序.嫁入り
大江山には古くから鬼が棲んでいると言う。人をとって食らう鬼。鬼は特に女子供の血肉を好んだと言われる。その為、山の麓では夜遅くまで女子供が外を出歩くことをよしとしなかった。麓の村人たちもこの山の奥に入るのは躊躇する。
しかし、その山を登る一行があった。
麓の村人たちと市女笠を被った綺麗な衣装を身に付けた女性。
村の中で一番の年長者が女性に声をかけた。
「姫さん、やっぱり輿に乗ってくれ」
そう言いながら輿を示すが、女性は首を振った。
「大丈夫、この時の為に歩く練習をいっぱいしたの」
女性、ではなくまだ幼さの残る少女であった。彼女はにっこり笑いながら村人の申し出を断る。
「それに、村の人たちには私の荷物を運んでもらっているし」
一行の中に大きな葛篭を運んでいるものがいる。どうやらそれは少女の持ちモノらしい。
「ですがねぇ、お姫様を山歩きさせるのはさすがに気が引けます」
村人は複雑な表情で少女を見つめる。
その表情は同情がありありと感じられた。だが、少女はそれを気にせずに笑ってひと声かける。
「早く目的地に着かなくては、夕暮れになってしまう」
その前に絶対に着かなければならない。夕暮れが待ちあいの時間なのだ。
少女はわっせわっせと慣れぬ山道を進んで行く。その健気な姿を見て村人はますます同情の眼差しを送った。
「可哀想に………あんなに幼いのに、鬼に見初められるなんて」
「しかも、良いとこの姫さんだっていうのに威張らない元気の良い子じゃないか」
「そんな娘を嫁に欲しがるなんて酒呑童子は酷い男だね」
後ろから聞こえる村人たちの囁き声に少女は苦く笑った。
これからこの少女は大江山に棲む鬼の棟梁・酒呑童子に嫁ぐことになる。
少女は都の紅葉中将の三の姫である。
何故彼女がこのような場へやってきたのかというと、それは半年前のこと。
――紅葉が美しい季節のこと。
彼女の実家は紅葉が見事な庭で有名であり、毎年この時節になると多くの公達を招いて宴を開いていた。紅葉の美しさに和歌を詠む者、管弦を楽しむものと大賑わい。
そんな中、中将の前に一匹の鬼が現れた。見た者が言うには小さいがとても恐ろしい鬼だったという。
鬼が言うにはこうである。
「自分は大江山の主の使いだ。紅葉中将の三の姫を嫁に欲しい、是非承諾を」
宴は一瞬で凍りつき、恐怖に満ちた。
大江山には確か紅い髪、鋭い牙と角を持つ怖ろしい鬼が棲んでいると言う。人は『酒呑童子』と呼び恐れた。
おそらく使いの言う主というのはその酒呑童子のことなのだろう。
紅葉中将は怖ろしさのあまりに首を縦に振ってしまう。それに鬼は満足げに頷いた。
「では、来年の春に大江山の滝の元へ姫を一人参らすように」
そう言うと鬼はゆらりと薄れ消えてしまった。
この話は都中に一気に広まった。
噂は緒をつけ、様々な形へと変わり紅葉少将家の三の姫で好機の眼差しを送ってくる。
これに困ったのは当人の三の姫だ。
しばらくは、自分の元へ好奇心で垣間見に現れる者たちが出て来たのだ。――
大江山を歩いて半時程経った頃にようやく例の滝の元へ辿りついた。村人たちは輿と葛篭を汚れない場所に置く。
「じゃあ、姫さん。私たちはこれで」
「うん、ここまで連れて来てくれてありがとう」
「………いや」
村人は苦い表情を浮かべる。これから怖ろしい鬼の元へ嫁がされる幼い姫がどうなるか想像しただけでぞっとする。
穢れも知らない無垢な少女は鬼によって蹂躙され汚されてしまう。
そして、飽いてしまえばぺろりと大きな口で喰ってしまうだろう。
それなのに村人たちは姫を助けることができない。都からはるばるやって来た姫を匿って遠くの村へ逃がすことだってできたのに。
それがばれたときの鬼の仕打ちが怖ろしくて村人たちはそれすらもできなかった。
「この山はとっても綺麗ね」
「え? ああ………」
「村から見た時も思ったけど………山の中を歩いていると見たことのない花や植物がいっぱい見れて楽しかったわ」
そういえばここまで辿りつくまでの間、姫は花や草、虫を見ては村人にあれはなんだと聞いてきた。その時の瞳は十にも満たない童のようにきらきらとしていたのだ。
外にろくに出たことのない貴族の姫にはそこいらに生えている雑草すらも珍しく映ったのだろう。それが、姫を無垢な存在に見せた。
「はしたない姫なんて思わないでいろいろ教えてくれて、ありがとう」
三の姫はにっこりと笑い村人たちにお礼を言った。村人たちはその笑顔が最後のものと感じ、ほろりと涙を流す。
村人たちは別れを惜しむように立ち去る。三の姫は彼らを姿が見えなくなるまでずっと見送った。
彼らの姿が見えなくなりしばらくたった頃に三の姫はふぅっと溜息をつき輿の方へ座りこむ。
「あー、疲れたぁ。もうくたくた」
だが、自分の足でここまで登ったと言う充実感がある。
三の姫はくすりと苦笑いした。
これから大事な仕事があるというのに、何をしているのだろう。
そして懐から探るようにものを取り出す。それは小刀だった。少女の小さな手でもしっかりと握れる大きさのもの。
「よーしっ、がんばって鬼退治するぞ!」
おーと三の姫は右手を空へ掲げた。
三の姫はひとつの目的を以て大江山を登ってきたのだ。それは鬼の寝首をかくことである。
――半年前、鬼からの結婚の申し出に茫然としていた三の姫の元にある客人が現れた。客人の名は渡辺綱。最近、都で妖怪を次々と退治している評判のつわものである。
大江山の鬼からの突然の求婚を聞き付けて駈けつけてくれたようである。
彼は三の姫にこう宣言してきたのだ。
「あの例の鬼は神出鬼没でなかなか討ち取ることが敵わない。嫁として奴の懐へもぐりこんだ時が好機だと思う。鬼とて一夜くらい隙が生じよう。私が姫の代わりに鬼の元へ行き、見事鬼を討ち取って見せる」
まだ鬼の求婚にさえ頭が回らなかった三の姫は目の前の男の言葉に首を傾げた。
鬼を討つ? この人が?
