第26話 少年魔王と戦の準備(下)
リールベルタ王国には、『魔の森』と呼ばれる森がある。月獣が多く潜むと言われる危険な森であり、地元の人間たちも滅多に立ち入らない場所だ。そもそも、この大陸には無数の『魔の○○』と呼ばれる土地があるが、そうした場所は大概が『月獣』の棲みかだった。
ネザク、リゼル、そしてルカとリラの二人のメイドは、地元住民が止めるのも聞かず、この森へと足を踏み入れていた。先頭を歩くリラは、鼻歌混じりで森の木々を見上げている。
「うーん、空気がおいしい! ほんとにこんなきれいな森に月獣なんか出るのかな?」
「ほら、リラ。あんまり先に行っちゃ駄目よ? いざと言う時にはリゼル様に助けてもらわなくちゃいけないんだから」
「はーい!」
ルカにたしなめられ、小走りで戻ってくるリラ。『紅季』が始まったばかりの今の時期、徐々に日射しも強まってはいるものの、森の中を吹き抜ける風は依然として爽やかだ。
「ああ、今日は平和だなあ」
ネザクはしみじみした声で呟きながら、木漏れ日の射し込む小道を歩く。今日の彼は、女性物の服ではなく、野外活動に適した動きやすい恰好をしている。ただそれだけのことなのに、えも言われぬ幸福感に浸っているようだ。
「……ネザク様も可哀そうね」
そんな彼の様子を見て、ルカはつい、同情の言葉を口にしてしまった。すると、すぐさま耳ざとくそれを聞きつけ、ずずいと近づいてくる影が一つ。
「もちろん、ネザクはかわいい」
「え? えっと……ああ、ネタでもなんでもなく、リゼル様には『可愛い』と『可哀そう』の区別がついてないんですね……」
ルカは諦めたように首を振る。ある意味、リゼルは唯一、カグヤ(またはリラ?)の魔の手からネザクを助けてやれそうな存在ではあったが、これでは期待できないだろう。他に考えられるのは、エリックやルカ自身と言った『良識派』の者たちだろうが、如何せん色々な意味でカグヤには太刀打ちできない。
「ま、可哀そうとは言っても、世間一般から見たらある意味、羨ましい状態でもあるんだし、本気で助けようとも思わないんだけどね」
美人の姉と可憐なメイド、可愛らしい王女様に、さらには美貌の魔人にまでに愛される少年。その言葉だけ聞けば、実に幸せそうではないだろうか。ルカは日々、そんな風に自分を納得させつつ、見て見ぬふりをしていた。というより、彼女にはそれどころではない事情もある。
「ところで、お師匠さま」
自分の隣を歩く黒髪の女性──世界でも最強クラスの力を有する魔人は、彼女に問う。
「今日のわたくしは、『可愛い』だろうか?」
「はう」
うなだれるルカ。リゼルは真面目である。『お笑い』にも『可愛い』にも、一切の手抜きや妥協はない。それはいいのだが、真面目すぎるうえに、他人の言葉を額面通りにとらえ過ぎるのが問題だった。
それが原因で、一度は大変な事態に陥りかけたこともある。そのきっかけは、やはりと言うべきか、悪名高き黒の魔女、カグヤのこんな一言だった。
「ネザクだって男の子なんだから、できるだけ女の子の肌が良く見えた方がいいはずよ」
この後のリゼルの行動自体は、カグヤの意図したものではないのだろう。彼女は、あくまで「だから、リゼルも露出の多い恰好で誘惑したら?」というつもりで言ったのだ(それでも十分悪意は感じられるが)。
しかし、言い回しが最悪だった。実は狙ったのではないかと疑いたくなるほどの最悪さだ。とにもかくにも、その言葉を聞いたリゼルは頷きを返し、ぼそりとつぶやいたのだ。
「よし。ではネザクに女の子の肌が見えるよう、努力する」
それから間もなく──城内のいたる所では、衣服をぼろぼろにされて逃げ惑う女性たちの姿があった。結局、ネザクが「なんで僕が!」と半泣き状態で女性たちに新しい衣服をプレゼントして回ることで事なきを得たものの、それさえもカグヤの指示なのだから始末に負えない。
