第19話 英雄少女と月影の巫女(上)
学院には、特別講師が招かれることがある。
五英雄の一人、中央の大国エレンタード王国出身の星霊剣士アルフレッド。学院の院長として彼が招く特別講師とは、他の四大大国にいる四人の五英雄である。
銀牙の獣王イデオン・バーミリオン
月影の巫女ミリアナ・ファルハウト
白星弓の守護妖精アリアノート・ミナス
黒霊賢者アズラル・エクリプス
彼らも後進を育てたいというアルフレッドの思想には賛同しており、忙しい公務の合間を縫って、講師の依頼にも応じてくれている。ノルマではないが、最低でも一人一年に一回は講師となっているのが通例であった。
四人の英雄の講義・演習も全校生徒を対象とするのは難しい。したがって実際には希望者を募り、くじ引きで対象者を決める。ただし、公平を期すため、落選者は次回の別の英雄の来訪時には優先権を付与される仕組みをとっていた。
生ける伝説とも言うべき英雄から、直接教えを受けることができるチャンスなのだ。生徒たちは、その日が近づくと非常にそわそわし始める。アルフレッドも一応、同じ五英雄のはずなのだが、あまり近くにいすぎるとありがたみが落ちるらしい。
そんな生徒たちの様子に、アルフレッドは苦笑を隠せない。
「まあ、気持ちはわかるけどね」
学院長室の窓からグラウンドで自己鍛錬を続ける生徒たちを眺めつつ、アルフレッドは呟いた。
「エリザ君に関しては、今さら特例がどうだと申す事は致しませんが、理由を教えていただけますか?」
そんなアルフレッドの背後から、部屋にいるもう一人の人物、副院長のエルムンドが問いかける。
「ただ、確かめたいことがあるんだ。どうせなら今回は、特殊クラスの全員をまとめてあの人に会わせるのもいいかもね」
「ですが、あの五人の中でもリリア君については、霊戦術師ですし、どうせならアズラル様の来訪を待った方がよろしいのでは?」
「……いきなり、あの変態は刺激が強すぎるよ。彼女たちには、むしろ人間的な面で、あの人から何かを感じ取ってもらいたい」
「……わかりました。では今回のミリアナ様の特別講義については、特殊クラスの五名を優先的に受講させることにいたします」
「うん。無理を言って悪いけどよろしく」
月影の巫女ミリアナ・ファルハウトは、西方の大国クレセント王国の最高神官にして、王国における最強部隊『月召術師団』の団長でもある人物だ。かの国の支配階級である月影一族の中でも、彼女は極めつけに優れた月召術師であり、強力な『魔』を自在に使役する力を持っていた。
──特別講師ミリアナ・ファルハウトの来訪前日のこと。
リリアは図書館から借りた本を片手に、学院の敷地内を歩いていた。今日は授業もない休日である。彼女の目的地は、とある木陰のベンチだった。数日前に見つけたそのベンチは、実際に使ってみると地形の関係なのか、日差しの強まる紅季でありながらも爽やかな風が吹き、何とも心地よい場所だった。
「ふふ、今日も誰もいませんわね。ちょうどいい穴場を見つけましたわ」
嬉しそうに笑みを浮かべ、いそいそとベンチに向かうリリア。読書であれば自室や図書館ですればよさそうなものだが、今の彼女には、そうはいかない理由があった。
図書館には学術や魔法に関する書物の他に、一般的な娯楽図書も置かれている。
リリアが手にしている本もそうした娯楽図書のひとつであり、いわゆる『恋愛小説』に分類されるものだ。とりわけリリアが好むのは、王子や騎士といった身分が高く凛々しい男性と平凡な家庭に生まれ育った素朴な少女とが恋に落ちる内容のものだった。
「こ、こんな小説を読んでいることがエリザに知られようものなら、からかわれるに決まっていますわ……」
普段、英雄物語に夢中なエリザをからかうことが多いリリアにとって、それだけは何としても避けなければならないことだった。
周囲を見回し、誰もいないことを確認したリリアは、ベンチに腰掛けて本を開く。ちなみに今日の彼女の服装は、水色のワンピース。紅季(夏)らしく薄い生地でできており、シンプルで爽やかな印象を与える一品だ。
背筋をまっすぐに伸ばしたまま、ツインテールにした白金の髪を左右に垂らし、読書用の眼鏡をかけた彼女は、何処から見ても文学少女そのものである。
「……ロマンティックですわね」
うっとりと頬を染め、物語の世界に没頭するリリア。興奮のあまり、黙読の速度も上がり、ページをめくる手もはやる気持ちに急かされるように動く。
と、そのときだった。
「──悪いが、さっきのページをもう一度開いてもらえないか? 王子の告白の言葉がよく見えなかったのだが」
「まったく、仕方ありませんわね」
唐突に聞こえてきた声に、反射的に返事をしながらページを戻すリリア。
