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紅葉鬼~鬼に嫁いだ姫~  作者: ariya
【2】鬼の里でのひととき
11/68

1.朱音

 千紘が大江山の鬼の元へ嫁いで二月経った。都とは勝手の違う里の生活にはじめは困惑するときもあったが今は随分と慣れてしまった。それにかなり快適に過ごさせてもらっている。

(快適なのはいいのだけど、やることがないわ)

 幼い頃から西の対の隅で忘れられたように過ごしていた千紘は身の回りのことは全て自分でするしかなかった。だが、今は千紘の身の回りのことは全て小鬼たちがやってくれている。勤勉で小さな生き物たち。

 姿は雛人形のように小さく頭には角が生え小さな口には牙がある。だが、まるみのある顔と全身から溢れる和やかな雰囲気から全く怖いとは思わない。むしろ可愛らしい生き物たちである。こんなに小さいのにベテラン女房顔負けの手際の良い仕事ぶりを発揮する。

 小鬼と呼ばれているが、実際は鬼なのか不明である。鬼の一族よりも古くこの山に棲んでおり、精霊に近い存在だと説明を受けたことがある。

 まぁ、鬼にせよ精霊にせよ可愛いものは可愛いということで、千紘にとってどちらでもよかった。

「ねぇ、私にも何か仕事を分けてちょうだい」

 せっせと働く小鬼たちに千紘は声をかける。

「姫さまを働かせる? とんでもない。姫さまはどしっとしてくれれば良いのです」

「それはそうなのだけど、暇なのよ………」

 千紘は大きくため息をつく。

 部屋の外を見れば外は雨がざぁざぁと降り続いている。外を散策することもできず、部屋の中に閉じこもるしかない。しかし、部屋の中にいても特に何かするものがない。

「ならば、ものがたりなどどうでしょう?」

「物語? あなたが私に物語をしてくれるの?」

「そうではないです。朱音さまが新しいものがたりの本を得たというのです。それを借りてはいかが?」

「へぇ、物語かぁ」

 実は千紘は物語の本を読んだことがない。都にいた頃、千紘は物語の本を一冊も持っていない。持っていたのは手習い用の書と薄い歌集くらいである。知っている物語は乳母が寝る時に聞かせてくれたものしか知らないのだ。

 できることなら借りてみたい。

「朱音さんが持っているの?」

 夫と同じ紅葉色の髪の女性の姿を思い返す。

「そうです。今からとってきます」

「待って」

 小鬼はささっと部屋を去ろうとするが千紘は呼びとめる。

「私が借りに行きたい」

 そう言い千紘は小鬼を抱き上げた。小鬼はでは一緒に行きましょうと嬉しそうに言う。千紘に抱っこされてとてもはしゃいでいる様子なのだ。周囲の小鬼たちはいいなぁと羨ましげに見つめていた。

 小鬼を抱きあげながら千紘は廊を歩く。外の雨の音を耳にしながら考えてみた。

 よく考えると千紘が母屋の広場以外の部屋へ行くのははじめてである。いつも部屋の中にいれば必要なものがたいてい小鬼が持ってきてくれる。

 だから、たまには誰かの部屋へ行ってみたいと思った。

(朱音さんの部屋ってなんか不安があるけど)

 出会った当初のことを思い出しながら千紘は苦く笑う。

 はじめて会った朱音は千紘を小さいと評し、体の肉付きを確認するようにあちこち触って来たのだ。胸をはじめて触れられたのはあれがはじめてである。

 思い出すと千紘はかぁっと顔を赤く染める。

(大丈夫、最近は変なことしてこないし)



