつのまにか母屋に水面が現れていた。水面は美しい花橘の襲に身を包み、綺麗に装っている。
ゆったりと歩くその様子はまるで花が咲くように美しい。
同じ女の身ながら千紘はつい見とれてしまった。
近づいてくる彼女の衣からふわりと上品な香りがした。
「とても良い香りですね」
千紘がそう言うと水面は嬉しそうに微笑んだ。そのときまさに花がほころぶようである。
「ありがとうございます。都の方を時折招いて勉強した甲斐があるというもの」
「都の………」
「ええ、この里は都の貴族たちの間ではひそかな人気のある旅行地なのですよ。ですから、その相手をするにあたり恥ずかしくないように勉強をしているのです」
他に彼女は筝や和歌も習っていると言う。
「今宵、私が演奏をして須洛様と姫様のおもてなしをしたく思います」
「それは楽しみです」
そんな千紘に水面はくすりと笑った。
「姫様もどうでしょう。私と合わせて演奏をしてみませんか?」
「え」
突然の申し出に千紘は動揺した。
「一番の得意なものはなんでしょう。横笛ですか? 琵琶? すぐに持って来させます」
「その、私は得意なものがないのです」
「まぁ、謙遜を」
「本当にできないのです」
千紘はぐっと恥ずかしいのを抑え、素直に述べた。せっかくの申し出を断るのは申し訳ないと思う。だが、へたに出て恥をかくのはもっと嫌である。しかも、須洛の前で。
「わかりました。どうやら姫様は恥ずかしがり屋のようですね」
水面はくすりと笑って引き下がった。そして自分の席の方へと移動する。
「まぁ、須洛様」
水面は一層明るい声で言う。それに千紘はどきりとした。
「今宵私が演奏しますの。いいですか? 途中で眠ったりせず聞いてくださいね」
「ああ、わかっている」
そういうやりとりを終え須洛は千紘の隣の座る。
「千紘? どうした」
「い、いえ……何も」
千紘はにこりと笑って誤魔化すが、内心動揺が隠せずにいた。
(ああ、何てこと。これなら六月の間物語に読み更けずに筝の練習をしていればよかった)
自分の情けなさを実感した。
須洛が席についたことで食事は始まり、水面が用意された筝の前に座り楽を奏でた。その音ひとつひとつがとても洗練されていて、千紘が今まで聞いた何よりも素晴らしいものであった。
といっても千紘が今まで聞いた楽は実家の遠い母屋から聞こえる楽くらいなのだが。
「すごい」
自分と同い年くらいの少女の指がまるで筝の一部のように動く。それと同時に美しい音が千紘たちの耳に響いた。
「拙いもので恥ずかしい限りです」
演奏が終わり、水面は二人に礼をした。
「いや、ずいぶん上達しているな。驚いたよ」
須洛はねぎらいの言葉をかけ、それに水面は嬉しそうにはにかんだ。
「上達?」
「時折、この地に足を運んだ時にいつも筝を聞いてくれとねだるんだ」
つまり須洛は昔から水面の演奏を聞いていたということだ。
「すごいわ」
都の貴族を相手に仕事をしている為か水面は都にいても何の見劣りもしない教養を身に着けていた。
「これも椿鬼の姫としての務めですから」
水面は嬉しそうに酒を持って須洛の傍に近づく。
「須洛様、お酌をさせてください」
「やれやれ」
須洛は仕方ないと空いた酒杯を水面に出した。水面はそれを少しずつ雪ぐ。
その二人の光景をまじかに見て千紘は少し悲しくなった。
美しく洗練された姫きみと神秘的な容貌をもつ美青年。
誰が見てもお似合いである。
(私なんかよりも全然)
千紘は何だか自分がここにいるのが場違いな気がした。
「姫、どうした?」
浮かぬ顔をする千紘に気付き須洛は気遣いの言葉を出す。
「いえ、ちょっとはじめての旅ではしゃぎすぎて疲れてしまったようです」
「そうだったな。汐に攫われて大変だったことだし」
