第131話 暗黒宮殿~屋上庭園~(上)
暗黒宮殿の城門前に出現した『邪竜』は、かつての式典会場に姿を現したルーナと同じく、『本体の影』でしかなかった。影の目的は、ただひとつ。自分に通じる攻撃を繰り出してきた敵(すなわち、ネザクとエリザの二人)を、自分の本体がいる『屋上庭園』まで空間転移させることだった。
「よくやったわね……と言いたいところだけど、余計なものまで呼び込んでしまったみたいね」
庭園の中央では、軍服にスカート姿の女性が一人、巨大なトカゲとともに佇んでいる。彼女──ルーナは『心月の邪竜』の頭を撫でながら、主賓二人と招かれざる客を緋色の瞳で睥睨していた。
「え? どこだ、ここ?」
あたりの景色がいきなり変化したことに驚き、きょろきょろと周囲を見渡すエリザ。
「……くそ。罠だったのか」
ネザクの方は、エリザと違って状況の把握ができているのか、ルーナと『邪竜』を苦々しげに睨みつけている。
そしてもう一人──
「大丈夫ですか? ネザク」
ネザクの隣には、闇色の髪を肩まで伸ばし、相も変わらず学院の制服に袖を通し続ける『少女』──リゼルアドラの姿があった。
彼らが立つ屋上庭園には、自然界にはあり得ないような、黒と白、二色の花々が咲き乱れている。庭園を彩る噴水からは、毒々しいまでに紅い水が水路へと流れており、青く冴え冴えと光る石で舗装された小道には、怨霊の苦しみうめく顔が浮かび上がっていた。
「趣味が悪いね。アンタ」
そんな景色に辟易したかのように顔をしかめ、エリザがルーナに『神剣』の先を突きつけて言う。
「相変わらず、猪突猛進な子ね。それだから、幻樹王に捕まったりなんかするのよ?」
馬鹿にしたように笑うルーナ。
「うるさいなあ。そのことはあたしだって、十分反省してるさ。だから、今回はそんな挑発になんか乗ってやらないぜ」
そう言って胸を張るエリザ。
しかし、その後ろではネザクとリゼルが顔を見合わせていた。
「どうしよう、リゼル。エリザが冷静にあんなこと言ってる。もしかして、熱でもあるのかな?」
「それは大変です。手遅れかもしれませんが、できる限りの治療をしましょう」
「そこ! うるさい! うう、ネザクはともかくリゼルにまで……」
エリザは、聞こえてきた会話に顔を赤くして怒鳴る。
「……仲が良いのは結構だけど、そろそろいいかしら? あなたたち二人は、今やこの世界の希望。だからこそ、わたしは『邪竜』を通じて全世界の人々にあなたたちの無残な死に様を見せつけてやるわ」
ルーナは冷たい声で言いながら、腰の鞘から黄金の長剣──《神代兵装:狂月の真影絶剣》を抜き放った。
「ふーん。それが目的で、僕ら二人をここまで招いてくれたってわけ? でも、馬鹿だね。僕ら二人をこそ、分断するべきだろうに。僕らを同時に相手にして勝つことのできる存在なんて、この世界には存在しないよ? 言っておくけれど、前の結婚式のときは、一般市民が傍にいたから全力を出し切れなかっただけなんだからね」
ネザクは手にした《魔王兵装:無月の天魔錫杖》を掲げ、その先に凶悪な魔力の渦を収束させていく。
「あら? じゃあ、いいことを教えてあげる。あなたの言う『一般市民』なら、『ここ』にいるわよ。今もなお『狂気』を生み出し、このわたしに力を与え続けてくれる、数万人のエクリプス国民がね」
ルーナが指差した先には、『心月の邪竜』がいる。
「な! じゃあ、飲み込まれた人たちは生きてるのか?」
エリザが瞳に怒りをみなぎらせて叫ぶ。
「安心なさい。彼らを人質に使うつもりはないわ。『邪竜』内部の異空間は、邪竜を破壊することで消滅する。けれど、飲み込まれたものはすべて、空間の消滅と同時に飲み込まれる前の場所に復元するのよ」
「……随分と親切だね。そんなことを教えなければ、僕らが『邪竜』への攻撃を手控えるとは思わなかったのかい?」
