第25話 少年魔王と戦の準備(上)
リールベルタ王国の首都、テルエナンザを魔王軍が陥落させてから、はや一か月が経とうとしている。最初は首都にのみ広まっていた魔王の支配宣言は、いまや国中に知れ渡っていた。
当然、ネザク達の進行ルートに無かった地方領主からしてみれば寝耳に水の話であり、そもそも魔王による王都陥落など信じられる話ではない。その結果、事の真相を確かめるべく、次から次へと領主たちの使者が派遣されてくることとなったわけだが、カグヤは彼らを丁重にもてなした。いちいち現暫定統治者である国王と面会させ、ネザクにも引き合わせ、『魔』を目の前で召喚させてみて、彼らの意識に『魔王』の存在を十分に刷り込んでから送り返す。
エリックから見てもカグヤの狙いは明らかなのだが、この調子ではいつ、領主たちが軍を率いて攻め込んでくるのか、冷や冷やだった。
「大丈夫よ。それが狙いなんだもの」
「その方がより多くの人間に、ネザクのことを印象づけることができるからってわけか?」
例のごとく使者たちの「おもてなし」を終えて見送った後、エリックは自分用の執務室にカグヤを迎え入れていた。彼の執務室は、かつては大臣に相当する役職の者が使っていた場所であり、それなりに調度品も整っている。
本人が座るための執務机と椅子のほか、部屋の中央には、座り心地のよさそうなソファやテーブルといった応接セットまでもが備え付けられていた。
「ええ。彼らが攻めてきて、それをネザクが撃退して……。まあ、そこまですればこの国での周知は十分かもしれないわね」
カグヤはそんな応接のソファに腰かけたまま、テーブルに置かれたお茶菓子へと手を伸ばす。つい、と横から伸びてくる手を押しのけ、目当てのお菓子を確保するカグヤ。
「むふ! おいし」
手に取って見せつけるようにしながら、カグヤはそのお菓子を一口に頬張った。
「ううー! また取られちゃった!」
その様子を恨みがましげに見つめるのは、現国王ダライア二世の娘。金色の髪に愛らしい顔立ちをした王女、エレナ(3歳)だった。
「ふふん、早い者勝ちよ」
カグヤは、勝ち誇ったようにカップを手に取り、紅茶でお菓子を喉へと流し込む。
「どこの世界に、3歳児との菓子の取り合いで勝ち誇る魔王の姉がいるんだよ……」
執務机に肘をついたまま、呆れたような顔のエリック。
「あらあら、それじゃ言わせてもらうけど、どこの世界に執務室に可愛い女の子を連れ込んで、いちゃいちゃしちゃう騎士様がいるんでしょうね?」
「うぐ! い、いや、これは別にいちゃいちゃとかじゃなくてだな……単に懐かれたというかなんというか……」
エリックは狼狽えたように、ちらりと視線を脇に向ける。そこには、ボーイッシュな金髪をした猫耳の少女がいた。『月下を駆ける大怪盗』ことシュリ・マルクトクァールだ。
彼の使う執務机は、それなりの広さがある。そのため、少女一人が腰かけた程度では、書類仕事を片付けるには十分なスペースが残されている。
「お、おい……やっぱり降りろって」
何故かエリックの声は小さい。そんなエリックに対し、シュリは悲しそうな目でうつむく。
「邪魔はしないって言ったにゃん。……シュリ、エリックおじさまが仕事してる姿を、黙って見ていたいだけなの。それでもだめ?」
初対面の時とは打って変わった、しおらしい声。目線はエリックより高い位置にあると言うのに、上目遣いをしてくるという器用な真似までされて、エリックは言葉に詰まる。
「ぷ、くくく! ああ、おかしい。まさかエリックにこんな弱点があったなんてねえ」
「う、うるさいぞ、くそ……。駄目だ。こいつは猫じゃないと頭では分かっているんだが……」
エリックは頭を抱えた。彼は昔、実家で猫を飼っていたことがある。そのせいもあり、彼は大の猫好きだった。それを知ってのことか、シュリは猫のように瞳孔を拡縮させ、話し言葉も極力『それらしく』して見せたうえで、しなやかな動作を心掛けていた。
「ねえ、おじさま? シュリ、お小遣いが欲しいにゃん」
「……仕事の邪魔はしないんじゃなかったか?」
「あ、う、うん……ごめん」
シュリはしゅんとした顔となり、尻すぼみに言葉を途切れさせる。哀れっぽく尻尾を垂らし、耳まで伏せるその様子に、エリックのこめかみがわずかに震える。
「うう……だ、大体、まだろくに働いてもいないのに、これ以上給料を上げるなんてできるわけがないだろ? この国の国庫だって統治に必要な分を考えれば、俺らが無駄に使っちまうわけにはいかないんだぞ?」
「そ、そうだよね……ごめんなさい。シュリ、わがまま言って……」
