第113話 少年魔王と幻樹王の森(下)
『学園都市エッダ』の人々は、隕石のように上空から飛来する純白の輝きに、絶望しながら頭を抱える。
「ネ、ネザク様……」
学院の建物の屋上に避難していたロザリーは、他の生徒たちが怯えて縮こまる中にあって、気丈にも祈るように空を見上げている。音に聞くファンスヴァールの《白霊砲》が、同盟国であるエレンタードの地を襲う日が来るなど、夢にも思わなかった。
ハイエルフの魔力を媒介に、星から強引に吸い上げた『星辰』と『真月』を混ぜ合わせ、同化させて放たれる『弓月の白霊砲』。その特徴は万の軍勢を壊滅させる破壊力もさることながら、その超長距離射程にあった。
さながら『弓張り月の結界』そのものを発射台にして、天空高く打ち上げられる超巨大魔法弾。遥か上空を経由して放物線を描き、アリアノートが狙った場所に正確に着弾する遠隔精密射撃魔法。
一見して無敵に見えるこの魔法にも、一応の欠点はある。この魔法の使用後は、あらゆる敵の侵入を防止する『弓張り月の結界』の効力が落ちてしまうのだ。かつての潜入破壊工作がこのタイミングを狙って起こされていたこともあり、エルフ族にとっては『白霊砲』は滅多に抜かない伝家の宝刀のようなものだった。
「それを二重発動なんて、随分と気前がいいのね」
うら若い女性の声。人を食ったようなその声に合わせ、ロザリーの視界を覆う純白の輝きは、一瞬で黒に取って代わられる。
「え? あ、あなたは……」
「まともにお話しするのは初めてかしらね。お姫様。実はわたし、貴女みたいに自分の欲求に素直な子って、結構嫌いじゃなかったりするのよねえ」
ケラケラと笑う彼女。
白い肌に、長く艶やかな黒い髪。驕慢とも言える笑みを浮かべている。
「あ、ありがとうございますわ。え、えっと……」
ロザリーは呆気にとられつつも、今の魔法を目の前の女性が防いだことを知り、頭を下げた。
「わたしの名は、カグヤよ。そして……聞いて驚け見て驚け! 何を隠そうこのわたしこそ、魔王ネザクの『お姉ちゃん』なのよ!」
茶目っ気たっぷりな彼女の姿は、ある一点を除いては、いつもと変わるところはない。
だが……彼女の纏う闇色の衣。それだけがまるで生き物のように周囲に広がり、上空を覆い尽くしている。よく見れば、裾の一部は街の東側にも伸びていて、その先で街を覆わんばかりに大きく展開されていることが分かった。
庇うように、護るように、慈しむように、母なる《闇》が都市のすべてを覆い尽くしている。
一方、街の東側にて。
〈……そ、そんな、馬鹿な〉
白い掌を突き出したまま、幻樹王は、呆気にとられた顔でうめく。
「……カグヤ。あなたは……それで良かったのですか?」
リゼルは、目の前に広がる《闇》を愛おしげに見つめながら、小さくつぶやく。
〈ええ。わたしは『あの子』のためなら、人としての在り方を捨てることに躊躇いなんてない。……でも、良かったわ。アイツが素直に言うことを聞いてくれて。……こんな姿、絶対に見せたくないもの。わたしの方こそ随分な自己犠牲の自己満足をしているのかもね〉
《闇》から返ってきた答えは、悲しげな声で紡がれていた。
〈馬鹿な! 馬鹿な! それは、それは! あ、あの……闇の女神の……〉
真っ白な巨体を恐怖に震わせ、幻樹王はぶつぶつとつぶやき続ける。
〈いいえ。これは《わたしの闇》よ。わたしだけが背負うべき業。……他の誰をも巻き込むわけにはいかない運命。染めず染まらず同化せず、ただし《灰色》となるもの。少なくとも、偽りの白には用はないわね〉
「母様の……『願い』の影。カグヤ……あなたがそれを纏うなら、わたくしは、常にあなたと共にいよう」
〈……ありがとう、リゼル。そうね。わたしが人じゃなくなっても、あなたがいるか。……さあ、それじゃあ、人外は人外同士、決着をつけるとしましょう〉
