第54話 英雄少女と星心克月(下)
アズラルの見せる悪夢。それは、どうやっても抗いようのない強大な敵を前に、なす術もなく打ちのめされ、叩き伏せられるというものだ。
普通の夢との違いは、それがあたかも現実のような痛みを伴うことである。もちろん、叩きのめされること自体が目的なのではない。勝てない相手に抗い、戦い続けることに意味があるのだ。時に大切なものを奪われ、壊され、殺されて、怒りと恐怖と悔しさと無力感にさいなまれて、それでもなお、覚めることのない悪夢。肉体的な苦痛以上に耐えがたい、精神的な苦痛。
常人なら気がおかしくなっても不思議ではない。アズラルは一応のコントロールをアルフレッドに約束したが、それでも絶対の保証などなかった。人の心がどんなきっかけで壊れるかなど、誰にも予測はできないのだ。
アズラルによれば、『星心克月』のきっかけは、人それぞれだ。だが、共通して言えることは、それぞれが抱く『強くなりたい』という思いが重要だということだった。
だからこその、このシチュエーション。四人が四人共に、異なる悪夢の中で、共通した苦痛を味わい続けている。
そして、この地獄のような悪夢における『敵』とは、己が最も見つめたくないものの形をとって現れる。
ルヴィナの場合、それはかつて、自分という存在を『いないもの』として扱い続けてきた同族──月影の一族だ。エルフと月影一族の混血という不名誉な存在である彼女を『忌み子』として無視し、一族としてさえ認めなかった彼らが召喚する無数の『魔』を前に、絶望的な戦いを強いられている。
ルーファスの場合、それはかつて、己の命を救ってくれた新緑の髪のハイエルフだ。十代の半ばにも達していない年齢であった当時にして、既に『最強の魔法使い』の称号を欲しいままにしていた少女。ダークエルフとして生まれながら、彼が『魔法使い』の道を選ばなかった最大の理由。憧れであり、同時に劣等感の対象でもある五英雄を前に、絶望的な戦いを強いられている。
──そして、エリザ。
彼女の目の前には、『魔王ネザク』の姿がある。
「君は普通じゃない。君はみんなとは違う。君は異常だ。だから君だって、わかってたはずだよ?」
掌から放たれる電撃は、エリザが防ぎ切れないほど広範囲にわたって撒き散らされる。
「……くう!」
身体に走る痺れに呻き声を漏らすエリザ。
「英雄になって、皆のために戦いたい? もうそんな嘘をつくのはやめようよ」
「………」
エリザは答えない。
「あれ? だんまりかい? 君の両親、兄弟、近所の友達、親しかった人たちは皆、君を『化け物』のように感じていたはずさ。心優しい彼らは、そんな素振りを欠片も見せなかったけれど、心のどこかで君はそれを知っていた。……だから、だから君は」
夢の中の『ネザク』は、現実の彼からは想像もできないような酷薄な笑みを浮かべ、エリザを追い詰めていく。
「…………」
しかし、エリザは沈黙を続ける。
「──英雄に、なりたかった。化け物な自分でも、『英雄』ならば受け入れてもらえるはずだと考えた。ははは! おかしいね。皆のため? とんだおためごかしだよ。だってそれって、どう考えても『自分のため』じゃないか」
『ネザク』の掌から、リンドブルムの炎のブレスが放たれる。
「…………」
エリザは無言のまま、巨大な楯でそれを防ぐ。なおも回り込む炎が、彼女の身体をじりじりと焼き焦がす。
「君は誰にも負けなかった。何をやっても誰よりも強かった。君はみんなと同じでいることができなかったんだ。寂しかったよね? 孤独だったんでしょう? でも……そんな時、君は見たんだ。お伽話の英雄たち──彼らこそ、『人間離れした力』そのものをもって、その存在意義を認められている。ああ、なんて素敵な存在だろう。君が憧れるにふさわしいよね?」
『ネザク』の背中に、漆黒の六枚羽根が広がっていく。
「ネザク、お前は!」
ここではじめて、エリザが叫んだ。
「何をそんなに怒っているのかな? いいじゃないか。君には力がある。その力で、周囲を圧倒して、英雄になって、皆に敬われて、そうして受け入れられていく。それが力ある者の義務……いいや、『権利』でしょ?」
悪夢による補正と言うべきなのか、かつて対峙した時よりも迫力を増した六枚羽根がエリザに迫る。
「…………」
