第117話 英雄少女と姫の憂鬱
約1か月をかけて実施される入学試験の間も、学院の在校生たちはいつもと同じように授業を受けている。
もっとも、試験官として駆り出される教師たちも多いため、そうした教師の担当する時間割に関しては、課題を出されての自習となる。しかし、生徒たちは寮の自室に籠ることはせず、友達とグループを組んで図書館に集まることが多かった。
エリザも他の生徒たち同様、与えられた課題をこなすべく図書館へと来ていたのだが、この日はリリアの都合が悪かったこともあり、一人での自習となっていた。
「なにこれ? 全然わかんない……」
いつものとおり、中二階にある自習机の上に教材を広げ、がしがしと頭を掻いてうなるエリザ。一学年も後半になると、徐々に課題は高度なものになっていく。中でもエリザにとって『数学』の課題は、災害級の『魔』を遥かに超える難敵だった。
「ううー、どうしてこんな日に限ってリリアがいないかなあ……」
エリザは泣き言を言いながら、頭を抱える。リリアはこの日、故郷である『プラグマ伯爵領』から派遣されてきた使者との面会が入っているとのことだった。
「あー、もう駄目、わかんない! 無理無理! あたしには最初から、こんな難しい問題なんて、できるわけがなかったんだ」
鉛筆を口にくわえ、椅子を斜めに後ろへと傾かせるように伸びをするエリザ。
どんな困難を前にしても諦めることなく、不屈の闘志で最後まで戦い抜く英雄。そんな理想もどこへやら。エリザは思いきり弱気な発言を連発し続けている。
「あらあら、今や星界中に名を轟かす英雄の貴女が、そんなことを言っちゃっていいのかしらね?」
「え? うわわ!」
突然かけられた声に、エリザは驚いてバランスを崩し、椅子ごと後ろに倒れそうになる。
「おっと、危ないわね」
ぽよん、とエリザの後頭部に何かが当たる。それは言わずもがな、倒れかけた椅子の背もたれを手で掴み、自分を支えてくれた女性の身体の一部だ。
「…………」
そのボリューム満点の感触に、エリザはこの世の不条理を感じつつ、どうにか体勢を立て直す。
「よっと……ありがと。カグヤ先生」
「いいえ、どういたしまして」
言いながら、カグヤはエリザの正面に回り込み、相向かいの席に腰を掛ける。彼女が何気なく机に肘を着くだけで、その豊かな部位は机の上に確かな重量感を伴ってのしかかっていた。
「…………」
「なあに、そんな顔して?」
不機嫌な顔で自分を見つめるエリザに、不思議そうに首を傾げつつ問いかけるカグヤ。
「カグヤ先生ってさ……」
「え?」
「胸、大きいよね」
ぼそりと、口にするつもりもなかった言葉がエリザの口から漏れ出てしまう。
「……何を言い出すかと思えば」
カグヤは軽く息を吐き、面白そうな目でエリザを見つめる。
「な、なに?」
何かを言いたげに自分を見つめてくる彼女の視線を受けて、エリザは狼狽えたように顔を赤くした。すると、その直後。
「そんなに気にすることないんじゃない?」
「うう……!」
曖昧な言葉でありながら、端的かつ的確にエリザの心を突いてくるカグヤの一言。エリザは、ますます顔を赤くしてうつむいてしまう。
「アズラルみたいな変態を別にしても、世の中、胸だけで女性の魅力が決まるわけじゃないでしょう?」
「そ、それはそうだけど……」
言いながらも、エリザはチラチラとカグヤの胸元に目を向けている。カグヤは再び軽く息を吐き、それから、意地悪そうな笑みを浮かべる。
「大丈夫。心配しなくても、あの子は別に、胸の大きい女の子が好みのタイプって訳じゃないわ」
「べ、別にネザクのことなんて……!?」
叫んでから、はっと気づいたように口を押さえるエリザ。だが、既に手遅れだった。
「今さら隠さなくたっていいでしょうに。貴女があの子──ああ、もちろんネザクのことよ?──を好きだなんて話、学院の皆が知っていることだもの」
「う、嘘でしょ?」
「うふふ。まあ、学院の皆というのは言いすぎだけどね。でも……聞いた話だと『ネザクファンクラブ』の中には、『二人の初々しいコイバナ』のネタを本にして、一部のマニアに販売している輩もいるらしいわよ?」
「なにそれ!? 全然聞いてないよ! ……それこそ嘘だよね? え? え? あたしとネザクの本? 本って何? あたしの学院の連中、どこまで馬鹿なの!?」
エリザは頭を抱えて叫ぶ。カグヤが気を利かせて《闇》による声の吸収をしていなかったら、間違いなく司書の先生に怒られていただろう。
