第47話 少年魔王と宣戦布告(上)
残暑も終わりを告げた蒼季の第24日。蒼季における『禁月日』から11日後のこの日、魔王ネザク・アストライアと彼が率いる魔王軍は、クレセント王国とエレンタード王国を隔てる国境線へと臨んでいた。
大国同士の国境線だけあって、ちょうどそこには防衛のための巨大な要塞が双方に築かれている。ネザクたち自身は現在、クレセント側の要塞に滞在しているのだが、エレンタード側の要塞には、特に動きらしい動きは見られない。
「どう思う、カグヤ?」
「……ま、五英雄でも甘さに定評のある男のいる国だし、無駄な戦いで犠牲者を出すのを嫌ってのことでしょうね。多分このまま進んでも攻撃してこないんじゃないかしら」
石造りの武骨な要塞内にある、質素な造りの作戦会議室。室内に設置された黒板には、国境線とお互いの要塞の位置関係が図示されている。テーブルに向かい合って座るエリックとカグヤは、今後の方針について話し合っているところだった。
「だったら、進んじまったほうがいいんじゃないか? 奴らの狙いはどう考えても、五英雄待ちじゃないか」
「いいのよ。どの道、相手にせざるを得ないんだし、敵陣深くで対峙するより戦いやすいでしょうしね」
こともなげに言うカグヤに、エリックはやれやれと息をつく。
「……まさか五英雄全員を相手に戦争を起こす日が来るとはな」
強大な敵ではあるが、それでもネザクの力や現在の状況を思えば、絶望的な戦いではない。エリックもここまで来てようやく、そう思えるようになっていた。
「ふふふ。全員じゃないわよ。ミリアナは軟禁中だし、アズラルはほら、ここにいるしね」
「…………」
途端に黙り込むエリック。その目は恨みがましげにカグヤに向けられているが、当の彼女は涼しい顔で笑っている。
「それにしてもあなた、髭を剃っただけで随分と印象が違うわよね」
「…………」
エリックは黙して語らないが、彼はあの日以来、朝の髭剃りを欠かしていなかった。リゼルが化けた猫耳少女。黒い子猫の『アズラエル』だと信じていた彼女に、髭のことを「気持ち悪い」と言われたことは、彼にそれだけの衝撃を与えていたのだ。
だが、それ以上の衝撃は別にあった。
「うう、髭のことは言わないでほしいな。ようやく忘れかけていたのに」
これは、テーブルの上で丸くなって目を瞑っていた黒猫の『言葉』。エリックが『天使』と思い、頬ずりを繰り返していたこの子猫は、黒霊賢者アズラル・エクリプスの分身体だ。エリックにとっては残酷極まりないことに、年齢にすれば三十絡まりの立派な成人男性である。
「……俺は今ほどアンタを殺してやりたいと思ったことはないよ」
「何よ。あなたが悪いんでしょう? アズラエルに夢中になって、あんなにもあなたのことを慕っているシュリのことを、全然大事にしてあげないんだもの」
「べ、別にそんなわけじゃなかったんだがな……」
口ではそう言うものの、エリックの顔には明らかに後悔の色がある。お人好しの彼には、当時、シュリに対して冷たい態度をとってしまったという自覚があった。そしてさらに、そのことを他ならぬシュリ自身から悲しげに告げられて、強い罪悪感さえ抱いていたのだ。
「……それはともかく、君たちは本当にアルフレッドたちと正面からやりあうつもりなのかい?」
「そうよ。文句ある?」
「……勝ち目はないと言っても無駄みたいだね」
黒猫の姿をした賢者は、諦めたように息をつく。
「なによ、心配してくれてるの? ふふふ、あなたも結構甘いのね。でも、あなただって知っているでしょう? 今の『魔王軍』がどれだけ強大なものになっているか」
カグヤの言葉どおり、今の魔王軍はかつてのものとは比較にならない兵力を有している。クレセント王国を征服してから約二か月が経過した今となっては、国内にネザクの名を知らないものはいない。地方行脚を繰り返したおかげもあって、その印象度も桁違いに高まっている。
それはつまり、ネザク自身の術の力が格段に強まっていることを意味する。
「……二十階位台の『魔』が、数千体だったかな。確かに、あれだけの兵力があれば世界征服も不可能じゃないよ。……彼らがいなければね」
五英雄を相手に数は無意味だ。アズラルは、そう言いたげだった。
「逆に五英雄さえ倒せば、世界は征服できたも同然ね」
あくまでポジティブな言い回しをするカグヤ。
「まあ、見ていなさい。実際のあの子の力は、『他ならぬ貴方』の想像すら、遥かに超えたところにあるんだから」
「…………」
意味深に笑うカグヤに、アズラルは沈黙するしかなかった。
──その数日後。
「カグヤ姉さま! 大変だにゃん! 向こうの砦にあいつらが来てるにゃん!」