覚悟を決めた黒の魔女は、凛とした声で宣言する。
──幻樹王の森は、めきめきと音を立てながらネザク達を囲んでいく。
「発動、設置型白霊術、《渦巻く暴風の壁》」
一定範囲内に接近した敵を感知すると同時、ルーファスの設置した暴風の魔法が発動する。枝葉を伸ばし、彼らを捕えようとした『白木の異形』たちは、その枝を残らずへし折られ、弾き飛ばされていく。
「よし、じゃあ今のうちに。……発動、《天魔法術:無月の反響呪法》」
ネザクの手にした錫杖の輪が音を立てる。その音色は重なり合って響き渡り、彼らの周囲に不可視の結界を生み出していく。
「アリアノート! しっかりするんだ!」
その間にも、アルフレッドはかつての仲間に声をかけ続けている。しかし、アリアノートは目覚めない。と、その時、目の前の木から不気味な女性の声が響く。
〈クカカ! よもやこのタイミングで客が来ようとはな。この娘に用があるのか? だが、無駄だぞえ? この娘の心には、すでに絶望しかない〉
「なんだと?」
ルーファスが珍しく、怒りをあらわにした声で唸る。
〈無理もあるまい? 愛する夫を己が手で殺したのだからな。この娘の抱いた悲嘆、恐慌、そして絶望……。クカカカ! まことに甘露であったぞえ?〉
「こ、殺した? アズラルさんをか? そんな……! よりにもよって……あの人をアリアノートに殺させただと? ちくしょう! 貴様だけは許せない!」
アリアノートとアズラルの過去を知るアルフレッドは、幻樹王の残酷な言葉を受けて叫ぶ。自分の周囲に星霊楯の輝きを展開させ、星霊剣を腰だめに構え、攻撃のための魔力を集中していく。
〈おやおや、無駄な足掻きを。星界の小さき生物よ。わらわは既に『星辰』なり。そのわらわに刃を向けるは、母に背くに等しいぞ〉
「うるさい! 黙れ!」
激昂したように叫びながらも、アルフレッドは冷静に敵の姿を確認する。周囲を囲む『白木の異形』たち。そのほとんどはネザクの《反響結界》に阻まれ、自分たちには近づいて来れない。だが、結界内にあるアリアノートを捕えた巨大樹からは、女性の声が響き続けている。
「アルフレッド先生。このまま撃てばアリアノート様が危険です」
「うん。わかっている。けど、このまま黙って見ているわけにはいかない。どうにか彼女を傷つけずに攻撃しないと……」
「……それは俺に任せてください」
「え?」
アルフレッドは驚いてルーファスを振り返る。だが、その時──
〈どうした? 来ないのならばこちらから行くぞ〉
白い大木の幹がボコリと膨れ上がり、ボトリと何かが生まれ落ちる。
幼児ほどの大きさの人型。のっぺりとした白い外皮。目も鼻も存在せず、不気味に開く赤い口だけが、耳元の辺りまで裂けている。そして、ボトリボトリと次々に生まれていく『白人の異形』ともいうべき化け物。
〈クカカ! これこそが我が子ら! 新たなる命! 新たなる世界! さあ、汝らも飲み込まれよ!〉
幻樹王の声と同時、十数体の『白人の異形』たちは、大口を開けて飛びかかってくる。身の毛のよだつような声でケタケタと笑い、禍々しく裂けた口から鋭い牙をのぞかせたその異形は、見る者に激しい生理的嫌悪感を抱かせる。それは『不気味の谷』とも呼ばれる、『紛い物の命』ならではの現象だった。
「……邪魔」
そんな不気味さなど、気にも留めず、意にも介さず、低く冷たく放たれた一言。金髪紅眼の少年は、錫杖を無造作に突き出してつぶやく。
「発動、《天魔法術:無月の暗黒呪法》」
「グギャギャギャ!」
錫杖の先端に出現した闇の球。不定形に歪みながら膨れ上がるそれは、飛びかかってくる『白人の異形』の群れを一瞬で引き摺り寄せ、嫌な音と共に破砕しながら飲み込んでいく。
〈なに? ……貴様、何物だ? わらわの子らに何をした?〉
