第124話 嵐の中心と飲まれる王国
ザルツ村。そこは当代の『吸血の姫』、リリア・ブルーブラッドが生まれた村として知られている。しかし、物見遊山に訪れる者は少ない。僻地であり、交通の便の悪さや宿泊施設の不在なども理由ではあるが、何より大きいのは、伯爵によって無用な訪問を慎むようお触れが出されていたからだ。
「……ですので、訪問理由は明らかにしてもらわないと。確かにザルツ村は誉れ高き『蒼き血の娘』の故郷ですが、リリア様は故郷の村が平穏であることを望んでいらっしゃるのです。むやみに観光に来られるのは困るんですよ」
様子見のために村の手前にある検問所を訪れたルーファスは、そんな説明を聞きながら、内心の苛立ちを押し殺すのに苦労させられていた。そもそも、こんな辺境の村に『検問所』を設置してあること自体が尋常ではない。近くで聞き込みをした限り、この近辺にはそれなりの数の兵士たちが駐屯しているようではあるが、その目的も判然としないのだ。
「何が故郷の村が平穏であることを望んでいる、だ。貴様らこそ、彼女が恐れる『村にとっての脅威』ではないか」
とは口には出せないものの、説明を続ける兵士に対し、無意識に鋭い視線を向けてしまう。だが、それでもこうして前面に出て説明を繰り返す兵士に、罪は無いのだろう。彼らは何も知らされていないのだ。だから、ルーファスがしていることは、単なる時間稼ぎであり、真の意味での情報収集は、リゼルアドラが黒魔術を駆使して行ってくれているはずだった。
適当に時間を潰し、諦めたふりをして検問所を出たルーファスは、そこで周囲に異常を感じた。
「……なんだ? この感覚は」
身体の中から何かが抜き取られるような、気持ちの悪い感覚。ルーファスは無意識のうちに体内の『星辰』の力を強く意識することで、どうにか平静さを取り戻す。しかし、辺りを歩く兵士たちを見れば、彼らは一様にどことなく無気力な顔のまま、俯いている。
「ルーファス」
「む? ああ、リゼルか」
背後からかけられた声に振り向くと、そこには黒髪を綺麗に切りそろえた制服姿の少女、リゼルアドラが立っていた。
「ネザクの言うとおり、この地には狂気が満ちている。……しかし、ここはきっと……『台風の目』」
「台風の目? 周囲の方が被害は大きい。そういうことか?」
「……この地の人々はむしろ、『狂える真月』の直接の供給源として使われている。だから、『狂気』そのものの影響は少ないのかもしれない」
「……なるほどな」
伯爵領の城下町にある宿屋で一泊した後、すぐにこのザルツ村へと出発した彼は、まだ『邪竜』の出現を知らない。しかし、リゼルの言葉は、この国に起きようとしている『まずいこと』がいよいよ本格化してきたのだと考えるには、十分なものだった。
「……嫌な予感がするな。リゼル。実際、このあたりに配置された兵力はどんなものだ?」
皆のことが心配ではあるものの、今回のルーファスの役目は、あくまでリリアの故郷を救うことだ。この地に駐屯する部隊を追い払いさえすれば、それだけでも時間稼ぎにはなる。最悪、彼女の両親だけでも村から連れ出すことができれば、後は伯爵に『交渉』を仕掛ければいい。
しかし、リゼルから返ってきた答えは意外なものだった。
「ここの兵士たちは、ほとんどすべてが撤退している。……中央に全兵力を招集する命令が出たらしい」
「なんだって?」
普段冷静なルーファスには珍しく、大きな声が出た。確かに、こんな僻地に兵士を駐屯しておく必要などないだろうが、全兵力を中央に集めるというのは明らかにやりすぎだ。地方の治安の維持にも大きな支障が出るだろう。
「この国の中央には……強い『心月』の気配がある。できる限り多くの人間から『狂える真月』を得るには、一か所に集めた方が楽なはず」
「……くそ! だとすれば、こんなことをしている場合ではないか。だが、村に見張りがいないとは限らない。リリアの御両親の無事だけは確保しよう」
冷静な判断を下しながらも、ルーファスの胸中には激しい不安と焦燥感が渦巻いていた。
