第76話 吸血の姫と霊賢王の毒(上)
学院にミリアナが来訪した翌日のこと。
ネザクは走っていた。それはもう、全速力だ。皆の迷惑になるため、『ルナティックドレイン』こそ使ってはいないが、それでも彼は持てる力のすべてを振り絞って逃げていた。
「ど、どうして、どうしてこんなことに!?」
運動用に造られた広いグラウンドは、つい半月ほど前に復旧工事が完了したばかりだ。学院の通常授業が終わったこの時間。日も傾きかけたグラウンドをネザクは駆ける。
「ネザク、止まりなさい。お母さんの言うことが聞けないの?」
「い、いやだああ!」
グラウンドの外から優しげな女性の声が聞こえるが、ネザクは猛然と首を振る。
「うふふ! ネザク。そんなに照れなくていいのよ? きっと似合うから!」
「うんうん。せっかく君のために故郷から持ってきた衣装なんだ。袖くらい、通してくれてもいいだろう?」
学院の制服に身を包む、鏡写しのような双子の姉妹。月影一族の特徴でもある白い髪をなびかせて、少女二人は確実にネザクを追い詰めていた。双子ならではのコンビネーションで行く手を塞いでいるというのもあるが、それほど体力がないはずの彼女たちがネザクを追い詰めることができている理由はもちろん……
「ほら! そっちに行ったわよ! アクティ!」
「うわわ! ひいい!」
どうにか突破口を見出すべく、グラウンド内で方向転換をしたネザクの前に、蒼髪の妖女が立ちふさがる。
「ごめんなさいね。ネザク」
「ア、アクティちゃん……」
退路を塞がれ、怯えたような目を向ける相手は、優美な曲線を描く長身を白いロングドレスに包みこんだ美女、アクティラージャ。誰に言っても信じはしないだろうが、これでも彼女、霊界第五階位の『魔』にして、『死霊の女王』の名で恐れられる人外である。
「わたくしは、人間の装飾品には興味が無いのだけど……」
「だ、だったら見逃してよ。ね?」
藁にもすがる思いで言うネザク。だが、そんなネザクを見下ろしたアクティは……ぞくぞくと、その身を震わせていた。
「ウフフフ! ああ、いいわあ……」
「え?」
「それなのよ。それそれ! ネザクの困った顔が可愛らしくてたまらないのよおお! もっと! もっともっと、虐めたいわあ」
「だ、駄目だあああ! 全然話が通じないい!」
危ない目をしたまま、恍惚とした笑みを浮かべるアクティに、ネザクは思わず絶叫した。そして、再び身を振り返し、一瞬の隙を突いて駆け出していく。だが、敵は三人だけではなかった。
「発動、《うず高き骸の壁》!」
美しく澄んだ少女の声。それに合わせるかのようにネザクの正面にそそり立つ、骨で組んだかのような壁。
「うわあああ!」
「ふっふっふ。あらかじめそのルートには、わたくしの『憑代』を仕込んでありますのよ!」
トラップ型の霊戦術は、高度な術式に分類される。少なくとも並の術者が使えるものではないのだが、そもそも明らかに使うべき場面が間違っているだろう。
「いやいや! だいたい、リリアさんがイリナさんたちと会ったのって、昨日の今日だよね? なんでこんなに連携プレーが上手いのさ!?」
急ブレーキをかけたネザクは、たまらずその場に転びかける。
「うわっと!」
「大丈夫ですか? ネザク」
間一髪、少年の身体を支えるように、彼の脇へと差し込まれる腕。いつの間にかネザクの背後には、黒髪の美しい少女がいた。学院の制服を身にまとう彼女は、表情こそ乏しいものの、その声には慈愛の響きがあった。
「あ! リゼル! た、助かったよ……」
ネザクは安堵の息を漏らす。八方ふさがりにして四面楚歌の状況の中、唯一自分を助けてくれそうな存在。彼女はネザクにとって、どんな時でも自分を支えてくれた人であり、いわば絶対の味方だった。
「聞いてよ。みんなが僕に女性物の服を着せようとするんだ。もう、ああいうのはうんざりなのに……。リゼル。君なら僕を助けてくれるよね?」