 朱音の部屋は渡殿を通り、女の使用人の房室で占められる建物にある。

「朱音さんはおられますか?」

 部屋の外でお喋りをしている女性に声をかけてみた。そういえば、この館に仕える女性を初めて見た気がする。

 棟梁の妻が来たことに女性たちは畏まって応えた。

「朱音ならいますが、今髪の手入れをしています」

「そう」

 なら後でまた来た方がいいだろう。そう思い引き返そうとすると部屋の中から声がした。

「姫っ、ちょっと待って」

 中からばたばたと音がし、朱音が飛び出してきた。まだ手入れ途中で髪を結わずにそのまま垂らしている。

「一体何か用? 姫がわざわざ来てくれるから飛び出してきちゃった」

「ごめんなさい。後でまた伺うわ」

「いいの、いいの。もうお香を染み込ませて終わるとこだったから」

 朱音は部屋の中に案内した。中では良い匂いの香がして、千紘はほうっと溜息をついてしまった。

 部屋の中には小鬼たちの姿がない。誰かが手伝ったという形跡もなかった。

「ひょっとして髪の手入れは一人で?」

「ええ、私はたいてい一人でやっているの」

「小鬼を使わないのね」

「あはは、私の髪は姫のより短いし一人で何とかなるかなってレベルだし。ただ私はしょっちゅう髪の手入れしないとすぐ痛んじゃうから、そう頻繁に小鬼たちをこき使うのは悪いでしょう?」

「大変じゃないの?」

 朱音の髪は千紘に比べればずっと短い。腰の辺りで留まっているのだ。普段はそれを背あたりでまとめ結いして過ごしている。

 こんなに綺麗な人なんだからもっと長い髪にしたら良いのに。

 都での女性の美の価値を決める判断材料は髪である。女性は御簾の奥にいて男の前に滅多に顔を出さないから、御簾から覗く長い髪で男は美人かどうかを考える。

 千紘がそう言うと朱音はくすりと笑った。

「ここは都じゃないからね。女だからって部屋の奥に閉じこもるわけじゃないし、髪を長くする必要はないわ。それに、このくらいの長さが私には丁度いいのよ」

 朱音は自分の髪を手で梳く。手入れを施されたばかりの髪は艶やかに光りとても綺麗だ。

「さて、姫がわざわざ私の部屋に来てくれたのだから何かあったのかしら?」

 紅葉色の髪に見とれていた千紘ははっと思い出したように朱音に頼んだ。

「物語を貸して欲しいの。この子が最近朱音さんが新しい物語を手に入れたって言うから」

「別に良いわよ。でも、最近手に入れたものは物語じゃなくて日記なのよね」

 朱音は部屋の奥に仕舞われている葛篭を開け、中から数冊取り出す。はじめに出された冊子が新しい日記ものだという。後から出て来たのは手持ちの物語で、千紘はその拍子をじっと見つめる。

「物語はあまり面白いのはないから。姫の方がいろいろ持っているでしょう?」

「持っていません」

 千紘はぽつりと呟いた。その響きはどこか寂しげである。

 幼い頃に知った物語は全部乳母が教えてくれたもので、実際物語など一度も手にとったことがない。それもそうである。揃えてくれる者がいない。西の対の隅で忘れられたようにひっそりと過ごし、誰とも交流を持ったことがない。

「そうなの、じゃぁ貸してあげる。これが竹取物語で、こっちは伊勢物語」

 朱音は千紘の寂しげな声にあえて明るく声をかける。

(気を遣ってくれているのかな?)