「すまないな」
「…………」
違和感、そして沈黙。
「どうした?」
「あ」
「む?」
「きゃあああああ!」
リリアは絶叫と共に立ち上がり、振り返って本を後ろ手に隠しつつ、頭上を見上げた。
「どうした? いきなり悲鳴を上げたりして。大丈夫か?」
リリアの蒼い瞳には、ベンチの上にせり出した樹木の枝、その上に座る一人の人物の姿が映っている。
まず、目に入ったのは傷跡だった。刀傷のようなものが、その人物の額から目の間を抜け、頬の部分まで走っている。無惨な傷は、その人物の女性的な風貌に強烈なアクセントを与えているようで、思わずリリアは息を飲んだ。黒い長髪に、白い肌。眼光は鋭く、青々とした森を思わせる深緑の瞳。尖った耳とそれらの特徴を組み合わせれば、彼がダークエルフ族であることがわかる。通常のエルフ族に黒髪の者はいないからだ。
「な、なななな! なんなんですの! あなたは!」
「俺か? 俺はルーファス・クラスタ。一応この学院の生徒だ」
「そ、そういうことは聞いているのではありませんわ! 人の本を盗み読みするなんて、どういうつもりですの!」
リリアは動揺のあまり、相手が名乗った名前が特殊クラスの先輩にあたる人物のものだという事実に気づかなかった。ただ、『恥ずかしい』という思いが、彼女の思考を焼き尽くし、彼女の顔を真っ赤に染め上げていた。
「盗み読みと言うが、本を盗んで読んだわけでない。特に害のある振る舞いとは思えないのだが」
「そ、それは、その……」
言葉に詰まる。脇から(この場合は上から)他人の本を覗き込み、ページをめくる指示を出すことは、マナー違反である。冷静に考えればそう言うべき場面だが、リリアにとって、自分がこの手の小説を読んでいることを知られたという事実の方が一大事だった。
「ふ、ふふ……、そうね。そうよ。そうすればいいんだわ。……あは」
「なんだ? 君のその笑い方は、少々怖いぞ」
ルーファスは枝の上に腰かけたまま、怪訝な顔をした。だが、そのまま言葉を続ける。
「俺もその手の本は嫌いではないが、美形で身分の高い複数の男から同時に言い寄られるとか、どうにも女性に都合がよすぎる展開が多くないか?」
致命的な一言。
それまで小刻みだったリリアの身体の震えが、一瞬だけ大きくなり、直後にぴたりと止まる。
「そのお喋りな口を! 封じて差し上げますわ!」
「む? おお!」
リリアが発動した精気吸収魔法は、まっすぐルーファスを標的として迫る。だが、さすがに彼も学院の最上級生。ただ者ではなかった。枝に腰かけた姿勢から後ろに身体を倒し、その動きで迫る亡者の腕を回避する。そしてそのまま、膝を中心にくるりと宙返りをしながら飛び降りた。
想定外の攻撃をとっさにかわしてみせたことは、もちろん褒められてしかるべきだ。だが、運悪くと言うべきか、彼が着地した場所はちょうど、先ほどまでリリアが座っていたベンチの上だった。重心が不安定だったベンチは着地の衝撃で前倒しになり、ルーファスもまた、前方に投げ出される。
「ぐお」
「きゃ」
もつれあうようにリリアを巻き込み、倒れ込むルーファス。怒りと恥辱に我を忘れていたリリアは、なす術もなく彼の身体の下敷きになる。地面は柔らかい芝生だったものの、痛みに顔をしかめるリリア。
だが、彼女は気付いた。
自分の身体の上にかかる重みに。
そのうちの一部が、自分の胸のあたりに集中していることに。
自分の脚が空気にさらされている感覚に。
脚の間に、誰かの膝が割り込んでいることに。
つまり、胸を触られ、膝でスカートを半ばまでまくり上げられた体勢で、リリアは押し倒されていた。──彼女の瞳に涙がにじむ。だが、大声を上げようとした次の瞬間。身体の上から唐突に重みが消えた。
とっさに起き上がった彼女の瞳に映ったものは……全身全霊で土下座するルーファスの姿だった。
「す、すまなかった! わざとではないとはいえ、女性に対してやってはならない酷いことをした! 申し訳ない! いや、許してくれるとは思わないが、それでも謝罪させてほしい」
猛烈な勢いで言葉をまくし立ててくるルーファスに、呆気にとられるリリア。
「君の気が済むのなら、俺をいくら痛めつけてくれても構わない。俺にできることなら、なんでもしよう」
顔を上げ、真摯な表情で見つめてくるルーファス。ここまで見事に謝り倒されると、かえって相手を責めづらくなるものだ。──だが、彼女は誇り高き『吸血の姫』。受けた恥辱をそのままにしておくような性格ではない。
「…………感想を、言いなさい」
「なに?」
「わたくしの胸を、触りましたでしょう? どうでしたの?」
顔を真っ赤に染めながら、そんなことを口走るリリア。