「……リリア。無事でいてくれ」
──『心月の邪竜』のエクリプス王国への侵攻については、伯爵領の城下町に暮らす大部分の人々が未だに詳しい情報を知り得ていない。しかし、エリザたちは異変があることを予測して情報収集に余念がなかったこともあり、他に先んじてそれらを知ることができた。
「……と言っても、それだけが理由じゃなさそうね」
異様な雰囲気が漂う街を歩きながら、ルヴィナが言う。
「薄気味悪いというか、何と言うか……。この人たち、大丈夫なんですかね?」
彼女の隣を歩きながらエドガーが目を向ける先には、どんよりとした瞳のまま、ぶつぶつと何事かをつぶやき続ける人々の姿がある。
「前にクレセントの城下町でもこんな感じになった人たちがいたけど……あれはカグヤ先生の黒魔術なんだっけ?」
「うん。でも、あの時とは比べ物にならないよ。カグヤは町の人々を催眠状態にしただけだけど、これは……気力を根こそぎ奪ってる。僕の『ルナティックドレイン』にも似ているけど、これは『真月』そのものよりも、それが含んだ『狂気』を求めているみたいだ」
エリザの問いかけを受け、ネザクは自分の感じた印象を慎重に言葉に直して口にする。
「伯爵の予言通りに現れた『邪竜』。城下町に起きた異常。……どう考えても伯爵家は無関係じゃないでしょうね。だとしたら、リリアさんの身が心配だわ」
ルヴィナを先頭に特殊クラスの面々が向かう先は、伯爵の城のすぐ隣にある巨大な礼拝堂だった。この日、そこではリリアとダニエルの結婚式が行われる運びとなっている。
ネザクの飛ばした連絡用の『魔』を使い、ルーファスからは既にリリアの両親を保護した旨の連絡は受けていた。
本来であれば、この時点でその旨を伯爵の城にいるリリアにも伝えるべきなのだが、何故か送り込んだネザクの『魔』は、ただの一匹として帰還しなかった。
「メッセージを持たせた『幻の霊蝶メメト』を数十匹は送り込んだはずなのに……こんなの、普通じゃないよ。あの城、きっと何かがある」
ネザクは不安げにつぶやく。向こうからの連絡もないため、リリアの無事自体が確認できないのだ。一刻も早く城に乗り込んでいって彼女の無事を確認したいところではあったが、ちょうどこの日、結婚式という名目でリリアが公衆の面前に姿を現すことになるのであれば、これを逃す手はない。
「リリアなら大丈夫だよ。むしろ伯爵の息子をボコボコにして、問題にでもなってないといいけど」
自分も心配でないはずはないだろうに、朗らかに笑うエリザ。
「……結婚式自体は、通常通り開催するみたいですね。気力を奪われているとは言っても、街中の人が礼拝堂に向かってるみたいだ」
エドガーは人の波を見つめながら言う。
実のところ、プラグマ伯爵は多くの民衆に『蒼き血の伯爵夫人』の誕生を見せつけるべく、数年前から礼拝堂の改修工事を行ってきた。そのため、こうして道を歩く民衆たちの多くは、建物内で結婚式を拝むことができるだろう。
「……とにかく、リリアの姿が見えたら、あたしはためらわずに行くよ」
エリザは有無を言わせない調子で断言する。伯爵家への攻撃は極力避けるつもりでいたルヴィナも、さすがにこの状況では異を唱えるようなことはしなかった。
エリザ、ネザク、ルヴィナ、エドガーの四人は、そのまま礼拝堂の入口へと入っていく。
──その頃、『心月の邪竜』はと言えば、エクリプス王国の首都を飲み込んだ時点で、その動きを止めていた。ここに辿り着くまでの間、『邪竜』が飲み込んだ人の数は数万人規模に上るだろう。
この国が誇る最強の『亡霊船』が為す術もなく倒された時点で、進行方向にいた多くの人々は我先に避難を開始したため、予想されるよりは被害も少なかった。しかし、最初からそうしていれば、これほどまでに被害が甚大になることもなかっただろう。
首都を飲み込まれ、数万人もの民衆が化け物に飲み込まれた時点で、事実上、エクリプス王国は滅亡したと言っていい。民衆こそ数多くいるが、まともに統治できるものがいないのだ。