ネザクは不信感を声に滲ませて問いかける。
「人質を使って勝っても、世界の人々に真の絶望は与えられないでしょう? 心配しなくとも、星も月も……このわたしが世界からかき集めた狂気を使い、圧倒的な力で、完膚なきまでに滅ぼしてあげるわ!」
ルーナが天に向かって黄金の剣を掲げると、空に立ち込めた灰色の雲の彼方から、渦を巻くように紅い輝きが舞い降りてくる。その輝きは真紅の炎と化して剣に絡みつくと、そのまま周囲を焼き尽くさんばかりに激しく踊り狂う。
「……確かにすごい力だけど、その程度?」
「なんですって?」
ネザクは馬鹿にしたように笑うと、錫杖に集中させた魔力を解き放つ。
「発動、《天魔法術:無月の霊光邪法》
収束した魔力は光に変化し、一直線にルーナへと突き進んでいく。
「く! どういうこと? 思ったように魔力が集まらない!」
ルーナが真紅の炎を迫りくる魔力光へと叩きつけると、ぶつかり合う二つの力が周囲に爆ぜ、轟音と共に庭園内の白い樹木が吹き飛んだ。
まき散らされた破壊の跡からすれば、ルーナの炎にはネザクの魔法と同等以上の威力があることは間違いない。しかし、それでもルーナは驚愕に声を震わせる。
「そんな……馬鹿な! どうして、これしか『狂月』が……」
自らの手にした黄金の剣を見つめ、呆然とした顔でつぶやくルーナ。しかし、そこで彼女は何かに気づいたように『心月の邪竜』へと目を向ける。正確には、星界全土に狂気の根を張り巡らせた『邪竜』を通じ、彼女の力の『供給源』の状況を確認したのだ。
「ま、まさか……」
「君の失敗はね。ルーナ。自分の戦っている相手が、僕たちだけだと誤解していたことなんだよ。残念ながら、僕自身は英雄じゃなくて魔王だけど……僕らは『ルーヴェル英雄養成学院』の英雄の卵なんだからね」
──ルーナが『心月の邪竜』を通じて見たもの。
それは、世界各地を飛び回る『英雄の卵』たちの姿だ。
この一週間、学院生たちをはじめとする学院関係者は、各々の故郷などの土地勘のある場所を中心に巡回を続けていた。その主な交通手段は、ネザクが召喚し、『ルナティック・ハイミラー』によって無数に増殖した飛行型の『魔』だ。
行く先々で『狂気』に侵された人々を救った彼らは、そうした人々の中からも新たな協力者を募り、支援の輪を広げていく。
何よりルーナが戦慄したのは、そんな彼らの足となる数百数千の『魔』を同時に制御し、安全に目的地へと運び続けるネザクだった。彼はこうしてルーナと対峙している今でもなお、そうした制御をこともなげに続けているのだ。
『心月の邪竜』が全世界に及ぼした力は、人々の意欲を損なわせ、真綿で首を締めるように絶望と狂気を掻き立てる。効果こそ弱いが、全世界を例外なく一瞬で覆った力は、人々に為すすべも与えず、その気力を奪い去っていく。
そんな状況の元、ルーヴェル英雄養成学院における回復の起点となったのは、もちろん黒の魔女カグヤである。
しかし、彼女によって直接『心月の邪竜』の影響から回復させられたのは、当時作戦会議室にいたメンバーのほかでは、ルカやリラ、エレナやシュリといったごく一部の者たちだ。
だが、彼女たちは状況を知るや否や、精力的に動き回った。魔法によって直接的な『邪竜』の狂気そのものを除くことはできなくとも、できることはある。広範囲な分、個々に対する影響の弱い『狂気』。
これに抗するには、とにかく元気づけ、励まし、勇気づけてやればいい。お守り程度の魔法の道具でも手渡してやればいい。ただそれだけで、『狂気』の度合いは大きく『緩和』されるのだ。
とはいえ、それだけならルーナの集める『狂月』の力も、ここまで弱まりはしなかっただろう。そう、彼らの配った『お守り』が、ただの『お守り』であったなら……。
