序 沫村
海に面したこの村は古くから椿の花が絶えず咲く。
春には誰もが知る紅い椿の花、夏には白い夏椿、冬には寒椿が咲く。
輿の中に乗り移動していた千紘はあちこちで咲き誇る白い椿の花に魅入られた。それを見た須洛はひとつそれを手折り、千紘に寄こす。
「可愛い……でも、どうしてこの村は椿の花がいっぱいなのかしら」
そう首を傾げると千紘の懐に控えていた小鬼がひょっこり顔を出して説明した。
椿の花はこの村あたりに棲む鬼の食べ物なのだ。その為椿鬼一族と呼ばれている。
人々は鬼が自分たちに害を加えないように、また悪いことから守ってくれるようにと絶えずに様々な種類の椿の花を栽培する。
大陸からやってくる商人から買う珍しい品種があればそれをこの土地でも育てられるように工夫をこらし育てる。
だからこそ、この村は外界に比べ平和であった。外の凶暴な鬼たちに怯えずに済んだ。
「でも、須洛はこの前、このあたりに棲む鬼は鬼の中で最弱だと言っていたわ」
「はい。鬼の中では最も弱く、最も大人しいと言われる鬼たち。食べ物も椿の花ばかりの草食種です。ですが、彼らは結界の術に長けております」
毎日御堂で結界の術を更新し、それにより外界から村を守っているのである。
「これと引き換えにこの村の人は鬼と共存を図っているのです。人は鬼に食事となる椿を絶えず育て、鬼は人を守るための結界を張る。時には妖怪に中てられた者の手当もするといいます」
「空閑御さんと同じことができるのね」
「ふふ、空閑御さまの力に比べればこの村の鬼など大したことありませんよ」
小鬼はさも自分のことのように自慢げに話す。どうやらこの小鬼は空閑御を敬愛している様子なのだ。
「それに椿鬼一族は既に絶滅の危機に瀕しています」
「絶滅?」
「もともと草食種でその性格が祟ったのか、子孫を絶やさず残そうという意欲が他の鬼よりも希薄。故に子孫が絶え、今では数える程しかいないと言います」
「着いたぞ」
輿に呼び掛ける須洛の声で千紘ははっとした。輿の御簾があがり須洛に薦められるまま外に出る。
ずっと四方囲まれた輿の中の移動で、外の空気が涼しい。同時に日差しが強く感じた。
うつうつとした梅雨が明け、夏の暑さをいよいよ実感した頃合いである。
自分たちが辿りついたのは田舎の里にある貴族の別荘のような造りである。大江山の鬼の里にある館よりもずっと現代に合った雰囲気であった。
「この邸宅は椿鬼と呼ばれる鬼が管理していているんだ」
「鬼が、邸宅を管理」
「外の者からは鬼だと知られていない。だから、時に京より貴族が椿の花と温泉を楽しみに宿泊することがあるんだ」
では余程この邸宅を管理する鬼は人に近い部類なのだろう。
須洛のような奇抜な紅葉色の髪をしないのだろう。千紘はふと須洛の姿をじっと見つめる。
大江山の鬼の里からこの海沿いの村まで来るにあたって鬼だとばれないように髪を黒く染めていた。
千紘に合わせて昼間人が往行する道中を移動する為にわざわざこの色に染めたのだ。
「あまり見るな」
慣れない姿に少し照れて言う。それに千紘はくすりと笑った。
「どうして? 黒髪のあなたはとても素敵よ」
「そ、そうか」
「ええ、紅葉色の髪も綺麗だけど、黒髪のあなたも素敵」
千紘にそう褒められると満更でもなさそうに須洛は嬉しそうにしていた。本当にこうしてみると大江山の酒呑童子と畏れられる鬼とは到底思えない。
「須洛様」
建物の方から迎えの侍女が現れた。小袖、かけ湯巻をつけた人の女性である。
「遠いところよくいらっしゃって下さいました。水面様がお待ちでございます」
(水面様?)