「エリザを返せ。エリザを返せ。エリザを返せ!」
少年の紅く輝く瞳には、狂気にも似た光が宿っていた。ただ、ひたすらに少女の名前を呼び続け、近寄る異形を血しぶきと共に捻り潰していく。
〈クカカ……これは驚いた。貴様には、『星辰』はおろか、『真月』さえ存在しないのか? なんとまあ、哀れな孤児よのう。何も持たぬ身で、星そのものたるわらわに刃向おうとは笑止千万。クカカカ!〉
女性の笑い声に合わせるかのように、際限なく出現する白い小人たち。『わらわの子』などと言いながらも、それがネザクに虐殺されていくことには、何の感慨もないようだ。
「……あいつらはネザクに任せて、俺たちはアリアノート様を救いましょう」
「ああ、だが、どうするつもりだ?」
「俺に考えがあります。先生は合図と同時、全力であの木に向かって攻撃をお願いします」
「……わかった」
作戦の詳細を告げず、するべきことだけを告げてくるルーファスに、アルフレッドは何も言わず、ただ了承の言葉を返す。
「……ありがとうございます」
師匠の信頼に小さく感謝の言葉を口にしつつ、ルーファスはアリアノートが囚われた巨木を目掛けて走り出す。
「うおおお!」
〈何をする気じゃ? 我が愛し子よ。汝もわらわに飲み込まれたいのかえ? わらわと一つになり、わらわと共にこの星そのものに、なりたいのかえ? クカカカ!〉
ひらひらと舞う白い葉が、刃のような切れ味をもってルーファスに迫る。
「いいことを教えてやる。人は、他の誰かになることなんて、できはしない。他の何かにどれだけ憧れようとも、その憧れに己がなることなど……できはしない!」
ルーファスは走りながら、迫る木の葉を炎の剣で斬り払う。
〈クカカ! 世迷言を! わらわはすでに、なっておる!〉
「それは紛い物だ! 『貴様自身』ではない!」
自分は、アリアノートにはなれない。憧れそのものに手を伸ばし続けても、決して届くことはない。エリザに出会って以来、ルーファスはずっと自身に向かって言い聞かせていた。
見るべきは上ではない。己の足元を見下ろし、常に「これでいいのか」と自問しろ。高みを目指すならば、己の立ち位置を自覚し、己の目指すべき場所を誤るな。
憧れは手を伸ばすものではなく、超えるべき目標だ。赤毛の少女は、屈託のない笑みを浮かべ、そんな言葉を口にした。そして、彼女はその言葉をたがえることなく、『エリザ・ルナルフレア』という名の『英雄』となったのだ。
だからこそルーファスは、自分自身を磨き続けた。
先ほどから構築し続けていた、彼の白霊術が発動する。
「……発動! 《森羅万象の因数分解》」
発動した魔法は、小さく、そして無力なものだ。アリアノートの使う最強の白霊術──《弓月の白霊砲》とは、まるで比べものにならない。
しかし、その数──七千二百七十七万八千八百四十八個。
そのすべてがアリアノートを捕える白い巨木に殺到する。
塵のように微細な光の粒。一息で消し飛ばされそうなその魔法は、しかし、劇的な効果を発揮する。
〈グギ? グギャアアアアアアア!〉
すさまじい叫び声が辺りに響く。光の塵に触れた白木の枝が、ごっそりと消滅している。光はそのまま白木の幹を瞬く間に侵食し、アリアノート自身をも包み込む。
世界最弱の魔法──《森羅万象の因数分解》。
その効果を一言で表すならば、「世界に存在する、あらゆるものを最小単位に分解する」というものだ。粒子のような魔法は、対象を構成する粒子に接触し、粒子単位で魔法の効果を発動させる。
いわば、問答無用の『各個撃破』だ。この魔法を前にしては、あらゆる防御、あらゆる強度は意味をなさない。最弱にして、最強の魔法。そして、ルーファスだけの特異魔法。
「アリアノート!」