いつもの戦闘用の装備に身を包むシュリは、血相を変えてカグヤの居室に飛び込んできた。
「ご苦労様。ようやくお出ましとは、アイツも随分と腰が重くなったものね」
カグヤは落ち着いた様子で、くつろいでいたソファから身を起こした。一方のシュリは、それどころではない。偵察に向かわせていたコウモリの『月獣』の視界には、彼女にとっての悪夢の象徴とも言うべき存在が映っていたからだ。
「え? アルフレッドだけじゃなくて、エリザまで来ているの?」
「う、うん……。あの時の連中、全員みたい。……あ、でも銀狼族の奴だけは来てなかったかな?」
「アルフレッド以外の五英雄は?」
「え、えーっと、うん。ハイエルフはいたよ」
「……アリアノートね。イデオンはやっぱり国に帰っているのかしら?」
「うん、イデオン様はいなかったと思う」
イデオンは、シュリにとっては祖国でもあるバーミリオンの国王だ。姿があれば気づかないはずはない。
「三人目を待つまでもないってこと? 舐められたものね。……リゼル。二人だけなら、あなた一人で十分よね?」
カグヤが静かに視線を向けた先には、ソファの隣で直立不動のまま、軍服に身を包む長身の美女がいた。闇色の髪には小さな紫のリボンがついている。
「まかせてほしいにゃん」
「……リゼル、語尾が直ってないわよ」
無表情のまま不似合いな言葉を口にしたリゼルに、さすがのカグヤも突込みを入れてしまった。クレセント城で少々、『遊び』を繰り返し過ぎてしまったようだ。
「カグヤ」
「なあに?」
「やはり、この姿でいないと駄目だろうか?」
そんなことまで聞いてくる始末だ。彼女の目的は言うまでもなく、ネザクを喜ばせることにある。彼が地方行脚から帰ってくるなり、黒いドレスを身に着けた猫耳少女の姿で彼を出迎え、驚く彼に『わたくしは、可愛いか?』と尋ねたのもそのためだ。
だが、破壊力がありすぎた。ネザクは顔を真っ赤に変えて、ろれつが回らない口調で意味不明な言葉を連発していたし、彼に付き従っていた双子の姉妹までもがリゼルの凶悪な可愛さに撃沈し、興奮気味に抱きついて離れなかった。
これではとても事態が収拾できないと判断したカグヤは、リゼルに変身を解くよう指示せざるを得なかったのだった。
「……この戦いで頑張ってくれたら、また変身してもいいわよ」
「わかった。わたくしは、頑張ろう」
こくりと頷くリゼル。
「ね、ねえ、カグヤ姉さま。シュリはどうすればいいの? シュリも頑張りたいにゃん」
「え? ああ、いつになく真剣ね。どうしたの?」
お金さえもらえれば、自分の活躍などどうでもよかったはずの少女の言葉を受けて、カグヤは興味深そうに訊き返す。
「うん。シュリ、エリックおじさまに褒めてもらいたいんだ」
軽く頬を染めるシュリ。一時期とはいえ、猫好きのはずのエリックから冷たくされていたことが、かえってシュリの彼に対する意識を変えてしまったようだ。加えて、最近になって無精ひげを剃り落とした彼の顔は、思ったよりも若々しく、それなりに美形でもあったというのもあるかもしれない。
「もちろん、あなたの『強化月獣兵団』にも頑張ってもらうわよ。あれから随分あなたの術も上手くなったし、ここぞと言う場面で活躍してもらうからね」
「うん。頑張る!」
「さて、ネザクを探さないとね。あの子はどこ?」
「うん。バルコニーに出て向こうの砦を見てるみたい」
最近では魔王の自覚が出てきたネザクを、周囲もそれなりに扱っていた。シュリも今回の報告はカグヤではなく、ネザクに対して真っ先に行っていたほどだ。
「そう。エリザが来ているとなれば、あの子も複雑かもしれないわね」
言いながら立ち上がり、部屋を出るカグヤ。
頭の回転が速い彼女は、すでに今後の作戦についての策を練り上げている。
だが、そんな彼女も万能ではなく、敵の考えをすべて見透かせるわけではない。そして何より、五英雄もまた、二度も辛酸を舐めさせられている相手を舐めるほど愚かではなかった。間もなくカグヤは、そのことを強く思い知らされることになる。
バルコニーに出たネザクの目には、遠く離れた場所に立つ巨大な石造りの要塞が見える。クレセント王国のそれより優雅に見えるのは、やはり中央の華ともいうべきエレンタード王国の建築様式が反映されているからだろうか。
「……エリザ。いよいよだね。僕と君、どっちの夢が叶うか。勝負だよ」
小さくつぶやく。彼は一人だった。普段ならこんな場合でもリラやルカ、あるいはイリナやキリナといった女性陣が傍にいることが多いのだが、その四人は今、クレセント城にいる。