シュリは、ますます項垂れて見せる。金の猫耳は完全に前に倒れ、エリックの心を見事にえぐっていく。
「わ、わかった。わかったよ! 小遣いぐらいなら俺が出してやる!」
その一言に、シュリは見る間に目を輝かせる。
「え? ほんと? やったにゃん!」
執務机から飛び降り、エリックの周囲をぴょんぴょんと跳ね回るシュリ。
「くそ! なんで俺が、自分のポケットマネーまで犠牲にせにゃならんのだ……」
「いやなら、断ればいいでしょう? ……って、あ! それはわたしのお菓子!」
「くふふ、早い者勝ちだもんね!」
「くううう! 悔しい!」
カグヤはエリックと会話をしつつも、エレナとの間で壮絶なお菓子の争奪戦を継続しているようだ。
「……駄目なんだ。駄目なんだよ、猫だけは……。ちくしょう。だから俺は、こいつを魔王軍に入れるのだけは嫌だったんだ」
書類に目を落とし、ぶつぶつとつぶやくエリックを、シュリはニヤニヤした目で見ていた。この魔王軍の金庫番が事実上エリックであることを知った彼女は、どうにか彼を籠絡しようと様々な手段を試みた。
最初は色仕掛けのような手段までやってみたのだが、彼は白い目で見るだけだった。あまりの淡白な反応ぶりに、「こいつ、ほんとに男なのかな? あるいは、男好きとか?」との独り言をうっかり聞かれ、激怒されてしまうという失敗も経験した。
だが、ある日、彼女は気付いたのだ。自分が普段、何の気なしに城内を歩き回り、ご飯を食べて、眠くなればところ構わずお昼寝を決め込む日々の中、時折彼の視線を感じることに。
そしてシュリは、彼の視線を感じた場面を思い返し、推測を立て、実行に移した。ものの見事に成功したその試み。それが、『猫のように』振る舞うことであった。
「……と、ところで聞きたいんだが」
エリックは、誤魔化すように話題を転換しようとした。
「あ! その種類は最後の1つよ! ……て、なに?」
「……ああ、いや、その、どうしてそんなにネザクの知名度にこだわるのかと思ってな」
エリックが問うと、カグヤはエレナの口の中に消えていくお菓子を諦めたように見つめた後、ようやく視線を向けてきた。
「この前教えたでしょう? 『ルナティックドレイン』の話」
「ああ、聞いた。だが、別にそんな物騒なもの、使う必要ないんじゃないか? 今のままでも十分強いぞ、あいつも、リゼルも」
「全然だめよ。この国の兵士達みたいな有象無象ならともかく、今後五英雄を相手取ろうというのならね」
五英雄──カグヤが当然のように口にしたその言葉に、エリックは固まった。
「お、おい、五英雄を相手取るってどういう意味だ?」
「そのままの意味よ。決まってるでしょ? 世界を征服するのに、五大大国の五人の英雄を無視できるわけないじゃない」
「い、いやでも、五英雄って言ったら、一騎当千どころか、たった一人で万の軍勢にも匹敵しかねない化け物だぞ?」
「だから、ネザクに強くなってもらうのよ。実際、『ルナティックドレイン』状態にならなくても、あの子自身の知名度なり、印象度なりと言ったものが上がれば上がるほど、あの子の術の力は強くなっていくんだからね」
「なるほど……だからこそ、こうして領主軍が攻めてくるのを待ってるわけか」
「ええ。でもさすがに、それが終わればすぐに次へ取り掛かるつもりよ」
「次ってどこだ?」
エリックの何気ない質問に、カグヤはぞっとするような笑みを浮かべる。
「五大大国のひとつ、クレセント王国。ここから一番近いしね」
「クレセントだと!?」
「ふにゃ!?」
エリックの大声に驚いて、とびあがるシュリ。
「もう大声出さないでよね。何をそんなに驚いてるのよ?」
カグヤもうるさそうに、耳へ手を当てている。
「決まってるだろうが、クレセントって言ったら、五大大国でも最強の国家だぞ? よりにもよって何でそんな……」
呆れたように言うエリック。例のごとくカグヤの冗談なのだろうと考えたようだが、カグヤはさらに笑みを深くするだけだ。
「でも、あの国にいるのは、五英雄の中でも最弱の『月影の巫女』よ」
「はあ? あんた、頭は大丈夫か? 月影の巫女っていったら、大戦でもっとも活躍した英雄じゃないか。銀翼竜王リンドブルムの相棒にして、戦場の覇者。それが彼女だろう?」
「頭は大丈夫かとは何よ、失礼ね。まったく……。とにかく、あの国の月召術師団も月影の巫女も、そろいもそろってネザクの敵じゃないのよ。まあ、その辺は、おいおいわかるでしょうけどね」