少女の胸に背を預けたまま、少年は信頼に満ちた声で言う。すると、リゼルは力強く頷いた。
「はい。任せてください。ネザク」
「よかった……。やっぱり、リゼルは頼りになるよ」
だが、ネザクのそんなつぶやきを聞きながら、グラウンドの端でその様子を見つめていたルカは、やれやれと息を吐く。
「ネザク様も意外とリゼル様のこと、わかってないのかしらね」
言いながら、隣でリリアに声援を送るリラを横目でちらりと見る。
「リリアさま! 頑張ってー!」
彼女こそ、学院に編入したてのイリナとキリナにリリアを引き合わせ、今回の『同盟軍』を結成させた張本人だった。
「あの……リゼル? そろそろ離してくれないと、皆が周りを囲んでるんだけど……」
じりじりと縮められていく包囲網に、不安の声をあげるネザク。アクティを含む四人は両手を顔の前に構えるようにして、不気味な笑いと共に近づいてくる。
「リ、リゼル?」
「大丈夫です。ネザク。お師匠様は、いいことを教えてくれました」
「え? ルカさんが?」
「はい」
こくりと頷きを返すリゼル。
「『嫌よ嫌よも好きのうち』……わたくしは、ネザクのために頑張ります」
「う、う、うあああああ! ル、ルカさんまでええええ!」
ネザクは叫ぶ。リゼルの『お師匠様』、ルカは口元を押さえて笑いをかみ殺していた。
「ご、ごめんなさい、ネザク様……。ぶふ! あはははは! お、面白すぎです! うう、この誘惑には勝てなかったわ……」
良識人ぶってはみても、ルカはルカで、他の皆とは違った形で『魔王様』をいじってみたくなっていた。つまりはそういうことだった。
「うふふふ、いい子にしててね」
「心配しなくとも、これからはちゃんとローテーションを組む予定だぞ」
イリナとキリナはにこにこと笑みを浮かべ、少年の両手を掴む。
「ちょ、ちょっと待って? ローテーションって何? ローテーションって!?」
もはや涙目で叫ぶネザクに、アクティは今にも蕩けそうな笑みでその頬を撫でまわす。
「ああ、もう、最高……」
「なに? なんなのこれ? 僕が一体何をしたの?」
あまりの理不尽に誰にともなく問いかけの言葉を発するも、答えるものなどいるはずもない。
「うふふ。心配いりませんわ。ネザクくんは大事な大事な特殊クラスの仲間なんですから。そんな、負担になるようなことは考えていませんもの」
「ほ、ほんと? リリアさん……」
上目遣いに救いを求めるような視線をリリアに向けるネザク。
「ええ。ほら、リラさんも入れて四人ですから……四日に一度で済む計算です。全然大変なことはありませんでしょう?」
爽やかな少女の笑み。だが、ネザクはその笑顔にこそ、もっとも恐ろしいものを見たような気がした。
「こ、この人が一番最悪だああああ! 四日に一度って! それ、僕のことじゃないよね? 明らかに僕の方は、毎日やられることが前提だよね!?」
「うるさいですわね。あなたが可愛らしいのが悪いのですわよ? 大人しくわたくしたちの着せ替え人形になりなさいな」
「身も蓋もない本音が出たああああ!」
夕暮れのグラウンドの中央で、少年魔王の悲痛な叫びが木霊する。
「──なあ、これはいったいどういうことなんだ?」
グラウンドの隅のベンチに腰を掛け、呆れたようにその様子を見つめていた一人の女性。新緑の髪のハイエルフが問いかける。
「え? ああ、可愛いでしょう? わたしの息子。女の子の服なんか着せてしまえば、『娘』にもなって一粒で二度おいしいわ」
「いや、そういう意味じゃないんだが……って、わたしの息子?」
アリアノートの隣に腰かけた問いかけの相手は、母性を感じさせる瞳でグラウンド中央の喧騒を見つめている。
「ええ、魔王ネザクは今や、クレセント王国の月召術師団長ミリアナ・ファルハウトの息子。そういうことよ」
「……ふうん。なるほどな。にしても、わけがわからん。しばらくここを離れていたわたしにしてみれば、『気がついたら魔王一味が仲間になってました』みたいな状態だぞ? アズラルの奴も適当な説明しかしてくれないしな」
