『シーラ』~愛しいあなたに、わたしはなりたい
〈どうして? どうしてお前がここにいる! わらわは……ううん、『わたし』は、今度こそお前に勝ったはずなのに!〉
ヒステリックに叫ぶ声。それまで『幻樹王』だったはずの彼女は、この時この瞬間、まったく異質な存在として、この場に立っている。
白すぎて生気のない肌をさらす巨大な美女。瞳すらも白いその顔は、表情が判別しにくい。しかし、その声を聞けば、彼女の心に渦巻く憎悪のほどが十分に知れた。
彼女が『そこにいる』という、ただそれだけで、あらゆるものが彼女の『存在』に飲み込まれていく。本来なら街の住人はおろか、防衛のために戦うエドガーやルヴィナでさえも、等しく抗う術もないままにその意識を飲み込まれていただろう。
まさしく、一つの『世界』にも匹敵する圧倒的な存在感。
〈うふふ! 今さら何を驚いているの? 『シーラ』。貴女がそうやって自分の娘を媒介に、『あのヒト』の光射すこの『心月の地』に降り立ってみせたように、『わたし』もまた、黒き月の名において、この地に『投影』していても不思議ではないでしょう?〉
〈……やっぱり、『わたし』に気付いていたのね。『ネメシス』!〉
白い指先が向けられた先には、黒く広がる深い《闇》。その中に浮かび上がる、漆黒の髪の美女。
〈どうして邪魔をするの? わたしはただ、『愛しいあのヒトになりたい』だけなのに!〉
叫ぶ『シーラ』の目の前で、涼しい顔で笑う『ネメシス』。彼女は、広がる《闇》で同化の力を残さず吸収し尽くしている。
〈それが許せない。あなたは所詮、紛い物。そんな醜い姿で、わたしの『憧れ』を穢さないで。見るに堪えないし、気持ちが悪い。……だから貴女は、この『わたし』が……倒してあげる〉
〈倒す? ウフフ。あははは! 気でも違えたの? あの日、『ひとつ』だったわたしたちでさえ、『あのヒト』には届かなかった。でも、今や『あのヒト』そのものとなりつつあるこのわたしに……純白の輝きを得たわたしに、あなたごときが匹敵するとでも?〉
〈……そう。あなたもやっぱり、『覚えていない』のね。あなたは自分の『娘』さえ騙して、その一部を乗っ取っている。でも、わたしは違うわ。……わたしの可愛い可愛いリゼルアドラ。さあ、一緒に醜いあの女を倒しましょう〉
「母様……カグヤは?」
二人の超越者の会話を黙って聞いていたリゼルは、母の呼びかけに問いかけを投げ返す。
〈……驚いた。わたしに質問?〉
「母様」
リゼルはなおも、繰り返す。母と娘のにらみ合いは、しかし、それほど長くは続かない。やがて、宙に浮かぶ黒髪の美女の表情が、ゆっくりと穏やかなものに変化していく。
〈……愚かな娘。可愛い娘。ふふふ。そんな貴女が成長することも、母の喜び。でも、問答を続けている時間は無いわ。答えを知りたいなら、力を貸して〉
「……はい」
リゼルアドラの身体の周囲に、ネメシスの《闇》が集束していく。漆黒の闇を翼のように纏い、漆黒の闇を剣のようにかざす、暗く愚かな絶望の王。外壁の上部を蹴って空を飛び、そのまま白き女神へと滑空する。
〈邪魔を、するな! わたしは、わたしこそが! 『あのヒト』の一番近くに! すぐ傍に! だから、だから! すべてを白く、穢れを落として、純粋無垢なる『あのヒト』に! わたしはなりたい!〉
〈哀れね。でも、それでいいのかもしれないわ。わたしたちは己の色によって、この『心月の地』を染めあげ、同化し、ともに在り、そして《灰色》になる。……すべては、『あのヒト』に『本当のわたしたち』を見てもらうために〉
だったら……と、黒の女神は情念の黒き炎を灯らせる。
〈うふふ! 『あのヒト』は、わたしのものよ。わたしだけのもの! だから、『あのヒト』を穢すモノ、『あのヒト』に手を出すモノは──全部全部全部全部! 殺して殺して殺してやるわ!〉
黒き女神と白き女神。相反する力がぶつかり合い、世界そのものが激しく揺らぐ。
──幻樹王の森の奥深く。
〈どうして? どうしてお前がここにいる! わらわは、確かにお前を殺したはずなのに!〉
「はっはっは! 語るに落ちたね、幻樹王。お前にどれだけ操られていようとも、彼女には最後の最後まで、この僕を殺すことなんてできなかったのさ」
ぼろぼろの黒衣をひるがえし、颯爽と歩み寄ってくる黒髪の男。普段着用している眼鏡こそ無くなってはいるものの、見間違えようはない。
