1.汐
千紘が海へ出かけている最中、須洛は水面と真剣な面持ちで話をしていた。
「いざとなれば、里から数名の鬼を派遣しようと思っている」
それは例の土蜘蛛に対する警戒からの提案である。それに水面はにこりと笑って断った。
「大丈夫です。一族で張った結界はそう簡単に破られることはありません」
「しかし、万が一ということがある。それに、陽凪不在の今一族の頭として責任を負っているのは水面だろう。正直いって心配だ」
水面は鬼ではあるが、見た目通りの年齢なのである。須洛や他の鬼からすれば女童同然である。
もし結界が破られれば凶悪な土蜘蛛と対峙しなければならない。
とてもではないが、水面に土蜘蛛と戦う程の力があるとは思えない。
「須洛様は私を心配してくださっているのですか?」
「まぁな。お前は我が一族傘下の椿鬼の主筋の姫だ。万が一があっては困る」
そう言われ水面はころころと笑った。
「なぁんだ。期待して損しました。私を一人の姫として守りたいと想って下さったのかと」
悪戯気に微笑むその姿は年頃の少女に相応しいものであった。
「こら、年長者をからかうな」
須洛はこつりと水面の頭を小突く。子供扱いされたと感じた水面は少し不機嫌な表情を見せた。
「私、子供じゃありません。とっくに裳はすませましたし、今ではお姉さまの留守を任せられる程に成長しています。私一人でもこの村の結界を張れますよ」
とはいえ、未だに彼女は一人で村の結界を張ったことはない。
数人の術者が定期的に結界を更新していくのである。
私一人でもできると一度言ったことがあるが、皆それに取り合わない。裳を終えたとはいえ鬼の中ではまだまだ幼い水面なのだ。とてもではないが、村の命運が別れる結界を一人任せるわけにはいかない。
現に結界は百年以上も生きている一人前とされている鬼が数人集って張っているのである。
それが水面には面白くなかった。子供のように拗ねた表情を見せる今の姿は先ほどの立派な姫君としての面影がない。
「そういうところがまだ子供なのだ」
姉の陽凪は放浪癖があり留守にしがちであるが、対して妹の水面は一族の姫らしくじっとしている。それは感心するところであるが、若さゆえに自分の力を過信するところがあるのが困りものである。
前に会ってから随分たち、成長したと思ったが中身はやはり変わっていなかった。
須洛は溜息をつきながら立ち上がる。
「この話はまた別の日に。それまで考えることだ。これはお前たち椿鬼だけの問題じゃない。お前たちと共存を図っている沫村の人も巻き込む大事なのだ」
仕事の話はここで一旦区切りをつけよう。用件は言った。あとは考える時間を与え結論を出させるのが一番である。
しばらくここに滞在する予定であるし。
もし、話が進まない場合は陽凪が戻った時に改めてしようとも思っている。
ようやく須洛は海にでかけた千紘のことを想う。
思えば今日は彼女が初めて海を見る日なのだ。初めて目にする広大な海原をみて彼女は何と言うだろうか。巨大な湖があると感激でもするだろうか。
『知っています? 須洛。外には海という大きな湖があるのですよ!』
周囲から聞いた話をそのまますごいでしょうと無邪気に言う少女の言葉が頭に響く。
(ああ、そういえばそんなことを言っていたな)
須洛は懐かしむように微笑んだ。千紘の海との初対面を目の当たりにできなかったのは残念であるが、共に海の夕日を楽しむことはできる。
◇ ◇ ◇
千紘たちを追い、海へやってきた須洛は千紘の姿がないのに首を傾げた。棟梁の登場に気付いた藤依は困ったように俯いた。
「確かに先ほどまで浜辺で貝を拾っておられたのですが……少し目を離した隙にいなくなってしまいました」
「何の為にお前をつけたと思っているんだ」
ぎらりと目を光らせて怒る須洛に藤依は申し訳なさそうにした。
まだ日は高いが、空を見上げると月が出てきている。
「そろそろ汐が満ちる頃か」
「まさか、どこぞの岩山に取り残されているのでは……」
藤依は真っ青になる。もしそうなっては一大事である。
千紘が浜辺を散策する時、なるべく傍を離れないようにと言っておいたのに。
「いや、その辺は大丈夫だろう。小鬼がついている。あいつは潮汐のことを知っているから」
そのまさかであった。
千紘はとある岩山の上に取り残されてしまった。
「どういうこと? さっきまでこんな水が深くなかったはずなのに」
自分が座り込んだ区域以外は既に水の領域である。このままさらに水面があがったらどうなることだろうか。
そう考えると真っ青になる。
千紘は泳げないのだ。
「申し訳ありません。姫さま。貝拾いに夢中のあまり、すっかり汐のことを忘れていました」
小鬼は申し訳なさげに言う。そんな大事なことを忘れないでと千紘は思ったが、藤依の傍を離れないようにと言われたことを思い出す。自分も貝拾いに夢中のあまりすっかり忘れていたから小鬼だけを責められない。
「でも、このままじゃどうしましょう」
既に向こう側にある浜辺までどうやって戻ればいいのだろう。あそこまで泳いで行く自信はない。でも、このままでは水面はあがる一方で埒が明かない。
「ぅう」
千紘は立ち上がり、どんどんあがっていく水面によって無事な区域が狭まることをひしひしと感じた。
「だ、大丈夫。泳げなくても歩いていけばいいのよ」
少し深いけど、できないことでもない。
そう考えた千紘は思いあまって水面に飛び込んだ。
しかし、その考えが浅はかなことであったということを思い知る。
水の流れは思った以上に激しく歩こうと思っても思うようにいかない。地面に着けずにふよふよと浮き、水の流れに翻弄されていくのを感じる。
「わっぶ……」
「び、びめざま……」
必死に千紘の頭にしがみつく小鬼は青ざめる。千紘は何とか浜辺の方へ向おうとするが思うように前へ進めない。それどころか浜辺がどんどん遠のいていくように感じる。
(これ、まずい?)
