第59話 少年魔王と霧中の戦い(上)
既に空からは『蒼月』も消え、街路樹が並ぶ大通りには、冷え冷えとした空気が漂っていた。昼になれば喧騒が満ちるだろう街並みにも、人の気配はほとんどない。
そんな中、ゆっくりと歩みを進める数人の集団がある。先頭を歩くのは、見目麗しき一人の少年。艶やかな金髪が朝日にきらめき、その瞳には赤い輝きが宿る。霊戦術による魔力の加護が付与された魔導師風の衣装をまとい、颯爽と歩くその姿には、かつての弱気な少年の面影など微塵も残ってはいなかった。
「敵はルーヴェル英雄養成学院にあり……ね」
カグヤは、そんなネザクの背中を満足げに見つめて呟いた。ただ、その声音には、わずかに複雑な感情が垣間見える。
五英雄に関して言えば、少なくともアルフレッドは、主君の救出と首都奪還のために動いているはずだ。『亡霊船』の製作者であるアズラルも同行している可能性は高い。アリアノートの動向こそ把握できていないが、場合によれば、全員が出払っている可能性もある。
とはいえ、学院で待ち受けているであろうエリザには、ネザクも前回の戦闘において多少の苦戦を強いられた。実際、あの赤毛の少女の強さは、カグヤの想像をはるかに超えるところにあった。だからこそ、どうしてもここで排除してしまいたい相手でもある。
「……ネザク。場合によっては、本当にあの子を殺すことになるかもしれないわよ? 覚悟はあるの?」
「うん。……でも、そんな心配もないと思うよ」
静かな口調で語るネザクの声にも、迷いの色は既にない。
「どういうこと?」
「……あの戦争を機に、僕の知名度や印象度は桁違いに上がったでしょう? その証拠に、こうして『ルナティックドレイン』を使っても、宿に残してきたルカさんやリラさんだって、全然平気そうにしていたしね」
ネザクは赤く輝く瞳に自信をみなぎらせて、カグヤの方へと振り返る。
「残念だけど、エリザが相手でも、もう勝負になんかならないよ」
「ネザク……」
殺すまでもなく、圧倒的な実力差で捻じ伏せる───そんな自信を口にする少年に、カグヤは後悔にも似た思いを抱く。他に道はなかったとはいえ、純真で無邪気だった少年を争いに駆り立て、力を着けさせて、こんな言葉を言わせたのは自分なのだ。
できることなら、彼には平穏で幸せな生涯を歩んでもらいたい。それが叶わぬ夢であることを知りながら、それでもカグヤはそう願う。
「ほら、カグヤがそんな顔してどうするのさ。いつも楽しそうに、自信満々に笑っているのがカグヤでしょう?」
そんな彼女の胸中を知ってか知らずか、ネザクはおどけたように笑ってみせた。
「……ふふ。そうね。じゃあ、張り切っていきましょうか!」
カグヤが笑うと、一同に笑顔が広がる。決戦を前にした緊張感が、一気に弛緩したかのようだった。
「よーっし! シュリも頑張る! いっぱい活躍して、後でエリックおじさまに褒めてもらうぞー!」
金虎族の少女、シュリが片手を頭上に突き上げて叫ぶ。彼女の自慢の『強化月獣』は、さすがに街中までは連れてこれなかったこともあり、合図で駆けつけてくるよう指示したまま、街の外に待機させている。
ちなみにエリックは、ルカやリラ、それにエレナたちの護衛役として宿の一室に残っていた。前回のように災害級の『魔』を彼女らの護衛とし、クレセント王国に残してくる形をとらなかったのは、今回の作戦で学園都市エッダを制圧できたなら、今度はこの都市を足掛かりにエレンタード王国を征服することを画策しているからだ。
残る『人間』の同行者は、イリナとキリナの双子の姉妹である。
「……あなたたち二人は、わたくしの背後に隠れていなさいな。せっかくの綺麗な『器』が傷物になるのはいただけないわ」
人にあらざるモノ──『死霊の女王』アクティラージャは、人間の女戦士が身に着けるような軽鎧(前の露出が高い衣装はミリアナが許可しなかった)に身を包んでいる。
「ありがとう、アクティ。……いよいよね、キリナ。覚悟はいい?」
「ああ。これが終われば、クレセントの身分制度は大きく変わる。頑張ろう」
アクティへの『真月』の供給役として戦闘に参加することとなった二人は、ネザクに対し、協力のための条件として、クレセント王国における『月影一族』を頂点とした身分制度の改革を求めた。
