第40話 少年魔王と黒霊賢者(下)
一方、黒猫の『アズラエル』を抱きかかえて部屋を後にしたカグヤはと言えば、ネザクを連れて別室へと移動していた。
「いったいどうしたって言うのさ、カグヤ?」
ネザクには、唐突に場所を移したカグヤの意図がわからない。
「……よし、ここなら大丈夫そうね。ネザク。部屋の扉、閉めてくれるかしら」
「う、うん」
ネザクが後ろ手に扉を閉めるや否や、驚くべきことが起きた。
「う、うう……むさい、ごつい、気持ち悪い……ヒゲが……」
カグヤの腕の中でぐったりしていた黒い子猫が、人間の言葉でうめき声を上げたのだ。
「うわ! 猫が喋った!?」
「猫じゃないわ。一応、れっきとした人間よ」
カグヤは子猫を近くのテーブルの上に降ろしながら、その正体について説明する。するとネザクは目を丸くして、まじまじと『アズラエル』を見つめる。
「……この猫が五英雄の一人? なんだか信じられない話だね」
「そうね。だから、このことは他の皆には秘密よ。……あなたもそれでいい?」
カグヤはテーブルの上に突っ伏す子猫に向かって語りかける。
「……ひ、ヒゲ……っは! あ、ああ、うん、そうだね。僕としても無害な猫だと思ってもらった方が余計な危険もないだろうし、それで頼むよ」
ようやく我に返ったらしい『アズラエル』は、若々しい男性の声で返事をした。だが、身体の方は依然としてぐったりしたままだ。
「えっと……随分弱ってるみたいだけど、大丈夫? ア、アズラルさん?」
「……今は『アズラエル』でいいよ。呼び慣れていないと、うっかり間違えて呼んでしまうだろう?」
「あ、そうだね。でも、それはともかく、本当に大丈夫?」
ネザクは問いかけを繰り返す。何と言っても『アズラエル』は、可愛らしい子猫である。ぐったりとした彼の様子に、ネザクも心配そうな顔をしていた。
「大丈夫よ。このえっちな猫さんはね、男に抱きつかれるのが苦痛だったみたい。でも、さっきわたしが抱いてあげたんだから、少しは口直しになったんじゃない?」
「ちっちっち。甘いね。確かに女性の胸の感触は、僕にとっての清涼剤さ。でもねえ……僕はもっと、未成熟で未発達な、少女の胸こそが好みなんだ! それに比べると君のは、ちょっとばかし大きすぎるね」
悪戯っぽく笑うカグヤに対し、『アズラエル』は器用に前足を振って答えた。
「……変態ね」
カグヤは半眼で『アズラエル』をにらむ。だが、彼女の余裕も『アズラエル』の更なる発言が飛び出すまでのことだった。
「大きさもそうだけど、何よりやっぱり少女じゃないのが問題だ。君は少々年増だし……」
「………なんですって?」
「あ、あれ?」
地獄の底から響いてきたかのようなカグヤの声音に、言葉を途切れさせるアズラル。
「……あーあ。最近のカグヤにはその一言、絶対に禁句なのになあ」
気の毒そうにつぶやくネザク。
「……わたしが、なあに?」
「い、いや、その……なんでもないです」
「そう? なんでもないんだ? ふーん……あ、そうだ! いいこと考えちゃった!」
「な、なにかな?」
恐怖に顔を引きつらせる猫など、星界中を探してもここにしかいないだろう。だが、彼にとっての真の恐怖は、ここから始まる。
「意外と歳のいった男の人にも、猫好きは多いと思うの!」
何の脈絡もない一言。だが、効果てきめんだった。
「ひ、ひいい! ご、ごめんなさい! そ、それだけはお許しを! ヒ、ヒゲは! ジョリジョリはいやだああ!」
猫の姿をした変態は、狂ったように叫び続ける。かつては『戦場の悪魔』と呼ばれたことさえある黒霊賢者に、意外な弱点が発覚した瞬間だった。
「ちょっと大声出し過ぎよ。もう、仕方ないわね。……まあ、いいわ」
「え? いいって……許してくれるのかい? よ、よかった……助かった!」
彼が猫でなかったなら、涙で頬を濡らさんばかりの喜びようだった。
「だってほら、具体的な方法は後でじっくり詰めないといけないし、ここで時間をかけても仕方ないでしょ?」
「ぬか喜びをさせられたっ!?」
カグヤは『アズラエル』の叫び声を無視すると、ネザクの背中を軽く押した。
「ほら、この猫さんがトラウマ確定の経験で廃人同然になっちゃう前に、自己紹介ぐらい済ませておかなきゃ」
「僕、どんな地獄を味わう予定なんですか!?」
頭を抱える黒猫に、ネザクは戸惑いがちに声をかける。
「う、うん。えっと……初めまして『アズラエル』さん。僕はネザク・アストライア。魔王だよ」
「……名前を聞いてまさかとは思ったけど、本当に君のような子が魔王だったとはね」
一転して真剣な声を出す『アズラエル』。猫であるがゆえに表情まではわからないが、緊張感の漂う口調に変化している。
