第39話 少年魔王と黒霊賢者(上)
その日、魔王ネザクの居城となっているクレセント城は、新たな『客人』を招き入れることとなった。
客人の名は、『アズラエル』。
猫である。黒猫だ。それも子猫だ。艶々とした美しい毛並みに、くりくりとした緑の瞳が愛らしい。まさにキング・オブ・愛玩動物。かの存在をおいて、一体他に何を可愛がれと言うのだろうか。
猫は正義。猫は法律。猫は絶対。
──とは、この城を魔王ネザクの支配のもとで運営するべく、もろもろの雑事全てを一手に担う『第一の騎士』エリック・ヴェスターグ氏の意見だった。クレセント城の一室において、彼は運命の相手と感動の対面を果たしていたのだ。
「うおおおお! なんだこれ! どうしたんだ、この子は? カグヤ、一体どこで、この天使を?」
「……あ、あはは。えーっと、その、み、道端で見つけたの」
「ほほう?」
「ほ、ほら! お腹を空かせてるかなーって思ったら、放っておけなくてね。つい、連れてきちゃった」
「なるほどなるほど!」
珍しいことに、今、この場面においては、完全にカグヤの方がエリックの気迫に圧倒されていた。
「……っていうか、キャラ変わりすぎでしょ」
「ん? 何か言ったか?」
「ううん! 何も言ってないわよ」
カグヤは、慌てたようにぶんぶんと首を振る。
「……それにしてもだ」
「な、なに?」
「お腹を空かせた猫を拾ってくるなんてな。……俺はいま、初めてあんたのことをいい奴だと思ったぞ」
「……それはそれで酷い台詞よね」
カグヤは小さくつぶやくと、エリックいわく、『天使』に目を向ける。
彼は……もはや息も絶え絶えだった。エリックに引き合わせる直前、カグヤは『アズラエル』の言葉を封じた。猫の姿で人の言葉を話すところを、他の人間に見られるのを避けるためだ。
そのため、彼に抱き上げられ、頬ずりされて全身を撫でまわされた彼、アズラル・エクリプスの次のような魂の叫びは、すべて猫の鳴き声に変換されていた。
「う、うわあああ! お、男、男だ! ごつくてむさい男! 抱きつくな! ひ、ひいい! 無精髭が! 無精髭が! ジョリジョリするううう! 気持ち悪い気持ち悪い、吐きそうだ! 死ぬ! 僕が死ぬ! 死ぬうううう!」
その後、ようやくエリックの腕から解放された彼は、魂が抜けたようにぐったりと床の上に伸びていた。
「だ、大丈夫かな?」
「流石に今のはちょっと、可哀そうだったわよね……」
ぴくぴくと身体を痙攣させる黒い子猫に、リラとルカが気の毒そうな視線を送っている。彼女たちも年頃の少女らしく、可愛い子猫の類は嫌いではない。だが、エリックのあまりの熱中ぶりに若干引き気味となってしまい、アズラルとしてはさらに残念な結果となっていた。
「よし! それじゃ、俺は猫用の食事を用意してくる! どうやら離乳食ぐらいなら食べられそうな年齢のようだし、厨房に行けば何かあるだろ」
意気揚々と部屋を出ていくエリック。ルカやリラに任せれば良さそうなところを、自分で用意するつもりのようだった。
「ねこ、ねこ……」
そんな中、『アズラエル』を見下ろしながら、つぶやくリゼル。
「何を思いついたんですか?」
ルカがこめかみを押さえながら尋ねる。聞きたくはないが、これは彼女にとって、もはや義務のようなものだった。
「猫をこねる」
「『こねる』って!? なんだか、血みどろのイメージしか見えてこない表現じゃないですか! 駄目ですよ、リゼル様。こんなに可愛い子をネタにするとか、わたしが許可しませんからね」
ルカが釘を刺すように言う。だが、彼女のこの一言は、リゼルを別の方向に焚き付ける結果となった。
「かわいい? そうか。この猫の姿は可愛いのか。……ならば」
「その『ならば』には、嫌な予感しかしないんですけど!」
長い付き合いのせいか、リゼルの次の行動に対する勘が鋭くなったルカではあったが、それだけではリゼルを止めることなどできないのだった。
と、そこへ部屋の扉がゆっくりと開かれる。さっそくエリックが戻ってきたのかと思われたが、そうではなかった。扉の向こうから姿を現したのは、ネザク少年だ。
「あれ? みんなどうしたの?」
「あら、お帰りネザク……って、あなた『ルナティックドレイン』が……」
「う、うん。どうにか抑え込んでるけど、やっぱり自分で封印まではできなくて……」
「いったい何があったの?」
カグヤは手早く『ルナティックドレイン』の封印を施しながら尋ねる。
「実は……」
