序.奉公に出た娘
物ごころついた頃はとてつもない飢えとの戦いであった。娘の家の田畑はとにかく土地が悪く、作物がよく実らない。しかも村長がこれが最悪な奴。運がなかったと思う。
村長からはきちんと税を納められないからと毎日いびられ母も父も弱り果てていた。
娘は昼は父と共に田畑の手入れを手伝い、夜は母の内職を手伝った。
それでも生活はよくならない。
村の者たちは母が余所者である為ひどく冷淡で助けてはくれなかった。
ある日、いつものように父と母が村長にいびられていたときのことである。わざわざ村長の家に招き、まるで罪人のように庭に座らせ納税の状況についてねちねちと言ってくる。母も父もただひたすら土下座をするしかなかった。
娘は見てしまった。
村長の肩にどっしりと乗っている黒い影を。
誰も気に留めていない。
影をよくみると女の唇が出て来てけたけたと笑っている。おぞましい者のように娘はそれをじっと見ていた。帰りがけに父にあの影のことを話すと父はそんなものはなかったという。どうやら本当に娘以外は見えていなかったようだ。
それから三日後のこと、村長が病を得た。薬師を招いたが一向によくはならない。食も減り、日に日に衰えてくる。これは何か悪いものが憑いているのではと、近くの寺から坊主を呼ぶこととなった。しかし、坊主が来た時には間に合わず村長は息を引き取った。
父はそれを聞き、娘をじっと見た。
あの時、娘が話した影を思い出したのだろう。
こういうことは一度のことではない。
建物の影に潜むおかしなものを見たり、夜中は怖ろしいものを見たのか突然泣きだすことがよくあったのだ。
父は少しずつ幼い娘を不気味に思うようになった。
対して母は複雑そうな面持ちで娘に言った。
何か見えても決して人には行ってはならない。
それがどういう意味なのか娘はわからなかったが、母の言いつけにただ頷くしかなかった。
村長の息子が後をついだあとも、娘の家に対するいびりは変わらない。生活は苦しくなる一方である。
このままでは冬を越せない。
父は深刻な面持ちで決意した。
口減らしをするほかない。
ちょうど近くの村で下女を募る話があった。
娘をそこへ奉公に出そう。
娘の不可解な言動には不安があるが、これで負担が少しでも軽くなるはずだ。
そして娘は防寒用に蓑を着せ奉公の家へと連れて行く者に預けた。
娘が発つ間際父に聞いた。いつ家に帰れるのかと。父は困ったように笑い、家計が楽になったら迎えに行くよと言った。
娘はそれを信じ、知らぬ男の手に引かれながら故郷を去った。娘の奉公先は町で村よりもうんと人が多い。娘の奉公先は髪問屋であった。毎日、道具の手入れをし、店を手伝う日々。娘は少しでも村にいる父母の生活が楽になるように懸命に働いた。
「きゃぁっ」
娘は見事に転び、道具を落としてしまう。それに主人が怒りの声をあげる。
「何をしているんだっ!」
「申し訳ありません。すぐに片付けます」
急ぎ道具を拾うとくすくすと笑い声が聞こえる。その声に娘はぞっとした。
ここにもいるのかと。
店の隅の方を見ると黒い影がけたけたと笑っているのが見える。先ほど転ぶ時、娘は何か足に引っ掛かる感触がしたのだ。だが、娘の周りには足元で引っ掛かるものなど見あたらない。
あの影が娘の足を引っ掛け転ばせたのだ。
ああいう者たちは実に厄介だ。目に見える者がいればひたすらその周囲をうろつきからかいいじわるをする。今は娘が格好の標的なのだ。
あれがどういった者たちなのか村にいた時は分からなかったが、人と話し知らぬ言葉を覚えて行きようやく何と呼ばれる者たちなのかわかった。あれらは妖怪と呼ばれる者たちだと。そして、妖怪の中でもああいう影に潜むたちは並の人には見えない。存在があやふやなのだ。
娘は妖怪のことを主人に話すことをしなかった。十四になった娘はそれらが見えることを知られれば気味悪がるというのを理解していた。
妖怪に邪魔されて失敗しては言い訳できず主人にどやされる日々。
それでも娘は耐えた。ここで働き、少しでも村の父の負担が軽くなると信じ。
しかし、娘は店にいられなくなった。いたくなる程の事件が娘に襲いかかって来たのだ。
夜与えられた部屋で眠っていると主人が自分に襲いかかって来たのだ。
十四と年頃になった娘に欲情し、手を出してきたのである。
娘は必死に抵抗するが力では敵わない。
それでも娘は拒み、近くにあった手入れ途中の剃刀を手にとり主人に切りかかった。呻く主人を蹴り、ようやく自由になった娘は店を飛び出した。涙をたくさん流しながら。