ちなみに、顔を真っ赤にして女性物の衣装を配って回るネザクに、心を撃ち抜かれた女性は多かったらしい。
それを思えば、ルカもリゼルが妙な方向に進まないよう、細心の注意を払って言葉を選び、アドバイスをしなくてはいけないのだ。
「うう、どうしてわたしがこんなことで、神経をすり減らさなくちゃいけないのかしら……」
「お師匠さま?」
「あ、ああ、うん。……じゃなくて、はい、なんでしょう?」
改めてルカはリゼルを見る。そして、そのまま目を逸らす。いったい誰のコーディネートだこれは。思わず唸りたくなるルカだった。
リゼルは、ピクニックに適した動きやすく活発な衣装を身に着けている。だが、動きやすければよいというものではないだろう。出発前、最初にその姿を見た時点で既に、ルカは頭を抱えたくなっていた。
──フリルの付いた半袖ブラウスに、小さなレースで縁取りがされたショートパンツ。形の良い腕や足をむき出しにしているわけだが、色っぽいと言うより子供っぽい。その子供っぽさに輪をかけているのは、頭に着けられた巨大な赤いリボンだろう。大人びた雰囲気のリゼルには、凄まじく似合わない格好だと言えた。
「そ、それは誰に勧められたんです?」
とりあえず、犯人を突き止めよう。ルカは心を落ち着かせ、状況を整理することにした。
「もちろん、カグヤだ。いわく、『その道の人には受けるわよ』だそうだが……」
「……あんの魔女め! いったい誰の需要に応えようとしてるのよ!?」
思わず悪態をつくルカ。やっぱりあの時の騒動も、わざとだったに違いない。彼女はそう確信する。
「えっと……わたしが思うに、リゼル様には前に着ていたような清楚な印象のドレスがお似合いだと思いますよ?」
「そうか。これは似合わないか」
「うわわ! そうは言ってません! より似合うものがあるってだけで……」
服を破ろうとするリゼルを、慌てて止めるルカ。残念ながらピクニックと言えど、彼女の神経が休まることはなさそうだった。
それから、歩くことしばらく。ネザクたちは森の中でも多少開けた場所を見つけ、昼食をとることにした。朽木が倒れていて腰かけるにもちょうどよく、木々の枝がぽっかりと隙間を空けたその場所には、眩しいくらいに日射しが降り注いでいる。
「今日のお弁当は、お城のコックさんに教えてもらって、わたしが作ったんです。ネザク様のお口に合えばいいんですけど……」
小脇に抱えたバスケットから弁当を取り出しながら、リラが恥ずかしそうに言う。
「へえ、意外ね。あなたって料理とか苦手だったわよね?」
「わああ! なんてこと言うの、ルカちゃん!」
驚きに目を丸くしたルカの言葉を遮るように、慌てて手を振るリラ。するとそこに、別の手が伸び、彼女の手を掴んだ。
「へ? ネ、ネザク様?」
「……リラさん、手を怪我してるよ」
「あ、い、いや、これはその……あはは」
リラはネザクから自分の手をそっと引きはがすと、背中に腕を回して手を隠す。
「あれ? こ、これってまさか……」
ルカは、事の成り行きを興味津々に見守る。
これはつまり、『料理が苦手な女の子が、好きな男の子のために手に怪我をしながらも、一生懸命お弁当を作ってきた』というシーンではあるまいか。
あまりにもベタではあるが、間違いなく男心をくすぐるだろうシチュエーション。そんなことはありえないと思っていたが、まさかここで、二人の関係に異性としての進展があるのだろうか。
ルカが固唾を飲んで見守る中、ネザク少年の反応やいかに──
「う、うう……、リラさん。もしかして、僕のためにお弁当を? そんな、怪我までして……。う、嬉しいよ。すっごく嬉しい……。ぐ、ぐす! が、感動じだ、あ、ありがどう!」
ネザクは、涙をぼろぼろと流し、感涙にむせび泣いている。涙どころか鼻水まで出始めているようで、ずるずるとすする音まで聞こえてくる。
「なんでそこで号泣するかな……」