「ア、アズラル? 本当に、お前……なのか?」
「あはは。ハニー。酷いなあ。僕の顔を忘れちゃったのかい?」
「アズラル!」
おどけたように笑うアズラルの胸に、思い切り飛び込むアリアノート。無我夢中で泣きじゃくり、嗚咽を漏らし続ける小柄な彼女をしっかりと抱きしめ、アズラルは周囲を見渡す。
「いい加減、隠れてないで出てきたらどうだい? それとも僕らが怖いのかな?」
〈うるさい!〉
幻樹王は憎々しげに声を荒げる。
〈そ、それでもあの時、わらわは貴様をこの手で殺したはずだ! 何度となく串刺しにして、身体中の血を搾り取り、この愛娘にも浴びせかけてやったのじゃ! だというのに、何故生きている?〉
激しくまくしたてる『幻樹王』の声に、アズラルは肩をすくめて小馬鹿にしたように笑う。
「おいおい、人を勝手に殺すなよ。きっと……『悪い夢』でも見ていたんじゃないのかい?」
〈夢……だと? まさか、あの時の……!〉
幻樹王は思い出す。あの時、アリアノートを捕えようとした自分に向けて、目の前の黒衣の男は、何らかの魔法を仕掛けてきていた。だが、その魔法は自分にはまったく効かなかったはずだ。『黒月』の汚らわしい力など、自分に届くはずもないと嘲笑っていたはずだ。
しかしそれは、黒魔術──ではなく『黒霊術』だった。
他者の精神に『侵入』し、他者の精神を『支配』するモノ。
その魔法の名は、《夢幻呪縛の黒霊方陣》。
「あの魔法はね、敵に『真実を誤認』させるのさ。一度呪縛に囚われれば、こうしてきっかけを与えてやらない限り、そいつは永遠にソレを真実だと思い続ける。……まあ、お前ほどの化け物が相手じゃ、この程度の『真実』しか与えてやれなかったけどね。でも、十分だろう? ……お前が屈辱を感じるにはさ」
〈き、貴様アアアアア!〉
怒り狂う幻樹王の意志に呼応するように、周囲の森が滅茶苦茶に動き始める。ネザクの《反響結界》に嵐のように激突し続ける『白木の異形』たちは、破壊されながら再生を続け、徐々にではあるが結界の内側へと侵入してくる。
「まずい! 退避しないと!」
「……ア、アズラル!」
「大丈夫だよ、ハニー。退避の用意ならできている」
ふわりと舞い降りる、影のように黒い鳥。
「さあ、アルフレッド。ルーファス君。 ぼけっとしてないで、早く乗れ!」
「え、ええ……。でも、生きてくれていて本当に良かったです」
「あはは。久闊を序すのは後にしよう。さあ、行くよ」
アズラルは全員が黒鳥に乗ったのを確認すると、一気に上昇を開始する。
「ま、待て、アズラル! あんな中にネザクを置いていくつもりか?」
荒れ狂う森の中に一人残されたネザクを見下ろし、アリアノートが慌てたように叫ぶ。
「アリアノート様。大丈夫です。……というか、今の彼には恐ろしくて、とても近寄れません。……俺は彼に『協力して戦うためにも自分を使え』などと言いましたが、やはり、彼は『魔王』なのでしょう。そういうことに、馴染む存在ではないようです」
「なに? ルーファス、それはどういう……」
「ハニー。既にここは、僕らの出る幕じゃあない。僕らのすべきことはただ一つ、彼の『怒り』に巻き込まれないように退避することだけさ」
アズラルの目には、《魔王兵装:無月の天魔錫杖》を頭上に掲げたネザクの姿が映っている。彼の身体に絡みつく凄まじい力の渦を見て、アズラルは内心で身震いした。周囲の被害など関係なく、ただひたすらに魔王らしく、彼はその力を解放するだろう。
「……発動。《天魔法術:無月の煉獄邪法》」
透き通るような少年の声で紡がれた言葉は、まさしく破滅への序章だった。
暴力的な破壊と炎熱の渦が瞬く間に周囲へ広がり、見渡す限りにわたって『白い森』が消滅していく。
──白い闇の中。
空気でも水でもない不思議な肌触りの何かに包まれ、少女は一人、眠るように浮かんでいる。温かくて心地いい世界。生まれてからずっと、周囲とは異質な自分を感じていた。けれど、この世界は違う。この世界では、自分は『世界と同じ』でいられる。違和感なく、同じものとして溶け込むことができる。
気持ちいい。このまま、ずっと眠っていたい。生まれて初めて与えられた安らぎの中、少女は微睡む。何か、とても大切なことを忘れている気がする。自分の中に、このままではいけないと、強く叫ぶ自分がいる。
けれど、それが何なのか思い出せない。思い出せても、それが本当に大事なものなのか、確信が抱けない。
