第84話 暗愚王と吸血の姫
『欲望の迷宮』は、底の知れないダンジョンだった。
だが、何のことはない。『底』になら、既に到達していたのだ。地下三十階。そこがこのダンジョンの最下層だ。だが、最奥部となると話は違う。地下三十階のフロアを過ぎた先に広がる、広大な森。無限に湧出を続ける第四階位までの『魔』の集団を潜り抜け、方角さえも見えてこない森の中を進むのは、ほとんど不可能事と言ってもいい。
「……だが、よく向かうべき方角がわかるな。何か目安でもリゼルから聞いているのか?」
「……いいえ。でも、わかるのよ。この星界に満ちた『真月』を吸収し、黒く染めようとする力。わたしには、それなりに馴染みのあるものだからね」
カグヤは、自分のローブを撫でるようにしながら答えを返す。
特に高位の『魔』をエリザたちが引き受けてくれているおかげか、道中では大した敵は襲撃してこなかった。というより、襲撃を受けても苦も無く撃退できた。ただでさえ強力な特殊クラスの面々に加え、五英雄のアリアノートまで揃っているのだ。それも当然だろう。
「あと、どれくらいなんです?」
エドガーが尋ねる。彼はここまでの道中ずっと、リゼルを背負い続けている。
「なあに? もう限界なの?」
「別にそんなことは言ってないでしょうが。ちょっと気になっただけですよ」
からかうようなカグヤの言葉に、エドガーはムキになって反論した。だが、カグヤは意地悪そうに笑みを浮かべる。
「そうね。気になるわよねえ? 残りの距離がどれくらいかによっては、あなたがリゼルと密着していられる時間が変わるのだもの」
特大の爆弾をさりげなく。
「そうそう、そうなんだよなあ。いやあ、意外とこのリゼルって子、着やせするタイプでさあ……って、うおおい!?」
この場にエリックがいたら、間違いなくエドガーに同情してしまう場面だった。
とはいえ、調子を合わせて言葉を続けてしまったこと自体は、彼自身の責任だろう。途中で自身の言動に気付いたところで、既に手遅れだ。
「へえ……、わたしたちが必死に守りを固めている間、エドガー君はそんなことを考えていたのねえ?」
冷たく低い声でルヴィナがつぶやく。周囲に浮かぶ血で錆びた剣は、骸骨騎士団のものだろうか。
「……降ろしなさい。今すぐ彼女を降ろしなさい、このけだもの!」
リリアは鬼のような形相で手の先から紅い爪を長く伸ばし、エドガーの喉元に突きつける。
「うああああ! いや、ちょ、ちょっと待った! 冗談ですってば! 嫌だなあ、もう。 ちょっとばかし、ノリツッコミにチャレンジしてみただけなんだって!」
こんなやりとりが続けられているのも、先ほどまでと比べて道中に比較的余裕が出てきたためだろう。少年たちがはしゃぐ様子を見て、アリアノートはやれやれと息をつく。そして同時に、自分の隣で周囲への警戒を続けたまま歩き続ける、もう一人の少年へと目を向けた。
「ルーファスも大変だな。一応君がこの中では、最年長者なのだろう?」
そう声をかけてやると、彼は少し驚いたような顔でアリアノートを見た。少年とはいっても、ルーファスはすでに十九歳だ。二十代半ばでありながら少女のような外見のアリアノートと比べれば、視線は頭一つ分近く高い。自然と彼女は彼の顔を見上げるような姿勢となった。
「俺は何もしていませんから。……大変なのはルヴィナでしょう」
「彼女は彼女で、苦労性のようだからなあ」
朗らかに笑うアリアノート。