ルカは、がっくりとうなだれる。いや確かに、ネザクはリラの心遣いに感じ入ってはいるようだ。だが、感動して大泣きしてしまうなんて、いくらなんでも行き過ぎだった。これではさすがに、恋の予感もへったくれもないだろう。
リラも結局は、泣いている子供を慰めなければとの使命感に駆られたようで、少年の背中をよしよしとさすってあげている有様だった。
「うーん、やっぱり駄目ねえ……」
そんなふうに、ルカがため息を吐いたその時だった。隣に腰かけていたリゼルが、突如として立ち上がる。
「ネザク、獲物です」
「え?」
周囲の森からガサガサという音がする。茂みの中から獣のような唸り声。
その、直後のことだった。
「きゃあ! う、あ、ああ……」
「はう……」
ルカとリラ、二人の少女は全身を硬直させる。身体が痺れて動けない。どころか、全身から力が抜けてしまい、立っていられなかった。倒れ込もうとする二人の身体を、それぞれリゼルとネザクが抱きかかえる。
「なにこれ!? リラさん!」
「オンテルギウス」
焦ったように叫ぶネザクに、リゼルが声をかける。
彼女の言葉どおり、茂みから現れたのは、かつてエリザも戦ったことがある、月獣オンテルギウスだ。強靭な四肢を備えた四つ目の獣。特殊能力である麻痺の眼光は、抵抗力のないものが相手なら、離れた距離からでも有効だった。
「……リゼル、二人をお願いできる?」
ネザクの低く抑えたような声が響く。
「はい……発動《拒絶の意思》」
リゼルの指先から小さな黒い球体が飛び出し、少女二人の身体の中へと吸い込まれていく。
「う、く……」
二人の身体から痺れが徐々に取れていく。すぐには動けそうもないが、いずれは回復するだろう。リゼルの使った《拒絶の意思》は、対象の抵抗力を高める黒魔術だった。
「さすがに今のは動揺しちゃったな。まさか、自分で封印が解けちゃうとは思わなかったよ。……カグヤがシュリさんの代わりにルカさんとリラさんを同行させたのは、これが理由なのかな?」
ネザクの瞳は、赤く輝いていた。
「うう……」
発動した『ルナティックドレイン』の効果により、先ほどとは別の苦しさに襲われるルカとリラ。
「ごめんね。すぐ片付くから」
そんな二人にネザクは申し訳なさそうな顔をすると、月獣たちに向き直る。どうやら月獣たちもただならぬ気配は感じているらしく、すぐには飛び掛かってこない。とはいえ、彼らは『狂った獣』だ。これで引くことなどあり得ない。
「二人をあんな風に苦しめるなんて……殺しても殺し足りない感じだけど、こいつら、生きたまま捕えるんだよね」
ネザクはちらりとルカとリラの無事を確認しながら、一歩、オンテルギウスたちへと間合いを詰める。グルグルと唸り始めるオンテルギウス。リゼルはそんなネザクの後姿を黙って見つめている。
「……気絶させても持ち運びが大変か。うん、じゃあ、これしかないね。……我が右腕にベルゼブブ、顕現せよ」
ネザク少年の背後に、突如として浮き上がる人影。一見すると目隠しのような青い布を顔に巻いた男性に見えるが、その全身には不気味な『口』が無数に存在し、開いたり閉じたりを繰り返している。
だが、そんな不気味な姿が見えたのは一瞬のこと。すぐにネザクの身体に重なると、霞むように消えていく。すると、そのときだった。まるでそのタイミングを見計らったかのように、一体のオンテルギウスが飛び掛かってくる。
「まず、一匹目」
ネザクは、右手を迫りくる月獣に突きだす。その掌には、不気味な『口』が付いていた。そして、音も無くぱっくりと開いた口からは、黒くて小さなものが次々と飛び出してくる。巨大な体躯を誇る月獣オンテルギウスではあったが、その姿は見る間に黒いソレに覆われていった。
「あ、あれは……?」
ルカはリゼルに支えられながら、どうにか身を起こしていた。目の前では、次々と怪物が黒いものに押し包まれ、倒れていく。
