第122話 少年少女と破滅の足音
リリアを乗せた馬車は、何事もなく伯爵の城へと到着する。
「出迎え、ご苦労。わたしが不在の間、何か変わりはなかったか?」
城門の内側で馬車を降りた伯爵は、出迎えに出てきた家臣たちに声をかける。
「はい。何も変わりはありませんでした」
「そうか。なら、いい。ダニエルも一応、最低限の仕事はこなしてくれていたというわけか」
安堵するように言いながら、従者と共に城の中へと進んでいく。リリアも当然、その後に続いたのだが、家臣たちの様子にわずかな違和感を覚えていた。
「……何かしら? 少し不気味ですわね」
言葉に表せない違和感。しかし、慣れ親しんだ間柄であればともかく、伯爵の家臣に対し、リリアはそれほど親近感を抱いていない。そのため、それが何なのか、この時点では気づくことができないでいた。
そしてそれは、自分の臣下をただの臣下以上に扱うことのない伯爵にも同じことが言えた。もっとも、彼の場合は慣れない長旅に疲れていたせいもあっただろう。確認のために出向いた執務室で、ダニエルが大人しく書類の判を押し続けている姿を見てもなお、彼はその違和感に気付かなかった。
「ダニエル、ご苦労だったな。リリアが帰ってきた以上、近日中には結婚式も執り行えるだろう」
「……へへ。それは良かった。それで、リリアちゃんは元気?」
一瞬、虚ろな目をして伯爵を見つめ返してきたダニエルだったが、すぐにいつものようなだらしのない顔になり、そんな質問をぶつけてくる。
「……彼女も長旅で疲れているようだ。会うのは明日にしておくのだな。それと……公式の場で彼女をそんな風に呼ぶのは厳に慎め。いいな?」
「わかってるよ。……ふへへ。まあ、ベッドの中でなら何て呼んでもいいんだろうからね。我慢しておくさ」
「…………」
涎を垂らさんばかりに言う息子の姿に、伯爵は苦虫をかみつぶしたような顔になる。けれど、結局はそれ以上何も言わず、彼は執務室を後にしたのだった。
「湯浴みの準備を。……わたしは疲れた。今日は早めに就寝させてもらおう」
「はい。ただいま」
従者に入浴と食事と寝所の準備を言いつけ、この日の伯爵は、早くも夢の世界に逃げ込もうとしていた。
己の見たくないものから目を逸らし、己の信じたくないものを考えようとしない態度。だが、それは一国を治める支配者としては、あまりにも怠惰だ。そしてその怠惰こそが、これからこの国で起きようとしている異変の有無を問わず、伯爵家の未来を暗いものにしてしまっているのかもしれない。
しかし、彼の背後に続く従者──それがいつの間にか真紅の髪の女に代わっていることに気付かなかったのは、彼の怠惰のせいではなかった。
──その頃、エリザたちはと言えば。
「ザルツ村? それって確か……リリアの生まれた村だよね?」
ルーファスとリゼルが持ち帰った情報を聞かされて、エリザが声を上げる。プラグマ伯爵領城下町にある、小さな宿の一室。ネザクとエリザを初めとする特殊クラスのメンバーは、室内に置かれた寝台や椅子など、思い思いの場所に腰を下ろしていた。
「灯台下暗し、ということかしら?」
ルヴィナが意外そうに首を傾げる。すると、エドガーが横から口を挟んだ」
「でも、ザルツ村は地図で確認する限り、プラグマ伯爵領内でも辺境の地みたいですよ。灯台下というには遠い場所じゃないですか?」
「そうね。でも、ある意味、リリアさんに対する人質の扱い方としては巧妙かもしれないわ」
「どういう意味です?」
「恐らくリリアの両親は、その村で普段通りの生活を営んでいるはずよ。……伯爵の配下の監視付きでね。リリアに対しては、ことあるごとに彼ら自身は愚か、彼女の生まれ育った村全体を巻き込む『災難』の可能性をほのめかす。それだけで十分でしょうね」
内心の怒りをこらえながら、ルヴィナは静かに推測の言葉を口にする。しかし、案の定、その言葉に激しく反応したのは、エリザだった。
「許せない! そんな風に人質を取って、リリアの自由を奪ってたなんて……あたし、絶対に許せないよ! くそ! 今すぐにでも伯爵のところまで行ってぶん殴ってやりたい!」
「……落ち着け、エリザ。その気持ちは俺たちも同じだ。だが、ここは彼女と彼女の両親のためにも、落ち着いて行動すべきだ」
