第5話 少年魔王と暗愚王(上)
ネザクはその日、意味もなくぶらぶらと城の中を歩き回っていた。城内には今や、カグヤや部下の騎士たちが連れてきた様々な人々がいる。ネザクが人間であり、優れた月召術師でもあることが知られると現金なもので、領民たちは徐々にネザクを領主として見るようになった。
支配者は、力ある者の方がよい。
ただし、自分たちを庇護してくれるなら。
「あ、ネザク様。おはようございます」
「おはようございまーす!」
「う、うん、おはよ……」
洗濯物を持って歩く二人組のメイドから声をかけられ、ネザクは顔を赤くしてどうにか挨拶を返した。二人はまだ少女と言える年齢のようだが、微笑ましげな視線をネザクに送っている。
「ネザク様って、間近で見るとお人形さんみたいね」
「うんうん、あれで強力な月召術師だなんて信じられないわ」
「おはよ、だって! きゃーかわいい!」
──訂正。『領主として』ではなく、一種のマスコットとしての人気を博しているのかもしれない。実際のところ、彼は『魔』を召喚しない限りにおいては、ただの美少年にしか見えない。
だが、このキルシュ城には、彼が改めて召喚するまでもなく、常に顕現し続けている『魔』の存在があった。
──暗愚王リゼルアドラ。
『彼女』は、この城内では禁忌の存在だ。近づくことは愚か、話題にすることすら、はばかられる。間近にいるだけで息の詰まるような存在感があるというのも大きな理由だが、それ以上に、彼女には人を寄せ付けない理由があった。
ネザクに近づいてきた二人のメイドのうち、茶色い髪を後ろで三つ編みにした少女が、これまで自分が気になっていた疑問を解決しようと口を開く。
「ネザク様。ちょっとお聞きしてもいいですか?」
「え? ……う、うん。なに?」
この城の人間が必要以上に彼に話しかけることは珍しいらしく、ネザクはびっくりしたような顔で訊き返した。
「そ、その……リゼル様、のことなんですけど」
「リゼルの?」
「は、はい。その、リゼル様って、どうしていつも羊のお面を被っているんですか?」
勇気を振り絞っての質問だった。それは、この城の誰もが疑問に感じていたこと。
明らかに女性とわかる豊満な身体つきをしていながら、何故か男物の執事服を身にまとい、本物そっくりの羊の被り物をしているリゼルアドラ。その外見だけで近づきがたいオーラを放っている、いわば変人中の変人。
ネザクやカグヤ、それに部下の騎士たちを除いては、現時点において城内の人間で彼女が『魔』であることを知っている者はいない。しかも、彼女はほぼ人型をしているため、まさか暗界第二階位──伝説級の『魔』だとは、思いもしないだろう。
「そういえば、なんでかな? あれを被りはじめたのは、この城に来てからだと思うけど……」
首を傾げるネザクの仕草に、思わず頬が緩んでくるメイドの少女たち。そうしている間にも、ネザクはうんうんと唸りつつ、聞かれた質問に対する答えを考えているようだ。
そんな彼を見て──
「かわいい……ね、ねえ? 持って帰っちゃおうか?」
彼女──黒髪を短く切ったメイドの少女が、うっとりした顔で言えば、
「そうね。是非お部屋に飾っておきたいわ……って、そうじゃないでしょ!?」
もう一人のブラウンの髪を三つ編みにした少女が、彼女の頭を叩く。
と、その時だった。
「ぱちぱちぱちぱち」
そんな『声』がした。拍手の音のようであるが、明らかに人の声だ。それも、透きとおるように美しい女性の声。
「あ、リゼル」
いつの間にか、ネザクの真後ろに恐ろしげな人影が立っている。
「どうしたの? 今のって拍手?」
ネザクが問えば、羊の頭がこくりと頷く。半開きの口が不気味な面だ。
「……素晴らしい」
リゼルは、本物の羊を模したグロテスクな瞳で少女二人を見る。『見る』というか、近づける。被り物の奥で、彼女がどこを見ているかはわからなかった。
「う、あ……」
「え、えっと、その……」
もちろん、被り物をしている以上、近づけられた目は作り物であり、彼女の目ではない。しかし、死んだ生き物のような無機質な目が自分に向けられるのは、それだけで耐え難い恐怖だ。少女たちはぶるぶると震え、身を寄せ合った。
「……って、そうじゃないでしょ」
「え?」
先ほどからのリゼルの言動は、少女たちには理解不能だった。お互いに顔を見合わせ、それからリゼルの言葉の続きを待つ。
「見事な返し。それも一度同意してから一転して否定するとは。見る者の心を掴む、素晴らしい技法と言える。わたくしは、これを『ノリツッコミ』と名付けたいと思うが、いかがか?」
