第43話 少年魔王と双子の姉妹(上)
クレセント城の新たな居候となった『その子』の存在は、『彼女』の地位を脅かすものだった。居心地のいい昼寝の場所も、気が向いた時に無心してきたお小遣いも、『彼女』がこの城内で満喫してきたあらゆるものが、失われつつあった。
彼は、『その子』に夢中だった。それが『彼女』には許せない。少し前まで自分が少し甘えて見せれば、嫌だ嫌だと言いながらも、結局は言うことを聞いてくれた都合のいい「おじさま」は、今や新参者に首ったけで、自分を見てもくれないのだ。
「ふっふっふ。これはもう、やるしかないにゃん。シュリの尊厳がかかっている以上、あいつを八つ裂きにするのは、至上命題にして最優先事項だにゃん!」
今日も今日とて、エリックの部屋からよろよろとふらつきながら歩み出てきた黒猫の姿を視界に収め、物陰で爪を研ぐシュリ。だが、子猫に脅かされる尊厳とは何なのか? それを彼女に教えてくれる存在がいないことが悔やまれた。
「駄目よ、シュリ。あの子は一応、大事なお客さんなんだからね」
背後からふわりとかけられた柔らかい声に、シュリは驚きもせずに勢いよく振り返る。
「あ! カグヤ姉様。エリックおじさまったら酷いんだよ。さっきもシュリが執務室でお昼寝しようと思ったら、『アズラエル』の昼寝の邪魔だからあっち行ってろだなんて言うんだよ?」
「あらあら、それは酷いわね。そうやってあの子を可愛がれば可愛がるほど、後悔も大きくなっていくわけだし、わたしとしてはその時のエリックの反応も楽しみなんだけど……そうねえ。じゃあ、リゼルに協力してもらいましょうか?」
そう言って彼女が指差した先には、見慣れない少女がいた。セミロングの黒い髪に紫紺の瞳。フリルのついた黒いドレス。あどけない少女の顔には、何の表情も浮かんでいない。シュリには何故か、その無表情ぶりに覚えがあった。
「リゼルさん……なの?」
「ええ、そうよ。まあ、さすがに同じ年齢の姿だとばれちゃうでしょ? だから少し幼くなってもらったの」
少しとは言うが、今のリゼルは十歳程度の幼女にしか見えない。外見年齢まで操作可能とは、この魔人、もはや何でもありなのかもしれない。
「で、でも、どうするの?」
「うふふ! よーく、見ててね?」
カグヤが含み笑いを漏らしながら腕を振ると、リゼルの外見に更なる変化が起きた。シュリが瞬きをした次の瞬間、リゼルの黒い頭髪から、短い毛に覆われた猫の耳がにょっきりと生える。腰の辺りからは、左右に揺れる黒い尻尾。
「こ、これって?」
「まあ、見てなさい」
カグヤはちらりとエリックのいる執務室に目を向けた。すると、ちょうどそのタイミングで音を立てて開く扉。中から顔を出したのは、もちろんエリックだ。
「あれ? どこに行ったんだ?」
どうやら先ほど部屋から出て行った『アズラエル』を探しているらしい。
「ふふふ、どうしたの? エリック」
カグヤが弾んだ声で呼びかける。
「ん? ああ、俺の天使がさっき部屋から出てったはずなんだが……」
「天使って、アズラエルちゃんのこと?」
「決まってるだろ。他に何がいる?」
「……」
さも当然のように言うエリックに、カグヤの顔が若干引きつる。だが、気を取り直したように言葉を続けた。
「あなたの天使ちゃんなら、目の前にいるじゃない」
「……まったく笑えない冗談だな。鏡で自分の顔をよく見てみたらどうだ? どう見ても悪魔だろうが」
「…………」
カグヤは今晩、彼にとびっきりの悪夢を見せてやろうと心に決めた。
「そうじゃないわよ。ほら、この子」
そう言って猫耳を生やした少女の姿を指し示す。無論、シュリではなくリゼルの方だ。
「なに? この子は?」
「だから、アズラエルちゃんよ」
「馬鹿な……。この子は人間じゃないか。いや、獣人族か?」
エリックが訝しげに向けた視線を受けて、リゼルは可愛らしく小首をかしげる。
「……ね、猫じゃないだろうが」
言葉に力が無くなっている。すでに少女の姿に見入ってしまっているようだ。
「いいえ、人間の姿に化けることができる猫なのよ。だからほら、シュリと違って鳴き声も……」
「にゃーん」
カグヤの語尾に重なるようなその声は、エリックにとっては聞き慣れたものだった。
「こ、これは紛れもなく俺の天使の鳴き声!? ま、まさか、本当にそうなのか?」
