第134話 日輪と鏡月
『心月の邪竜』は、腹の中に形成した異空間を通じ、星界全土とのつながりを持っている。それは、この星界の大地が『心月』であるからこそ、可能な真似だ。ルーナ・クライステラはそれを利用し、星界全土の人間の心に邪竜が腹に溜め込んだ人々の狂気を増幅して送り込み、その代わりに『狂った真月』を受け取る仕組みを確立させていた。
狂える真月は、通常のものよりはるかに凶悪な力を有している。だからこそ、邪竜もルーナも、エリザとネザクの二人を同時に相手にしてなお、優位を維持することができていた。
「……でも、そこにこそ付け入る隙があるんだと思う」
ネザクはもう何度目になるかわからない、呪縛の魔法を放ち、『心月の邪竜』の動きを封じていく。
「付け入る隙? こいつが復活しないようにする方法があるの?」
同じく何度目になるかわからない真紅の斬撃。エリザは邪竜の首を一刀両断に斬り飛ばしている。
しかし、邪竜はすぐに首を復元し、口から四色のブレスを放ってきた。
「……うん。僕に考えがある。発動! 《天魔法術:無月の断絶邪法》」
ネザクが錫杖を一振りしたその先に、世界そのものを分断するかのごとき、虚無の断絶が壁となって出現し、『心月の邪竜』の凶悪なブレスを飲み込んでいく。
「どうするの?」
再び『邪竜』を斬り裂くエリザ。きわめて硬く、四色すべてに耐性を有する『邪竜』の鱗をこうもやすやすと斬り裂けるのは、星界全土を見渡してもエリザぐらいのものだろう。
「あいつが回復するのは、『狂月』があるからだ。今も星界中で皆が人々の狂気を鎮めてくれているし、だからこの程度で済んでいるんだろうけど……それでもそれだけじゃ再生までは防げない」
ここでネザクは、手にした錫杖の柄を屋上庭園の床へと突き刺して立てた。
「だったら、後はあの『邪竜』自体を再生させないように抑えるしかない。身体の動きを止めるんじゃなく……存在そのものを支配する形で」
ネザクは立てた錫杖から手を離し、その先端の輪から『邪竜』の姿をのぞき込むようにして言う。
「あれが『心月』だというのなら、『今の僕』なら支配できるはずだ。……発動、《ルナティック・ハイルール》」
錫杖の輪を通して放たれたネザクの言葉は、見えない波動と化して『邪竜』の身体に届き、その動きを制止させた。それは、これまでのような呪縛の魔法による物理的な拘束ではなく、まさに存在そのものを縛り上げる、魔王ネザクの特異能力の一つだった。
他者の召喚した『魔』を支配する特異能力『ルナティック・ルール』。その発展形ともいうべきこの力は、『月』に関わるすべてのものを支配する。相手に強靭な精神力があれば抵抗を受ける可能性もあったが、相手は本能に近い原理で動く化け物だ。
ネザクの狙いは、確実に功を奏していた。とはいえ、『心月の邪竜』には、エリザの攻撃しか効き目はない。
「エリザ! 今だ!」
「おう! いっくぞー!」
今度こそ仕留める。エリザは手にした剣にこれまで以上の『星辰』を集中させる。彼女にとって、それは、いつでも意のままに使える力。だから彼女は、それを精緻にコントロールするすべなど考えてこなかった。しかし、その結果が『幻樹王ティアマリベル』に対する敗北だった。
苦い経験をした彼女は、自身の力を意識して『使いこなそう』と思うようになった。短い期間ではあったが、あらためてアルフレッドに教えを乞い、アズラルの講義を聞き、アリアノートの手ほどきを受けた。
「その成果、ここで見せてやる! 発動、《降魔法術:斬月の神剣乱舞》」
紅水晶の剣。それはエリザの降魔神剣の姿だ。しかし今や、それは彼女の手の中のものだけではなく、彼女がかざした剣の先に数十本の単位で浮かび上がっている。
「いっけえええ!」
エリザの雄叫びに合わせるかのように、『邪竜』めがけて一斉に降り注ぐ、真紅の流星。
〈ルィィィアアアアア!〉
狂ったように叫ぶ邪竜の身体に、無数の神剣が突き刺さる。その後を追うように、エリザ自身も邪竜に迫る。大上段に振りかぶった紅水晶の神剣は、真紅の輝きを長く伸ばして邪竜の巨体を一刀両断に斬り裂いていた。
──『心月の邪竜』が断末魔の咆哮を上げるより、少し前。