「……うう、でもどうしてそんなことに?」
「あのねえ。貴女、自分が何をしたか忘れたの?」
「え?」
「ネザクと仲睦まじく食事をしていたロザリー王女に、正面から『宣戦布告』をしたんでしょう?」
「あ、い、いや……あれはその……挑まれたから受けただけって言うか……まさか、そんな意味だなんて思わなかったんだもん……」
だんだんと声が小さくなっていくエリザに微笑ましい気持ちを覚えつつ、カグヤはなおも追い打ちをかける。
「最近じゃ、もっぱらネザクを巡って、愛の争奪戦を繰り広げる貴女たち二人のお話が人気らしいわよ」
「……うああ! その本、片っ端から見つけ出して燃やし尽くしてやる!」
「あはは!」
「ひ、他人事だと思って……」
楽しそうに笑うカグヤに、恨みがましげな視線を向けるエリザだった。
「……そ、それはそれとして、カグヤ先生が図書館に来るなんて珍しいよね?」
からかわれるのに耐えきれなくなったエリザは、話題を転換するべく、そう声をかけた。
「え? そうね……。少し気でも落ち着けようかと思って」
「何かあったの?」
「……ううん。何もないわよ?」
カグヤは素知らぬ顔で首を振る。しかし、それを見つめるエリザの赤銅色の瞳は、何かを見透かすように細められていく。
「あやしいなあ。何かあったんでしょ?」
「だ、だから、何でもないってば!」
わずかに頬を染めるカグヤの顔を見て、エリザにはぴんと来るものがあった。彼女はこう見えて、人物に対する鋭い観察眼を備えている。
「……アルフレッド先生のことでしょ?」
「うひょうええ!? ち、ちがわあうわよ!」
見事なまでに狼狽え、意味不明な声を上げるカグヤ。その顔は、みるみる赤く染まっていく。攻守逆転、といったところか。
「そんな隠すようなことなの?」
エリザはあえて、そんな言い方をする。
「べ、べべ別に! 隠すことなんて何もないわよ! ただ……わざわざ言うほどのことじゃないと思っただけで……」
「じゃあ、言ってもいいよね?」
「はう……」
はめられた。そう気づいた時にはもう遅かった。これでカグヤは、話をしないわけにはいかない。加えて、エリザには生半可な嘘は通じないだろうことは明らかだった。
「……そ、その、何でかわからないんだけど……さっき、あいつに食事に誘われたのよ」
思い切って、といった風情で一息に言葉を口にするカグヤ。しかし、対するエリザはと言えば……
「へ?」
拍子抜けしたように間抜けた声を漏らすばかりだ。
「だ、だから! どういう風の吹き回しだか、あいつがわたしを食事に誘ってきたの! 今晩の夕食をね」
「……えっと、カグヤ?」
先生の呼称をつけるのも忘れ、エリザは聞き返す。
「なによ?」
「それだけ?」
「え? そうだけど……」
きょとんとした顔でカグヤが言うと、エリザはがっくりと肩を落とし、机に顔を突っ伏した。
「……はああ。食事って、そんなの、全然大したことじゃないじゃん」
「……で、でも! あいつがわたしにそんなことを言ってきたのって、初めてなのよ?」
「それがむしろ、おかしいんじゃないか。あたしだって、特殊クラスの皆とはしょっちゅう食事してるよ? もう……てっきり、告白されたとか、そんな話だと思ったのに……」
がっかりした顔で首を振るエリザ。
「でも……逆に言えば、それぐらいのことで落ち着かなくなっちゃうんだ? じゃあ、これはもう、間違いないかな?」
「……何を言いたいかはわかるけど、そんなんじゃないから」
「またまたー! ここは素直にぶっちゃけちゃおうよ。あたし、相談に乗るよ?」
「……な、なんだか貴女、性格が変わってない?」
とはいえ、他人の色恋沙汰が大好きなエリザの性格からすれば、これもまた当然の反応となのかもしれない──と、カグヤはそこまで考えた時点で気付く。
「……でも、エリザ。貴女は今、自習課題に取り掛かっているところでしょう? だったら、そっちが先決よ。わからないところがあれば、わたしも教えてあげられるしね」
「ええー!? そんなのいいよ」
エリザとしては、退屈で困難ばかりが続く勉強などさっさと放り出し、すぐにでもこの件に取り掛かりたいのだろう。しかし、カグヤは首を振る。
「駄目よ。これでもわたし、一応は教師なんですからね。生徒のサボリは見過ごせません」
「うう、ケチ……。わかったよ。じゃあ、よろしくお願いします、カグヤ先生」
