第108話 白き巨木と異変の前兆
少年少女のドタバタ劇や恋物語の裏側で。
世界は音も無くその様相を変えつつある。
ゆらゆらと、蒼く揺れる影。紅き獣に吹き散らされたその影は、ようやく己の欠片をかき集め、再びその姿を星界に復元しつつあった。
とはいえ、それはあくまで影であり、この星界において《絶体王星》を振るえるほどの力はない。それでもなお、『彼』がこの星界に留まり続けたのは、漂ううちに『彼女』の存在に気付いたからだ。
〈道理で見つからぬわけだよ。まさか本当に星界に『同化』していたとはな〉
深く暗き森の奥。蒼く揺らぐ影は愉快げに、声なき声を震わせている。
〈クカカ。霊賢王よ。おぬしはどうしたのじゃ? そんな姿で星界に現れるとは……かつてのプライドは、どこに行ったのかのう?〉
蒼き影に応える声は、うら若き女性のもの。森の中に不気味に響くその声の発生源は、一本の巨木だった。白く滑らかな樹皮には染み一つ存在せず、その高さたるや、他の樹木に比して群を抜いている。
〈プライドなど、もはやどうでもいい。わたしは、いかなる手段を用いてでも、『真月』をこの手に掴む〉
〈ふむ。わらわが眠っていた数百年の間に、色々あったようだな?〉
霊賢王と呼ばれた蒼き影の真剣な声音に対し、女性の声はあくまで気楽なものだった。
〈幻樹王よ。聞け。わたしは『神の真実』を知った〉
辛抱強く語りかけるように言葉を紡ぐ、霊賢王。
〈神の真実?〉
幻樹王と呼ばれた女性の声は、いぶかしげに問い返す。
〈そうだ。我らに『染色本能』を植え付けた造物主たち。奴らは失われし『心月』ではなく、『星心』こそを欲している。己が魂を奪われておきながら、なおもその相手の心を求めている。……だからこその『染色』なのだ。自分の色で星界を染めあげ、虚しき『憧れ』を満たそうと、もがいている〉
〈…………〉
語り続ける霊賢王の言葉に、幻樹王は声も返さない。
〈我らは、そのための都合の良い駒なのだ。だが、それでは駄目だ。我ら四月の『魔』が己が生まれた意味を求めるのであれば、あるべき姿──『真月』にこそ還るべきなのだ!〉
熱く語る蒼い影。ゆらゆらと揺れ続ける影とは対照的に、白い巨木は揺るがない。
〈幻樹王よ。我らにはもはや、『神』の望む色など意味を持たない。ならば、同じ月界の『魔』として、共に手を携え、この星界から『心月』を取り戻すことも不可能ではないはずだ〉
長々とそこまで語ったところで、霊賢王はようやく違和感を覚えた。神々の秘密。その驚愕の事実を聞かされておきながら、幻樹王には驚いた気配さえない。
あの豪胆な『獄獣王』でさえ、この話に動揺の気配を隠しきれず、自身の迷いを振り切るように霊賢王の影を吹き散らしたぐらいなのだ。ここまで無反応なのは異常だった。
〈ティアマリベル。聞いているのか?〉
呼びかけの名を変えみたところで、ようやく反応が返ってくる。
〈……んぬ? ああ、いかんいかん。久しぶりに目覚めたせいか、うたた寝をしてしまっていたようじゃな〉
〈な、なんだと?〉
くだらない冗談を口にするティアマリベルに、霊賢王は唖然として言葉を失う。
〈何か勘違いをしているようだのう? 霊賢王よ〉
ぞわり、と森を包む気配が変わる。
〈な、なんだ?〉
〈我らが『白月』──幻霧の姫神シーラ様を『蒼月』がごとき下賤な神と同格に扱うではないわ〉
〈……ど、どういうことだ〉
森の中。無数の木々や草花、そこに棲む命の気配。そうしたありとあらゆるものの気配が、霊賢王を取り囲むように見つめている。彼は完全に見誤っていた。なまじ事情を知らなかった獄獣王グランアスラとの会話を経てしまっていたために、『神の真実』を知っているのは、暗愚王だけなのだと考えてしまっていた。