だが、その直後のこと。彼女の表情は、一瞬で引き締まったものに変化する。
アリアノートは、いぶかしげに周囲を見渡す。ルーファスが生み出した無数に浮かぶ設置型白霊術の術式は、同じく卓越した白霊術師である彼女だからこそ、認知できるものだ。
とはいえ、それは確かに『そこにある』ものだ。ルーファスの類まれなる想像力で固定されたイメージは、そう簡単に消失するようなものではない。だからこその『設置型』なのだ。
ところが──
「……術が干渉されている? カグヤ、どういうことだ?」
「わたしは何もやっていないわよ。……ほら、あそこが目的地。多分、『近づきすぎた』せいでしょうね」
「近づきすぎただと?」
カグヤの指し示す方向を見れば、森の中にぽっかりと空白地帯ができているのが見えた。森の木々がその部分だけ密度を失い、代わりに石柱に囲まれた石造りの祭壇が設けられている。そして、その中央には……不気味に蠢く闇の塊。
「皆はここまででいいわ。これ以上は危険だから、わたしとリゼルの二人だけで行く」
「え? い、いや、でもリゼルは歩けないし……俺も行った方がいいんじゃないですか?」
唐突な申し出にエドガーがそう返すも、カグヤは首を振るだけだ。
「あなたの人形があるわ。それで彼女を運べばいい。一体に集約すれば、ここからあそこまでの長さの糸は確保できるんじゃない?」
カグヤがそう言って見つめる先には、エドガーの周囲を付き従うように歩く、三体の黒人形があった。結局、そんな機会こそ巡ってこなかったものの、リゼルを背負ったままでも戦えるように配置しておいた黒人形たちだ。
「まあ、そりゃそうですけど……」
少し難しい顔をした後、エドガーはリゼルを背中から降ろし、黒人形に背負わせる。背が低いせいで足を引き摺りそうな状態ではあったが、どうにか調整して間に合わせた。
「それじゃ、行ってくるわ。……言っておくけれど、何があっても絶対に近づいて来ては駄目よ。『月の牙』が持つ『墨染めの力』が効力を発揮している以上、アレの近くでは黒魔術以外の魔法は使えない。『星心克月』があれば多少は使えるかもしれないけれど、かなり威力は削がれるわね」
「ああ、わかった。ここで周囲の警戒を続けよう」
カグヤの念押しに、アリアノートが頷きを返す。
「よし、準備できました。もともと伸縮可能な糸ですけど、繋ぎ合わせたんで十分行けますよ」
「ええ、ありがとう」
カグヤは礼を言うと、ゆっくりと祭壇に向かって歩き出す。その後ろからは、エドガーが操る黒人形が付き従うように歩いていた。
「さて、リゼル。もうすぐよ。純粋で混じり気のない『黒月の力』さえあれば、『真月』を吸収する力の落ちた今の貴女でもきっと……」
黒人形に背負われてピクリとも動かないリゼルを振り返ることなく、カグヤはつぶやく。だが、もうすぐ森の中の祭壇に辿り着こうかという、その時だった。
何かが、砕けるような音がした。
「え?」
驚いて振り返るカグヤの目に、幽鬼のように立ち尽くすリゼルの姿が映る。砕けた人形の破片を両手につかみ、虚ろな瞳でこちらを見つめてくる。
「リゼル? 目覚めたの?」
「……黒。わたくしは……世界を黒く染める者。世界に恐怖と絶望を……」
ふらふらと身体を揺らしながら、リゼル──暗愚王はつぶやく。
「な……!」
跳躍し、腕を振り上げ、振り下ろす。無造作ともいえる、暗愚王の動き。だが、それは正確にカグヤの心臓をめがけて繰り出されていた。
「発動! 《記憶の英雄》!