驚愕にうめくエリック。それを見て、カグヤは満足そうに頷いた。
「ええ、そうよ。ほら、よく見てあげて。可愛いでしょ?」
リゼルはその言葉に反応するように、エリックの顔を上目づかいで見上げている。いつの間にか、その眼の色もアズラエルと同じ緑に変化していた。
「か、かわいい……。だ、だが、これは夢か? まさか、カグヤ……俺を騙しているんじゃないのか?」
どこまでも信用されていないカグヤだった。
「にゃん」
可愛らしく鳴くリゼル。実のところ、リゼルの声を猫の鳴き声に聞こえるよう調整しているのはカグヤだ。それもアズラエルの時と同じ方法を採っている以上、聞こえる声が同一なのは当然だった。
「ま、間違いないのか……? よく見れば眼の色も耳の形も、あの子とそっくりだし……」
「ねえ、エリック?」
「な、なんだ?」
少女の姿をした猫。そんな信じがたい存在を前に、震える手をためらいがちに伸ばしては引っ込める動作を繰り返していたエリックは、この時点ですでに冷静な判断力を失っていた。
「アズラエルちゃんの気持ち、聞いてみたくない?」
「な、なんだと?」
「いつも甲斐甲斐しく世話をしてくれているあなたに、この子の口から『ありがとう』って言ってくれるところを見たくないかって聞いているのよ」
「な! そんなことが可能なのか?」
目を輝かせてカグヤに詰め寄るエリック。
「もちろんよ。任せておいて……さあ、アズラエル? 言葉を話せるようにしてあげるからね」
手を振りかざすカグヤ。それを見守るシュリには、今もって何が起きようとしているのかわからなかったが、リゼルはあらかじめ指示でも受けていたらしい。予定調和のように口を開いた。
「わたし、アズラエル」
「おお! まじでか! ……よ、よし、アズラエル。俺だぞ、エリックだ」
「エリック?」
不思議そうに見上げるその瞳には、緑に輝く猫の虹彩がある。
「そ、そうだよ。ほら、お前の離乳食はいつも俺が作ってやっているだろ?」
「ああ、あのまずいやつ」
「え?」
ぼそりとつぶやく猫の少女の言葉に、固まるエリック。
「ま、まずい? いや、聞き間違いだよな?」
エリックは信じられないと言った顔で、自分の耳を少女へと近づけるように顔を寄せた。すると、少女は露骨に嫌そうな顔になる。それだけにとどまらず、小さな両手を顔の前に掲げ、のけぞるように顔を背けてみせた。
「ヒゲ、いや。痛い。気持ちわるい」
「…………」
弾かれたように顔を上げ、無言でカグヤを見るエリック。この世の終わりだとでも言うような、それはそれは絶望に満ちた顔だった。
「うふふ。それがその子の本音みたいね?」
カグヤがとどめの一言を放つ。
「う、うそだ……うそだああああああ!」
泣きながら、廊下を駆けていくエリック。
「あははははは! おもしろーい! だ、駄目……、お腹がよじれて死んじゃいそう! あははははは!」
そんな彼の背中を指差し、目に涙をにじませながら笑うカグヤ。シュリはそんな彼女を見て、全身の力が抜けるような思いがした。これではただ、彼女が自分でエリックをからかって楽しみたかっただけではないだろうか。
「大丈夫よ。これで少しはエリックの熱も冷めるだろうし、うふふ……実際のところ、『アズラエル』も本気で困っていたみたいだしね」
「そ、そうなの? エリックおじさま、またシュリのこと、構ってくれるようになるかな?」
「ええ、もちろん。だいたい、あのロリコンがあなたみたいなロリ可愛い女の子に、いつまでも冷たくできるはずなんてないじゃない。大丈夫よ」
「……それって、シュリが喜んでいい台詞じゃないよね?」
シュリは呆れたように肩を落とした。一方、リゼルはと言えば、カグヤの服の裾を下から引っ張るようにして、彼女の顔を見上げている。
「カグヤ、これでいいですか? これでわたしに、猫の『可愛さ』の秘密を教えてくれますか?」
「ええ、もちろんよ。後はお姉さんに任せておいて! そのロリコン狙い撃ちな姿を最大限に活用した、『あざとい可愛さ』って奴を存分に教えてあげるわよ」
「なるほど、『あざとい可愛さ』か……」
リゼルはカグヤの言っている意味が分かっているのかいないのか、納得したように頷いている。
「うふふ! 楽しみねえ」
