第35話 英雄少女と黒霊賢者(上)
ひょこひょこと、黒く小さな尾が揺れる。天に向かってピンと立てられたそれは、彼の機嫌のよさを表しているのだろうか。小さな体躯から言って、歩幅は他のメンバーよりずっと狭く、それゆえに小走りで進まなければたちまち引き離されてしまう状況だというのに、彼は全く疲れた素振りを見せていない。
意気揚々と一行の先頭を進む彼。小さくて可愛らしい黒い子猫。
「……納得がいきませんわ」
彼の尾をぼんやりと眺めながら、リリアはぽつりとつぶやいた。
「その台詞、もう何回も聞いてるよ」
そう言ったエリザは何故か、背中に大きな荷物を背負っている。一同の中で一番大きいリュックの中には、エリザの他にリリアとルヴィナの着替えや日用品の類が入れられていた。
「ほんとに大丈夫? やっぱりわたし、自分の分くらい持つわよ?」
「いいってば。ほら、今回の件は結局、あたしのわがままから始まったみたいなものだし、体力だけは自信があるんだから、こんなの全然平気だよ」
ルヴィナの申し訳なさそうな言葉に、笑って首を振るエリザ。実際、ここまですでに一時間以上を歩きとおしているが、エリザには全く疲れた様子は見受けられない。むしろ荷物が軽いはずのルヴィナやリリアの方が辛そうだった。
「クレセント城までは、もう間もなくだ。気を抜くなよ」
ルーファスの言葉どおり、彼らはすでにクレセント王国領内にいる。学園都市エッダから途中までは駅馬車を利用したものの、そのまま行けば城下町に入る際には検問を受けることになるだろう。魔王の支配下に置かれた城下町の状況が不明である以上、彼らは途中から馬車を降り、検問を掻い潜って侵入することにしたのだった。
もちろん服装も学院指定の制服ではなく、それぞれの私服を身に着けていた。
「……納得がいきませんわ」
再び繰り返すリリア。
「もう諦めようよ」
エリザはなだめるように声をかける。
「……で、でも、考えられませんわ! なんですの、あれ! なんであの変態が、あんな可愛らしい子猫ちゃんに……」
震える声でリリアが指差すその先には、得意げに顎を上げ、緑の瞳をこちらに向ける黒い子猫。
「可愛らしい? ははは、君にそう言ってもらえるなんて、僕の分身『アズラエル』もまだまだ捨てたものじゃないね。でもねえ、子猫ちゃん? 君の方が百倍可愛らしいよ」
「き、気持ち悪いですわ!」
どこからどう見ても可愛らしい子猫。だが、その口からは気取った男の声で、歯の浮くような口説き文句がささやかれる。リリアには、耐え難いほどの違和感だった。
「気持ち悪いとは酷いなあ。これでも君たちのために、選りすぐりの分身を同行させているのに」
黒猫は、器用にも前足を顔の前で左右に振った。
黒霊賢者アズラル・エクリプスが独自に開発した『黒霊術』。中でも最も有名な術が、この《影法師》だ。特に邪竜戦争においては、アズラルは己の分身を複数の戦場に同時に出没させ、敵兵を恐怖と混乱の渦に叩き込んだ。
黒魔術は使い手が少なく、それがゆえに対抗策もない。だが、彼の生み出す分身は本体ほどではないとはいえ、黒魔術が使用可能だ。そういう意味では、これほどたちの悪い術もあるまい。
「……うう、初めて見たときは可愛さのあまり、思わず抱きしめてしまいましたのに」
直後にソレがアズラルであることに気付いた彼女は、『変態を抱きしめてしまった』と妙なトラウマを植え付けられることになった。
「フフフ……、また抱きたくなったら、いつでも言ってほしいな。僕はいつでも君の胸の中に飛び込むよ、マイプリンセス!」
「こ、この……変態」
調子に乗って声を高くするアズラル。さすがに子猫に攻撃はしかけられないらしく、リリアは悔しそうに歯噛みしたまま震えている。
「……リリアをからかうのも、いい加減にしなよ。おじさん」
エリザは前を行く黒猫をすいっとすくい上げ、胸元に抱えた。
「おお! この発展途上ぶりがなんともまた……」
背中に当たる感触にアズラルが嬉しそうな声を出した途端、ぴくりとエリザのこめかみが震える。
「……処刑執行開始」
「わひゃ!? うひゃひゃひゃひゃ!」
エリザの低い声と共に、彼女の指が子猫の脇の辺りを小刻みにくすぐりはじめる。アズラルの《影法師》は、分身の感覚を術者が共有することも可能である。だが、それはあくまで『可能』なのであり、するかしないかは任意のはずだ。
だが、アズラルはエリザに抱きかかえられた感覚を得ようと、分身とのリンクを強化していた。これが奇しくも、その瞬間を狙ったかのように絶妙なくすぐり攻撃となっていた。
「ぶひゃ! うははははは! ちょ、ま! や、やめ! 苦しい!」
黒猫は必死に暴れ続けるが、エリザの腕は彼をがっしりと捕えて離さない。感覚の遮断もできないことはないのだろうが、アズラルがそれをしない理由は恐らく……