間一髪、カグヤは胸の前で両腕を交差し、『仲間が思い描く最強の存在』の肉体強度を自身に再現する黒魔術を発動していた。
「ぐうううう!」
力を失っているとはいえ、暗愚王の身体能力は並みの『魔』とは比較にならない。強化した腕でさえ、その一撃には耐えきれず、みしみしとひびが入り、カグヤは後方へ大きく弾き飛ばされた。
「ぐ……。まさか……第三階位との接触で『染色本能』が目覚めたと言うの?」
腕を初めとする全身の痛みに顔をしかめながら、カグヤはつぶやく。焦点の定まらない瞳、ふらつく足取り。それでもなお、歩み寄ってくる暗愚王からは強烈なプレッシャーが放たれている。
「カグヤ!」
事態に気付いたアリアノートが牽制の矢を射かけてくるが、その矢も『墨染めの力』によって減衰しながら消えていく。
「……リゼル。しっかりしなさい。貴女は誇り高き黒月の王でしょう? そんな原始的な本能に、負けては駄目よ」
「……染まれ、染まれ、黒く、黒く、漆黒に、暗黒に……」
カグヤの呼びかけも、届いてはいない。
「……ここまで影響を受けるほど弱っていたのね」
尻餅をついたまま後退しようにも、背中はすでに祭壇にぶつかっている。一方、近づいてくる暗愚王の歩みは止まらない。
「カグヤ先生!」
鋭く叫ぶルヴィナの声。それと同時に、暗愚王の足元から漆黒の炎が吹き上がる。
「ルヴィナ! 駄目よ! 攻撃しては駄目!」
ルヴィナが使った魔法は、恐らく暗界の『魔』の力を具現化したものだろう。それぐらいのことは、カグヤにもわかる。そしてそれが、リゼルを傷つけるものではなく、精神攻撃によって足止めするために放たれたものであろうことも。
だが、今のリゼルは『染色本能』の塊だ。カグヤの他にも『その対象』となる者がいることに気付けば、躊躇などするまい。
カグヤの危惧した通り、暗愚王はぐるりと身体ごと振り返ると、虚ろな瞳でルヴィナたちの姿を捉えた。そして次の瞬間には、恐ろしい速度で彼女めがけて突進する。
「ルーファス先輩!」
「発動……遅延型白霊術、《過剰な重圧》」
鋭く叫ぶルヴィナの声に応えるように、ルーファスの魔法が発動する。遅延型は設置型のように場所を選ばない。複数同時に用意することはできないものの、発動条件も必要なく、指定したタイミングで任意に発動させられるのが特徴だ。
ルーファスの狙い通り、暗愚王は駆けてくる途中で、何かに押しつぶされるように倒れ込む。身に着けた学院の制服が、《過剰な重圧》によって地面に貼りついたように広がった。
カグヤの言う『墨染めの力』のせいか威力こそ減じてはいるが、それでもどうにか彼女の動きを抑えることができたようだ。
だがそれも、束の間のこと。
「塗り潰す……!」
ゆっくりと、暗愚王は立ち上がる。この時点ですでに、彼女は《過剰な重圧》の効力を跳ね除けていた。
「くそ! これでどうだ!」
エドガーが予備の糸を使い、残る二体の黒人形を飛び掛からせた。
「邪魔だ」
暗愚王は無造作に腕を振るい、襲いくる人形たちを次々と破壊していく。
「くそ! 魔法が使いづらい! これでは加減がわからないぞ」
小刻みに魔法を放ち、暗愚王の動きを牽制しながら、アリアノートは焦りの声を上げる。『星心克月』を会得しただけでなく、元から膨大な魔力を有するハイエルフでもある彼女なら、『墨染めの力』を無視した大魔法も行使できる。だが、それではリゼルの身が危うい。彼女を助けに来て彼女を害してしまったのでは、意味がない。
「暗界の魔法では、効果も薄いみたいだし……他は『力』の召喚さえできないなんて……」
ルヴィナも先ほどから『白霊戦術』で暗界以外の『魔』の力を使おうと試みてはいるが、それは通常の白霊術以上に困難だった。
「わたくしが、やりますわ」
「……え? リリアさん? ちょっと待ちなさい!」
リリアはルヴィナが止めるのも聞かず、一人で前へと進み出る。アリアノートも攻撃魔法の使用を中断し、無謀な行動に出るリリアを止めようとするが、彼女が全身に纏う白炎がそれを阻んだ。
「リリアさん! 何をするつもり?」
痺れる身体をようやく引き起こし、祭壇に手をついて立ち上がったカグヤは、リリアの周囲に不思議なものを見た。
蒼く揺れる光。少女を中心に広がるその光は、やがて周囲を染める『黒月の力』を別の色に染め返すように広がっていく。
「殺す、殺す、殺す!」
暗愚王はそれに反応するように声を大きくすると、両手を掲げ、頭上に黒い球体を出現させた。だが、リリアはまったく動じることなく、一歩、また一歩と暗愚王へと近づいていく。