 彼女の優しさに少し照れて笑う。

 なんだかんだ言って朱音は親切で優しい女性なのだ。少し軽い口調で場を和ませてまるで姉のような人。千紘の異母姉は意地悪だったから、朱音が一層理想的な姉に見えた。


 この人が私の姉だったら、私は幼い頃楽しく過ごせたかな。


 千紘は手に取ったことのない物語をぱらぱらと開く。中の字も結構綺麗である。数頁ぱら見した千紘はひとつ思いついたように聞いてみた。

「あの、これを書き写すまで借りて良いですか?」

「別にいいわよ。でも、欲しいなら小鬼たちに写本させればいいし」

「いいえ、私が書き写したいの」

「一体どうしたの?」

「だって、とても字が綺麗なの」

「あら、嬉しいことを言ってくれるわね」

 朱音の言葉に千紘は首を傾げた。

 字を褒めたら嬉しいと言ったということは。

「朱音さんが写したんですか?」

「そうよ。いやだ、姫に字綺麗て言われちゃった」

 後で須洛に自慢してやろと内心ほくそ笑む。

「いくらでも借りて良いわ。紙は小鬼たちに言えばとってきてくれるし」

「ありがとう」

 朱音は笑いながら両手をひろげた。一体何の素振りであろうかと千紘は首を傾げる。

「お礼は姫からの熱い抱擁が良いわね」

「………ありがとうございます。お借りしますね」

 千紘はくるりと身を翻し、物語を数冊持って部屋を去った。

「やっぱり朱音さんの考えていることがわからない」

 渡殿を歩きながら千紘はぽつりと呟く。少しでも姉だったらと……夢想する淡い感情は台無しになってしまった。

「朱音さまは良い人ですよ?」

 袿からちょんと顔を出す小鬼が首を傾げながら千紘に言う。

「わかっているわ」

 ただ、ちょっと飄々として軽い感じの人だからいまいち人柄が掴めずにいるだけである。

 千紘は苦笑いして応えた。

 悪人ではないというのはわかっている。働き者の小鬼ですら手が回らない時は気さくに面倒を見てくれる。

 先ほど、まだ髪の手入れがまだ完全に終わっていなかったのに、わざわざ招き入れてくれた。

「そういえば髪………いつもあの人って自分で髪の手入れをしているの?」

「はい」

「侍女を使えばいいのに」

 ここに来てまだ二月しか経っていないが、朱音がこの館に仕える人の中でかなり上の位置にいるというのはわかる。

 小鬼たちをまとめ適切に仕事のわりふりを行うし、館に仕える侍女たちの面倒もみる。時には須洛の部下として外に出かけることもあるらしい。

 そんな大事な役割を得ているのだがら、髪の手入れくらい手伝ってもらってもいいのに。千紘がいつも小鬼たちがやってくれるように、小鬼に頼めばいいのに。

 彼女は頻繁に手入れしないといけないから毎度手伝ってもらうわけにはいかないと言っていた。確かにあの鮮やかな紅葉色の髪だと千紘の黒髪と違い手入れの手間がかかるのだろう。

「でも、須洛も同じ髪色だけど、須洛はあまり手入れしている風には見えない」

 髪を無造作に結っただけの須洛は朱音に指摘されない限りあまり髪を手入れしないと聞いたことがある。たいていは川で洗ってしまうのだとか。

 しかし、須洛はそんなに無頓着にしているのに朱音に見劣りしない見事な髪をしている。見た目は朱音以上に艶やかで、触ってみればごわごわしているどころかふわふわしてて心地良いのだ。朱音の髪のしっとりさの方が都では好まれるのだが。

 手入れに無頓着な須洛は手入れにことかかない朱音の髪に見劣りしないなど。

「同じ髪なのに、不公平ね」

 千紘は自分の部屋にて文机に先ほど借りた物語と真っ白な冊子を広げながら、二人の髪について呟いた。部屋に戻ると小鬼たちに写本したいからと真っ白な冊子を用意してもらったのだ。

「同じではありませんよ」

 千紘の呟きに小鬼は指摘するように言った。

 同じではないというのはどういうことだろうか。

 千紘は首を傾げる。

「朱音さまの髪はほんらいは黒です」

「えっ!」

 考えてもなかった事実に千紘は驚く。驚いて文机の上にぼたっと墨を零してしまった。小鬼たちは手際よくそれを拭きとる。

「髪を染めているのです。こうぶつをいろいろ組み合わせて作ったがんりょうを使っているんです」

 あれは鉱物をいろいろ組み合わせて調合した顔料で髪を紅葉色に染めているそうだ。

 成程、髪をわざわざ染めているのなら頻繁に髪の手入れしなければならないだろう。

 さらに小鬼が説明するには、普通の染めものでは水で流れやすいが、朱音は独自の調合方法で水では流れない顔料を開発した。だから彼女の髪はいつも紅葉色なのだ。その調合方法を知っているのは朱音だけであり、聞いても教えてくれないそうだ。

「でも、なんでそんなことを?」

 朱音程の美人ならば黒髪でも十分素敵だと思う。

「それは、朱音さまのしごとがとーりょのかげむしゃだからです」

 最後の言葉を聞き、千紘はさらに驚く。

 影武者てこと?