エリザは黙って立ち尽くし、正面から襲いくる堕落天王の翼をぼんやりと眺めていた。そして、そのまま弾き飛ばされ、激しく地面を転がっていく。まるで人形のように力無く、仰向けに倒れて起き上がらないエリザ。
「もうおしまい? つまらないな。でも、よかったね。君にも勝てない相手がいたわけだ。でも、よくないのかな? 『魔王』に勝てなきゃ、『英雄』にはなれないもんね?」
これら一連の言葉はすべて、アズラルの術がエリザ本人の心理を読み取り、ネザクの姿をした存在に言わせるのに、もっとも彼女を苦しめるだろう言葉を選択した結果だった。つまりそれは、彼女にとって心の傷をえぐられ、さらには塩を塗りつけられるようなものだったはずだ。
しかし、彼女は───
「あはははは!」
大声を上げて笑っていた。そしてそのまま、勢いよく飛び跳ねるようにして立ち上がる。
「…………」
ここではじめて、『ネザク』が口を閉ざす。何故かその顔には、戸惑いのような表情が見てとれた。
「さっきから、わけのわからないこと言ってくれてさ。馬鹿じゃないのか?」
「…………」
開き直ったように笑うエリザを前に、『ネザク』は沈黙を保っている。
「そんなの、決まってるだろ? あたしは、自分のために『英雄』になるんだ。皆のために戦って、皆に褒めてもらって、憧れてもらえるような、そんな英雄になりたい。その気持ちに嘘はない」
「…………」
『ネザク』は身動き一つしない。まるで石のように固まっている。
「でもさ……ネザク。お前はどうなんだろうな? 『魔王』になることが、本当にお前のためなのかな? それは世界征服のための手段だってお前は言うけど、皆を敵にまわして戦って、皆に嫌われて、恐れられて……そんなの、寂しいじゃないか」
「…………」
「世界征服がお前の夢なら、あたしはそれを応援したい。いいじゃん。素敵な夢だよ、それ。……でも、『魔王』は駄目だ。だから、あたしは……『魔王』を退治するんだ!」
凛として立つ少女の手には、真紅に輝く一振りの剣。
「ああ、駄目だな。こんな『偽物』に何を言っても仕方ないもんね。……ネザク。あたしは、お前に会いたいよ。会って、もっとたくさん話がしたい。だから、こんな『偽物』には用はないな」
エリザが抱えていた本当の葛藤は、『魔王ネザク』が語った言葉の中にはなかった。それがどんなに彼女の心の古傷をえぐろうと、そんなことは問題ではなかった。
彼女は、そんなことに思い悩んでいたわけではなかった。かつて夢を誓い合った少年、ネザクと今一度、戦えるかどうかだったのだ。
「異常な自分は普通に生きてちゃいけないだって? 馬鹿を言うな! そんなこと、誰が決めたんだよ! お前はお前が生きたいように生きればいい! 他の誰が許さなかったとしても…………あたしが許す!」
迷いを断ち切る真紅の斬撃。アズラルの術により、絶対に勝てないものとして『設定』されている敵を、彼女はついに倒してしまう。それは彼女の規格外の力の為せる業……というより、アズラルの想像を越えた彼女の心の在り方そのものの為せる業だった。
「うわ! わわ!」
世界が軋む。想定外の事態に夢の世界が壊れていく。それと同時、彼女の意識は一気に覚醒段階まで引き上げられる。
「──あ、あれ?」
ぼんやりと明るくなっていく視界の中に、黒縁眼鏡をかけた呆れたような青年の顔が映り込む。
「……まったく、どこまで非常識なんだ。君は、少しばかり異常過ぎやしないか?」
エリザは寝台から身を起こしながら、その言葉に笑って答えた。
「あはは。だって、あたしは世界最高の英雄になる予定なんだよ? ちょっとやそっと、異常で当然だよ」
「……まあ、そうなんだろうね。……で、何か掴めたかい?」
「うん。この特訓、すごく役に立った。あたしはきっと、もっともっと強くなれるよ」
迷いのない、澄み渡る青空のような晴れやかな笑み。アズラルはそれを見て、思わず目を細めてしまう。
「あれ? そう言えばエドガーは、どうして起きてるの?」
「え? ああ。彼はほら、『修羅の演武場』での修業経験もあるからね。一足先に起きてもらっても大丈夫だったんだよ」
アズラルは立て板に水の勢いで、すらすらと嘘をつく。脇で見ていたエドガーが思わず呆れてしまうほどの流暢な語り口だった。
「なんというか、詐欺師みたいな人だな……」
小さい声で呟くエドガー。
