第123話 伯爵の宣言と狂気の陰影
翌日、プラグマ伯爵領を含むエクリプス王国全土が震撼する出来事が起きた。
プラグマ伯爵アルマリー・ゴルドウィン・プラグマは、その日の正午、領内に向けてこんな宣言を出したのだ。
「高貴なる蒼き血の娘の血脈を受けつぐ我がプラグマ伯爵家は、エクリプス王国の不当なる支配から脱却し、ここに真の独立を宣言するものである。今から一週間の後、かの国を大いなる災厄が襲うだろう。その時こそ、当代の『吸血の姫』を我が伯爵家に迎え入れ、我らの新たなる発展の門出とする」
伝聞、文書、魔法、あらゆる手段をもって領内全域に伝わったその情報は、当然、遅からずエクリプス王国首脳部にも伝わるだろう。五大大国のひとつであるエクリプスとその庇護下にある伯爵領とでは、戦力の差は隔絶している。それを思えば、プラグマ伯爵のこの宣言がいかに無謀なものであるかは明らかだ。
「な、何を! 何を考えていますの!」
謁見の間に呼び出され、そんな事実を聞かされたリリアは、驚愕のあまり立場も忘れて声を荒げる。
「……何を考えている、とは?」
しかし、彼女の蒼い瞳が見つめる先には、表情一つ動かさず、黙って玉座に腰を下ろす男が一人。それまで宗主国のエクリプスに遠慮して身に着けることの少なかった王冠を被り、堂々と背筋を伸ばしてリリアを見下ろしてくる。
「あなたは……この国を滅ぼすつもりですか? エクリプス王国を相手に、この国が本気で勝てるとでも?」
「心配はいらん。滅びるのは、あの国だ。宣言した通り、一週間後、あの国には未曽有の災厄が待ち受けているのだからな」
「一週間後? どういう意味です? いったい、何を……」
「君は余計なことを考えなくていい。黙って『蒼き血の娘』の役目を果たすがいい。ダニエルとの結婚式は同じく一週間後だ。それまで大人しくしていたまえ」
「で、でも……!」
「きっと君のかつての御両親も、君の花嫁姿を楽しみにしていることだろう」
「…………!」
悔しげに唇を噛むリリア。しかし、同時に強い違和感を抱いていた。当代のプラグマ伯爵は、国のためなら平然とリリアの尊厳を踏みにじる冷酷な男ではあったが、少なくとも無謀ではなかったはずだ。無能からも程遠いこの男が、この期に及んでなぜ、こんな自殺行為に及ぶのか?
謁見の間を退出するよう申し渡された彼女は、この城に来てから渡されたドレスの裾をひるがえし、苛立ちを隔せない足取りで廊下を進む。すると、その時だった。視界の端に何か赤いものが見え、同時に耳慣れない女性の声が響く。
「ご機嫌斜めですわね? 吸血の姫様?」
足を止め、真横に首を向けるリリア。するとそこには、廊下の窓枠に寄り掛かり、腕を組むようにして立つ、一人の女の姿があった。エリザと同じような真紅の髪を長く伸ばし、緋色の瞳に燃える炎のような意志を宿した妖艶な美女。彼女は何故か上半身に伯爵領の軍服を身に着け、下半身には短めのスカートをはいている。
「……どなたかしら?」
苛立ちを含んだ声で問い返す。その頃には、リリアは彼女に身体ごと向き直っていた。
「まあ、怖い。自己紹介くらい、落ち着いてさせてほしいものですわね。わたしの名は、ルーナ・クライステラ。本日付で伯爵領全軍の指揮官を拝命した者ですわ。以後、お見知りおきを」
口調こそ丁寧なものの、彼女は窓枠に寄り掛かった体勢から身を起こしもせず、組んだ腕さえそのままだ。
「全軍の指揮? あなたが? ……で、何か用かしら?」
ルーナの慇懃無礼な態度に怒りをあらわにした振りをして、リリアは彼女を観察する。髪の色自体はエリザを彷彿とさせなくもないが、彼女とは決定的に目の色が違う。それは単に緋色と赤銅色の違いではない。ルーナの目には、狂気にも似た光が宿っていた。
「あの豚……じゃなかった、ダニエル殿下は、ここしばらくの間、わたしがしっかり『調教』してあげましたわ。ですから、きっと一週間後の初夜は、満足していただけるものになりましてよ?」
「な! こ、この、無礼者!」
廊下に響きわたるほどの声で叫ぶリリア。しかし、気付いてみれば、廊下中を見渡す限り、人の気配がまるでない。