「……さすがはエリザ。自分の身を犠牲にしてまで敵を討つか」
「いやいや、ここは感心する場面じゃないんじゃないですか?」
頷きを繰り返すルーファスに突込みを入れながらも、エドガーはスケベ心だけでくすぐり攻撃に耐え続けるアズラルを見る。
「あれはあれで地獄だろうに……大したものだよな、黒霊賢者も」
エドガーは、皮肉を込めて彼の異名をつぶやいた。
父に比肩しうる名声を持つ五英雄の一人とは、到底信じられないし、ましてやそんな異名は、この変態には絶対に似つかわしくないだろう。
「ぜ、ぜえ、ぜえ……ま、まさか、完璧なはずの僕の《影法師》に、こんな弱点があるなんて……」
どう考えても弱点はお前の頭だ。
その場にいた全員が、そう言いたげな顔をした。
「……次、『発展途上』とか言ったら、死ぬまでくすぐるかんね」
「は、はい……。肝に銘じます……」
荒く息をつき、ようやくエリザの腕から解放された黒猫は、怯えたように耳を伏せて縮こまった。
「うう、可愛い……」
思わず抱き上げてしまいたくなる衝動を必死に抑えるリリアだった。
「さて、城下町が見えてきたわよ。検問をやり過ごすとなると……」
「いやいや、ルヴィナくん。大丈夫そうだよ? どうやら街の入口では検問はやっていないようだ」
「え? わかるんですか?」
「まあね、『アズラエル』は目がいいのさ。ここまで来る間に聞いた話でもそうだけど、ますます分からなくなるね。国を占領しておきながら、やったことと言えば単に魔王の支配を宣告しただけ。おまけに足元の城下町に来る人間を検問にもかけないなんて、警戒心が無いにもほどがあるってものだよ」
「……罠である可能性は?」
「うん。ありえるね。ただ、その場合、魔王とやらには懐に敵が潜り込んできても、対処できるだけの自信があると言うことになる。用心に越したことはないよ。僕の『アズラエル』は目はいいけど、戦闘能力は高くない。極力目立たないように情報を収集しよう」
アズラルの論理的な言葉に、一同は真剣な顔で頷く。
こうしたところは、さすがに腐っても五英雄というべきか。……などと、エリザたちが考えていられたのも、街に足を踏み入れるまでだった。
「フフフ! 素晴らしい。ここはまさに、パラダイスじゃないかな? さすがは僕だ。まさにこういう場面で役に立てるために、僕はこの分身を選んだのさ!」
一同にだけ聞こえるように魔法で声を届かせてくるアズラルは、街の人混みの中を颯爽と歩く。さすがに五大大国の1つだけあって、通りには人が多い。
時折、足元を歩く可愛らしい黒猫に気づき、彼の頭を撫でていく女性たち。だが、彼の視線は常に上を向いていた。紅季も真っただ中のこの時期、うだるような暑さは、街行く女性を薄着にしている。そして、当然ズボンをはく女性も少ない。
「……エドガーくん。あの変態、捕まえてきてくれないかしら」
曲がりなりにも相手は五英雄であるということで、それまで敬語を使って接していたルヴィナまでもが、とうとうアズラルを変態呼ばわりし始めた。
「は、はい! ただいま!」
エドガーはルヴィナの声に含まれる怒気を感じ取り、全力ダッシュでアズラルを捕獲する。
「うわ! やめたまえ、君! 僕の至福の一時を邪魔する気か?」
思わず『声』を出してしまったアズラルに、周囲の人間たちの視線が集まる。
「あ、あはは。なんちゃって、腹話術でした!」
かなり苦しいごまかしの言葉だが、『猫が言葉をしゃべる』よりは、信憑性があったようだ。人々は怪訝な顔をしながらも視線を逸らしてくれた。
「あ、あっぶねえ……。何やってんですか、アズラルさん」
「何をやっている、は君の方だ。まさか、あれか? 君は五英雄の一人たるこの僕に、決闘を挑もうとでも言うのかい?」
「いや、俺はあんたが五英雄であること自体が信じられないっす……」
ぐったりと諦めたように息をつくエドガーは、憤慨する黒猫を胸の前で抱えなおす。女性陣が彼を抱きかかえられない以上、彼がその役割をするしかなかった。
「とにかくまず、腹ごしらえでもしようぜ。いい加減あたし、お腹がぺこぺこだよ」
「あなたは、いつでもお腹を空かせていますわね」
唐突に空腹を訴え始めたエリザに、リリアもそう返しはしたものの、ここまでは歩きづめだったのだ。空腹を感じていないわけではなかった。
「そうだな。腹が減っては戦はできない。情報収集がてら、適当な店で食事でもしよう」
ルーファスの言葉に一同は頷き、通りに並ぶ飲食店を物色し始めるのだった。
──月影亭。
情報収集の都合上、なるべく人が多い店を選んだのだが、どこかで聞いたことがあるような名前の店だ。
「まあ、僕の故郷には『黒霊亭』なんて店もあるくらいだからね。そんなもんじゃないかい?」