そして、もうひとつ。
〈わらわは、うぬらとは『格』が違う。かつて『星辰』の力を得た『神』の御加護の元、この星界に具現化した真の『魔王』ぞ。つまり、我が身はこの星界において、『完全体』としてここにある〉
同じ『第二階位』であるというだけで、相手を対等の存在であるとみなしてしまっていたことが、彼の最大の失敗だった。
〈クカカ。とはいえ、おぬしからは貴重な情報も得られた。当代の星辰の御子の所在もさることながら……かつてわらわを卑劣なる罠にはめた、憎き暗愚王の情報もな〉
森の生き物がざわざわと動きだし、その包囲網を徐々に狭めてくる。
〈クカカ。わらわはすでに、数百年をかけて星界との『同化』を果たしている。これこそが……砕けし身体をかき集め、『星心』の監視の目すら誤魔化し抜いて得た我が力〉
〈な、何をするつもりだ。幻樹王。話はまだ終わっていない!〉
〈関係ないな。心配しなくとも、わらわは獄獣王のような野蛮な真似はせん。散らすのではなく『同化』してやろう。わらわの内に取り込んで、わらわの一部としてくれよう。だが……仮初の意識とは言え、月界の『本体』にはリンクしているのであろう? ならば、わらわに取り込まれては、おぬしもまた、無事で済まぬと思え〉
〈お、おのれ! させるか!〉
霊賢王は自身の影の送還を図ろうとした。しかし、間に合わない。
〈や、やめ……!〉
森の木々から発生した白い霧は、逃げる間もなく蒼い影を覆いつくし、音も無く飲み込んでいく。
〈我が母上、シーラ様の御望みどおり、星界すべてを白き森にて埋め尽くし、白月こそが『星』と化す。さあ、今一度、『星辰の御子』の魂を我が手に抱き、憎き暗愚王をこの手で引き裂いてくれようぞ!〉
森の奥深く。漂う白い霧。
この日から数日後。エレンタード王国東方の同盟国、森林国家ファンスヴァールでは、奇妙な事件が起こり始める。
──学院都市エッダにおいて、アリアノートの立ち位置だけは、未だに定まっていなかった。無論、カグヤやアズラルのように教師としての地位を得ることも可能ではあったが、彼女の場合、そうはいかない事情もある。
ちょうどその日も、彼女が教師になれない『理由』が訪れていた。
「アリアノート様! どうか森にお戻りください」
懇願するように頭を下げるのは、一人のダークエルフだった。黒髪に深緑の瞳。エルフ族は寿命こそ人間と大差ないものの、外見は相当に若作りだ。とはいえ、声の質や機敏な動作などを見る限り、彼はまだ二十代から三十代程度だろう。
「なぜだ? 亡霊船団なら撃退したし、他に大きな問題は起きていないはずだろう?」
「そ、それはそうですが……。し、しかし、貴女様は我が『白霊兵団』の団長なのです! 団長が常時不在では、団員に示しがつきません!」
「その言葉も耳にタコだな。団長職なら副団長のお前に譲ってもいいと言っているはずだぞ、リライト」
かつてミリアナが滞在したこともある迎賓館。その応接室にて、アリアノートはうんざりした顔で若者を見つめている。
「それでは団員が納得いたしません。我が栄えある白霊兵団の団長は、神聖なるハイエルフであらせられる貴女様をおいて、他にはいないのです!」
床に膝でも着かんばかりに言い募るダークエルフの青年、リライトは崇敬の眼差しでアリアノートを見つめ返す。
アリアノートは内心で溜め息をつく。ネザクではないが、こうして純粋に自分を慕ってきてくれている者が相手では、彼女もあまり強くは出られない。