 確かにあれだけ同じ紅葉色の髪の者は滅多にいない。朱音がもし男物を着て人の前に出れば、ぱっと見大江山の酒呑童子と勘違いしてしまうだろう。

「なんで影武者なんか………」

「でも、だいじなおしごとです。とーりょの命を狙う人やよーかいはいっぱいいます」

 その言葉はぐさりと千紘の胸に刺さり、過去のことを思い出す。

 千紘は首を横に振って、朱音の話題に戻った。

 朱音は須洛の部下であり、外に出る際は須洛の命を狙う者たちの目を欺く囮を買って出ている。

「でも、どうして朱音さんが影武者を?」

 そんな危ない仕事を自分から進んでするとは。

「朱音さまは昔とーりょに助けられたのです。その恩かえしらしいですよ」

 これもまた新しい情報だ。そしてさらに驚く情報があった。

「朱音さまはこの里しゅっしんじゃありません。里より、大江山よりずっと遠い場所で出会い、助けられたそうです」

「朱音さんはこの里の人じゃないの?」

「はい。この里と繋がりがありますが、生まれは摂津です」

 その言葉に千紘は首を傾げた。

「摂津って、どこにあるのかしら」

 幼い頃から必要最低限の教養すらも満足に受けれなかったので、地理間隔がいまいち掴めない。

 そこに小鬼が紙と筆を取り出し簡単な地図をつくる。細長いくねった円を書き、真ん中にちょんと点を書く。

「ここが大江山です」

 そしてちょっと下にまたちょんと点を書く。

「ここが都です」

 そして左下あたりにぐるりと囲いを書く。

「この辺りが摂津です。だいたいここから歩いて、うぅんと丸一日はかかります」

「随分と遠いのね」

 千紘は感心したように息を吐く。

 よく考えると千紘には知らないことだらけである。

 この里のことも、鬼のこともさっぱりしならない。外の世界のことだって。

 今まで本当に無為に生きて来たんだと実感してしまう。

「そういえば姫さま、何をお借りしましたか?」

「あ、うん」

 千紘は手にとった書物を並べて小鬼に見せる。

 中には一応乳母から聞いた物語もあるが、読んだことのないものもある。

 まずはこれから読んでみようと千紘は改めて手にとってみたのは伊勢物語であった。



   ◇   ◇   ◇




 朝になっても執務に現れない棟梁を心配し、館の鬼たちはあちこちと捜していた。朱音は当然ある場所にいないか確認させるために動員される。

 話によると千紘の部屋にもいないとか。しかも、千紘は夜更かしをしていたらしくごろりと横になって休んでいた。

 朱音は早速立ち寄ったのは鬼たちが棟梁に決して入るなと言われている高床倉庫である。朱音くらいしか入ることが

 ざっざっ

 木を彫る音が高床倉庫から響いてくる。その音を聞き朱音は中に捜し人がいると判断した。

「須洛、入るわよ」

 倉庫の中は思った以上に暗い。それは外の陰鬱な雨のせいでは決してなかった。

 この館の主、須洛から発せられる気によるものだ。

「くっら」

 朱音は中の様子を見てはっきりと感想を述べる。

 須洛は朱音の言葉を気にせず、手持ちの木をひたすら彫っていた。

「あら、今度は何を作ってるの?」

「煩い、気が散る」

「やっだ。昨晩姫が構ってくれなかったからって八つ当たりなんかしないでよ」

 須洛の不機嫌の理由はだいたい予測がつく。

 昨日朱音は千紘に物語を貸した。そして、今鬼たちから聞いた話だと千紘は夜更かしをしていたらしくもう朝だというのにぐっすりと休んでいたとか。

 つまり、昨晩千紘の部屋に通ったが、千紘は物語に熱中して全く構ってくれなかったのだ。そしてここで不満を木にぶつけている。現に今彼が掘っている木の像は女の顔であるが、それが千紘に似ていてとてもリアルである。

 一晩でこれを彫ったと思うと怖ろしい。かえって気持ち悪いと朱音は思う。

 木で彫ったというのになんと洗練された技術であろうか。彫る、鑢をかける、漆を塗る、全ての作業に無駄がない。個人の趣味にしておくなど勿体ないと見る者は言うだろう。これが五百年以上も続けた結果なのだろう。

 須洛の技術は里一番、いや日の本一と言っても過言ではない。

(ある意味無駄な才能と言うべきか)