「じゃあ、エドガーは一歩先に行ってるんだ?」
「そういうことになるね」
「……やっぱり、あたしも行けばよかったなあ。演武場」
エリザの言葉に、エドガーは呆れたように肩を落とす。
彼は訓練に先立ち、万全の状態を整え、対策を十分に取ったうえで、あの演武場に挑んだ。それでも毎回、半日と耐え切れずに逃げ出す羽目になることが多かったのだ。それだけに、あの場所の恐ろしさは誰よりも身に沁みていた。
「とはいえ、今日の訓練で君は殻を破ったみたいじゃないか。星喚術しか持たない君の『星心克月』がどんなものなのか、僕も楽しみだよ」
「なんだか、騙されてる気がするなあ……」
意外に鋭いエリザだった。だが、アズラルは素知らぬ顔を押し通す。
「ははは。まあ、それより、他の皆の様子はどうかな?」
言いながら、アズラルは残る三人の様子を確認する。相変わらず、悪夢に苦戦を強いられているのか、ルーファスもルヴィナも苦しそうだ。
だが、そんな中、一人異彩を放っているのはリリアの様子だった。彼女は、寝台の上で規則正しい寝息を立てている。悪夢を見せられているはずなのに、術は間違いなく成功しているはずなのに、苦しむ様子が全くないのだ。
過去に何回か試してみた結果でも、同じことが起きている。目を覚ませば、確かに一応は悪夢を見たと語るのだから、術がかかっていないわけではない。
だが、いつもより「きつめ」にかけた今回は、さらに大きな変化が起きていた。いつもより強い負荷があるせいか、わずかに歪むリリアの表情。それが見えた瞬間だった。
リリアのプラチナブロンドの髪。そこに、わずかな黒い雷光めいたものが走る。
「……《黒雷破》? でも、どうしてこのタイミングで?」
アズラルは小さくつぶやく。そうこうしているうちにも、黒い雷光はリリアの全身をうっすらと覆いはじめ、少しだけ苦しそうな表情を見せていた彼女は、だんだんと穏やかな顔に戻っていく。
「黒魔術を中和している?」
アズラルは思案顔のまま、リリアを見下ろす。
黒魔術を使って精神に負荷を与えることにより、『星心克月』を習得させるこの訓練において、この現象は明らかな妨げになっている。
アズラルには、リリアに『星心克月』を会得させまいとする、『何者か』の意志が働いているようにさえ見えた。
「先生。これ、なんなの? リリア、大丈夫かな?」
さすがに異変に気づいたのか、エリザが心配そうに聞いてくる。
「大丈夫だよ。心配はいらない。まあ、プラグマ伯爵領はエクリプスの属国だし、……そうでなくとも僕自身、『吸血の姫』の話は色々と研究してはいたけれど……まさかここまでとはね」
「どういうことなの?」
「あの国には伝承があってね。いわく、『純血の娘、限りなく澄んだ水。吸血の姫、宿す乙女の純潔。輝く水面に映る影。如何なる色を映そうとも、ついには我が蒼に染まれ、愛しき花嫁』……だったかな?」
「先生……あたしにわからせるつもりないでしょ?」
エリザはアズラルに恨みがましげな眼を向ける。それを受け、アズラルは苦笑しながら肩をすくめた。
「彼女自身は霊戦術師のようだけど、同時に《黒雷破》や《白炎陣》みたいな他の四術に近い性質の特異能力も有しているんだ。ここで問題なのは、そのうちのひとつ、《黒雷破》が僕の黒魔術を阻害しているってことだね」
「リリアが術に抵抗しているってこと?」
「いや、そうじゃない。『吸血の姫』の特異能力は、彼女の『純潔』を守るために必要なら、ほとんど自動で発動するらしいからね。だからこそ、厄介だ。……残念だけど、彼女はこの方法で『星心克月』を習得するのは無理だろう」
「そうなんだ……」
残念そうにうつむくエリザ。すると、そんな彼女の腕を掴むものがあった。
「リリア?」
いつの間にか寝台の上で目を覚ました、リリアだった。身に纏う《黒雷破》は、すでに消えている。
「……まったく、どうしてあなたがそんな顔をしてますの」
リリアは、ゆっくりと身を起こす。物憂げな表情は、先ほどまで悪夢を見せられていたのが理由というわけでもなさそうだ。
「今の話、聞いてたのかい?」
「はい。でも……そんな伝承、初めて聞きましたわ」
「そうかい。僕は、ゆえあって古文書の類を相当読み漁っているから知っていただけだし、まあ、あまり一般的な伝承ではないだろうね」