屋上庭園の崩れた床の上から、階下を見下ろすルーナ・クライステラは、驚愕に声を震わせていた。
「そんな馬鹿な! どうして、そんなことが!」
彼女の緋色の瞳には、手にした蒼水晶の霊剣をリゼルの胸に突き刺すリリアの姿が映っている。しかし、彼女が驚いたのは、その事実に対してではない。
「ありがとうございます。リリア」
自身の胸を貫かれながら、礼を言うリゼル。ほとんどの魔力を失い、今にも送還となりそうだった彼女の身体にみなぎる、『黒月』の力の存在。それこそがルーナを驚かせた真の理由だ。
「蒼月の牙たるあなたが……暗愚王に『黒月』を供給するだなんて……」
それは本来、『墨染めの力』を有する暗界第三階位の月の牙『心象暗景メイズフォレスト』にしかできないはずの芸当だった。
「何を驚いているのかしら? もともと『ブルーブラッド』とは、そういうものだったじゃない。……磨き抜かれた鏡のように、あらゆる色を写し取り、あらゆる光を反射する」
凛とした声で顔を上げ、ルーナを見上げてくるのは、どこまでも強い光を宿した青い瞳だ。ルーナは、気圧されたように一歩、また一歩と、床に空いた穴の縁から後退していく。
「あとはわたくしに、任せてください」
リゼルは軽く床を蹴ると、ふわりと屋上庭園へと跳躍する。降り立った場所は、憎々しげに彼女を見つめるルーナの目の前だ。
「何度繰り返しても、無駄なことよ。わたしには狂える月の力がある。……そうでなくとも『真月』の源たる『もう一人のわたし』には、無限の力があふれているのだから」
そう言って、『神代兵装:狂月の真影絶剣』を構えるルーナ。
「あなたには、言葉が届かない。……ならば、わたくしは、心で語ろう」
「うるさい! 黙れ! もうくだらない戯言は聞きたくない!」
ルーナは黄金の長剣を振りかざし、真紅の炎を吹き荒れさせる。しかし、リゼルは……
「発動、《星の抱きし心の月に語るモノ》」
暗愚王の特異能力──《星心黒月》。それは、星界そのものを騙す力だ。
すなわち、星界そのものを騙る力であり、そして何より、星界そのものに『語る』ことのできる力でもある。
そしてそれは、星の光に抱かれた孤独な月に、愚直なまでに真摯に呼びかける力でもあった。……だからこそ、暗愚王の魔法だけは『星心障壁』を打ち破り、暗愚王の存在だけは『星界そのもの』に拒否されることなく、留まり続けることができた。
「う、うあああ! いや! 来るな! 来ないで! 入ってこないで!」
絶叫するように叫ぶルーナだった。
──時を同じくして、地底の湖の縁では、奇しくも同じ声が上がっていた。
「う、うあああ! いや! 来るな! 来ないで! 入ってこないで!」
声の主は、つい先ほどアルフレッドたちを抹殺するべく、力を振るっていた真紅の髪の幼女だ。一方、その声を上げさせているものはと言えば……アルフレッドの手を離れ、一人立ち上がった黒髪の美女だった。
その姿は、まぎれもなくアルフレッドの良く知る女性のものなのに、その身に纏う濃密な《闇》の気配は、彼女がまったく次元の違う存在であることを思い知らせるに十分なものだ。
「……心配しなくても、事が終われば、この子の身体は返してあげるわ。……もうそんなことをしなくても、『わたしたち』の目的は果たせそうだもの。あなたには感謝してる。今こうして、『この子』に出会って……『わたしたち』はようやく、すべてを『思い出す』ことができたのだから」
アルフレッドを襲った無数の武具を残らず《闇》に飲み込んだ彼女は、立ち上がりながら、そんな言葉を彼に告げていた。アルフレッドには意味が分からなかったが、それでもこの状況に至れば、自分にできることはなさそうだと悟るしかない。
「あ、ああ、あなたは! うう……どうして? どうして、あなたがここに?」
「何をそんなに怖がっているの? ルーナ。わたしたちは、もともと『ひとつ』のものでしょう? だったら、恐れることなんてないわ。……どころか、あなただって、わたしに会いたかったでしょう?」