ネザクは二つ返事でこれを受け入れたのだが、後からそれを聞かされて、思わず頭を抱えてしまったのがエリックだった。
今まで『魔王軍』がまともな軍勢を維持しないままに各国で支配を続けていられたのは、その国の統治機構に手を出さなかったからだ。それを思えばその『条件』は、エリックに新たな頭痛の種を与えるには十分すぎる難題だった。
「さて、そろそろ学院も近いわ。……ふふふ、いつものとおり、宣戦布告から始めようかしら?」
学園都市エッダの中でも、比較的広大な敷地を誇るルーヴェル英雄養成学院。その敷地の周りには、囲うように背の高い塀が立っている。だが、大通りから一直線にたどり着ける正門の扉は、いつもと変わらず、来るもの拒まずとばかりに開かれていた。
「待って、カグヤ」
カグヤが意気揚々と黒魔術 《闇の語り部》を発動させるべく手を掲げようとしたところで、ネザクが彼女を呼び止める。
「どうしたの?」
「うん。こんなタイミングで言うのもなんだけど……でも、今だから、どうしても言っておきたいことがあってさ」
「言っておきたいこと?」
真剣な顔で自分を見上げるネザクに、きょとんとした顔で応じるカグヤ。
「……こんな僕を、今までずっと護ってくれてありがとう。もう、大丈夫だから。僕は強くなったよ。だから、これからは……僕が『お姉ちゃん』を護ってあげる」
「……え?」
赤く輝く瞳に見つめられ、カグヤは驚きに顔を染めていた。
「………………」
呆気にとられたように固まり、身動き一つしないカグヤ。
「あ、あれ?」
ネザクは自分の言葉に対するカグヤの反応が無いことに、戸惑いの表情を見せる。
「カグヤ、大丈夫ですか?」
カグヤの身体が小刻みに震えはじめるのを見て、それまで黙っていたリゼルアドラ(大人バージョン)までもが心配げに声をかける。
「……うふ、うふふふ! や、やったわ! ネザク! あなた、今、わたしのことを『お姉ちゃん』って呼んだわよね?」
「え? あ、う、うん……」
照れくさそうに頭をかきつつ、顔を真っ赤にして頷くネザク。
「か、可愛い……」
「ああ、あの子、食べちゃ駄目かしら?」
「駄目だ。あの子は食べるものじゃなくて、愛でるものだぞ。アクティ」
イリナとキリナ、そしてアクティまでもが頬を緩ませ、蕩けるような目でネザクの顔に見惚れている。
「あ、あのね、カグヤ。その呼び名のことじゃなくてさ……僕が言いたかったのは……って、聞いてる?」
「ええ、聞いてるわよ! ようし、任せておきなさい! 今のお姉ちゃんは、これまでのお姉ちゃんじゃないわ。生まれ変わった『新しいお姉ちゃん』いわば、『新・お姉ちゃん』なのよ! いいえ、『真・お姉ちゃん』と言うべきかしら?」
ガッツポーズで力説を続けるカグヤに、ネザクはがっくりとうなだれる。
「うう、せっかく勇気を出して言ったのに……なんだか話がおかしな方向に……」
そんな風にうつむいてしまったせいか、彼は気付かなかった。カグヤが目の端の涙を軽く拭い、小さくつぶやいたことに。
「……わたしの方こそ、ありがとう。こんなわたしの『弟』でいてくれて」
「カグヤ?」
代わりにその顔を覗き込むようにしてきたのは、リゼルだった。紫紺の瞳には、何の感情もないように見えて、どこかカグヤを気遣っているようにも見える。
「ああ、リゼル。心配かけてごめんね。今回の宣戦布告には、あなたも協力してくれる?」
「わたくしは、承知した」
リゼルは両手を真上に掲げる。
「発動、《虐殺の黒月》」
生み出されたのは巨大な黒球。それは学院内の敷地に向けて、不可視のプレッシャーを放ち続ける。《虐殺の黒月》は本来、ただのイメージに過ぎない。だが、強力なイメージは対象の心理状態を強制的に書き換える力がある。よほど強靭な精神力でもない限り、これに耐えることは不可能だ。
案の定、未だ就寝中の者も多かったはずの学院敷地内の人々は、何かに怯えるように慌てて外へと飛び出してくる。
「さて、じゃあ行くわよ。発動《恐怖の語り部》」
上空に出現する闇の口。しかし、これはそれまでのものとは違う。見た者の心に言葉を届けるのではなく、言葉を聞く者の心に恐怖を刻む魔法。