「む? だ、だが……」
「なんでもすると言ったのではなくて?」
「む。なんだか、嫌な予感しかしないのだが……」
「嘘でしたの?」
「い、いや、嘘ではない。そ、そうだな……柔らかかった。だがそれだけにとどまらず、適度な張りと弾力が若々しさを感じさせた。その歳の女性としては、十分な大きさだったのではないかと思う」
その言葉に、身体を小刻みに震えさせるリリア。
「ふ……ふふ! いいですわ。それでいいの。ちゃんと、しっかり、あなたに対する殺意を抱くことが出来ましてよ?」
彼女の右手に黒い雷が集う。『吸血の姫』としての力。特異能力の一端。『自分の胸を触った感想を聞かされる』という恥ずかしさに耐えてまで、相手への怒りに自身を駆り立てることを優先する。──どこまでもプライドの塊のような少女だった。
「……学外任務でも、これほどまでに命の危険を感じたことはなかったな」
遠い目をして呟くルーファスに、黒い雷撃が炸裂する。
──特別講師の来訪当日。
エリザとリリアは生徒たちが集まる大講義室で隣に座り、雑談に興じていた。
「あはは! そんなことがあったんだ? 面白そうだな、そのルーファスって先輩」
「わ、笑い事ではありませんわ! まさか、このわたくしがあのような辱めを受けようとは……」
その時のことを思い出したのか、リリアは頬を紅潮させている。
「ところでさ、どうしてそんな離れたところで本なんか読もうとしたんだ?」
「べ! べ、べ、別にそんなこと、どうでもいいじゃありませんの!」
あたふたと慌てふためくリリアに、エリザは意地悪そうに目を細める。
「怪しいなあ。もしかして、人に見られたくない本でも読んでたんじゃないの?」
こういうときばかりは、なぜか鋭いエリザだった。
「な! な、なにを言ってますの? わたくしが、人に見られたくない本? そんな、ありえませんわ!」
動揺していることが丸わかりなリリアの声。
と、そこへ──
「まあ、『ヘンリエッタと二人の王子』は女性の間では知る人ぞ知る名作らしい。見られたくない作品などではないだろう。それは俺が保証する」
低く抑えられた男の声。リリアはツインテールを逆立てんばかりに飛び上がる。
「きゃああああああ!」
「ば、ばか、リリア。声が大きいって。授業まで時間が無いんだから静かにしなよ」
叫ぶリリアを押さえつけるエリザ。すでに教室中の注目が彼女たちに集まっていた。
「な、ななな! どうして、あなたがここにいますの?」
「決まっている。特別講師の講義は他では得難いものだからな」
その声は二人の少女の後ろから聞こえている。一段高くなった後ろの席。振り向けば、ルーファスは机に両肘を立てた姿勢で座っていた。その顔に斜めに走る一本傷を見て、エリザが思わず目をみはる。
「えっと、あんたがルーファス先輩?」
「ああ、そうだ。ルーファスでいい。よろしくな」
「うん。よろしく」
エリザとルーファスは互いに握手を交わす。
「何を親交を深めていますの、エリザ」
「え? だって、リリアについて貴重な情報を教えてくれた人なんだぜ? ぷくく! 『ヘンリエッタと二人の王子』かあ、うんうん!」
「あ!」
再び顔を真っ赤に染めるリリア。
「く! あなたって人は! 余計な真似を!」
「君の本がやましいものでないことを保証するため、気を利かせたつもりだったのだが……」
「うぐ……!」
リリアは言葉に詰まった。彼自身が言うとおり、あの本はやましいものではない。単にリリアがエリザに知られることを恥ずかしいと思っているだけだ。だから、それを知らないルーファスに罪はないのだろう。
「あ、あなたという人は……エリザとは別の意味で性質が悪すぎますわ!」
やり場のない怒りは、声を大きくすることでしか発散できないとばかりに、声高く叫ぶリリア。するとそこへ──
「そこの三人。静かにしなさい。これより特別講師を務めてくださるミリアナ・ファルハウト様が入室される。『月影の巫女』からご教授をいただく機会など滅多にないのだぞ? 心して耳を傾けなさい」
いつの間にか壇上に上がっていた副院長のエルムンドから注意を受け、三人は居住まいを正した。
「あらあら、そんなにハードルを上げないでくださいな。エルムンド様。これから未来に羽ばたこうという英雄の卵の皆さんに、わたしから少しでも参考になるお話ができるかどうか、不安に思っていたところですのに」
嫣然と微笑みながら入室してきたのは、白い髪に銀の瞳をした女性だった。彼女は、純白の上衣に緋袴を組み合わせた巫女装束に身を包んでいる。──そう、『巫女』装束だ。
彼女こそ、『月影の巫女』ミリアナ・ファルハウトその人だった。
次回「第20話 英雄少女と月影の巫女(下)」