例えば、異常な自分を当然のように受け入れてくれた学院長だ。
例えば、同じ夢に向かって切磋琢磨した特殊クラスの仲間たちだ。
しかし、彼らは所詮、自分と『同じ』ではない。異なる存在だ。だから、違和感は消えなかった。幼い頃のように、いつか自分が『特別視』されて遠ざけられるのではないかと、心の中で怯えていた。だからきっと、そんなものは大事なものではないのだろう。
彼女は、そう思おうとした。しかし……
彼女の心に、最後に刻まれたもの。それは悲痛な表情を浮かべ、届かない手をこちらに差し伸べたまま遠ざかる親友の姿だ。
高飛車で傲慢な白金の髪の少女は、いつも彼女の喧嘩相手だった。けれど、それまで自分と対等に喧嘩のできる相手などいたことのなかった彼女には、それがとても嬉しかった。
性格から何から自分とは正反対で、最初はまったく反りが合わないと思っていた相手なのに、いつのまにか仲良くなっていた。自分と違うものなのに……自分と違う相手だからこそ、一緒にいて楽しかった。
「エリザ! エリザ!」
声が聞こえる。とても懐かしい声だ。それが再び、彼女の心の記憶を呼び覚ます。
少年。初めて会った時から、変わった奴だと思っていた。弱そうなのにとても強くて、強いくせにとても弱い。自分の話を真剣になって聞いてくれて、自分のことを尊敬にも似た眼差しで見上げてきてくれた。
そんな彼といることが、楽しかった。いつしか年下の癖に自分を困った妹か何かのように扱い始めた彼の態度に、嬉しさと恥ずかしさと、少しばかりの『もどかしさ』を抱いていた。
自分のことを『何もない』と言った少年。けれど、そんなことはないと彼女は思う。何もない奴が誰かに愛されるわけがない。自分の心をこんなにも温かくできるわけがない。
「……ネザク。やっとわかった。あたし……お前のことが好きなんだ」
白い闇の中、少女はゆっくりと目を開ける。
「……え?」
目の前には、紅い瞳の少年がいる。
「あ、あれ? ネザク? ど、どどど、どうして、こんなところに!?」
独り言のつもりで呟いたセリフ。ごく小さな声で囁くように口にした言葉だが、もしかすれば聞かれてしまったかもしれない。そのことに激しく動揺したエリザはまくしたてるように叫ぶ。
「ど、どうしてって……決まってるじゃないか。君を助けに来たんだ」
「そ、そっか……手間を掛けさせてごめんな」
エリザはもうしわけなさそうに頭を下げる。今回の件は、完全に自分の失態だ。待機しているようにとの言いつけを破り、リリアに無理を言って同行させ、結果として彼女まで危険な目に遭わせてしまった。
「……ううん。全然、手間なんかじゃないよ。カグヤにも言われたしね」
「え? 言われたって何を?」
白い闇に浮かぶ少年と少女。足元も定まらない空間で、二人は見つめ合っている。
「『好きな女の子を助けに行ってこそ、男の子だ』って……」
「……え? い、今なんて?」
真っ赤に染まるネザクの顔。けれど、エリザがさらに聞き返そうとするより早く、ネザクは彼女に背中を向けて言う。
「ま、まずは。こいつをやっつける! 君はここで待ってて。すぐに済むから」
「ネ、ネザク!」
エリザが止める暇もない。いつの間にかエリザの周囲には、ネザクが創った小規模な《反響結界》が出現しており、さすがの彼女も弱った身体では身動きが取れそうもない。
〈馬鹿な! なんだこれは! どうして、お前は! 何の力も無い、ただのみなし子の癖に! 星と化したわらわにどうしてここまでの傷を! ましてや……どうやってここに侵入した!〉
ネザクの前に、巨大な女性の顔が出現する。憤怒と恐怖の入り混じった目でネザクを見つめ、震える声でまくしたてる。
〈ここは、わらわと同じ、星となったものだけしか存在できない空間だ! ゆえにこそ、わらわは無敵! なのに、なのに……!〉
「お前が『星』だって? 馬鹿なことを言うなよな。いいか? 僕の名前を教えてやるよ」
〈な、名前だと?〉
「ネザク・アストライア。『星』なら……僕の『ここ』にある」
ネザクはそう言って、自らの胸を指差す。
〈何が言いたい!〉
「それがわからないから、お前は『星になりたい』なんて馬鹿げた台詞を口にするんだよ。お前の言うとおり、僕の中には何もない。『真月』もなければ『星辰』もない。あるのはただ、『空っぽ』だけだ。それでも、今、僕がこうやってここにいるのは、その『空っぽ』に僕だけが抱く『それ』があるからだ」