男の顔をじっと見つめる。
武士というより公達のように整っており、普段はとても涼やかな雰囲気を持つ男なのだろう。
だが、今の彼の切れ長の目はとても鋭く、目を見ればすぐに彼がつわものであるということがかわる。
ちらりと見える腰に佩いている刀をみやる。長いのと短いの。
あの短い刀は自分でも扱えるのではと三の姫は考えた。そこでふと思い立ったように言う。
「綱様、鬼退治……私がやってみてもいいでしょうか?」
三の姫から思ってもいない言葉に綱はぎょっとした。
「な、何を馬鹿なことを………良いですか。鬼ですよ鬼。姫なんかぺろりと食べちゃう怖ろしい鬼なのです」
「ええ、わかっています」
「ならば鬼退治をするなど馬鹿なこと言わず、この綱にお任せください」
「綱様が私の姿をして鬼の元へ行くのですか?」
「? はい」
三の姫の言おうとしていることが理解できない綱は首を傾げて頷く。
「綱様って肩幅があって背も高いですからすぐにばれてしまいますよ」
「なっ」
「ばれちゃったら、隙も何もないと思うし………やっぱり私が行った方がいいと思うわ」
「姫っ!」
「私、鬼退治というものに挑戦してみたいのです。心配なら綱様が私に剣の使い方を教えてください。どんなに厳しくても私耐えますから」
三の姫の明るい声に綱は唖然とした。先ほどのぼんやりと沈んでいた少女とは思えない程の変わりようであった。
三の姫は綱の方を真っすぐ見据え、綱に剣の指南をお願いする。
綱はだめですと頑なに拒んだ。そして彼女の身代わりとして鬼の元へ行くことを強く言ったのだが、それに三の姫は首を横に振るばかり。
何度も繰り返される押し問答。ずいぶん日が暮れた頃にようやく折れたのは綱であった。
三の姫の提案を抑えこむことができなかった。
それに確かに自分が女装してもすぐに男とばれ、うまく鬼を退治できない可能性もある。
それを改めて思い返し綱は眉をしかめながらも三の姫の提案に乗ることにした。
「仕方ないな。いいですか。姫が山を登った後に私も登山します。決して一人で突っ走ったりしないと約束なされるなら教えましょう」
「はいっ、宜しくお願い致しますっ!」
三の姫は声を弾ませ、綱に頭を下げた。
こうして、綱は三の姫に剣を教えることになった。――
半年と短い間で、得たものは護身術がやっとだった。だが、それでも小刀の重さに耐え鋭い動きをある程度できるようになった。
これならば鬼の懐に潜り込み、隙を見ては寝首をかくことができるだろう。三の姫はそう信じ、都を出た。
かさり………
三の姫の休む輿に近づく影があった。気づけば大人三人が輿に乗る三の姫の周りを囲んでいる。三の姫は慌てて小刀を懐にしまい誰かと尋ねた。
随分と大きい体躯の男たちである。額や頭を見れば角のような突起が見えた。
(あれは、角よね?)
では、彼らはこの山に棲む鬼たちなのだろう。
「三の姫ですね。これより主の元へと案内します」
そういうと二人の鬼は三の姫の輿を担ぎ、残りは三の姫の葛篭を背負った。
「あ、あのっ、酒呑童子はどこに?」
「すぐに会えます。姫が来るのをそれは楽しみにしていたのですよ」
「……そうですか」
彼らは三の姫を目的の鬼の元へ連れて行ってくれるのだ。大人しくしておこう。
(まずは標的をしっかりと見定めて隙を見たら小刀でっ)
何度も脳内でイメージしたし、綱に手伝って実戦練習もした。想像できる限りの場面を想定した練習も行った。
(大丈夫………綱様も後で来るし)
緊張する手を握り締めながら三の姫は自らを奮い立たせた。