「御苦労。案内を頼む」
そう須洛が言うと侍女は恭しく頭を下げ、来客した千紘たちを建物の中へ案内した。
案内されたのは場所にて丁度来客用に用意した座敷が二つ並んでおり、須洛と千紘はそれに座った。向いには白き単重の襲を身に付けた千紘と同年代の少女がいた。
艶ある黒髪は綺麗に梳かれ、袖から覗く雪のように白い肌はとても美しい。
彼女は頭を下げ、千紘たちを出迎えた。
「御暈の棟梁様とお方様、よくぞお越しくださいました。どうかここを我が宿と思いお寛ぎしてください」
「面をあげよ」
そう言われ、少女は顔をあげる。その少女はとても美しかった。
ほっそりとした細面に、すっと通った鼻梁、目尻も整っていて、小さな唇がとても愛らしい。
どこをどう見ても文句のつけどころのない姫君である。
礼儀作法も今の仕草を見てとてもしっかりしたものである。
これを見て千紘は少し複雑な表情をする。千紘と彼女、どちらかといえば彼女こそ京の姫君だと言われ疑う者はいないだろう。
「水面姫か。姉姫は息災か」
「はい。一月前に帰られたのですが、また出かけてしまわれました」
「そうか。相変わらずだな。椿鬼の姫君は。少しは大人しいお前を見習えばいいものを」
須洛の言葉に千紘は少しむっとした。今さりげなく彼女を持ちあげた。それがどうも面白くないと感じてしまう。
(ちょっと待って。どうしたの? 私)
自分でもよくわからない。
だが、目の前で須洛と水面姫が楽しそうに歓談しているのを見ると何だか面白くない。自分だけ蚊帳の外にいるような、まるで自分がお邪魔のような気さえしてしまう。
◇ ◇ ◇
「姫さま! 海ですぞ!!」
小鬼が千紘に海を披露させる。千紘はうんそうだねとだけ呟き、ぼんやりと広い海原を見つめた。
いつもの千紘だったら目をきらきらさせ初めての海に感激しているだろうに。
心配になった小鬼は千紘をじっと見つめる。
千紘はどこかつまらないと言った表情をした。
「姫さまは海がお嫌い」
「うん、そういうわけじゃない。こうして海を初めて見れて嬉しいよ」
小鬼の頭を撫でながら千紘は苦笑いした。
少し思い出すのは先ほどのこと。
水面姫の挨拶が一通り終わったと思った千紘は須洛に海を見に行きたいと言った。すると須洛は申し訳なさげに言う。
「悪いが少し大事な話をしなければならないんだ。小鬼とお伴の鬼を連れて行っておいで」
そして小鬼と千紘の乗る輿を背負っていた鬼の片割れが伴につかれた。
それが何とも面白くない。
まるで大人が大事な話をするからと子供を外へ放り出すような感じである。
「私は、須洛の妻なのに」
むすりと呟く千紘に伴の鬼は勿論ですと言った。伴をしてくれる鬼の名は藤依という名である。
日の光の元で彼の瞳は名の通り藤色に輝いてとても美しい。
「私に聞かれてはまずい話なの?」
じとぉっと藤依を見つめる。千紘よりもずっと大きな巨躯であるというのに、見つめられておどおどとした様子である。
「水面姫はとても美しい姫でしたね」
千紘は溜息をつきながら、先ほどの水面姫の姿を思い出す。
誰が見ても文句のない美しい姫である。自分なんかよりもずっと、美しい。
ふと悲しげに瞳を揺らす千紘を見て藤依はああと納得したように頷いた。
「姫、ご安心を。棟梁と水面姫はそのような間柄ではありません」
そう言われ千紘はかっと顔を赤らめた。
「べ、別にそのようなことを言っているわけじゃ……」
「今回、棟梁がこの地に足を運んだのはわけがあります」
「わけ?」
「すでに小鬼から聞いていることでしょうが」