アリアノートは、言いながら肩をすくめる。
「ふふ。でも、彼らは仲間だと、それはもう認めているわけね?」
「……仕方ないだろう。あんな姿を見せられれば。それに……こんな目で見つめられたらな」
アリアノートは憮然とした顔のまま、ミリアナとはちょうど逆隣り、自分のすぐ脇で真剣な顔のまま見上げてくる赤毛の少女を指し示す。
「わかったから、そんな顔をするな。確かに初戦では苦い思いをさせられた相手だし、『気に入らない』こともなくはない。だが、もう攻撃を仕掛けようとは思わんさ」
「ほんとに?」
不安そうな顔のエリザ。実のところ、アリアノートが学院に戻ってきたのはつい先刻のことだ。到着して早々、アズラルから状況を聞かされた彼女は、彼の制止を振り切って、このグラウンドへと飛び出してきた。
白星弓を構えてリゼルアドラと思しき少女に狙いを定めたところで、エリザに飛びつかれて事なきを得た。今はまさにその直後だった。
「ああ、本当だ。……それにだ。あの魔人も、今は少女の姿になっているせいか、多少は『まし』だからな。それならまだ、こっちの方が『気に入らない』さ」
そう言いながら、今度はミリアナを指し示すアリアノート。
「……ああ、なるほど」
エリザは納得したような声を出しながらも、がっくりと肩を落とす。
「相変わらず、わからないわね。あなたはわたしの、何がそんなに気に食わないの?」
「相変わらず、嫌味な女め。それをわざわざわたしの口から言わせたいのか?」
にらみ合う二人。エリザは呆れたように息をつくと、ミリアナの方へと回り込み、彼女にそっと耳打ちする。アリアノートが彼女を嫌う、その『理由』を。
「…………ごめんなさい、エリザ。今の話は、聞かなかったことにできないかしら?」
「……その気持ち、すっごくよくわかるよ。あたしも最初はそう思ったもん」
お互いに頷きあう、エリザとミリアナ。対して、アリアノートは不満げに鼻を鳴らしている。
「おいおい、なんだ? わたしを除け者にして」
「でもまあ、種族的なことが理由なのかと思っていただけに、少しほっとした気分ではあるわね」
月影一族の中には、エルフや獣人と言った種族を下等なものとして見下すものが多い。そのため、当然それらの種族の中には、月影一族そのものを嫌うものも多かった。
「それはさておき、エリザ。あなたは、あの中に混ざらなくていいの?」
言いながらミリアナは、四人の少女にしっかりと捕獲されたネザクを指し示す。
「あはは。流石にそれは、ネザクが可哀そうだしね。……まあ、それは冗談だけど、あいつがああやって、皆に『愛される』のはいいことだと思う。だって、それがあいつの『世界征服』なんだから」
「そう……。でも、やきもち妬いたりしないのかしら?」
悪戯っぽく問いかけるミリアナ。アリアノートも気のない素振りをしてはいるが、その尖った耳はピンと立っている。
「もう……ミリアナさんまでそんなこと言う。そ、そういうのは、置いといてさ。あたしはネザクの今の夢、大好きなんだよね。だから、精一杯全力で応援してやりたいんだ」
エリザが見つめるその先には、リゼルに羽交い絞めにされたまま、周囲の少女たちが『ローテーション』の順番を決めはじめたのを涙目で見守る、魔王ネザクの姿があった。
──敗戦後、エクリプス王国の国王エルスレイは、多額の賠償金と一部領土の委譲を条件に、虜囚の身からの解放を果たしていた。
しかし、国に戻ってからの彼は、それまでの辣腕ぶりが嘘のように無気力な日々を過ごしている。国内の統治を優秀な部下に任せ、あれほどこだわりを見せていた軍事に関しても、敗軍の再編にすら一切携わろうとしないのだ。
城内の人々は、国王は敗戦を経験してから、まるで人が変わってしまったかのようだと噂しあっていた。その『敗戦』の結果、エレンタード王国のみならず、攻撃を仕掛けていた森林国家ファンスヴァールにまで多額の賠償金を払わされることになったこともあり、無気力にして怠惰な国王の姿は、ますます人々の白眼視の的となっていくのだが、エルスレイはそれでもなお、動かない。