「ルーファス……」
「さしあたっては、ザルツ村の安全確認が最優先だな。ここからでもそれなりに距離があるようだし、できればネザクのリンドブルムの力を借りたいところだが……」
そう言って、ルーファスは先ほどから黙り込んでいるネザクに目を向ける。
「ネザク、何か気になることでもありますか?」
反応のないネザクを心配して、今度はリゼルが問いかける。するとそこで、ようやくネザクは我に返る。
「あ、ご、ごめん……。その、なんていうか……この街に入った途端、すごく気持ちが悪くなっちゃって……」
「え? 大丈夫か? 熱でもあるんじゃないか?」
そう言って手を伸ばしてきたエリザに対し、ネザクは蒼い顔のまま、首を振る。
「ううん。大丈夫だよ。ありがとう。そうじゃなくて……なんだろう? なんて言ったらいいのか……。でも、すごく『まずい』気がする。その……ああ、上手く言えないな」
自分の感じている違和感をうまく言葉にできないもどかしさに、ネザクは苛々したように首を振る。
「ネザク、とにかく落ち着けよ。上手くまとまらなくてもいいから、思いついた言葉から話せばいいさ。どんなに支離滅裂でも、話してみなくちゃ始まらないだろ」
「へえ……」
黒霊賢者ばりにカウンセリングめいた言葉を言うエドガーに、ルヴィナが感心の目を向ける。しかし、彼が続けた言葉はと言えば──
「ほら、後はルヴィナ先輩が上手くまとめてくれるからさ。な?」
残りを丸投げにしてくるエドガーに、ルヴィナはやれやれと息を吐く。しかし、不思議とそうやって彼に頼られることに、嫌な感じはしなかった。
「仕方がないわね。ネザクくん? まず、君が一番『まずい』と感じたことって何かしら?」
「え? う、うん。その……街全体が……ううん、もっと広い範囲だと思うけど……間違っている、じゃなくて、狂ってる? とにかく、取り返しのつかない方向に走り出そうとしている。そんな気がするんだ」
「間違っている? ……いえ、『狂ってる』に言い直したわね。じゃあ、『何が』狂っているのかしら」
「えっと、その……心が」
「心が? それはこの街の人々の心?」
「人々の心? いや、その……あ!」
ルヴィナとの問答を続けていくうちに、ネザクは何かに気付いたように叫ぶ。
「ネザク?」
驚いたようにその場の全員が彼の顔を覗き込む。ネザクは自分の胸を押さえ、何かを確認するようにつぶやいた。
「……人々の心じゃない。これは多分、『月の心』なんだ。僕に流れ込む『真月』。そこに狂気が混じっているんだ」
「……ごめんなさい。さすがにちょっと、わからないわ」
抽象的すぎるネザクの言葉に、ルヴィナがお手上げとばかりに首を振る。しかし、ここで意外にも、彼の言葉を解説してみせたのはリゼルだった。
「それはつまり……この地の『心月』に異常があるということでしょうか」
「え? どういうこと?」
今度は全員の視線がリゼルに集まる。
「星界の民が持つ『真月』は、天から降り注ぐ四月の色によって染められながら、地から立ち上る『心月』によって支えられている。『真月』に狂気が混じる……それは恐らく、この地の『心月』に異常があるから」
「『心月』……アズラル先生の講義に出ていたわね。よくわからないけど、この国に良くないことが起ころうとしているのだとすれば、事は急を要するわね」
特殊クラスのメンバーは、これまで『月』絡みの数々の異変に遭遇してきている。霊賢王の顕現に始まり、獄獣王による『獣の災厄』では獣人国家ヴァーミリオンが未曽有の危機にさらされ、幻樹王の『樹木の災厄』にいたっては、あと一歩で星界全土が滅亡するところだったのだ。
それを思えば、油断することなく、事態をできるだけ重く受け止めるべきだった。
「とはいえ、いつ何が起こるかわからないのでは、そちらに関しては手の打ちようがないな。リリアの御両親の無事も確保する必要があることに変わりはないのだろう?」
ルーファスが現状をまとめるように言う。
「ええ、そうですね。ここは、この街で事態に備えるメンバーと彼女の両親を監視する連中を排除する役割を担うメンバーとに分けましょう」
ルヴィナの提案により、一行の当面の方針は決まった。しかし、事態は彼らの想像をはるかに上回る速度で動いていたのだった。