〈我は魔王。愚かにも我に歯向かう者どもに、惨たらしくもおぞましい、最悪の死を届けよう。さあ、恐怖に追われて逃げ惑え。業火に焼かれて泣き叫び、四肢を裂かれて呻き悶えよ。嘆き悲しみ、絶望の果てに狂い死ね。それこそが、我が喜びにして、我が望みなり〉
言葉はイメージとなって人々の脳裏に焼きつく。学院内は一瞬で大混乱に陥った。学生、教師、その他の職員を問わず、黒魔術に耐性を有しないものは全員、狂乱の中で学院内を逃げ惑う。
「上出来ね。さあ、行くわよ。みんな!」
「うん。行こう」
カグヤの恐ろしい口上を聞いても、ネザクは抗議の言葉ひとつ発さず頷いた。
門をくぐると、さらに奥に向かって道が伸びており、途中でいくつかに分岐しているようだった。左手には守衛室があるが、先ほど警備員が泣き叫びながら逃げて行ったため、今は無人だ。
「エリザたちなら、今ので逃げたりはしてないだろうけど、どこにいるかはわからないね」
「性格的には、真正面から迎え撃つタイプなんでしょう? 彼女は。だったら戦いやすそうな広い場所がいいんじゃない?」
カグヤは適当に目算を付けると、訓練用のグラウンドがあると思われる方へと歩き出す。
「あ、カグヤ。待ってってば! 先に行ったら危ないよ!」
ネザクが慌ててその後を追い、シュリ、イリナ、キリナの三人もそれに続く。
「……ねえ、あなたって本当に、あのリゼルアドラなの?」
「わたくしは、リゼルアドラ」
ゆっくりと人間たちの後について歩きながら、会話を始める二体の『魔』。
「……信じられないわね。いえ、あなたが強いのはわかる。でも、今のあなたは、かつて星界に無数の『死』を振りまいた『絶望の王』の名を持つ者とは、到底思えないわね」
「意味が分からない」
暗愚王──逆らうも愚かなり。闇の主にして、絶望の王。
かつて数百年前の『ルナ・ハウリング』において、無数の『魔』によって白く染まりかけた星界を、たった一人で黒く塗りつぶす寸前まで追いやったとされる存在。
だが、彼女は、アクティの言葉にも首をかしげるばかりだ。闇色の髪がさらりと流れた。
「この星界で『他者を殺す』ことこそが、あなたの王としての、唯一無二の『本能』ではなくて?」
「わたくしは、ネザクを護る」
「ええ、彼は可愛いものねえ。でも、カグヤはどうして? 彼女はただの人間でしょう?」
アクティは掴みどころのないこの魔人から、情報を入手するべく問いかけを続ける。彼女が『星辰の御子』に辿り着くためには、どうにかしてリゼルやカグヤを出し抜く必要があるのだ。
「カグヤは……わたくしの、『あこがれ』だ」
「え?」
どういうことなのか? そう問いかけようとしたところで、前を歩く人間たちの方から声がした。
「みんな、止まるにゃん! 敵の気配がする」
霊戦術師でもあるシュリは、索敵の魔法を続けながら警戒の声を発していた。
「もうなの? せっかちね。まだグラウンドにはついていないわよ」
カグヤは冗談めかして言いながらも、油断なく周囲を見渡す。
「……霧?」
それほど濃いものではない。だが、確実に周囲の見通しが悪くなるような霧だった。
「……ネザク。念のため、何体か『魔』を召喚しておいたら? シュリも外の『月獣』に合図を」
「うん」
「りょーかい」
カグヤに促され、二人が動こうとした、その時だった。
「危ない! カグヤ姉さま! 発動、《黄金の爪》」
シュリが叫ぶ。彼女は魔闘術で生み出した金色の爪を振りかざし、カグヤに迫る人影に向かって叩きつける。
「うきゃあ!」
鈍い激突の音。カグヤが振り向いた先には、襲撃者の姿は無く、弾き飛ばされたように地に転がったシュリだけがいた。
「シュリさん! その腕……」
ネザクが叫ぶ。彼女の腕の骨が、二の腕の半ばほどで折れていた。
「大丈夫にゃ……。こ、こんなの、すぐに魔法で治せるから」
青ざめた顔で言いながら、治癒の魔闘術を発動させるシュリ。
「……ネザク、『魔』を。それからシュリ。あなたも早く『月獣』を呼びなさい。……油断したわ。まさか、こんな小細工をしてくるなんてね」
「シュリ、知ってる。あいつらの中に、こういう作戦みたいなのが得意な女がいるよ」
シュリは、かつて戦場の上空でルヴィナと対峙した時のことを思い出しつつ、口笛を吹き鳴らす。