息継ぎが思うようにいかず苦しみながら千紘は前へ進むが、ふとした拍子に足が引っ張られるような感触を得た。
(え?)
そのまま千紘は水中に沈み、思うように上へ浮かぶことができない。まるで何かにしがみつかれているような感覚である。
(何これ、怖い……)
もがけばもがくだけ、引っ張られる力は強くなっていく。
「ごぼっ」
口を開くと同時にしょっぱい水が喉の奥へ流れてくる。そして苦しくなりそのまま抵抗する力が弱まった。
「ひめさまぁ!」
小鬼は何とか千紘を引っ張り上げようと必死になるが、小鬼の力で人一人を引き上げるなど無理なことである。
◇ ◇ ◇
「げほげほっ!!」
急に苦しさでせき込んだら口から塩水が流れた。とても気持ち悪い。
千紘は苦しげにせき込み続け、背中に撫でる者に身を委ねた。
(私、確か……海の中でおぼれかけて)
気づいたらここに。浜辺に横たわっていた。
背中を撫でてくれるごつい男の手に安心感を覚える。自分は助かったのだと感じた。
そしてその手は須洛の手に似ていて、須洛が助けてくれたのだと安心した。
傍には小鬼が疲れてすやすやと寝ている。
あたりを見ると赤い、夕日が沈もうとしていた。
そういえば袿がない。今の自分は小袖と張袴のみの姿である。ほぼ下着に近い状態であった。
「袿は波の中に捨てました。水を吸い過ぎて重く引き上げ切れなかったから」
背中を撫でる男の声を聞いてはっとした。
(誰?)
須洛ではない。
背中を撫でてくれる者を見ると須洛ではなかった。簡略な麻の衣に袴を着ただけの粗末な格好をした男であった。
肌は日焼けして浅黒く、須洛と同じくらいがっしりとした体格である。手のごつさと大きさは須洛のものに近く、だから須洛に背中を撫でられていると思いこんでしまったのだ。
「あ、あなたは……」
「驚いたきました。姫が汐の中に飛び込んだ時は」
あれは自殺行為に等しい。
そう言いながら男は千紘の鼻をつまんだ。
「な、なにほするふでふ」
千紘は両手で男の手を払った。むきになって怒る千紘がおかしかったのか男は白い歯を見せて笑う。
「どうやら元気そうですね。早く帰って温まった方が良いですよ。暑い時期とはいえ、そんなに濡れていては風邪を引きます」
「あ、うん……」
「送りましょう……と思いましたが、迎えが来たようですね」
そう言い男は千紘から離れた。
「迎え?」
「姫!!」
慌てた男の声がしてその方へ向くとそこには血相を変えた須洛がいた。須洛は千紘の方へ近づき抱きしめる。
「心配したぞ。全く……」
「うん、ごめんなさい」
千紘はしゅんと項垂れた。
「汐に触られかけてしまって」
「やはりか。小鬼がいながら何てこと。こんなに濡れて……まさか泳いで浜辺まであがってきたのか?」
「まさか。助けてくれたのよ」
そう言い男の姿を捜すが男はどこにもいなかった。
(いない、どこへ)
「………くしゅん」
急に寒気を感じた千紘はくしゃみをした。
「このままでは風邪を引く。藤依、急いで宿に戻り着るものを用意させろ。戻ったらすぐに湯につかる」
須洛の指示に藤依は頷き、走って先に宿へと急いだ。
「藤依に謝らないと」
彼はあまり遠くへ離れないようにと忠告したのに、千紘はすっかり遊びに夢中になって忘れてしまった。彼にもさぞかし心配をかけたことだろう。
「俺も心配したんだ」
須洛は怒った口調で千紘に語りかける。そして来ていた衣を一枚脱ぎ、千紘の肩にかけた。
そして千紘を担ぎあげる。千紘は慌てて傍らで眠る小鬼をむぎゅと掴んだ。
「全く。呑気なものだ」
千紘の手の中で未だにすやすやと夢の中にいる小鬼に須洛は呆れたように溜息をついた。
「須洛」
「ん」
千紘は俯きながら呟く。
「ごめんなさい」
「いや、今更怒っても仕方ない。次から気をつけろよ」
相変わらず須洛は優しい。怒ったりなどせずに注意するのみである。
怒られなかったが故に千紘の中の申し訳ない想いが強くなってくる。
「どこも怪我はしていないな?」
「はい」
心配そうに覗きこむ須洛ははっと千紘の左腕をみる。彼女の左手からだらりと血が流れているのだ。
指摘されて千紘ははじめてその痛みに気付く。
海の中でもがいている時に岩にぶつけてしまったのだろう。
「温泉の前に手当だな」
「うん」
千紘はしゅんとした。
「見ろよ。千紘」
須洛は千紘に海の方へ向わせる。今まさに夕日が海の向こうへ落ちようとしている瞬間であった。一面の風景が紅さで際立つ。須洛の髪も黒く染めているにも関わらず美しい朱色を示した。
「綺麗な夕日だろう。山で見たのと違う美しさだ」
「うん、そうだね」
千紘は須洛の示した夕日の美しさではなく、夕日の赤によって染められる須洛の髪の美しさにうっとりと見とれてしまった。