「絶対これ、後で大騒ぎになるんだろうなあ……」
そんな二人を見やりつつ、シュリは諦めたようにその場を後にするのだった。
──クレセント城において、『猫の化身』の美少女が老若男女を問わず、城内に勤める人間たちを軒並み悩殺しはじめたその頃、ネザクは銀翼竜王リンドブルムの背の上にいた。
「ごめんね。リンドブルム。なんだか見世物みたいな役割をお願いしちゃって」
少年は自分が騎乗する飛竜に向かって、謝罪の言葉を口にする。
〈ミリアナも軍の士気を鼓舞するために、我の姿を利用していたのだ。構わぬよ。それより、ネザク。ここは上空だし、風も強い。寒くはないか? 寒ければ、我がブレスで空気を暖めよう〉
「ううん、大丈夫だよ。ありがとう」
対するリンドブルムからの言葉は、少年の身体を気遣うような優しげなものだ。同乗する双子の姉妹──イリナとキリナは、驚きに顔を見合わせる。
「……ネザクって本当に何者なのかしらね」
「うん。母様でも、ここまでではないだろう」
もちろん、ミリアナもリンドブルムとはそれなりに付き合いも長く、気安い言葉を交わし合うこともなくはない。だが、まるで我が子を心配するようなリンドブルムの様子は、それと比べても尋常ではなかった。
「ねえ、ネザク? わたしとしてはネザクの『命令』だから、犬のように無条件で従っているわけだけど、どうしてわたしたちを同行させようと思ってくれたの?」
イリナは何故か『命令』という言葉を強調する。
「い、犬のようにって……それじゃなんだか僕が無理やり連れてきたみたいな……」
「いいのよ、別に。それより、どうして?」
詰め寄るように質問を繰り返すイリナ。
「わたしも聞きたいな。正直な話、君はわたしたち二人を避けているように見えたのだがな。……ふふふ、逃げる君を追いかけるのは楽しいから構わないのだが」
無表情のまま、声だけは楽しげに響かせるキリナ。
「逃げることさえ楽しまれてるの!?」
驚愕の新事実に、思わず声を上げるネザク。
「まあ、気にするな。それより、どうして?」
何事もなかったかのように平然と言葉を続けるキリナ。
ネザクは、観念したように大きく息をつく。
「……それが一番効果的だと思ったからだよ。ミリアナさんの相棒である銀翼竜王に乗って、この国のアイドルである二人と一緒に街を訪れれば、魔王としての僕の印象はかなり強くなるだろうからね」
「……」
「……」
少年の言葉に、双子の姉妹は黙り込む。ネザクの今の言葉はつまり、銀翼竜王と同じように二人を広告塔として利用しようとしていると告白したに等しい。
だからこそネザクは黙っていたかったのだが、正面から聞かれては答えざるを得なかった。というか、彼は嘘をつくのが苦手だった。
「そう……。今まで言わなかったのは、それを言ったら、わたしたちが協力してくれなくなるかもしれないからというわけね? そうなんだ……。ネザクはわたしの『忠誠心』を信じてくれないのね? 今までわたし、どんな命令だって聞いてきたのに……」
命令なんて、ただの一度としてしたことはない。だが、竜王の背の上でネザクの右腕を抱え込み、すがるような目で見上げてくる少女に、ネザクは圧倒されて言葉が出ない。
「……なるほど。ネザクはリンドブルムには謝るのに、わたしたちには謝らないのだな? 随分な真似をしてくれるじゃないか。そうなんだ……。ネザクはわたしを『ご主人様』だと認めてくれないのか。なんでも言うことを聞いてくれると言ったのに……」
そんなことを言った覚えだけは、絶対にない。だが、竜王の背の上でネザクの左腕を抱え込み、恨めしげな目で見上げてくる少女に、ネザクは圧倒されて言葉が出ない。
「……うう、僕なりに考えた結果のはずなのに、やっぱりこれ、絶対に失敗だったよね」
何事も最初から上手く行くことなど、ありはしない。人は失敗を繰り返し、失敗から何かを学んで、いずれは己の夢を叶えるまでに成長するものだ。
あの日、誓いの言葉を交わした後の会話の中で、燃える火の玉のようなあの少女は、過去の英雄の話を引き合いに出しつつ、そんなことを言っていたような気がする。
ネザクはエリザの顔を思い浮かべつつ、ため息を吐いた。
「……前途は多難だけど、僕、頑張るよ。エリザ」
次回「第44話 少年魔王と双子の姉妹(下)」