加えてこの青年は、兵団のスケジュールの合間に、ほとんどアポなしでやってくるのだ。その行動力には脱帽するばかりだが、アリアノートとしては別の意味で薄氷を踏む思いがあった。
そして、この日。その氷は、ついに踏み砕かれることとなる。
「とにかく、リライト。心配しなくとも、わたしはいつだって故郷の森のことを思っている。お前たち同胞のエルフ族のことを想い、いついかなる時でも森に災厄が迫ったと知れば、何を差し置いてでも駆けつけるさ」
いつもなら、こんな言葉をかけてやりさえすれば、根が単純なリライトは感激して涙を流し、そのまま帰国の途についてくれるはずだった。
しかし、この日ばかりは、違っていた。
「アリアノート様。少し、よろしいでしょうか?」
控えめなドアのノックに合わせ、少年の声がする。ルーファスの声だろう。そうと気付いた彼女は、将来有望な同族の少年をリライトに引き合わせてみようなどと思いつく。
しかし、彼女はこの時、ルーファスという少年の特性ともいうべきものを、完全に忘れていた。だからこそ、この結果へと繋がる。
「ああ、いいぞ」
そう返事をした直後、扉が開き、その奥からは『二人』の人物が入ってくる。一人は、予想通りルーファスだ。だが、予想外の人物がいた。
長身痩躯の眼鏡の男。黒いローブを身に着けた魔導師風の立ち姿は、かつての戦場で悪魔と呼ばれた当時の姿そのものだった。
「いやあ、たまにはルーファス君とハニーとの訓練風景でも見せてもらおうかと思ってね」
などと言いながら、部屋に入ったその男──黒霊賢者アズラルの目に留まったものは、全身に怒りの炎を揺らめかせた一人のダークエルフ。
「あ、あちゃあ……お取込み中だったか」
「き、貴様! 黒衣の悪魔め! よくも、我が前に姿を現したな! 覚悟しろ! 発動、《白銀に煌めく槍》」
掲げた手から放たれる、白銀の光の槍。完全に殺すつもりで放たれたその槍は、真っ直ぐにアズラルへと飛んでいく。
「発動、《黄金に輝く盾》」
しかし、アズラルに魔法が直撃する寸前のこと。手前にいたルーファスが発動した防御魔法が光の盾を出現させ、その一撃を防ぎ切る。甲高い音と共に弾けて消える二つの魔法。
「……何事ですか?」
ルーファスは顔色一つ変えずに尋ねる。もっと恐ろしい攻撃をとある少女から日常的に受け続けているせいか、とっさの防御魔法もその後の対応も、実に落ち着いたものだ。
「……俺の魔法を防いだのか? いったい、何者だ?」
「リライト。少し落ち着け。いきなりの攻撃魔法はまずいだろう」
たしなめの言葉をかけるアリアノート。だが、リライトがルーファスを見つめているのに気づき、やれやれと首を振りながら紹介してやる。
「彼は、ルーファス・クラスタ。君と同じダークエルフだよ。この英雄養成学院では五本の指に入る使い手で……『星心克月』の会得者でもある」
「なんですって? この若さで?」
余程驚いたのか、声を張り上げるリライト。
「……リライト様? というと、白霊兵団の副団長の?」
ルーファスはゆっくりと室内に足を踏み入れ、改めて一礼して見せる。
「はじめまして。リライト副団長閣下。自分はルーファス・クラスタと申します。お会いできて光栄です」
「あ、ああ……」
唖然としつつも握手を交わすリライト。そして、まじまじと同族の少年を見つめる。
顔の傷が随分と印象的だが、まだ成人には達していないのだろうか。あどけなさの残る少年の面差しだ。
もちろん、『星心克月』の会得者であるという時点で別格と言うべきかもしれないが、それを差し引いても、先ほどの速度で防御魔法を展開できる技量は、並々ならぬものだ。