「くふふふ! 冗談よ。愛しい愛しい『月の牙』……わたしは、あなたをその役割から解放してやろうとしているの。感謝こそされても、恨まれる覚えはないわ」
「え?」
月の牙。なぜ彼女がその言葉を、と思った時には、いつの間にかルーナの姿が消えている。
「……あの女が、伯爵に何かを吹き込んだのね」
現在進行形で、何か取り返しのつかないことが起ころうとしている。そんな焦燥感がリリアの胸を襲っていた。
──そして、三日後。『ソレ』は起きた。いや、目覚めたというべきだろうか。
その頃にはプラグマ伯爵領で出された宣言の情報はエクリプス王国に伝わっており、何らかの軍事行動を警戒した王国首脳部(国王不在による臨時政府)は、伯爵領周辺に守備兵を多数集結させていた。
しかし、『ソレ』を前にしては、有象無象の兵士たちが何千、何万と数を揃えようと、まるで意味がない。ただの一睨みだ。それだけで『ソレ』と視線が合った兵士たちは錯乱状態に陥り、近場にいた他の兵士に向かって手にした剣で斬りつけはじめた。
混乱が連鎖的に広がる中、『ソレ』は悠然と歩みを進め、味方同士で殺し合う兵士たちを眺めた後、その巨大な顎を大きく開く。
そして、一息に吸い込んだ。空気も土も、草も木も、武器も防具もそれを纏う人間までも、何もかもを残さず吸い込み、飲み込んでしまった。咀嚼する素振りすら見せず、それはそのままエクリプス領の国境を超え、ゆっくりと歩き出す。
「う、うああ……ま、まさか、まさか! あれは、じゃ、邪竜だああああ!」
十年前の災厄の元凶。伝え聞くだけの姿とはいえ、実際に『ソレ』を目の前にしてしまえば、その姿こそ間違いなく邪竜のものだと確信せざるを得ない。それだけの禍々しさを、その化け物は有していた。
だが、明らかな違いもある。十年前の邪竜が『漆黒のドラゴン』であると語られているのに対し、その化け物は実に色鮮やかだった。
白、紅、蒼、黒の四色に彩られた竜の鱗。鮮やかと言うよりは毒々しいというべき混じり具合で輝くそれは、その実、今回の邪竜がかつての『新月の邪竜』をはるかにしのぐ化け物であることを示している。
しかし、この時点でエクリプスの首脳部がそれに気付くはずもない。背中の翼を使うことなく、ゆっくりとした速度で歩む邪竜。一見して巨大なトカゲにも見える姿だが、『ソレ』が通った後には、草木ひとつ、残らなかった。避難の遅れた町があれば、町ごと消滅し、防衛線を守り抜こうとする砦があれば、砦ごと消滅する。
文字どおり、根こそぎ喰らい、根こそぎ飲み込む。
徐々に侵攻してくる邪竜の情報を得たエクリプス王国首脳部は、ここである決断をする。それはすなわち、エレンタード王国との休戦協定の条件として廃棄を求められていた『亡霊船』の一隻を使用することだ。
抜け目のない前国王エルスレイが残した、戦争の遺物。しかし、数十万の民の十年分の力を溜めこみ、五英雄でさえ圧倒したこの船があれば、邪竜でさえ相手ではない。問題なのは、事が露見した後のエレンタードへの対応だが、手段を選んでいられる余裕はなくなった。
彼らは、そう判断した。しかし、その決断は完全に間違っている。後から最善の判断について述べるなら、彼らは直ちに進路上にある全住民の避難を指揮し、最終目的地であろう王城さえも放棄して逃げ出すべきだったのだ。
「死霊障壁、展開。主砲、発射準備。……撃てええ!」
『ソレ』の進路上に姿を現し、宙に浮かんだまま膨大な魔力を主砲に充填し始める『亡霊船』。禍々しき死霊の船は、指揮官の合図に合わせ、極太にして純白の魔力光を撃ち放った。
「……うふふ。馬鹿ねえ。蒼月の力で、『心月の邪竜』を滅ぼそうだなんて」
プラグマ伯爵領。人払いのされた謁見の間で、プラグマ伯爵とルーナはただ二人、壁に映った戦いの映像を見つめている。二人の目の前では、『亡霊船』の主砲が邪竜の開いた顎の中に苦も無く飲み込まれ、代わりに邪竜が振りかざした尾が『亡霊船』の死霊障壁を薄紙のように打ち破りながら叩きつけられている。
「……す、凄まじいな」
「でしょう? あの力さえあれば、伯爵様は世界の支配者にだってなれますわ」