「で? 僕に自己紹介なんかして、どうするつもりなんだい?」
『アズラエル』には、そもそもカグヤ達が自分をこの城に連れてきて、何をするつもりなのかさえ、わからなかった。
「自己紹介は自己紹介よ。あなたにもネザクを『知っておいて』もらいたいだけ。知ってしまえば、それだけであなたの力を多少なりとも削ぐことだってできるわけだしね」
「……相手が子供なのを見て、僕が手心を加えるとでも? ふん、馬鹿にしないでほしいな。可愛い少女ならともかく、彼は男だろう? 見た目がいくら良くても男じゃ駄目さ」
少女だったら手心を加えるつもりだったのか、と突込みを入れたくなるカグヤだったが、そこはぐっとこらえる。話が脇道にそれてしまいそうだった。
「そ、それじゃ、本題に入るけれどいいかしら?」
「ああ、構わないよ。どうせ今の僕は、囚われの身だしね」
いつまでもこんな境遇にいるつもりはない。『アズラエル』の言葉には、自虐的ながらも、そんな自負がこもっている。
「あなたには、このお城で暮らしてもらう。城内は自由に歩いてもいいけど、お城の外はダメよ。わたしの設置した結界から外に出たのを感知したら、その首輪を締めつけてあげるからね」
カグヤが指差した先には、いつの間にか金の首輪がある。銀の鈴がついたそれは、彼の黒い体毛によく映えていた。
「いいのかい? 城の中だけとはいえ、それじゃ僕に情報収集を許可しているようなものだぜ」
「ええ、いいわ。むしろあなたには、色々と見てもらいたいの。その上で、判断してもらおうと思ってね」
「何をだい?」
「……あなたが何を償うべきか、をよ」
「償う? 意味が分からないな。僕が罪を犯したとでも言うのかい?」
カグヤの言葉に、首をかしげる『アズラエル』。
「それを罪と思うかは、あなたが決めることよ。あなたなら心当たりの二つや三つ、あるんじゃない? そうね……たとえば十年前に、あなたがしでかした『あんなこと』とかね」
「…………」
『アズラエル』は、カグヤの意味深な言葉に返事をしなかった。少しだけ、カグヤに探りを入れるような目を向けたのみだ。
「ねえ、カグヤ」
その時、それまで黙っていたネザクが口を開く。
「どうしたの?」
「あ、話の途中でごめんね」
「いいのよ。どうせ大した話じゃないわ。で、なに?」
「考えたんだけど……僕も今みたいに城下町を練り歩くだけじゃなくてさ、国中の街を訪問して回った方がいいんじゃないかな?」
「え?」
驚愕に固まった顔で、ネザクを見るカグヤ。ネザクが自分から積極的にこんなことを言い出したのは、もちろん初めてのことだった。
「ほら、僕の知名度を上げるにしたって、直接姿を見せた方が印象も強いでしょう? たとえばミリアナさんが使ってた銀翼竜王に乗って街に降りるとかしたら、すごく効果的だと思うんだけど……」
「ネ、ネザク……?」
カグヤの声が震えている。
「あ、やっぱり駄目かな? こんなの単なる思いつきだし……」
「大丈夫? 熱でもあるんじゃないの? 平気? お姉ちゃんが確かめてあげる。ほら、額を出して」
自らの前髪を持ち上げて額を露出し、ネザクの顔にそれを近づけてくるカグヤ。
「い、いや、大丈夫だよ! なんで熱があると思うのさ!」
憤慨したように言うネザク。
「だ、だって、あなたがそんなにやる気を出すなんて、変じゃない」
カグヤは本当に心配そうな顔をしている。それを見てネザクは、自分がどれだけこれまで受け身になり続けてきたのかを悟った。
「……僕は決めたんだよ。最初に僕の夢──『世界征服』を示してくれたのはカグヤだけどさ。だからって、全部カグヤに押し付けていいわけなかったんだ。僕だって、その夢を目指すつもりで、ここまで来たんだから」
そう言うと、それまで驚きに固まっていたカグヤの表情が、徐々に柔らかいものに変化していく。
「……そう。うーん、お姉ちゃんとしては弟の成長を喜ぶべきかもしれないけど、ちょっと複雑な気分よね」
何かを言いたげに目を細めながら、ネザクを見つめるカグヤ。
「え? どうして?」
「……だって、あなたがそんなことを言い出したきっかけって、エリザちゃんなんでしょ?」
その声に『アズラエル』がぴくりと反応する。だが、ネザクはそれには気付かず、顔を赤くして言葉を返す。
「う……約束したんだよ。彼女と。二人で自分の夢に向かって、精一杯頑張ろうってさ」
「ふーん、へー。そうなんだ? お姉ちゃんがいくら言っても嫌々やってたことなのに、好きな女の子から言われちゃうと、そんなに乗り気になっちゃうんだ?」
拗ねたように言うカグヤ。対するネザクは、目を丸くして否定の言葉を叫ぶ。
「な、何言ってんだよ! す、好きな子って……そ、その、エリザは別に、そういうんじゃないよ……」