相性の問題としての『最弱』。カグヤはそう言いたいらしい。しかし、それでもエリックには不安が残る。リンドブルムを筆頭にした強大な『魔』の数々。それらを従える、かの国の月召術師団は、戦場の最終兵器ともいうべき存在なのだ。
「まあ、一応、その他の準備も進めておくから大丈夫よ」
「……今、ネザクが出かけているのは、その準備とやらか?」
「あれ? よくわかったわね。そうよ。あの子たちには、月獣狩りのピクニックに出かけてもらったの」
カグヤの言葉どおり、実はこの時、ネザクとリゼル、それからメイドの二人の少女は、シュリが操る月獣を確保するため、お弁当片手に近隣の森深くへと出かけていた。
「……だったら何で、シュリがここに残ったままなんだ?」
じろりと、机の上に腰かけたシュリを見るエリック。
「うん。シュリも行きたかったんだけど、捕まえてきてからでいいんだってさ。だから今は、エリックおじさまと一緒にお留守番だにゃ」
シュリは、語尾を猫の鳴き声のように変えている。普段の彼女は感情の高ぶった時以外、こうした言葉遣いにはならないのだが、これは間違いなくわざとだった。
「……なあ、前々から言いたかったんだが、ひとついいか?」
エリックは、目の疲れをほぐすように眉間を指でつまんでいる。
「なに?」
「その、おじさまって言うのは止めてくれ。俺は、これでもまだ33歳だ」
「うん。シュリは17歳だよ?」
「…………」
年齢だけを即答され、言葉を失うエリック。
「あはははは! 危うくダブルスコアじゃない! お・じ・さ・ま!」
「ぐ……こいつめ……」
腹を抱えて笑い転げるカグヤに、エリックは低く唸る。
「うん?」
ようやく笑いを収めたカグヤは、何かに気付いたように動きを止めた。
「どうした?」
「エレナが眠っちゃってるわ。お腹がいっぱいになったのかしら?」
言われて見ればなるほど、先ほどまでカグヤとお菓子の争奪戦を繰り広げていたエレナ(3歳)は、いつの間にかソファに横になって静かな寝息を立てていた。いくら満腹になったからとはいえ、先ほどまでの喧騒の中で、こうもぐっすりと眠れるのだから大したものだ。
「なあ、俺は時々思うんだが、この子って本当に3歳か?」
「なあに、エリックったら、もう少し年上なら射程圏内なのかしら? 守備範囲は上下三十歳差までです! なんて言っちゃたりして」
「……俺はどんだけアグレッシブなんだよ!?」
エリックは額に青筋を立てて叫ぶ。が、カグヤに人差し指で静かにするよう指示されて、あわてて口をつぐむ。だが、今の大声さえ意に介さず、王女さまは夢の中だった。
「周りは知らない大人だらけで、今この部屋には父親さえいないんだぜ? そんな場所でよくもまあ、ここまで安心しきった寝顔を見せられるものだと思ってな」
「そうね。確かに……。まあ、こうしてみると、この子にも可愛いところがあるのかもね」
さすがのカグヤも少女の寝顔には癒されているのか、その顔には優しげな笑みが浮かんでいる。だが、直後──
「うーん、むにょにょ……カグヤおばちゃん、そのお菓子、わたしの……」
「…………」
寝言だった。それはもう、誰がどう見ても間違いなく寝言だっただろう。しかし、ピンポイントだ。恐るべきタイミングと言えた。カグヤの顔から表情が消えている。
「く、く、くははははは! 確かにな。エレナにかかっちゃ、お前さんだってダブルスコアどころじゃ済まないぜ。なあ、お・ば・ちゃ・ん?」
今度はエリックが腹を抱えて笑う番だった。だが、当のカグヤは──
「……エリック? 今夜は楽しみにしててね?」
「うあ」
カグヤの言葉に、一転して固まるエリック。
彼女の言葉は、色事めいて聞こえはするものの、その意味するところは「今夜、黒魔術で悪夢を見せてやるぞ」というものである。エリックは以前に見せられた大量のカエルが自分に襲いかかってくる夢を思い出し、ぶるぶると震えた。
「それから、エレナには……んふふ、無防備な寝顔だものねえ。額に『マセガキ』とか書いておいてあげようかしら?」
言いながら、書くための道具を探し始めるカグヤ。
「……いや、それはさすがシャレにならんから、勘弁してやってくれないか?」
額に『マセガキ』と書かれた可愛らしい王女様が城内を闊歩する様は、ある意味悪夢そのものだろう。今晩の悪夢確定なエリックは、それでも王女を救ってやるべく、カグヤを諌めるのだった。
「エリックおじさまって、ほんとに苦労人だね」
「うるさい。お前には言われたくないぞ」
エリックが力無く発した言葉に、シュリは「にゃはは」と笑う。
次回「第26話 少年魔王と戦の準備(下)」