「……ネメシス。でも、あなたたちは、わたしのことなんて見ていなかったじゃない! 『あのヒト』の影ばかりを追いかけて、わたしの表層を染めることばかりを気にかけて……わたしのことなんて、どうでもよかったんでしょう!?」
怯えを含む声を上げていたルーナは、今度は怒りを声に滲ませて黒髪の美女──否、『宵闇の女神ネメシス』を睨みつける。
「そうね。それは謝らなければいけないわ。『あの時』の衝撃が強すぎて……、『あのヒト』の光で目がくらんで、わたしたち『四月』は、自分たちの目的さえ忘れていた」
「くだらない言い訳をしないで! それが……永遠にも等しい時間、わたしを『着せ替え人形』にして遊んでいた免罪符になるとでも?」
なおも叫ぶ幼女に、ネメシスは悲しげな瞳を向けている。
「いいえ。それは違うわ。……わたしたちにとって『染色』は、遊びなんかじゃなく、どうしても果たさなければならない、重要な使命だった。それこそ、その本来の意味を忘れてもなお、『本能』として残り続けるほどにね」
「ど、どういう意味?」
「あなたは言ったわね? 『あのヒト』は、自分を牢獄に捕えたきり、自分を見ようともしてくれないって」
「……言ったわ。本当のことじゃない!」
「そうね。……でも、それがもし、『見ようともしない』のではなく、『見ることができない』のだったらどうかしら?」
「え?」
呆けたように固まるルーナ。
「『あのヒト』は激しい光。目も眩むほどまぶしい人。あまりに強いその光は、自覚もなしに、近づきすぎた『わたしたち』をも引き裂くだけの力があった。……それでも『あのヒト』は、《月夜の闇》に手を伸ばし……『わたしたち』を求めてくれた。その証こそが、あなたよ」
「も、求めてくれた? なら、どうして……あのヒトは……」
「言ったでしょう? 見ることができないって。原因は二つ。ひとつは、『あのヒト』自身の激し過ぎる光。……そしてもうひとつは、わたしたちのうちで、もっとも純粋だったあなたが……あまりにも無垢過ぎたこと。……それこそあらゆる光を反射する『鏡』のようにね」
ネメシスの言葉に、ルーナは緋色の瞳を見開いた。
「ま、まさか……」
「そう、そのまさかよ。激し過ぎる光を反射する鏡。それがまさに、今のあなた。だからこそ、その光に目を潰される『あのヒト』は、あなたを見ることができないの」
「じゃ、じゃあ……染色は……」
「ええ。わたしたち『四月』は、『心月』のあなたを……『真のわたしたち』の姿を、『あのヒト』に見てもらうためだけに、磨かれ過ぎた鏡に色を落としていたの。せめぎあい、争いあい、それでもなお、……染めて、染められ、同化して、共にあり、そして『灰色』になる──ただ一つの目的のために」
優しく微笑み、孤独に震える幼女に向かって腕を伸ばすネメシス。
「そ、そんな……どうして? あなたたちは皆、『あのヒト』を求めて、争っていたじゃない。なのに、それが……『わたし』のため? そんなの……嘘よ」
言いながらも、声には力がなくなっている。ネメシスの言葉に、彼女自身、思い当たるところがあったのだろう。
「何を言っているの? わたしたちは『同じもの』でしょう? あなたが『あのヒト』に見てもらうことは、自分がそうなることと全くの同義なのよ。ただ……その役目は、他の『色』には譲れなかった。譲りたく、なかったの。……でも、やっぱりそれでは『あのヒト』には、届かない」
「……届かない」
「ええ。他の『色』も含めて、わたしたちは『灰色』なのだから。……永すぎる年月は、わたしたちからそうした『記憶』さえ失わせていたけれど……わたしだって、愚かで可愛い娘がわたしを『忘れない』でいてくれなかったら、本当に何もかもを『忘れて』しまうところだったけれど」
ネメシスは、ルーナに向かって歩き出す。
「う、うう……わ、わたし、ずっと、ずっと、寂しかった! 誰もわたしの相手をしてくれなくて……」
「ごめんなさい。待たせたわね。……もう大丈夫よ。他の『四月』もたった今、ようやく思い出してくれたみたいだしね。わたしたちが『灰色』となって、あなたと『真月』になれる日は、もうすぐそこまで来ているわ」
ネメシスはそう言って、泣きじゃくるルーナの身体を抱きしめたのだった。
次回「第135話 星月の邪神」