アズラルが言うと、リリアはやれやれと言いたげに首を振る。
「限りなく澄んだ水。マハの花嫁。あの忌々しい魔人が言っていたことも、その伝承と関係があるのでしょうけど……自分が何者なのかなんて、知りたくないものですのね」
「リリア……」
珍しく沈んだ声を出すリリアに、エリザもかける言葉が見つからないようだ。
「……『マハ』の花嫁ね。その呼び名は初めて聞いたけど……あまり穏やかな話じゃないな」
「先生?」
アズラルの意味深なつぶやきに、顔を上げるリリア。
「……それが『吸血の姫』だってわけか。……でも、だとするならば……なおさらだよ」
「どうかされたのですか?」
「君は、『星心克月』を会得するべきだ。何が何でもね」
「え? でも、わたくしには難しいのでしょう?」
「いいや、君ならではの方法がある。『吸血の姫』の真価はね。澄んだ水面に色が映るかのように、あらゆる力を吸血能力──《鏡化吸月》によって使用できる点なんだよ」
「ええ、そうですわね。でも、それが何か?」
首を傾げるリリア。自分の特異能力については、故郷でも一応の教育は受けている。今さら聞かされるまでもないことだ。
「……だから、エリザに協力してもらうのさ」
「ふえ? あ、あたし?」
突然話を振られ、エリザは驚いたように目を丸くする。
「そう、君だ。君の魂には極めて強い『星辰』が宿っているうえ、星界の誰もが有しているはずの『真月』を持っていない。つまり、生まれつき『星心克月』を会得しているようなものだ。だから、そんな君から『吸血』すればきっと……」
「ちょ、ちょっと待ってくださいな、先生。わたくしの『吸血』は一時的なものですわ。それでは会得したなどと言えないのではなくて?」
焦ったように割って入るリリア。だが、アズラルは首を振る。
「一時的なのは、一時的にしか『吸血』しないからさ。エリザから定期的に『吸血』を続けていれば、いつかは君自身にも『星の力』が宿るはずだ。本来なら僕たちにとって、『星辰』は『真月』より馴染み深い力なんだからね」
「ば、馬鹿なことをおっしゃりやがらないでくださいな! 定期的に吸血なんて……ど、どこの世界に、そんな真似を許すような非常識な人間がいますの!」
リリアは顔を赤くして声を張り上げる。だが、その直後。
「ん? ここにいるよ?」
言いながら、自分の首元をむき出しにするエリザ。
「ああ! もう、そう言うと思ったから機先を制しましたのに……」
「あはは! 駄目だよ。あたしにとって、『非常識』は褒め言葉だもんね」
満面の笑みを浮かべるエリザを前に、リリアはがっくりと肩を落とす。
「よし、そうと決まれば善は急げだよ」
何故かアズラルの声が弾んでいる。彼の目線は、露わになったままのエリザの首元に向けられていた。
「うん……少女が少女の首筋を甘噛みする。こんなにも背徳的で扇情的な光景も中々お目にかかれるものじゃないないよなあ……ぐふふ。 ささ! 遠慮はいらないよ。カプっとやっちゃってよ」
「………」
「………」
鼻の下を伸ばし、だらしない顔で言うアズラルに、少女二人から氷点下よりも冷たい視線が向けられる。
「とりあえず、一回死んでおこうか先生?」
「そうですわ。先生の変態さ加減も、百回ぐらい死ねば治るかもしれませんわね」
氷のように冷たい少女の声に、さしものアズラルも震え上がった。
「い、いや、ちょっと待とうか。君たちは知らないかもしれないけれど、実は人間って、そうそう何回も死んだりできない生き物なんだよ?」
半笑い気味の顔に、冷や汗を浮かべるアズラル。
「大丈夫だよ。先生は知らないかもしれないけれど、変態って、人間の内にはカウントされないらしいから」
爽やかな笑みで断言するエリザ。
「そんな『上手いこと言ってやったぜ』みたいな顔してるけど、それは『上手いこと』じゃなくて、『酷いこと』だからね!?」
そんなアズラルの叫びは無視される。
「できれば、最初の一回で『終わって』くださると、面倒が少なくていいのですけど……」
リリアは、爽やかとは言い難い冷酷な笑みでつぶやく。
「そんな『酷いこと言ってやってたぜ』みたいな顔してるけど、それは君が思っている以上に酷いことだからね!?」
そんな言葉を最後に残し──『戦場の悪魔』は断末魔の声を上げたのだった。
次回「第55話 少年魔王と繊月の器(上)」