「……おいで。『グラウルダロス』」
ネザクの声と共に、虚空からにじみ出るように出現する『魔』。
暗界第八階位の災害級、『堕剣士グラウルダロス』。漆黒の鎧をまとう騎士のような立ち姿。兜の中には黒い肌の武骨な顔。その瞳には空ろな闇だけが佇み、手には暗血色をした巨大な刀を持っている。
「一体じゃ、心許ないかな」
そう言って、『堕剣士』に手をかざすネザク。だが、再び──
「危ないにゃん!」
シュリが素早く危険を察知し、再びカグヤへと迫る影に向かって蹴りを繰り出す。その一撃に、たまらず敵影は霧の中に消えていくが、シュリもまた、着地もできずに地に転がった。
「うあ、ああ!」
今度は脚の骨を折られている。
「う、うう……!」
骨折の痛みのためか、目に涙をにじませながら治癒を開始するシュリ。
「……汚いわね。これが狙い?」
シュリの苦しむ姿を見つめながら、カグヤが唸る。その声は怒りに震えているようだった。ここまでくれば、敵の狙いは明らかだ。標的はカグヤではない。彼女を護ろうと防御行動に出るシュリである。
魔闘術で強化している彼女の腕や足を折るには、最初からそのつもりで狙った攻撃が必要だ。少なくとも、カグヤに直撃させるつもりの攻撃を『途中で防がれた』のであれば、二度もこんな結果にはならないだろう。
「う、うう……」
そして、そんな回りくどい方法を採った理由も明らかだ。シュリは怪我が治った後だと言うのに、顔を青褪めさせたまま呻いている。それもそのはず、彼女はこれまで、戦争で怪我を負うようなことを経験していない。
『骨折』と言葉で言うのは簡単だが、それは重傷の部類に入る怪我だ。その痛みや折れた瞬間の何とも言えない気持ちの悪さは、味わってみなければわからない。いくら直後に治療できるとしても、それに慣れていないシュリには、これで本能的な恐怖が染み付いてしまった。恐らく次の攻撃には、反応しきれないだろう。
「シュリさん。もうすぐ『月獣』が来るんでしょう? 後はそっちの操作に専念してよ。護りなら、僕のグラウルダロスたちに任せれば大丈夫だよ」
いつの間にか、彼らの周囲には五体もの堕剣士が出現しており、刀を構えている。彼らは、一体一体が数百数千の軍勢が束になっても敵わないと言われる災害級の『魔』だ。そうしているだけで、まさに壮観の一語に尽きる。
「嘘でしょう? あの子……本当に、でたらめね。召喚した『魔』を白霊術で複製するなんて……」
驚きに目を丸くするアクティラージャ。一体しか存在しないはずの災害級を複数同時に操る力。そして、数千体もの『魔』を具現化維持できる力。それこそがネザクの特異能力の1つ、『ルナティックミラー』だった。
「気に入らないわね。これが英雄の……アイツの弟子のすることかしら?」
自分でも理由のわからない苛立ちを覚えつつ、カグヤは黒魔術 《心絡める蜘蛛糸》を準備する。と、そこへ、再び襲撃してくる敵の気配。やはりシュリの反応は遅れた。『グラウルダロス』たちは、気配に向けて刀を振りかざす。だが、大地ごと断ち割らんばかりの剛剣を、敵影は巧みにすり抜けてくる。
「なんなの、こいつ!? 精神干渉が効かないわ! リゼル!」
「わたくしは、承知した」
リゼルが飛び出し、鋭く拳を叩きつけると、敵の身体は鈍い音とともに粉々に砕け散った。
「え? 人形?」
愕然とするカグヤ。ただの魔動人形に、シュリの手足を折るような真似ができるはずがない。さらに言えば、『グラウルダロス』の包囲を突破することなど、あらかじめ決められた動きしかできないはずの魔動人形などにできるものだろうか?
「……アクティ! この霧、どうにかならないの?」
後ろでイリナが焦ったように声を上げる。
「……仕方がないわね」
アクティとしては、エリザの気配を霊戦術で探り、リゼルたちを出し抜くには、見通しが悪い状況は歓迎すべきものだった。とはいえ、ここでイリナの指示を無視するのは不自然過ぎる。
「……発動、《幽玄の風》」
突如として起こった強風が、周囲の霧を吹き払っていく。
「な、何なのよ、これ……」
驚くべきことに、ネザク達の周囲には、十体ほどの黒い人形たちが立っていた。
次回「第60話 少年魔王と霧中の戦い(下)」