店を出ればけたけたと笑う声が後ろからついてくる。
逃げる? 逃げる? 逃げろ、逃げろ。主人が剃刀を持って追ってくるぞ。
揶揄する口調で娘に笑いかける。娘はちらりと後ろを振り向いた。後ろから黒い影が追ってきて、女の口でけたけた笑っていた。そしてさらにその後ろには主人が鬼の形相でこちらを追ってくる。
娘は悲鳴をあげながら、足をとめることなく走った。どのくらい走っただろうか。無我夢中で町を出て、山に入る。
ようやく振りきれたかと思った娘は足をようやく止め、乱れる息を必死で整えようとする。
「いやだ、こわい………おとうさん、助けて」
村にいる父を想い、必死で呼び掛ける。だが、父は来ない。来たのは黒い影である。相変わらずけたけた笑っている。
「うるさい………うるさい………」
そう呟き、影を追い払おうとすると後ろから髪を掴まれた。娘ははっとする。後ろを振り向くのを畏れた。娘が逃げないように後ろから羽交い絞めにされる。娘がその腕を見ると剃刀で切られた後がある。
今娘を羽交い絞めにしているのは店の主人だ。
娘は怖ろしくて後ろを振り向けなかった。後ろを振り向かずともわかる。後ろには怖ろしい形相の主人が娘を睨みつけているのだ。
「こんな恩知らずを俺は知らない。仕事のへまするし、情けをかけようとすればこれかっ!!」
腕に力が入り、娘は苦しそうにうめいた。
「まずはお仕置きだ」
そう言い前に出されたのは血のついた剃刀である。それでどうするのだろうか、と娘はがたがた震える。震えると同時に影がけたけたと笑った。
ざざっ、どさっ
突然大きな音と共に上から何か降ってきて主人はぐえっと声をあげて潰された。
娘は唖然と後ろを見る。
後ろを見れば見事な紅葉が見えたのだ。
(嘘っ……今はまだ春なのに)
しかし、それは紅葉ではない。見事な紅い髪をした人の姿をした者であった。
男を見ると見事な紅葉色の髪である。それを無造作に束ねているだけの大男。だが、顔立ちは随分と整っている。翡翠色の瞳がとても綺麗だ。
「や、山男だっ」
娘はとっさに声を出した。それに男は眉をしかめる。
「山男?」
そう呼ばれて心外だと言いたげに娘の言葉を反芻した。すると傍から二人の男が爆笑した。大きな笑い声に娘はびくりとした。
「ぶはははっ、棟梁が山男か」
「まぁ、間違っていないな」
「お前ら………」
娘は爆笑する男たちを見て絶句した。男たちの額には角が生えていたのだ。
「お、鬼だっ」
青ざめて叫ぶ。それに男たちはさらに笑う。正解だと言わんばかりに。
紅葉頭の男は店の主人の上から降り、主人の様子を伺う。
「ああ、魑魅に囃したてられて可哀想に」
「なわけないだろう」
鬼が店の主人を憐れんでいると紅葉頭の男は否定する。
「元から娘に欲情して、それをつけこまれていたんだ」
紅葉髪の男はじっと娘を睨む。翡翠色の瞳に捕えられ娘は身動きひとつ取れなかった。大きな手がこちらに向ってくる。
た、食べられる!
そう思った娘は必死に目を閉じた。しかし、紅葉頭の男が掴んだものは娘の後ろに隠れていた影である。
ぐ、ぎぎぎ
突然強く掴まれ、影は苦しそうにうめく。これに娘は唖然とした。
この影を今まで何とかしたいと捕まえようとしたが、実態がなく敵わなかったのに。
この男はたやすく捕えてしまった。
「俺の道でつまらないものを見せるな」
男はそう吐き捨て、影をぽいっと林の中へ捨てる。
ひぃぃぃっ
影は悲鳴をあげ、闇の中へと消えた。
「おい、娘。家はどこだ? 送ってやろう」
今度は声をかけられ、娘ははっとする。そして困ったように俯いた。
「家、と言っても今はその人の店で奉公中で」
「あー。こんな変態のいるとこじゃ帰りたくないな」
男はぼさぼさした紅葉髪をかきながら、娘の内心を汲みとる。
「他に帰る場所は?」
「実家が……父母がいる家が遠くの村に」
「………」
紅葉髪の男は鬼に声をかける。どうやら鬼より偉いらしい、命令する口調で言う。
「この娘の伴をしてやれ」
「この男はどうします?」
「適等にそこらに捨てておけ」
こうして娘は彼らと山を降り、鬼と一緒に村へ帰ることになった。伴をしてくれる鬼は角を隠す様に手拭いを額にぐるぐると巻く。これで鬼と帰っても父は仰天しないだろう。
「あ、あの………」
山を降りて別れることになった紅葉髪の男に声をかける。
「ありがとう。この恩は忘れない。名前を教えてくれないかな」
「別に、忘れて良いさ」
「あたしは朱音」
娘はじっと男を見つめた。真っすぐな目で。男は面倒そうに頭をかき、名乗った。