この村……沫村と呼ばれる村に棲む鬼・椿鬼は鬼の中でも最弱の一族とされている。彼らが自身を守る唯一の手段というのは強力な結界術のみ。
今まではそれでこの村の安寧は守られてきていた。
「姫もご存じでしょう。九州の伊都馬一族のことを」
「伊都馬?」
千紘は首を傾げる。それに袖の中に控える小鬼が土蜘蛛を使役する鬼の一族だと口添えした。
その瞬間千紘はぞくりとした。
あの闇の中で千紘は巨大な土蜘蛛と呼ばれる化け物に喰われそうになった。そして瘴気に中てられあと少しで命が危なかったとさえ言われたのだ。
「その土蜘蛛の一族がどうか?」
「彼らは今も本州に勢力を伸ばそうと画策中です。情報によりますと中国地方のいくつかの鬼の一族は彼らの傘下に入ったとか」
中国地方で未だに土蜘蛛をのしている一族といえば、吉備国に棲む鬼とその傘下の一族衆だという。しかし、それも少しずつ勢力を削られて行っているという。
「中国だけではありません。大江山の傘下の鬼の一族周辺にも土蜘蛛が徘徊しているという情報が入りました。そのひとつがこの沫村だと」
そう言われ千紘はぎゅっと袖を握った。
この村周辺にいるというのか。
あの時と同じような蜘蛛の化け物が。
「幸い、椿鬼一族の結界術によって中に入れない様子です。ですが、ここへ来るにあたって微かに例の土蜘蛛の纏う瘴気の匂いがしました」
今回、この村へ足を運んだ理由は沫村が土蜘蛛に好き勝手されていないか棟梁自ら偵察に赴いてのことである。今須洛が水面姫と話しているのはその手の話題。本来なら水面姫の姉・陽凪姫とする話なのですが、生憎彼女は留守故に水面姫が代理として相手しているのだ。
「ですから、姫が心配するようなことは万が一ありません。棟梁は姫にぞっこんですからね」
はっきりと言われ千紘はうぅんと困った表情を浮かべた。
そうは言われても麗しい姫君と神秘的な美しさを讃えた青年が一緒にいるというのはそれだけで絵になるわけで、何だかもやもやするのである。
(まぁ、藤依のおかげでだいぶ気分は落ち着いたのだけど)
同時に不安も芽生える。
まさか例の土蜘蛛がこの辺りにも徘徊しているなんて。
そんなこと朱音は全く教えてくれなかった。
「きっと楽しい旅になると思うのよね。夫婦でゆっくりとしてらっしゃい」
そう言って見送った彼女の笑顔を思い出す。
(何がゆっくりよ。今の話を聞いてゆっくりできるわけないじゃない)
ついこの前、姉のように優しい女性だなぁと見直したが前言撤回である。
「土蜘蛛はやはりいる……のよね」
藤依に心配そうに尋ねると、彼はにこりと笑って言う。
「ご安心を。この村には椿鬼の結界が張られていますし、それに椿の花は土蜘蛛にとって苦手なものなのですよ」
「そうなの?」
「大帯比古の帝の時代、まだ九州の土蜘蛛が恐れられていた時代。帝は土蜘蛛討伐を命じ、その折に椿の木で槌を作りそれで応戦したと言われています。これにより多くの土蜘蛛が退治され、椿の槌を作った場所はツバキと呼ばれたと言います」
だから九州の土蜘蛛は未だに椿を畏れていると噂である。
「椿には古来より魔よけの力を持つとも言われますし、この村で多くの椿が絶えず栽培されているのは鬼の食用だけでなく結界を強固なものにするという意図もあるのですよ」
「へぇ」
千紘は感心したように話に聞き入っていた。先ほどよりずいぶんと機嫌を直した様子でとりあえず藤依は安堵した。
「大丈夫ですよ。いざとなれば我々がいますし、棟梁があなたをお守りします」
そう優しく言われ千紘は少し困ったように笑った。そしてありがとうと呟く。