「あの物語はお前が貸したそうだな」

「そうよ。姫ってば物語を読んだことないって言うし、何? 悪かった?」

「いや、渡す自体悪くない。姫が望むんなら古今東西からありとあらゆる物語をかき集め、九州にも部下をやらせて舶来の物語すらも手に入れてみせる」

 おそらく須洛がその気になれば一年のうちに千紘の部屋に埋まり切らない量の書物が積み込まれてしまうだろう。

 千紘が喜ぶんならそれくらい苦労ともなんとも思わない。

 だが、と須洛は拳を握り昨夜のことを思い返した。


 夜仕事が終わり久々に千紘の部屋に入れば、全くこちらに感心を示さない本の虫と化している妻の姿しかなかった。

 須洛はあれやこれやと千紘に話しかけ擦り寄るが全く相手にされない。むしろ写本の邪魔と言われてしまう始末である。

 須洛は仕方なく夜更かしする千紘の後ろ姿を見ながら夜を過ごした。

 話によるとそれを三日三晩繰り返している。


「うわぁ……」


 朱音は信じられないと眉をしかめた。

「無防備な姫の背中を見て何もしないなんてどうかしているわ。病気かしら?」

「うるさいな。何度も襲おうかなと思った」

 須洛はどんっと床に拳をうちつけた。そしてさらに険しく朱音を睨みつける。

「これもそれもお前が千紘に物語を貸したのが原因だ」

 責任とれと言わんばかりの剣幕である。それに朱音はやれやれと肩を竦めた。

「でも、確かによくないわ。夜更かしは姫の年頃にはよろしくないことだわ」

 まだあの若さで夜更かしなどしては成長のバランスが悪くなる。髪の質も悪くなってしまう。

 それは朱音にとってよろしくないことである。

「わかったわ。何か良い案を考えておいてあげる」

 朱音はにこりと笑って言う。

「だからあなたはとっとと仕事に戻る。棟梁がいなきゃ進まない仕事がたくさんあるんだから」

 朱音は相変わらず不貞腐れる須洛を引きずりながら高床倉庫から出る。外に出ると相変わらず雨がうっそうと降り続いている。

 少なくともあと一週間はこの調子であろう。

 まだまだ終わりそうにない梅雨に溜息を零さずにはいられない。



 雨はどうも苦手である。


 雨は陰鬱な気分にさせる。

 陰鬱とした雰囲気は魑魅が好む。人が悩みやすいからだ。魑魅は人を迷わせ、狂わせその様子を楽しみながらその者の魂を喰らう。

 雨が降った時はとくにひどかった。灯りが乏しい暗闇の中でひそひそと囁き、けたけたと嘲る。隙あらば人の迷う心につけいろうとする。


「朱音」


 須洛を仕事場に追いたてた後、朱音は声を掛けられてはっとした。一瞬だけ昔のことに浸ってしまったようである。

「何かしら?」

 声をかけてきた鬼に朱音はにこりとほほ笑む。

「その、山に怪しい者がうろついています」

「また土蜘蛛かしら」

「いえ、人です」

「この雨中に山を?」

 何と愚かなことだろう。雨の降る山路はとても危ない。

「実はここ数カ月何度も山を登っている者です。どうやら我々の里を目指している様子です」

「………随分とご執心なことで。どこぞの僧侶が鬼退治の為に挑戦中ということかしら」

「いえ、僧侶ではなく侍です。随分と若い……麓の村にて調べてみたところ、鬼退治で名を馳せた者のようです」

「あら、怖い」

 鬼の報告を聞き朱音はふっとその男に興味が湧いてきた。

「それで、須洛に報告を?」

「はい。ですが、……数か月前程に一度男について報告してあります」

 だが、須洛が言うには放っておけというのだ。

「結界があるからここまで来ることはない、すぐに諦めるだろうと思い放っておいたのです」

 しかし、なかなか侍は諦める様子がない。

 再度報告をしようと鬼は須洛に伝えたが、また須洛は同様に放っておけと言うのだ。

「まぁ、どういうわけかしらね」

 朱音は首を傾げた。

 どうせこの里に入っては来れないからと思っているのだろうか。だが、自分の山にそうした鬼退治で有名な侍が登ってこられるのをよしとしないはずだ。

 今まで何度か僧侶があがってきたが、須洛は術や罠をはり僧侶が二度と山を登りたくないと思うように仕向けたのだ。それを例の侍に対してしないとは。

「あまりちょろちょろされると困ります」

 報告する鬼の意見はもっともである。最近は九州の土蜘蛛がまた山を荒らさないとも限らない。その為に警戒を張りたいのに、関係もない自分たちを退治に来る人が乱入されてきては邪魔以外の何物でもない。

「わかったわ」

 朱音はすくっと立ちあがった。

「私がちょちょいっとその侍を追いだしてあげる」

 朱音の含み笑いに鬼はお願いしますと頭を下げた。

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