しかし、怪しく微笑むルーナに、伯爵は強張った顔で尋ねる。
「ダ、ダニエルは?」
「うふふ。大丈夫。彼もきっと、優れた指導者になれますわよ。力さえあれば、多少の無能には目を瞑るのが世の常ですからね」
恐ろしく無礼な言葉を口にするルーナ。
「さて、後は四日後の結婚式だけですわね。『邪竜』の侵攻を四日ほど早めたのも、ちょうど一週間後に式をするタイミングでエクリプスの王城が陥落する方が、良い演出になるからでしょう?」
「あ、ああ。無論、そうだ」
立て板に水の勢いで話し続けるルーナに、伯爵は怯えを含んだ目を向け、圧倒されたように返事をしたのだった。
──ルーヴェル英雄養成学院において、エクリプスの異変に真っ先に気付いたのは、アズラルだった。しかし、これは特に彼の故郷がエクリプスだったから、という理由ではない。
「まさか、彼らの行動を監視するつもりで出していた《影法師》が、こんな形で役に立つとはね」
学院の会議室には、特殊クラスの面々を除き、おおよそ『いつものメンバー』と呼ぶべき人員が揃っている。
会議室の壁には、ちょうどプラグマ伯爵とルーナが見ていたものによく似た映像が映し出されていた。
「嘘だろう? 邪竜はあの時、確かに僕らが倒したはずだ」
アルフレッドは驚愕に声を震わせている。『新月の邪竜』にとどめを刺したのは、他ならぬ彼だった。とどめの一撃となった魔法──太陽の光を魔力に変換し、極めて強力な攻撃魔法として解き放つ《天元日輪の星霊剣》は、今にして思えば、太陽……すなわち『星辰』の光を浴びることのない『心月の魔石』から生まれた『邪竜』を倒すのには、最も適した攻撃だったのだろう。
「信じがたいことに、こいつは『四月』すべての力を取り込んでいる。元となった『心月の魔石』は恐ろしく純度が高かったのかもしれないが、それにしても、こんなものが自然発生的に出現するとは考えにくいよ」
心底呆れている、と言わんばかりの口調で言うアズラル。
「そうね。でも、これじゃあ、世界を滅ぼそうとしているようなものでしょう? 結局、十年前の『新月の邪竜』だって、完全に制御していたとは言い難いんでしょうから」
「あはは。カグヤは痛いところを突くね。そのとおりだ。星界全土に影響を及ぼす黒魔術の発動媒体として使ったはいいけれど、『邪竜』という化け物そのものについて言えば、兄上も地下神殿内での閉じ込めに苦労していたらしいからね」
「……確かに、こんな風に通り道を根こそぎ食い荒らされちまえば、世界の滅亡もあり得ますな」
エリックもまた、苦い表情で映像を見ている。
「で? どうする? エクリプス王国からは救援依頼なんて来ていないみたいだけど?」
アズラルがわざとらしい声で聞けば、
「決まっているだろう。あの国との確執は別にして、邪竜はこの星界全体にとっての脅威だ。一刻も早く打ち倒さねばなるまい」
アリアノートが当然のように言葉を継ぐ。改めて確認するまでもなく、彼らの『やるべきこと』は一致していた。
しかし、やるべきことが必ずしも、できることであるとは限らない。
「……アズラル。あなたさっき、この邪竜は自然発生したとは考えにくいって言ったわよね?」
突然、カグヤが何かに気付いたように尋ねる。
「うん。言ったけど?」
「じゃあ、今回の邪竜は誰が、『何のため』に生み出したものなのかしら?」
「え? 前回は兄上が星界全土に戦乱を引き起こすために……」
そこでようやくアズラルは、自分が大きな思い違いをしていたことに気付かされる。そう、確かに今回の邪竜は、前回とは比較にならない戦闘能力を備えている。しかし、その目的とするところのものは……
「星界……全土への……影響?」
視界が回る。思考が定まらない。音が二重に聞こえ、身体の平衡感覚が失われる。心がかき乱され、かき回されて、吐き気さえ催しそうだった。
気付いた時には、会議室に顔をそろえたメンバーは、ほぼ全員が机の上に突っ伏していた。
この日、プラグマ伯爵領を除く星界全土は、狂気の影によって覆い尽くされようとしていたのだった。
次回「第124話 嵐の中心と飲まれる王国」