「まぁ、汐に……大丈夫だったのですか」
水面は心配そうに千紘を伺う。
「はい。すみません。素晴らしい食事を用意していただいたのに、お先に休ませてください」
そういうと須洛が立ち上がろうとする。それを千紘が止める。
「大丈夫です。折角の食事の場、どうかお楽しみください」
そう言い千紘はその場を退室した。
「姫さま」
後から小鬼が慌てて千紘に近寄る。
「まぁ、あなたも折角なんだから楽しんでいていいのよ」
そういうと小鬼は首をぶんぶん振った。
「そうはいきません。姫の世話を任された身、しっかりと姫さまについていきます」
酒を飲みべろべろに酔っているが、それでも何とか自分の役目について語る。それが何とも可愛らしく千紘はぎゅっと小鬼を抱きしめた。
「ありがとう。じゃぁ、一緒に休みましょう」
そう言いながら千紘は小鬼と共に自分の部屋に下がった。
◇ ◇ ◇
「須洛さま、私は姫様に呆れられてしまったのでしょうか」
水面はうるんだ瞳で須洛に尋ねてくる。それに須洛は首を傾げた。
「何故そういうのだ」
「だって先ほど筝合わせをお願いしたら断られてしまって」
「………あー」
須洛はそれを聞き成程と納得した。
千紘は幼い頃からの不遇故に姫としての教養を満足に受けれなかった。唯一教えてくれるはずの千紘の乳母も幼い頃に死んでしまったし。
第一食べるものも最低限与えられる程度で衣類も調度品もきちんと行きとどいていない。あの気の回らない父親のことだから、娘の為に筝などを用意してあげたということもなかっただろう。
「気にしなくていい。あれは少し恥ずかしがり屋なだけだ」
そう言い須洛は水面を落ち着かせた。
「でも、私の筝を聞いてからあのようにご退場を」
「本当にあれは疲れていたんだ。汐に流されたこともあるし」
「まぁ、大丈夫だったのでしょうか」
須洛の説明に水面の注意は千紘の容態の心配の方へ移った。
「幸い、助かったし。怪我もしていない。もう少し早く傍に行ってやるんだった」
そう言う後悔を聞きながら水面は少し拗ねたように口を尖らせる。彼が千紘の傍にいなかったのは自分と近辺の様子について話をしていたからだ。
「須洛様は姫様のことを大事に思っておいでなのね」
「ああ。姫には幸せになって欲しい」
「姫様が羨ましいわ」
水面はしみじみと呟いた。
「本当は須洛さまの嫁には私がて思っていたのに」
「またその話か」
「ええ。須洛様は子供に興味ないと言っていましたから早く大人になろうと思っていましたのに、気づけば須洛様は私と同じ年頃の姫を嫁にとられて」
それに須洛は苦笑いした。
何度目になるかわからない水面の言葉。
昔から水面は会う度に須洛の嫁にと言って来た子であった。
幼い水面にそんな気はないと言い断ったが。
水面と同じ年頃の千紘を娶ったことで水面は納得できない様子であった。
「私、あと数年すればお姉さまのように美しい大人の女性になります」
「そうかそうか。それは楽しみだ」
子供に言うかのような須洛の言葉に水面はむっとする。
「私はまだ諦めていませんよ」
そう言い須洛の方へ体を預けようとする。そして甘えるように須洛の肩に頬を寄せた。
「妻は一人だけと決まったわけではありません」
最悪側室でも良いという水面の言葉に須洛ははぁと溜息をついた。
「それなら諦めろ。俺はこれ以上妻をとる気はない」
そう言い須洛は経ちあがった。そろそろ千紘の様子が気になることだしと。
「でも、須洛様は朱音さんやお姉さまと」
その瞬間、水面をじろりとにらむ。その怖ろしさに水面はびくりと震えた。
「俺はあの姫以外の者には、もう興味はない」
馳走になったと言い須洛は母屋を後にした。そして千紘と自分の為に用意されている寝所へ渡る。その後ろ姿を見つめ水面はぎりっと歯軋りをした。