そんな凶悪な光の塵に包まれたアリアノートを見て、アルフレッドが叫ぶ。しかし、光の塵は彼女を捕える白木の幹を分解しつつ、彼女自身には傷一つ付けてはいない。
「……先生、今です!」
ルーファスは倒れ込む彼女の身体を抱え、その場を大きく離脱する。
「よし! 発動、《天元日輪の星霊剣》!」
木漏れ日をかき集め、威力を増したアルフレッドの白霊術が、崩れかけた白き巨木に突き刺さる。
〈グギャ! お、おのれえええええ!〉
めきめきと音を立て、倒れていく樹木。
「アリアノート! しっかりするんだ!」
アルフレッドは自分の攻撃の結果を確認する間もなく、アリアノートを抱えたルーファスへと駆け寄っていく。
「アリアノート様、しっかりしてください!」
ルーファスも彼女を必死に揺さぶるが、彼女が依然として虚ろな瞳のままだ。そこに再び、どこからともなく声が響く。
〈……む、無駄だと言ったであろうが。その娘は、すでに絶望の底。わらわに取り込まれる方が幸せなのだ!〉
「……うるさい!」
次々と湧き出る敵を屠り続けていたネザクの声だ。エリザの無事が確認できない状況が続く中、ネザクの我慢も限界に達していた。
「エリザを返せ。他のことなんて、どうでもいい。エリザを返せ!」
狂ったように振り下ろされる錫杖からは、木々をなぎ倒す衝撃波が次々と発生し、森の中を舐めつくすような勢いで破壊の跡が広がっていく。しかし、直後には、白い樹木がその爪痕を覆いつくように成長し、森は再び元の姿を取り戻す。
「死ね! 壊れろ! 滅びろ! 消えろ!」
ネザクが苛立ち混じりに叫ぶ言葉にあわせ、次々と放たれる衝撃波。静寂に包まれていた幻樹王の森は、今や凄まじい轟音を鳴り響かせながら破壊され、と同時にメキメキと音を立てて再生する。
だが、そんな破壊と再生の繰り返しが続く中、異変は起きた。
「ぐあ!」
「うぐ!」
ルーファスとアルフレッドが苦痛の声を上げる。先ほどの場所から大きく飛びのいた二人の視線の先には、光り輝く弓を手にした新緑の髪のハイエルフの姿があった。
「……アズラル。わ、わたしは……あの人を、……わたしを救ってくれたあの人を……殺してしまった……」
生気のない瞳で、焦点の定まらぬ視線をこちらに向けてくるアリアノート。弓に番えた光の矢は、ルーファスたちへと向けられている。
「い、いったいどうしたって言うんだ?」
〈クカカ。さあ、我が愛娘よ。そやつらを殺せ!〉
「……殺す? わたしは、彼らを、あの人を……い、いや……もう、いや!」
〈安心おし、すべてわらわが包み込んであげる。わらわと一つになれば、嫌なことも、苦しいことも、すべてが無意味。全てがわらわと等しくなるのだから〉
「く、苦しくなくなる?」
〈クカカ! さあ、そのためにもお前を苦しめる奴らは殺さねばな?〉
「こ、殺す!」
アリアノートの星具『白星弓シャリア』に、膨大な量の魔力が集束していく。
「くそ! 《白霊彗星》か! こんな至近距離じゃ、俺の『星霊楯』でも防げない!」
「ネザク……は、駄目か。我を失っているな。……アリアノート様、しっかりしてください! アズラル様は、貴女のそんな姿を望んでいたわけじゃないはずだ!」
二人の叫びも虚しく、アリアノートは集束した魔力を完全に制御下に置き、魔法の発動態勢を整えている。
しかし、その時だった。
「発動《白れ……」
発動の詠唱が、ピタリと止まる。
「……おやおや、ハニー。随分と悲しそうだね。何か辛いことでもあったのかい? もし良かったら、僕の胸の中ででも話してごらん?」
ニヒルに笑う男の声。その声、その口調、そしてその『言葉』は、彼女が彼に初めて出会った、あの日のものと同じだった。
「ア、アズ……ラル?」
目の前の信じられない光景に、ハイエルフの小柄な体は小刻みに震えていた。
次回「『シーラ』~愛しいあなたに、わたしはなりたい~」