「このお馬鹿! 何が『殺す』よ。貴女にはそんな言葉、似合わないわ。いつもみたいに、くだらない洒落でも言って、馬鹿みたいに、意味不明な行動をとる。それが貴女でしょう?」
感情をあらわにしたリリアの呼びかけに、
「殺す、こ、ろ……」
リゼルの言葉が止まる。しかし、リリアの歩みは止まらない。
「何よりわたくしに、貴女への借りを返させなさい。こんなところで貸し逃げなんて、許さないわ。だから……返してもらうわよ、『メイズフォレスト』。暗く愚かな、わたしの友だちを……」
蒼い光に包まれた身体で、リリアは呆然と立ち尽くすリゼルを抱きしめる。
「……リリア」
ぼそりと、口にされた名前。
「え?」
リリアは相手の身体に手を回したまま、リゼルの顔を見る。その顔は、いつものような無表情。それでも、リリアには彼女が『正気』を取り戻したことがわかった
「……はじめて名前で呼んでくれたわね?」
悪戯っぽく笑いかけると、リゼルは意味が分からないらしく、首をかしげる。
「これは『藍染めの力』。けれど、『真月』に依らずして……この力を? ……あなたは、本当に強い」
「え? ……っと、は!?」
感心したような目で見つめられて、狼狽えるリリア。だが、その一瞬後には自分が彼女を抱きしめたままであることを思い出し、慌てて身体を離す。
「な、ななな!……何のことかよくわからりませんけど、そんなの当然ですわ!」
誤魔化すように声を張り上げるリリアだが、言葉がカミカミな挙句、照れたように紅潮する頬の色までは隠せなかった。
「……仲が良くて結構なことね。じゃあ、リリアさん。仲良しついでに、彼女の手を取ってこっちまで来てくれないかしら」
「べ、別に仲良くなんて……! って、手を取るんですの?」
「ええ。リゼルがまた正気を失っても良くないでしょう? 貴女が一緒なら大丈夫そうだから」
「そ、そういうことですの。じゃ、じゃあ、仕方ありませんわね」
そう言いながらぶっきらぼうに手を差し出すリリア。だが、リゼルは良く分かっていないらしく、不思議そうにそれを見つめるばかりだった。
「ほ、ほら! 手を繋ぐのよ。早く出しなさい!」
「む? こうか?」
「そうそう。……って、ちょっと!? 指は絡めなくていいのよ!」
騒がしいやり取りを繰り返しながら、カグヤの元へと手を繋いで歩く二人の少女
「藍染めの力、か。……考えてみれば、リリアさんも霊界の『第三階位』。この心象暗景メイズフォレストと同じ、『月の牙』であることには変わりなかったわね」
カグヤは自己治癒力を向上させる黒魔術を自身に発動しながら、その姿をぼんやりと見つめていた。
──その頃、この森に出現する強力な『魔』を一手に引き受けた二人の少年少女はと言えば。
「ネザク~! あたし、もう嫌だあ!」
暗黒の騎士と凶馬をまとめて一刀両断にしながら、赤毛の少女が叫ぶ。
「大変だと思うけど、頑張ろうよ。僕が今使える『魔』じゃ、災害級の上位連中は抑えきれないんだ。できるだけ他の敵は僕が抑えるし。ね?」
そんな少女に言い聞かせるように、金髪の少年は優しく声をかける。黒く染まった両腕には、依然として最上位クラスの二体の『魔』を封じ込めている。
「だって、もう五十回以上やっつけてるんだよ?」
エリザは紅水晶の神剣を振り回しながら、泣き言を言い続ける。一振りごとに周囲に群がる災害級の『魔』が消し飛んでいくのを見て、ネザクは呆れたように息をつく。
「うーん、まだ余裕がありそうに見えるんだけど……。どうしても辛いなら、少し下がる? こいつらももう、あっちを追いかけては行かないだろうし……」
それでもネザクは気遣いの言葉をかけたが、対する少女の反応は酷いものだった。
「ううー! 飽きた! 飽きちゃった! なにこれ! もうちょっと違う敵が出てくればいいのに! もう、つまんない!」
「……僕の心配を返してくれないかな?」
自分も人のことは言えないが、彼女は彼女で規格外にも程がある。こんな状況では思わず忘れてしまいそうだが、災害級の『魔』は、単体でも大規模な戦の勝敗を左右しかねないほどの化け物である。五英雄かそれに準ずる実力を持つものでもいない限り、これを打倒するには数千の軍勢を用意し、慎重に作戦を練って戦わねばならない強敵なのだ。
決して十代の少女が片手間に薙ぎ払い、飽きただの、つまらないだのと言っていいような相手ではない。
「カグヤ、早くしてくれないと、エリザが別の意味で限界だよ……」
目の前の敵を倒すことより、エリザ一人をなだめ続けることの方に、前途多難さを感じるネザクだった。
次回「第85話 少年魔王とレジスタンス」