「……くそ。こんな、こんな屈辱的なことがあるか」
私室で一人、忌々しげにつぶやくエルスレイ。
カグヤとアズラルの黒魔術は、彼から自由意思を剥奪してはいなかった。だが、自由そのものは剥奪されているに等しい状況だった。
「こ、このまままで、このままで終わってたまるか……ぐ、ぐああああ!」
彼が他国に対して野心を抱くとき、全身に凄まじい激痛が走る。それが二人が仕掛けた術だ。条件発動型にして、永続型の黒魔術。黒の魔女と黒霊賢者ならではの、恐ろしく手の込んだ『呪い』である。
こんな状況では、国政に携わることなど不可能だ。慎ましく、野心を抱かずに王としての職務を遂行することなど、この男にできるはずがないのだから。
「アズラルめ。俺を、この俺を、どこまで愚弄すれば……」
自分を殺さず、生き地獄のような目に遭わせてくれた弟に、呪詛の言葉を吐きかけるエルスレイ。だが、彼から自由意思を奪わなかったのは、アズラルのせめてもの兄に対する情けだった。しかし、自分より劣るはずの弟から情けをかけられているなどと、この男が認めるはずもない。
「うぐ! うがあああああ!」
彼は私室の寝台の上で、転げまわる。こんなとき、彼には心配してくれる家族がいない。正室や側室、後継者となるべき子供たちがいないわけでもないが、日に日に不機嫌さを増す彼の態度に、誰もがこの部屋に近づこうとはしなくなっていた。
とはいえ、これだけ大声を上げていれば、誰か使用人ぐらいは様子を見に来そうなものだ。
〈苦しそうだな?〉
だから、最初にそんな声が聞こえてきた時、エルスレイは無礼な口のきき方をする使用人を叱責するつもりで顔を上げた。しかし、声がしたはずの場所には、何もない。
〈残念ながら、我が姿は肉眼では確認できん。こうして君に話しかけることができるのも、この国に残る強力な『蒼』の気配。……と言ってもわからぬか。『亡霊船』とやらいう霊戦術の名残のおかげなのだからな〉
「な、何者だ!」
エルスレイは姿の見えない声の主に、言いようのない恐怖を感じて叫ぶ。
〈恐れずともよい。わたしは君に取引を持ちかけたい。君が優れた術師であるのは好都合だが、優秀過ぎるのが玉に瑕だな。少々邪魔な『モノ』がある〉
「なに?」
〈君がソレを捨て、わたしを受け入れるなら、君の心を縛る鎖を外してやろう〉
「何のことだがわからぬが……、この術式を解くだと? そんなことができるものか」
姿なき声の主に圧倒されたエルスレイは、己が既に取引に応じることを前提とした発言をしていることに、まったく気付いていなかった。
〈できるとも。なぜなら、わたしの名は……ミナレスハイド。世界の叡智を知る霊賢王。小賢しい人間どもの術式など、わたしに読み解けぬはずはない〉
「ミ、ミナレスハイド……?」
それは彼が『亡霊船団』の旗艦に付けていた名でもある。叡智を司る霊賢王という存在に、彼自身が憧れに近い感情を抱いていたがゆえの命名だったが、まさか当の霊賢王に遭遇する機会があるとは、夢にも思わなかった。
「……そ、それが本当だとして。ならば、見返りはなんだ?」
〈簡単なことだ。その身体を借りたい。我が精神の憑代としてな〉
「馬鹿な! そんな条件が受け入れられるはずがない!」
〈案ずるな。借りると言っても一時的に過ぎん。霊界における『第三階位』──冥府血統ブルーブラッドを媒介に、わたしがこの星界に新たなる命として生を受けるまでの間だ。そのために、君の人としての肉体……否、『男』としての肉体を使わせてもらう〉
「……い、意味が分からぬ」
〈まあ、そう急くな。夜は長い。ゆっくり説明してやるさ〉
霊賢王を名乗る声は、エルスレイの心にゆっくりと言葉の毒を染み込ませていく。
次回「第77話 吸血の姫と霊賢王の毒(下)」