「リラ。よもやこんな形でわたしたちの野望が役に立つなんて思わなかったわね!」
「……うん。なんか複雑だけど、でも、背に腹は代えられないもんね」
黒髪のメイド少女、ルカと童顔のメイド少女、リラ。二人が手にしているのは、『少年魔王の薄い本(健全バージョン)』である。内容についてはひと悶着あったものの、一応、魔王本人の了承を得ている『公式ブック』でもあった。
「ほら、ちゃんと順番は守ってくださいねー!」
「まだまだ、余分はありますけど、無限じゃないんです。基本、読みまわしをベースに考えたうえでお願いしますね。出かけた先に配る分については、ちゃんと配布先リストを見せてから現物を受け取ってください」
薄い本の即売会場……もとい、学院内でも一番大きな体育館内において、ルカとリラ、二人の少女が中心となって長蛇の列をさばいていた。
そしてさらに、その長蛇の列の中には……
「ほら、エレナ。こっちの列の方が空いているみたいですわ!」
「うん。ロザリーさま。ありがと!」
中央の大国と辺境の小国、それぞれの国の王女様の姿があった。
お付きの者たちに紙袋をたくさん持たせつつ、『薄い本』の中身について、あれやこれやと話をしている。
「でも、ロザリーさまは、『せんこうはつばい』してた本、買ったんだよね? 今回のこれは、そっちとは違うのかな?」
「え? あ、あはは……、そうね。ちょっと違うかもしれないわね」
無邪気な顔で自分を見上げてくるエレナ王女。そんな彼女の視線に耐えかねて、ロザリーは胸を押さえて呻いている。
「うう……。言えない! 絶対に言えないわ! まさか……興味本位で買ったあの本が……あんな中身だったなんて……」
声には出さずにもだえ苦しむ王女様の姿に、周囲の従者たちは思わず、自分の国の行く末を案じてしまうのだった。
一方、その頃──
「……いや、わかりますよ? ええ、そりゃあわかりますとも。あの『樹木の災厄』以後、全世界の人々の心には、一人の例外もなく、ネザクの存在が刻みこまれている。ならば、それを足掛かりに『狂気』に対抗する方法を考えるのが効率的だなんてことくらい……俺にだってわかってるんです」
「……エリック殿。もう状況確認の独り言はおやめくだされ。わたしも虚しくなってきましたから……」
あまりと言えばあまりな展開に、エリックとエルムンドの二人は、疲れたように学院内の一室に立っている。
「エリックおじさま! 追加発注した紙が到着したにゃん! こっちに置いとくね」
今やエリックの秘書を務める金虎族の少女シュリが、大量の紙束を抱えてその部屋──『印刷室』に入ってくる。室内には魔法の力で動く巨大な輪転機が回っており、学院の教師たちの中でも霊戦術師の素養のある者たちが、必死に魔力を注ぎ続けていた。
「ああ、頼む。……で? 『売れ行き』の方はどうだ? 今のペースで間に合いそうか?」
「厳しいかも。……特にあの双子の姫様が恐ろしい勢いで買いあさってるにゃん。なんでもクレセント王国で布教? ……とかなんとかをするんだって息巻いてて……」
「……あーそうか。いや、まあ、なんというか……あの二人には逆らうな。最優先で在庫を回してやれ。それだけの成果は期待できそうだしな」
「う、うん……」
しかし、シュリは知っている。イリナとキリナの双子姫。彼女たちは、『少年魔王の薄い本(不健全ばーじょん?)』も裏ルートから大量に入手しており、彼女たちの言う『布教』の一部においては、それらの利用も考えられているらしいことを。
とはいえ、明らかに『目がイッている』状態の双子姫を相手に、シュリが何かを言えるはずもない。鬼気迫る形相で自分に本の必要部数を告げてきた彼女らの姿を脳裏から追い払うように頭を振り、シュリは別の言葉を続けた。