「よろしい。さあ、きりきり頑張りなさい」
だが、カグヤはこの後、エリザに勉強を教えることの困難さを前にして、改めてリリアの忍耐力の強さに畏敬の念を抱いてしまうことになるのだった。
──学院の迎賓館。ロザリー王女が滞在している部屋とは別の一室にて、その人物は悠然と応接椅子に腰を下ろしている。何気なく座っているだけなのに、一つ一つの所作が実に堂に入っており、垢抜けた都会の貴族を思わせる雰囲気を漂わせていた。
彼の名は、アルマリー・ゴルドウィン・プラグマ。『吸血の姫』の生まれ故郷たる北方の国家『プラグマ伯爵領』の領主である。すなわち、当代のプラグマ伯爵だ。灰色がかった頭髪を綺麗に撫でつけ、きらびやかな装いの衣服も過度に派手な印象は無く、まさに洗練された貴族そのものといった姿の男性である。まだ中年と言ってもいい年頃の伯爵は、優雅な手つきで紅茶の入ったカップを口元に当てている。
「……使者と聞きましたので、まさか伯爵様が直々にお越しになっていらっしゃるとは、思いませんでしたわ」
相向かいに腰かけるのは、一人の少女。輝くような白金の髪をツインテールにまとめ、学院の制服に身を包むリリア。少々美しすぎることを除けば、何処にでもいそうな少女の出で立ちだ。
しかし、目の前に座る伯爵同様、彼女の気品ある立ち居振る舞いは、大国の姫君もかくやと言うほどの高貴さに満ちている。
「リリア。君は我が国の宝だ。高貴なる蒼き血を持って生まれ、我が国に豊穣と安寧の恵みをもたらす『吸血の姫』。ブルーブラッドの称号を冠する唯一無二の存在なのだよ。私みずからが会いに来るのに、不足ということはありえない」
淀みなく、すらすらと言葉を紡ぐ伯爵。彼の灰色の瞳には、穏やかで優しげな感情が見え隠れする一方、他人と適度に距離を置こうとするかのような無機質な光が宿っている。
「……伯爵様には、わたくしを大切に育てていただいた大恩があります。『吸血の姫』として、精一杯、国のために尽力させていただく所存ですわ」
そんな伯爵の視線を受けながら、リリアは決まりきった定型句のようにそんな言葉を口にする。すると伯爵は、満足げにひとつ頷きを返した。
「だが、いかに君自身の望みとは言え、百年に一度の大切な『姫』をこんなところに送り出すには、大きな抵抗があったのも事実だ」
「わたくしの我がままを聞きいれてくださった伯爵様には……」
「いや、そんなことを言いに来たのではない」
「え?」
言葉を途中で遮られ、驚きに目を丸くするリリア。
「高貴なる蒼き血の娘の果たすべき責務。その最たるものを、君も知っているだろう?」
「………はい」
伯爵からの問いかけに、リリアは途端に表情を暗くしてしまう。
「リリア……君も今年で十六だ。ここで英雄の資質とやらを学ぶのもいいが……」
「…………」
沈黙したまま、うつむくリリア。
「それも、もう終わりだ。私は君を迎えに来たのだよ」
「で、でも……、まだ一年ですわ。この学院カリキュラムは四年間で……」
「リリア」
必死に言い募ろうとするリリアに対し、伯爵は聞き分けのない子供を見るような目を向けて首を振る。
「この一年で君がどれほど危険な目に遭ったか、知らない私だと思うかね?」
「そ、それは……」
「私は君が心配なのだ。伯爵領を預かる者として、我が国の宝がこんなところで損なわれるのを黙って見ているわけにはいかない」
「……そんなことにはなりませんわ」
リリアは、唇を噛むようにして小さくつぶやく。伯爵は、そんなリリアに呆れたような視線を向けた後、彼女が最も聞きたくない言葉を口にする。
「我が伯爵家は、百年に一度、『吸血の姫』の蒼き血を迎え入れることで、あの地の支配の正統性を保ってきた。……我が息子、ダニエルも今年で十七歳になる。……婚姻は帰国して早々にも執り行うことになるだろう」
「……そんな!」
だが、血相を変えて叫ぶリリアに向けて、伯爵は努めて冷静な顔のまま、とどめとも言うべき一言を口にする。
「リリア。君のかつての御両親も、君の『幸せ』を願っているはずだ。そうだろう?」
「…………!」
立ち上がりかけたリリアは、伯爵のその言葉を受け、全身から力が抜けたかのように椅子の上へとへたりこむ。
「わかってくれたか?」
「………はい」
平坦な声で返事をするリリアの蒼い瞳からは、かつてのような生き生きとした意志の光が失われていたのだった。
次回「第118話 ヘンリエッタと二人の王子」