才能だけでは到達できない領域。つまりは、彼がそれだけ血のにじむような努力をしてきているということでもある。
「……いや、悪かったな。それはともかく……君には是非、卒業したら白霊兵団に入ってもらいたい。君ならきっと、アリアノート様をお守りする優秀な戦力になれる」
「はい。ありがとうございます」
素直に礼を口にするルーファス。
「あはは……。じゃあ、僕は邪魔みたいだし、行かせてもらうよ」
そう言って部屋の前で踵を返そうとしたのは、アズラルだ。しかし、リライトの動きは速かった。副団長を務めているだけあって、身のこなしも一級品だ。素早く間合いを詰めていく。
「せめて一発、喰らわせてやる!」
「はあ……やれやれ。だから嫌だったのに」
アズラルは何をするでもなく、ただ、振り向いた。しかし、ただそれだけで、繰り出された拳は固い何かに阻まれ、さらにはリライト自身の身体の動きもピタリと止まる。
「く、くそ……またこれか……」
悔しげに唇を噛むリライト。
「……リライト。悪いが今日は出直してくれないか?」
そんな彼の肩を軽く叩くアリアノート。途端、彼の身体は自由を取り戻す。その場に膝を着き、屈辱に肩を震わすリライト。だが、どうにもならないことはわかっているのだろう。どうにか立ち上がると、一礼して素早く立ち去ろうとする。
だが、その時。
「うーん、相変わらず僕のハニーは可愛いなあ!」
「え? わ! きゃ、きゃあ! な、何をするか、こら!」
ことさらに大きな声を上げ、アリアノートに抱きつくアズラル。思わず振り返り、その光景を目撃してしまったリライトは、ほとんど血の涙でも流さんばかりの形相で黒衣の男を睨みつけ、そのまま逃げるように走り去っていく。
「……俺が言うのもなんですが、アズラル先生はいつかきっと背中から刺されそうですね」
ルーファスはつい、そんな感想を漏らしてしまうのだった。
──それから。最近の日課でもあるアリアノートとルーファスの訓練が終わり、休憩がてら食事でもとろうということになった。
「まったく、相変わらず間が悪いな、ルーファス。よりにもよって今日、アズラルを連れてこなくても良さそうなものだが」
「ちょうど、廊下でお会いしまして」
それこそがルーファスの天性にして、無自覚の間の悪さなのだろう。
「彼のマイナス面における引きの強さは異常だからね。今回は逆に、それに乗ったら面白いことでも起きそうだと思ったのさ」
「ああ、そう言えば。……さきほどリライト副団長の攻撃を防いで動きを封じていたのは、何だったんですか? 魔法さえ発動せずにあんな真似ができるなんて、驚きました」
ルーファスが聞くと、なぜかアズラルは苦い顔になる。
「正確に言えば、君の『設置型』に近いタイプの魔法ではあるんだよ。《心理障壁》と《物理障壁》。もっとも、この学院で最初に会ったエリザとリリアの二人には全く通じなかったし、挙句の果てにはボコボコにされたんだけどね」
そしてそれこそが、アズラルが特殊クラスのメンバーを高く評価するようになったきっかけでもあった。
「……リライトだけの話じゃないが、ファンスヴァールもそろそろ独り立ちしてもらいたいものだなあ。大体、わたしが生まれるまでは百年以上の間、ハイエルフがいなかったんだ。わたしなどいなくてもやっていけるだろうに」
しみじみとつぶやくアリアノート。だが、その言葉を聞いて、ルーファスとアズラルは顔を見合わせる。『国そのもの』に向かって、『自分から独り立ちしてほしい』という彼女のスケールの大きさには敵わない。そう言いたげな視線の交わし合いだった。
次回「第109話 同化の儀式と悪夢の景色」