「でも、あちこちの『印刷所』にも協力を掛け合ってきたし、何とかいけそうだにゃん!」
「おお! そうか。でかしたぞ、シュリ」
「にゃはは。もっと褒めて!」
すりすりとエリックに身を寄せて、甘えた声を出すシュリだった。
──そうした状況をようやく把握したルーナは、呆然とした顔で首を振る。
「な、なに? なんなの? これ? こんなバカなことが……」
ルーナは再び自分の剣に真紅の炎を収束させたものの、やはり当初想定していたほどの力は集まらない。悔しげに唇をかみ、ネザクを睨みつける。
「……いやね? 僕だって、最初はびっくりしたよ。っていうか、あの本の内容を目にした時は、それこそ発狂するかと思ったな……」
遠い目をしてつぶやくネザク。
「ううー! なんか今回の作戦のせいでうやむやにされちゃったけど、あれってルカさんとリラさんが元凶なんだよね?」
エリザは顔を赤くしながら、恨みがましげな声で言う。
「それは言っても仕方ないよ。最初はあの二人も、まさかあそこまで過激な内容になるとは思わなかったらしいもん。……とはいえ、こうも上手く行くんだから、世の中何がどう転ぶかなんて、わからないものだよね」
ネザクはやれやれと息を吐く。
「……幻樹王の『樹木の災厄』。あの事件が……星界すべての民の心に、『無月』の存在を刻みつけた。あの『お守り』がある限り……今こうして、わたしが『邪竜』を使ってあなたたちの姿を全世界にイメージとして送り続けていること自体、かえって彼らを正気に返らせる結果になっている……そういうことね?」
悔しそうに歯噛みするルーナ。
「……でも、あなたが人々の心の支えになっているというのなら、なおさら今、ここであなたを殺しさえすれば、世界は覆しようのない絶望に覆われるでしょう。ならば……やることは同じよ」
「君が僕を殺す? そんなこと、できるものか。……一度ならず二度までも、足元をお留守にしているような君なんかにね」
「え?」
ネザクの言葉に、ルーナは足元に目を向ける。しかし、遅かった。ネザクが生み出した魔力の光に照らされて、ルーナの背後に伸びる影。その中から、いつの間にか姿を消していた暗愚王が出現したのだ。
しかも、今度はあの式典会場のときの比ではない魔法を携えている。
「発動。《暗く愚かな闇の果て》」
「く! 暗愚王! あなた!」
ルーナは手にした黄金の剣に纏わせた真紅の炎を防御壁として展開するが、それでも間近で炸裂した暗愚王の最強攻撃魔法には抗いきれない。
「うああああ!」
弾き飛ばされ、宙を舞うルーナ。
「よし、エリザ! 僕らはあの『邪竜』をやるよ!」
「うん、わかった! ……リゼル! そいつの相手、任せられる?」
「わたくしは、任された。彼女の相手は、わたくしがする」
屋上庭園外延部ぎりぎりまで吹き飛ばされたらしいルーナを追いかけるように、リゼルは制服のスカートを翻して駆け抜けていく。
「この……! たかが第二階位ごときがわたしの相手になるか!」
ルーナが一声咆えると、『邪竜』から膨大な量の魔力が彼女めがけて流れていくのがネザクには見えた。
「やっぱり、あの『邪竜』が厄介だ。リゼルが彼女を押さえてくれている間に、あいつを倒さなくちゃ!」
「うん。行こう!」
二人の視線の先には、依然として不気味にうずくまる『邪竜』の姿がある。
四色に輝く毒々しい鱗を持った、巨大なトカゲ。
ルーナによって、『心月の魔石』から生み出された狂気の産物。
この時、エリザとネザクは、はっきりと感じていた。この『邪竜』は十年前の『新月の邪竜』とはまるで別物だ。この化け物は、自分たち二人でなければ、絶対に倒せない。
──ギョロリと、『邪竜』は黄金の瞳を見開いた。
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