「霊界第四階位、悪食蠅王ベルゼブブ」
リゼルの答えは簡潔だった。霊界の『災害級』の中でも最強の存在、第四階位の『魔』。ネザクはあろうことか、そんな存在を己の内に取込み、その力を意のままに行使しているのだ。
「……よし、こんなものかな?」
一仕事終えた顔のネザクが手を一振りすると、それまで月獣に群がっていた黒い蠅の大群が姿を消した。後に残されたモノは、子犬程度のサイズにまで小さくなったオンテルギウスが四体。
「うん。それじゃ、リゼル。『ルナティックドレイン』の封印、お願いね」
「はい」
返事の直後、何をやったという訳でもないのに、ネザクの赤い瞳が元の水色に戻る。と同時に、ルカとリラを苦しめていた気持ちの悪さも消えていく。
「ごめんね、二人とも。つい気が高ぶっちゃって。でも大物が四匹も釣れたし、どうにか目的は達成できたかな?」
朗らかに笑うネザクに、リラが問いかける。
「え、えっと、お怪我はないですか?」
「うん、大丈夫。心配してくれてありがと」
こくりと頷き、笑みを浮かべるネザク。
「……きゃーん、かわいい」
うっとりした顔のリラ。
さっきまでの緊迫感が嘘のようだった。ルカは呆れたように息をつく。
「ネザク様、この小っちゃいのがさっきの月獣なんですか?」
「うん。小さくするために、だいぶ魂を咀嚼したからね。元に戻すにはカグヤか誰かに頼まなくちゃだけど」
「た、魂を咀嚼って……そんな方法で生き物を小さくできちゃうものなんですか?」
「まあ、月獣は『魔』に近い存在だからね。他の生き物に同じことをしたら、死んじゃうと思うよ」
「…………」
こともなげに言うネザクに、あらためて呆気にとられるルカだった。
「さて、それじゃ今度こそ食事にしようよ。せっかくリラさんが頑張って作ってくれた料理なんだしさ」
目の前に転がる四体の『ミニ』オンテルギウス。しかし、子犬のようで可愛らしいくもある。生命の危機が一転、喜劇のような光景に変わっている。なんとも不思議な気分ではあったが、リラの料理はそれなりにおいしく、雑談をまじえての食事は和やかに進む。
「ネザク、残りはわたくしに、任せてください」
食事の後、唐突にそんなことを言い出すリゼル。
「え?」
「カグヤからの指示」
そう言い残すと、リゼルは半袖ブラウスに短パン姿のまま、森の中に消えていく。
「えっと、どういうこと?」
きょとんとするネザク。
「リゼル様、あの恰好じゃ、虫刺されがいっぱいできちゃうよね?」
どうでもいいことを心配するリラに「そうね」と言葉を返しながら、ルカはリゼルが去って行った方向に視線を向ける。今回の件は、カグヤに何らかの狙いがあってのことらしい。それもネザクには知らされず、リゼルには知らされているような『何か』だ。
カグヤとリゼル。二人の関係は不可解だ。ネザクが召喚・契約しているだろう『魔』のはずなのに、リゼルには何故かカグヤの指示を優先して行動している部分がある。
かといって、カグヤに絶対服従しているわけでもなく、独自にネザクのための行動を起こしているきらいもあり、ますますわけがわからない。
ただ、二人はネザクの味方で、ルカやリラの主人に当たる人たちだ。酷い扱いなど受けたことはないし、優しく接してくれている。そのうえ危険が迫れば、こうして助けてもくれるのだ。あり得ないぐらい変わり者の主人ではあるけれど、ルカやリラにとっては、それで十分だった。
待つことしばらく、リゼルは森に潜むあらかたの月獣たちを気絶させ、闇の球体に閉じ込めて、引きずるように帰ってきた。その数、およそ数十匹。オンテルギウスのような大物こそいないが、それなりに人々から恐れられる月獣たちが、まるでペット扱いだった。
「あれ? これって実は僕、いらなかったんじゃ?」
そんなリゼルの姿を見て、憮然とした顔でつぶやくネザクだった。
次回「第27話 英雄少女とふたたびのダンジョン(上)」