静かに言葉を紡ぐネザクは、何の魔法も用意していない。だが、それでも幻樹王ティアマリベルは、魔王ネザク・アストライアに圧倒されていた。
「誰もがみんな、自分だけの『星』を……夢や願いを……『なりたい自分』を持っている。それは僕だって例外じゃない。それこそが、本当の意味での『星心克月』なんだ。だから……『何もない』のは僕じゃない。自分を持たず、『自分以外の何か』になりたがる幻樹王──お前の方なんだよ」
〈黙れ! 黙れ黙れ黙れ! 貴様のような子供に何がわかる!〉
巨大な女性の顔は、怒りの声をあげ、血走った目でネザクを睨む。
「僕はネザク・アストライアだ。他の何者でもない、僕自身だ。僕という存在こそが『魔王』で、僕を『魔王』と呼んでくれる人々がいるこの世界でこそ、僕は『なりたい自分』になれるんだ。……だから、ティアマリベル。お前に、この世界を──そしてこの世界に生きる人々を……返してもらう!」
少年らしからぬ、威厳に満ちた語り口でネザクは宣言する。
「……あ、あれがネザク?」
小さくも頼もしい彼の背中をぼんやりと見つめながら、エリザは自分の頬が熱くなるのを感じていた。
〈ク、クカカ! 魔王だと? それこそわらわのことだ! よかろう! そんなことができるというのなら、やってみるがよい! ここはわらわの空間だ! 貴様なぞいつでも捻り潰してくれるわ!〉
白い闇の中に、おびただしい数の化け物が出現する。その数は、千や二千ではきかないだろう。下手をすれば億の単位に達しているのではないかと思われるほど、無数の化け物が視界一帯を埋め尽くしている。
〈死ね!〉
捻じ曲がった牙を生やした四足獣、胴体が二股に分かれた蛇、腕が四本ある猿のような生き物、眼球が無数に付いている樹木、毒を滴らせた巨大な花……多種多様でありながら、ひとつとして現実には存在しない『紛い物の命』たち。
それらが一斉にネザクに向かって牙を剥く。
「……発動、《ルナティック・ハイドレイン》」
錫杖すらも手にしないまま、ネザクは詠唱の言葉だけをつぶやく。しかし、実際にはそんな詠唱すら必要ない。彼の特異能力──『ルナティック・ドレイン』は封印されない限り、常時発動し続けている。
だが、今回はそれを『意識的に』発動させた。かつてイデオンを相手に選択的に『真月』を奪った時のように、ネザクは相手の色を問わず、強引にそれを奪うことができる。
〈……うぐ! な、な……これ、れは!〉
言葉が乱れる幻樹王。数億の化け物たちが一瞬でグズグズに崩れていく。白い闇が激しく乱れ、砂嵐のような音が辺りに響く。
「僕を知り、僕を想い、僕を感じたことのあるすべての人々よ。その力、少し借りるよ」
幻樹王の敗因。それは、ネザクという少年に『神霊幻木エルシャリア』本体への接触を許してしまったということにある。それさえ防げれば、彼がこの白い闇を訪れることは無かった。そして、それさえなければ……彼が今まで接することのなかった数百万という星界の民に、こうして『直接』接触させてしまうことにはならなかったはずだ。
〈ば、化け物! そんな、そんな力……嘘だ! あり得ない! わ、わらわにどんなまやかしを施した!〉
「まやかし? 何言ってんの?」
ネザクはかつてない規模の力を制御しながら、馬鹿にしたような口調で幻樹王へと問い返す。
〈色も何も関係なく! すべてのすべてを……その規模で『ひとつ』に集めるなど……それでは貴様……まるで『心月』のようではないか!〉
「『心月』? 何が言いたいのか、よくわからないな。とにかく、僕はみんなと一緒のこの世界が大好きなんだ。だから、お前の白い世界なんかいらない。これで終わりだ」
ネザクは大きく腕を振りかぶる。
〈おのれ! おのれ! わらわは、わらわは! シーラ様! どうか、お助けください! シーラ様! 母上! ははうえ!〉
虚しく響く幻樹王ティアマリベルの声に、応えるモノはいなかった。
「じゃあ、ばいばい」
突き出された少年の掌から、致命的な攻撃が放たれるのを間近に見つめ、幻樹王は叫ぶのを止めた。
〈う、ああ……愛しいあなたに、わたしはなりたい………〉
結局、己の意志と神の意志とを混合させ、同化させてしまった彼女は、最後の最後まで自分というものを持つことなく、果てていったのだった。
第2部第4章最終話です。
次回、登場人物紹介を挟んで第2部第5章となります