だが、尻切れトンボで声にも途中から力が無くなっている。そこでカグヤは、ちらりと『アズラエル』の様子を確かめる。すると案の定、彼は口を開いた。
「……エリザだって? なあ、ネザクくん。君の言うエリザというのは、真っ赤な髪の少女のことかい?」
「え? 『アズラエル』さんもエリザのことを知ってるの?」
驚いて振り返るネザクを見て、『アズラエル』──いや、アズラルは内心で溜め息を吐いた。一体何をしているのだろうか、あの少女は。よりにもよって魔王と夢を誓い合うとは、どこまでも自分の予想の斜め上を行ってくれる。とはいえ、彼としてはこの情報をどう取り扱うべきか、判断を決めかねていた。
だが、悩む間もなくカグヤが口を挟んでくる。
「それはそうよ。何せあの子は、黒霊賢者アズラル・エクリプスと共に、魔王の支配下に置かれた国の偵察に来たのよ?」
「そ、そうなんだ……」
ネザクは気の抜けたような声で言った。思いを寄せる少女が敵方の人間だという事実を、これ以上なくはっきりと突きつけられた形である。落ち込むのも無理のないところだろう。と、カグヤはそんな風に思ったのだが、そうではなかった。
「やっぱり、エリザはすごいな! 五英雄と行動を共にしてるなんて、さすがは英雄を目指しているだけのことはあるよ!」
目を輝かせて頷くネザク。
「え、えっと……いいの? 彼女は敵になるかもしれないのよ?」
カグヤが言うと、ネザクはエリザが口にした言葉を語る。
いわく、『互いの夢をかけてぶつかり合っても、負けた方が勝った方の夢が叶うことを喜べれば、それでいい』。
だが、そんな言葉ははっきり言って、カグヤやアズラルのような大人から見れば、青臭いだけの綺麗ごとだ。
他人の夢を踏みにじって一握りの勝者となる者がいる陰で、夢も希望もすべてを奪われ、絶望の中で這いつくばる無数の敗者がいる。──それが現実なのだから。
「なんというか、馬鹿みたいに真っ直ぐな子なのね」
本当なら『馬鹿だ』と言いたかった。だが、そんな馬鹿な少女のおかげで、ネザクがやる気を出してくれたのも事実なのだ。加えてネザクの手前でもある。辛うじてこの程度の表現にとどめたカグヤだった。
が、しかし。
「くくく、あははは! いいねえ、いいねえ。最高だ。さすがはエリザ。彼女こそ、僕の見込んだ次世代最高の英雄だよ。『少女』たるもの、そうでなくちゃいけない」
てっきり同じ考えかと思われた『アズラエル』の意外な声に、カグヤは首を傾げる。
「……音に聞こえた黒霊賢者さんも、随分と夢見がちなのね。これはとんだ期待はずれだったかもしれないわ」
カグヤが皮肉を込めて言うも、『アズラエル』は軽く首を振るだけだ。
「わかってないね。君も。いや、君だってわかっているんじゃないか? もし、君の言う『アイツ』がアルフレッドのことを指すなら、彼がなぜ、僕ら五英雄の中でも中心人物と目されているのか、わかるはずだろ?」
「…………」
カグヤは答えない。
「戦場での戦果を言うなら、ミリアナに勝る者はいない。単体での戦闘能力を語るなら、イデオンを超える者はいない。僕の愛しのアリアノートも、遠距離戦ならイデオンさえ凌ぐだろうし、白霊術を使わせれば、右に出る者はいない。そしてこの僕、かく言う黒霊賢者に至っては、邪竜の存在に最初に気づき、アレを滅ぼすのに最も大きな役割を果たしたものと自負しているよ」
「…………」
よどみなく語る『アズラエル』に、カグヤは沈黙を守り続けている。
「それでも、世界最高の英雄はアルフレッド・ルーヴェルだ。もちろん彼も強いけど、彼の強さは『想い』の強さだ。誰もが世迷言と言って耳を貸さなかった僕の話を頭から信じ込んで、各国の英雄たちを説き伏せ、世界を一つにまとめ上げたのは、他ならぬ彼だった。……そして彼女は、そんな彼によく似ている」
「……随分饒舌じゃない。それに、意外と情熱的なのね」
「ふふ、自分でも驚いてるよ。情熱的な男はお嫌いかい?」
「いいえ、大好きよ。……エリザ、ね。確かに、気になる子ではあるわね。わたしの黒魔術も、あの子に関しては抵抗されたと言うより、『効かなかった』という感じだし。何より『ルナティックドレイン』が効かないなんて、信じがたいわ」
次世代最高の英雄。黒霊賢者をして、そこまで言わしめる不思議な少女。
カグヤはこの時、そんな『英雄少女』の存在に期待と不安が入り混じった思いを抱いていた。
「……役に立ちそうなら利用すればいいし、害になるならば取り除けばいい。すべては、ネザクのためにね……」
誰にも聞こえない声で、つぶやくカグヤだった。
次回「第41話 英雄少女と銀牙の獣王(上)」