──その日の夜。
リリアは旅の疲れを癒すためという名目で、一足早く自分にあてがわれた寝室に引きこもった。正直に言えば、大して疲れているわけではないが、伯爵の息子ダニエルに会うのが嫌だったのだ。
立場上、何度か顔を合わせたこともあり、将来の結婚相手であるとされてきた相手でもあるが、そのことを考えただけでリリアは絶望的な気持ちに襲われる。
日頃の不摂生のためにでっぷりと太った身体。スケベ心が丸出しの脂ぎった醜い顔。それに輪をかけて下品な声と言葉遣い。出会う前にリリアが想像していた『伯爵家の跡取り息子』のイメージを木端微塵に粉砕してのけたのがダニエルだ。
今にして思えば、伯爵に無理を言って学院に入学したのも、英雄の資質を身に着けたいからというよりは、認めたくない事実から逃げ出したかったからなのかもしれない。
彼女が『ヘンリエッタと二人の王子』のような市井の少女が美形の貴族に愛されるタイプの話を好むのも、決して満たされることのない願望を、せめて本の中でだけでも擬似体験したかったからなのかもしれない。
夜着に袖を通した後、リリアは窓から空に輝く白い月を見上げる。
「……ルーファス。頑張ってくれなかったら、承知しませんわ」
つい、そんな言葉が洩れてしまった。すると、その時だった。ノックの音さえ聞こえぬままに、部屋の扉が開かれる。
「誰!?」
とっさに振り向いたリリアの目に飛び込んできたものは、彼女がこの世で一番見たくなかったものだった。
「……へへ、リリアちゃん。久しぶりだね」
ダニエルは酒でも飲んでいるのか、頬を赤く上気させながらズカズカと部屋の中に入ってくる。
「……ダ、ダニエル殿下。こんな夜分に何の御用ですか? 申し訳ありませんが、わたくし、今日のところは疲れておりまして……」
「ひひひ! 可愛いなあ! 寝間着姿もそそるねえ、ほんとに」
豚のような顔を更に醜悪に歪めながら、ダニエルは一歩、また一歩とリリアに歩み寄ってくる。そのいやらしい視線に耐えかねたように、リリアは後ずさる。
「大分、酔われているようですわね。すぐに人を呼びますから、おかけになってお待ちください」
「へへ! 駄目だよ。僕はもう、待ちきれないんだ。こんなに可愛い女の子が僕のものになるってのに、我慢なんかできるかよ!」
両手を広げ、にじり寄って来ようとするダニエル。リリアは、この時点で我慢の限界を迎えていた。
「……お下がりなさい、下郎! わたくしは誇り高き『吸血の姫』。あなたがたとえ伯爵家の跡取りであろうと、護るべき礼儀を損なうことは許されませんわ」
突きつけた手の先には、真紅の槍が握られており、驚くダニエルの鼻先に突きつけられていた。
「おお、怖い。これが『吸血の姫』の力? 面白いねえ。でも、忘れちゃったのかなあ? リリアちゃん。僕に逆らえば、君の大事な家族も村の人も、みーんな大変なことになっちゃうんだよ?」
あまりにも直接的な脅迫の言葉だ。伯爵であれば、こんな言い回しはしてこないだろう。他に聞く者があれば大変な事態になる。どこまでも出来の悪い息子だった。
「……く! だから、結婚はすると申し上げていますわ。……わ、わたくしの純潔が欲しいなら……こ、婚姻の後に、してください」
万が一のあり得ない仮定の話とは言え、こんな男にこんな言葉を口にしなければならないということ自体、リリアにとっては目の回るような屈辱だった。
「ひ、ひへへ! そ、それもそうだねえ。じゃあ、新婚初夜を楽しみにしてるよ。めいっぱい可愛がって、しばらくは足腰が立たないようにしてあげるからねえ!」
「…………」
身の毛のよだつような言葉に、リリアは身体を震わせている。
「さーて、じゃあ、今日の僕ちゃんの高ぶりはどうしようかな? やっぱり、『ルーナ』に慰めてもらっちゃおうか? うん! それがいい! あははは!」
騒がしい笑い声を上げながら、部屋を後にするダニエル。
「……ルーナ?」
聞き慣れない名前だ。しかし、その名前を口にしたときのダニエルの顔──紛れもない『狂気』に満ちたあの表情は、その日、リリアが眠りにつくまで脳裏に焼きついて離れなかった。
次回「第123話 伯爵の宣言と狂気の陰影」