シュリを追いかけてきたエリザと出会い、公園で話をした経緯を簡単に説明するネザク。彼は詳細については語らなかったものの、特にカグヤ、ルカ、リラの三人は、その話──というより、話をする少年の様子から感じるものがあったようだ。
「あ、あれ? みんなどうしたの?」
お互いに顔を見合わせ、目配せを交わし合う三人の様子に気付いたネザクが、不思議そうに問いかける。
「こ、これってもしかして……あれよね?」
「衝撃の展開です! ああ、まさか、こんな日が来ようとは、感激です!」
ルカとリラは統一見解に至ったようだ。
「いえ、違うわ。そ、そんなわけ……そんなわけないじゃない。うふふ、わたし、まだネザクにはそういうの、早すぎると思うの」
一人だけ首を振り、否定の言葉を繰り返すカグヤ。
「じゃあ、カグヤ様。確かめてみませんか?」
「う……い、いいわよ? そ、そんなわけ、ないんだから」
ためらいを見せながらも、ルカの言葉に頷くカグヤ。
「よし、それじゃあ、リラ。あなたから確認してくれる?」
「ええ!? わたし? ル、ルカちゃんがやった方がいいんじゃ……」
「わたしだとつい、変な突込みをしちゃいそうだからね」
「うーん……わかった。わたし、頑張っちゃいます! 考えてみれば、ネザク様の赤裸々なあれやこれやを聞き出す役目なんて、ゾクゾクしちゃいます……」
「え、えっとリラ?」
ルカは危ない目つきで頷きを繰り返すリラを見て、彼女に任せるのはまずかっただろうかと後悔した。
「さっきからみんな、何を言ってるんだよ」
自分ひとり蚊帳の外に置かれた気分で面白くないネザクは、あらためて三人に質問を繰り返す。
「ああ、すみません。ネザク様。やっと話がまとまりましたです。それじゃ、いいですか?」
「え? なにが?」
きょとんとした顔のネザクに、リラは息を吸い込む仕草をした。
「お話に出てきたエリザちゃんのこと、好きなんですよね?」
「え? ええ!?」
ストレートな質問に、ネザクの顔が見る間に赤く染まっていく。だが、これだけであれば、過去に何度も見られた反応だ。問題は、ここからだった。
「な、な、何言ってんだよ、リラさん! べ、別に僕は、そんなつもりじゃ……! エ、エリザはその……いい友達って言うかその……夢を誓い合った仲間みたいなもので……」
顔の赤みはそのままに、ネザクは必死に否定の言葉を繰り返す。だが、彼は言葉を重ねれば重ねるほど、深みにはまっていくことに気づいていない。ルカとリラは話が進むにつれ、にんまりとした笑みを深めていくし、カグヤはカグヤで諦めたように頭を振っている。
「ああ! 何てロマンティックなんでしょうか! 魔王陛下が恋に落ちたお相手は、お忍びで城下に出かけた時に偶然知り合った、市井の少女だったのです!」
「うあああ! だから違うって言ってるのに!」
リラの陶酔しきった口上に、ネザクが叫ぶ。しかし、自分では気付いていないようだが、彼はエリザについて語る時、彼女の一挙一動を説明するたびごとに嬉しそうに頬を上気させ、自慢の恋人について語るかのように誇らしげに目を輝かせていた。これで恋心を疑うなと言う方が無理な話だろう。
「でも、連絡先も住んでいる場所も確認できなかったんですよね? うーん、それだと今後、どうやってアプローチしていったものか……」
「でも、今ならまだ街にいるかもしれないし、探してみたらいいんじゃないのかな?」
二人のメイド少女の間では、すでに『魔王ネザクの恋愛成就大作戦』が開始されているらしい。
するとそこに、不機嫌そうな声で割り込むカグヤの声。
「……もう、いないわよ。正門から外に出ていくのは確認したもの」
ミリアナの生死を知りたがっていて、英雄に憧れているエリザという名の赤毛の少女。それだけの特徴があれば、あの時、最後に駆けつけてきた少女こそが、それだとわかる。だが、カグヤがそれを告げると、ネザクの顔が明らかに明るくなった。
「そっか……。じゃあ、エリザはエレンタードの学院にいるんだね」
「うふふ、ネザク様ったらエリザちゃんの居場所がわかって、ほっとしてるみたいです。きゃーん! かわいい!」
そんなネザクを見て、リラが興奮気味に声を上げている。
「うんうん。後はそうね……エリザさんの方がネザク様をどう思ってくれているかが重要よね。わたしやリラみたいに『可愛い弟くん』みたいな感情だと、恋愛にはつながりにくいし……」