「あの? えっと……」
問いかけられた少女の中で、嫌な予感がわき起こってくる。
「発案者であるあなたに敬意を表しての確認だが、駄目だろうか?」
羊の面が軽く首を傾けている。少女は、圧倒されたように言葉を返すしかない。実際、こんなことに発案者も何もないのだけれど。
「あ、いえ、いいですけど……」
「感謝する」
何故か、会心の握り拳を胸の前でつくるリゼル。少女の胸中で鎌首をもたげていた嫌な予感は、今や現実の脅威となって出現している。
「もしかして、その羊のお面……」
「!!」
少女がそのことに触れるや否や、直立不動の姿勢をとるリゼル。
「……どうしよう。間違いないみたい」
三つ編みの少女は、もう一人の黒髪の少女に小声で語りかける。
「ど、どういうことなの?」
「わかっちゃった。わかっちゃったんだけど……」
『ノリツッコミ』の発案者だとリゼルに言われたその少女は、黙って立ち尽くすリゼルの姿を改めて見る。羊の被り物に、執事服。もう間違いない。
「で、でも、ベタすぎる上に、どう言ってあげたらいいのか……」
「あ……うん。わたしもわかっちゃった。でも、期待して待ってるみたいだよ?」
少女たちのひそひそ話が続く中、リゼルは直立不動を崩さない。だが、心なしか作り物の羊の瞳が、きらきらと輝いているように見えてしまう。
「なになに? 何の話をしているの?」
何もわかっていないのは、ネザク一人だ。もう1か月以上も前からこの姿でいるリゼルに対し、彼はきっと、一言も言ってあげなかったのだろう。
それを思えば、どうして自分がこんな役を引き受けなければならないのか。恨み言の1つも彼に言いたくなる少女ではあったが、直立不動のリゼルの身体が不安そうに揺れ始めたのを見て、大きく息をつく。
「わかったわ。わかったわよ! やればいいんでしょ、やれば!」
「ルカちゃん、頑張って!」
もう一人の少女にルカと呼ばれたその少女は、大きく息を吸い込んだ。
「あ! 羊が執事の服着てる! ……こ、これがほんとの『ひつじ服』ね!」
叫んだ瞬間、全身が一気に熱くなるのを感じたルカだった。これは恥ずかしい。ありえない。
「うんうん、ルカちゃん、よくやったよ! えらいえらい! ぷ、くくく……」
「……リラ、覚えてなさいよ」
横目で友人の少女をジロリと睨み付けた後、ルカは正面に視線を戻した。
「ぷ、くくく、あはははははは! そっか、そっか! うん、面白い!」
ネザクが爆笑していた。面白かったらしい。まさか本当に気付いていなかったのかと驚くルカの視界の中で、ゆっくりと膝をつく執事が一人。
「あ、と、その、リゼル様?」
「感無量だ。く、くふふふふ……」
肩を震わせ、不気味に笑う羊執事。極めつけにシュールな光景だった。だが、ここで終わっていればまだ良かったのかもしれない。ルカとリラ、二人の少女の苦難はここから始まる。──きっかけは、どこまでもわかっていないネザクの余計な一言だった。
「いやあ、ルカさんだっけ? 今の面白かったよ。うん。楽しかった! ありがとう」
その一声で、リゼルの動きがピタリと止まる。
「え、ちょっとその、待ってくださ……」
ルカが皆まで言うよりも早く、致命的な一言が発せられる。
「まったくリゼルもさ、これくらい面白いこと言ってくれれば僕も楽しいのになあ」
リゼルの身体は、先ほどの比ではないレベルで小刻みに震えはじめた。
「じゃあね、僕は行くけど、もしよかったら、また話しかけてよ」
先ほどのやり取りは、ネザクから緊張をすっかり取り除いてしまったらしい。人見知りに見えるネザクだが、いったん慣れてしまえばどこまでも気安い少年だった。
「え、うそ? ちょっと、この状態で行っちゃうんですか?」
「ど、どうしよう。もしかして、リゼル様、泣いてるんじゃない?」
少年がいなくなると、その場にはがっくりと肩を落とし、両手を石床についた体勢で身体を震わせる羊執事が一人。そして、おろおろと戸惑う少女二人が残されていた。
「ど、どうするのよ。わ、わたしのせいじゃないからね?」
「わ、わたしだって知らないよう」
二人の少女がそんな言葉を交わし合う中、リゼルは唐突に立ち上がり、少女たちへと間合いを詰めてくる。
「あ、いや、その、そんなつもりじゃなかったんです!」
「ご、ごめんなさいです!」
無機質な羊の面に至近距離まで迫られた二人は、怯えた声で許しを求めている。
「……決めた」