かつてない厳しい戦いになることもあり、ルカとリラはさすがに連れてはこれなかったし、双子の姉妹も前線に駆り出すわけにはいかなかったからだ。幸いにも年が近い四人の少女は、お互いの『趣味』も一致しているせいか、意気投合して仲良く過ごしているようだ。念のために二人のメイドの護衛として置いて来た災害級の『魔』も、必要なかったかもしれないほどである。
ぼんやりと要塞を見つめるネザクは、ふと国境付近を何者かが駆けてくるのを見た。防衛線として配置している無数の『魔』や『強化月獣』を蹴散らしながら、顔の見える位置まで接近してきたその人物は、銀の髪に獣耳を生やした偉丈夫だった。
「あいさつ代わりの宣戦布告をくれてやる! 受け取れ、魔王!」
バルコニーから下を見下ろすネザクに向けて、今や狼の顔に変化した男の顎が大きく開く。
「発動、《紫電百雷の咆哮》」
大気を引き裂くような音と共に、空を走る閃光と轟音。紫に輝く雷撃はネザクの立つ場所へ向けて、真っ直ぐに伸びてきた。あまりにも大胆かつ意外な攻撃に、ネザクは反応できない。衝撃波を伴う極大の雷撃は、バルコニーを粉々に打ち砕く。
「ちっ! この程度じゃ倒せないか」
咆哮の主である銀狼族──イデオン・バーミリオンは、跡形もなく消し飛んだバルコニーではなく、その上空に浮かぶ一人の女性と彼女に抱えられた少年の姿をにらみつける。
「……かかれ!」
ネザクはようやく、周囲に散開する『魔』に向かって号令をかける。だが、その時にはイデオンは素早く踵を返して走り去っていた。
「く! まだ来るわよ!」
崩壊したバルコニーの内側から、カグヤが叫ぶ。するとネザクを抱えたまま宙に浮かぶ女性、リゼルは彼をカグヤに向かって放り投げた。
「うわわ!」
「きゃあ!」
リゼルも加減はしたのだろうが、到底カグヤには支えきれず、もつれるように倒れる二人。
だが、リゼルはそんな二人に目を向けることなく、敵の砦に掌を向ける。直後、飛来した巨大な光球が、軋むような音を立てて彼女の掌に着弾する。そのままもろともに要塞を押し潰さんと圧力を高める光球を、リゼルは顔色一つ変えずに支え続け、いなすようにして明後日の方向へと弾き飛ばした。
直後、彼方に炸裂する閃光と爆音。リゼルは焼け焦げた己の手を見つめ、一振りすると一瞬で治癒させてしまう。
「っ痛……容赦ないわね。連中も」
カグヤはネザクを助け起こしながら、舌打ちする。さすがに相手を舐めすぎていたかもしれない。イデオンの不在もこちらの目をあざむくための作戦だったのだろう。いずれにしても、このまま要塞の中にいては、いいように狙い撃ちされるだけだった。
カグヤたちは急いで外へと飛び出した。
──五英雄の奇襲攻撃に始まった戦闘は、舞台を両要塞の中間地点である丘陵地帯に移していた。兵力の差は圧倒的であり、数千体の『魔』に対し、エレンタード王国側はわずか数百人と言ったところだ。
だが、戦況はまるで正反対だった。数百人規模の部隊とは言っても、エレンタードの精鋭中の精鋭である魔法騎士団を中心に編成されているのだろう。階位が低いとはいえ、『魔』を相手に一人一人がまったく引けを取らない戦いぶりを見せていた。
中でも圧巻なのはやはり、五英雄だろう。
先ほど奇襲攻撃の口火を切ったイデオンは、全身に稲光を帯電させながら、拳の一振りで周囲に押し寄せる『魔』の群れをまとめて吹き飛ばす。
一方、ハイエルフのアリアノートは風を使って空を飛び、上空から白星弓シャリアによる射撃──否、光球による『爆撃』を後続の軍勢に次々と叩き込んでいる。
アルフレッドだけは戦闘に参加していないようだが、カグヤには彼らの思惑は読めていた。五英雄の力を極力温存し、魔王本人との戦闘に備えるつもりだろう。その気になれば彼ら三人だけでも十分なのに魔法騎士団にも戦わせていること自体、そんな意図の表れだった。
「……どうしたんだろう。エリザは出てこないのかな?」
『ルナティックドレイン』を発動させたネザクが呟く。戦場を見据える紅い瞳には、赤毛の少女の姿を捉えることができていない。
「そのエリザって子は、子供なんだろ? さすがにこんなとんでもない戦闘には加われないんじゃないか?」
エリックとしては当然の言葉を口にしたつもりだが、これにはシュリが首を振った。
「そんなわけないにゃん! あの化け物娘、魔法騎士より断然強いはずだもん」
彼女の実力を肌で知っているシュリは、身震いしながらそう言った。
「……温存するべき戦力ってところかしら。ネザク。わかっているわよね?」
「うん。……もちろん、彼女とだって全力で戦うよ」
念を押すようなカグヤの言葉に、決意を込めた声で答えるネザクだった。
次回「第48話 少年魔王と宣戦布告(下)」