かねてからネザクのそうした『可愛がられ体質』にある種の危惧を抱いていたルカからすれば、その点が重要な問題だと言えた。
「さ、さっきから二人とも! ちょっと待ちなさいよ!」
そこに声を張り上げて割り込んできたのは、先ほどから鬱々とした顔で身体を揺らしていたカグヤだった。
「勝手に話を進めちゃ駄目よ。……ふ、ふふん。大体、何処の馬の骨ともわからない小娘に、そうやすやすとネザクをお嫁に出すわけにはいかないわ!」
「お嫁じゃないよ!」
思わず突っ込みを入れるネザク。
「駄目ですよ、そんなことを言ったら。いつかは弟離れしないといけないんですから」
リラが諭すように言うと、カグヤはいじけたような顔になった。
「で、でも、あなたはそれでいいの? ネザクが他の誰かのものになっちゃうのよ?」
リラもネザクを三日に一度は着替えさせ、色々と悦に入っていた少女だ。カグヤとしては、その彼女がどうしてこうもあっさりネザクの恋を受け入れるのかがわからなかった。だが、そんなカグヤの質問に対するリラの答えは、ある意味、壮絶だった。
「うふふふ。『それはそれ、これはこれ』です! 所有権とネザク様の恋愛とは別物なのです! つまり、わたしは『好きな女の子に、どうやってアタックしたらいいかわからないよう』と思い悩む可愛いネザク様も見たいのです!」
「……な、何なのかしら、この敗北感は」
臆面もなく、とんでもないことを本人の前で言い切ったリラに、さすがのカグヤもドン引きだった。
「はあ……まあ、いいわ。別の用事も済ませなきゃだし」
カグヤはそれだけ言うと、今もなお床に伸びている『アズラエル』を抱きかかえ、部屋から出ようとする。
「あ、カグヤ様。その子、連れてっちゃうんですか?」
「ええ、ちょっと用があるの。……ネザク、あなたも一緒に来て」
「う、うん……」
ここまですっかり周囲の発言に振り回されていたネザクは、気の抜けたように返事をした。
「ちょ、ちょっと待ってください。これからエリックさんが離乳食を持ってくるんですよ。今いなくなられたら、エリックさんがそれこそ血眼になって……」
「そうね。悪いけど、相手をしてあげてくれる?」
「そんなあ! 猫が絡んだ時のエリックさん、怖すぎですよ!」
「後でお給金弾んであげるから、いいでしょ?」
「わたしはシュリちゃんじゃ、ありません!」
なおも続くルカの抗議の声を聞きながら、カグヤは『アズラエル』を抱いてネザクを引きつれ、部屋を出た。
「ど、どうしよう。ルカちゃん。このタイミングでエリックさんが戻ってきたりしたら……」
「うう、いっそのこと、わたしたちもこの部屋からいなくなっちゃおうか?」
戦々恐々としながら言葉を交わし合う二人だったが、気付けば『その時』が間近に迫っていた。
「よしよし! 我ながら会心の出来だぜ。子猫の胃腸にも優しく、それでいて飽きさせない食欲をそそる香り。これならきっと、気に入ってくれるはず!」
扉の向こうから声が聞こえる。そしてその直後、扉は開かれ、手にした皿に猫の離乳食らしきものを乗せたエリックが、満面の笑顔を見せながら現れる。
「ん? おかしいな? どこかに隠れたのかな?」
エリックは不思議そうに首を傾げる。部屋中の床をくまなく眺め、調度品の裏やカーテンの裏など、猫が入り込めそうな場所を一つ一つ確認しているようだ。
「はわわ……怖いよう」
「な、なんであんなに真剣なのよ。目が血走っているわよ」
見つからなければ当然、エリックは同じ部屋にいる人間に質問するだろう。その答えの返し方いかんでは、何が起こるかわからない。
「……なあ、俺の天使はどこ行った?」
「聞き方が怖すぎる!」
思わず入るルカのつっこみ。
「俺が作った離乳食、早く食べさせてやりたいんだが……」
目が据わっている。
「うう……カグヤ様が連れてっちゃいました」
「な、なに……?」
「ひえ!」
「あんの! 魔女めええええ!」
叫ぶエリック。だが、後に聞いてみたところによると、さすがに彼も、普段であればここまで猫相手にぶっ飛んだ熱中ぶりを発揮することはないらしい。
彼は、とにかくストレスを抱えていた。雑事は山のように振りかかり、黒の魔女によるトラブルの種は尽きず、おまけに同じくトラブルメーカーの一人であるところの金虎族の少女に至っては、猫に似た外見を最大限に駆使して自分を籠絡しようとする。
そこに『本物』の可愛らしい猫が現れたのだ。タガも外れようというものだった。
次回「第40話 少年魔王と黒霊賢者(下)」