ぼそりと一言。
「へ?」
「わたくしに、師事されてはもらえまいか」
「え、えっと、師事されるっていうと……」
「わかりやすく言えば、弟子にしてもらいたい」
ルカにもリラにも、リゼルが何を言っているのかわからない。いや、正確には、わかりたくなかった。こんな変わった女性を弟子にとるだなんて、冗談ではないと言ったところだろう。
そんな心境が影響したのか、元からの彼女の資質のせいなのかは不明だが、ルカはこのとき、反射的に余計な言葉を口にしてしまった。
「はしごにしてもらいたい?」
意味の分からない言葉だが、リゼルはすぐさま反応する。
「梯子ではなく弟子だ。字が似ているだけだし、そも話し言葉で間違えるものではない」
「……ノリツッコミは?」
「しまった!」
美しい女性の声で、悲痛な叫びをあげるリゼル。──少女たちは思った。せめて羊の被り物ぐらいは外してもらえないかと。何と言っても、声と外見と話の内容に違和感がありすぎだった。
「い、今のは無しだ。も、もう一度だ! もう一度やらせてほしい、お師匠さま!」
お師匠さま、とリゼルは当然のように口にする。
「……はう、『しまった』はこっちの方だわ」
反射的にボケを口にした挙句、ツッコミスキルへのダメ出しをしてしまったルカは、眩暈がするほどの後悔に襲われていた。
「頑張ってね、ルカちゃん」
「く! 裏切り者!」
他人事のように言うリラを睨み付けるルカ。
「だってわたしは関係ないもん」
「こ、こうなったら、死なばもろともよ!」
「え? なに? ちょっと待って!?」
「リゼル様。お任せください。至らぬ点もありますが、わたしたち『コンビ』なら、必ずやリゼル様にご満足いただける指導も可能かと思います」
「え? うそ! 酷い!」
「かたじけない。それと、もういっかい……」
どうやらリゼルは、生真面目な性格らしい。先ほどの失敗をまだ悔やんでいるようだった。
「……ひとつだけ、聞いてもいいですか?」
「もちろん、わたくしは答えよう」
簡潔な言葉とともに、深く頷く羊面。
「ど、どうしてそんなに、その……分野に熱心なんですか?」
お笑い分野。
「わたくしはネザクを笑わせたい」
「ネザク様を?」
「そう。ネザクは可愛い。笑っていると、もっといい」
リゼルが口にした意外な言葉に、二人は顔を見合わせながらも納得したように頷いた。
「ははあ、なるほど……」
「確かにそうですね」
確かに、ルカとリラはそれで納得してしまうのかもしれない。
しかし、リゼルの正体は、暗愚王リゼルアドラ。存在するだけで人々に絶望を与える伝説の『魔』だ。それがたかだか人間の少年一人を可愛いと言い、笑わせるために手を尽くしている。それがどれだけ異常で滑稽なことなのか、今の彼女たちには知る由もない。
「わたくしは、朝と夕に城内の警備見回りをしている。その時間を使ってご一緒してもいいだろうか?」
「え? あれって見回りなんですか?」
城内に勤める人間たちの間で、リゼルアドラの目撃情報が朝と夕に集中していることは確かだ。だが、そのどれもが『警備見回り』からは程遠い内容だった。
ルカとリラは、ここ最近で自分たちが聞いたことのある目撃談を順番に思い出す。
──いわく、中庭の花に語りかけていた。
──いわく、豚肉に罵声を浴びせていた。
──いわく、調理室でパンを揚げていた。
──いわく、羽毛布団を放り投げていた。
──いわく、靴底に接着剤を塗っていた。
「……思い出さなければよかったなあ」
ルカが遠い目をしてつぶやいた。
「花に話しかけて、肉を憎んで、パンをフライして、布団を吹っ飛ばして、靴をくっつけていたんでしょ?」
「リラ、確認しなくていいわ」
ルカは溜め息をついた。何をやりたいのかはわかるが、何の意味があるのかがさっぱりわからない。それもだんだんと行為の内容が、人様に迷惑がかかるものになってきているのだ。
ルカとリラ、二人の少女は顔を見合わせて決意する。
「やっぱり、わたしたちがやるしかないのかな?」
「でしょうね。他に彼女のことがわかる人、いないでしょうし……。『お師匠さま』になっちゃったしねえ……」
──それから城内では、リゼルアドラに付き従う二人のメイドの姿が見られるようになる。これ以上被害を拡大させてはならないと、少女たちは使命感に駆られていた。
だが、このことが自分たちの今後の人生を大きく変えることになろうとは、このときの二人には想像もできないことだった。
次回「第6話 少年魔王と暗愚王(下)」