テーブルの中央に陣取る黒猫。彼は、他の皆が頼んだ料理を少しずつ取り分けた皿に首を突っ込み、はぐはぐと美味しそうに食べている。
「中身が変態でなければ、最高ですのに……」
自らも食事を口に運びながら、未練がましげに黒猫を見やるリリア。
「うんうん、おいしい。これで、星霊亭のジャンボスタミナスペシャルミックスみたいに量が多ければ最高なんだけどなあ!」
エリザは食事に夢中だった。
やがて食事を終えた一行は、そのまま店内で情報収集を開始する。どうやらこの街に来た旅人は皆同じ話を訊くようで、突っ込んだ質問をしてもまったく怪しまれる気配がない。
「……街の中も取り立てて問題なさそうですね」
「そうだな。魔王に支配された街にしては、平和そのものだ」
「城門が壊されたなんて話もありましたけど、それもいい加減、直ってるみたいですしね」
ルヴィナとルーファス、エドガーの三人は、収集した情報を持ち寄るように言葉を交わす。と、そこへアズラルの声が割り込んでくる。
「気になるのは、ミリアナの行方だね。それだけがようとして知れない。まるで意図的に隠されているみたいだよ」
「ミリアナさん……大丈夫かな」
珍しく沈んだ声を出すエリザ。いつもは活き活きと輝く赤銅色の瞳も、今では力無く不安げに揺れている。
「だ、大丈夫だって! あのミリアナおばさんだぞ? あの人が簡単にやられたりするもんか」
「ああ、そのとおりだ。心配はいらない。敵の総大将にも匹敵する相手を討ちとっておきながら、情報を隠蔽することなどあり得ないのだからな」
「そ、そっか! そうだよね」
エドガーとルーファスによる励ましに、エリザはようやく明るい表情を取り戻す。だが、アズラルはそれほど事態を楽観視していない。
「……この国で絶大な人気を誇る彼女の死を隠すことで、不満が新たな統治者に向かないようにしているのかもしれない」
悲観的に考えれば、そうした結論も出ないわけではないが、エリザを前にそんな言葉を口にするほどアズラルは思いやりのない人間ではない。それに彼としても、かつての仲間の生存を祈る気持ちはあるのだ。
一通りの情報収集を終え、彼らがその店を出ようとしたその時だった。
「ふんふんふん、今日もお給金がいっぱい出たし、なに食べよっかなあ? うん。ここは奮発して、ステーキとかいっちゃう?」
楽しげに独り言を連発しながら、戸口に現れた一人の少女。金髪金眼。しなやかな猫のような身体つきに、文字どおり猫そのものといった耳やしっぽを持つ金虎族の少女。
ルーファスとアズラルの二人を除く四人には、見知った顔の相手だった。あまりにも意外な相手に、驚き固まる四人。ルーファスも一瞬遅れて皆の様子に気づき、立ち止まって振り返る。
「どうした、みんな?」
「や、やばいにゃ! なんで、あいつらがここに?」
「あー! やっぱりあの時の泥棒猫だ!」
エリザが指を差して叫んだ瞬間、ルーファスの背後で踵を返す少女、シュリ。脱兎のごとく逃げ出す彼女の俊敏性に、辛うじて反応したのはエリザだった。
「こら! 待て!」
ルーファスが反応する間もなく、その脇を駆け抜けていくエリザ。
「あ。こら! エリザ! 待ちなさい!」
慌ててリリアが後を追おうとするが、しかし……
「待て! いったいどうした!?」
ルーファスはわけもわからないまま、続いて脇を駆け抜けようとしたリリアの袖を掴む。
「え? きゃあ!」
彼女は他の四人と同じく、制服ではなく私服を身に着けている。紅季の暑さの中、通気性と動きやすさを重視して選んだ彼女の服は当然、半袖だった。つまり、ルーファスが掴んだ『袖』とは、ほぼ肩口に近い場所になる。
バランスを崩して転びかけた彼女は、どうにか体勢を立て直すも、肩から襟の辺りを真横に引っ張られたことで、元々襟元の開いた部分がさらに大きく拡げられる。日焼けを知らない少女の白い肌。二つのふくらみの片側がわずかに覗き、リリアはとっさに胸を隠す。
顔を赤くして目に涙をにじませた彼女に、無駄とは知りつつ全力で土下座を決めるルーファス。
「……す、すまん!」
「……あ、あなたって人は、どこまでタイミングが悪いんですの、この女の敵!!」
ほとばしる黒い雷。
「……うーん、すごいなあ彼。『吸血の姫』の《黒雷破》って一応、精神的には『必殺』の一撃だよ? 彼女のアレは、まだ威力と効果にムラがあるみたいだけど、普通なら死ぬか、良くても発狂してるよね」
「あんた、言うことはそれだけかよ……」
エドガーの胸に抱かれたまま、呑気な言葉を吐く黒猫。ソレを思わず放り出してしまいたい衝動に駆られながら、エドガーは小さくなっていくエリザの背中を見送った。
次回「第36話 英雄少女と黒霊賢者(下)」