その背景には、『邪竜』が有力貴族の多い地域を狙い撃ちにする進路を通過していたという事実もあるのだが、それが意図的な物だったことを知る者は、現在『伯爵の間』にいる者を除いて他にはいない。
「うひゃあ! すごい、すごい! ほんとにエクリプスを滅ぼしちゃったよ! ひひひ! これで僕が伯爵になった頃には、エクリプス王は僕だよね?」
でっぷりと太った少年の声が響く。
配下の者たちに式典をさせながら、最後の確認とばかりに謁見の間に集まったのは、アルマリー・ゴルドウィン・プラグマ伯爵、その息子、ダニエル、それに『吸血の姫』リリア・ブルーブラッドと伯爵領軍最高司令官ルーナ・クライステラ、その他、虚ろな目をした数人の従僕たちだ。
「うふふ。ダニエル殿下。それは違いますわ」
「えー? なんでさ、ルーナ? 僕じゃ王様にはなれないって言うのかい?」
拗ねたように頬を膨らませるダニエル。
「いえいえ、まさか、そんなことは。あの『心月の邪竜』さえあれば、ダニエル殿下はエクリプスは愚か、この大陸全土の王にだってなれますわ」
愛しい息子に対するかのようにダニエルへと優しく語りかけ、くすくすと笑うルーナ。
「そっか。そうだよねえ! さすがはルーナ! でも、そうなるとリリアちゃん? 君は世界を支配する王の妻になれるんだよ? 嬉しいだろう?」
ダニエルは特注サイズの花婿衣装に身を包み、贅肉を揺らしつつリリアに笑いかける。
「……え、ええ。そうですわね」
圧倒されたように、小さく頷くリリア。きらびやかな花嫁衣装を身に纏う彼女ではあるけれど、その表情は曇ったままだ。常軌を逸したダニエルとルーナの会話を聞きながら、隣に立つプラグマ伯爵に目を向ける。
「…………」
顔を青褪めさせ、ブルブルと震える伯爵。そんな横顔を見つめ、リリアは小さく息を吐く。
「伯爵。どうしてあんな女の言いなりになっているのかはわかりませんけれど……この国が取り返しのつかない奈落に向けて、転がり続けていることにはお気づきでしょう?」
「うう、し、仕方がなかったのだ……」
リリアの言葉に串刺されたように顔をしかめ、伯爵は苦しげに呻く。
「仕方がない? ご自分の子息が『あんなこと』になっているというのに、何を言っているのですか? 今からでも遅くはありません。エレンタードあたりに救援を求めるべきです!」
リリアは小声ながらも力強い言葉で伯爵に語りかける。しかし、伯爵は小さく首を振るばかりだ。
「わ、わたしが気付いた時には……もう、遅かった。ダニエルはもう、手遅れで……うう……わたしは……あの女に従うしか、ないのだ。う、上手くすれば、本当に世界を支配できるチャンスなのだ! もう、今さら引くわけにはいかぬ!」
震える声で叫ぶ伯爵に、リリアは諦めたように首を振る。不都合なことから目を背け、自身の信じたいことだけに盲目的にすがる彼には、もはや統治者の資格はなかった。
「無駄よ。月の牙。それに……大人しくすることね。あなたの力がわたしに通じないことは、十分理解したでしょう?」
「……あなた、本当に何者なの?」
ここ数日、リリアは隙を見てルーナに対し、《黒雷破》などの攻撃を試みていたのだが、まるで効いた様子がなかった。しかし、一方で彼女は、リリアに反撃さえ仕掛けてこようとはしないのだ。
「あなたの『味方』よ。……うふふ、だから安心して、今日の式典では存分に……この『ダニエル』と交わることね。この国の誰もが崇める『蒼き血の娘』。そんなあなたが身の毛もよだつ化け物に汚される姿は、人々にこの上ない『狂気』と絶望を与えることでしょうね」
そう言って笑うルーナが指差した先には、でっぷりと太った身体から奇妙な赤い肉の触手をはみ出させては、慌ててしまいこむ『ダニエル』の姿がある。
「……式典の時が最後のチャンス。きっとみんなが助けに来てくれるはずだわ」
自分の攻撃を受け付けない難敵を前に、人質となった両親の状況も掴めないままのリリアとしては、このまま式典の開催を待つより他は方法がなかったのだった。
次回「第125話 少年少女と狂月の孤独(上)」