第107話 英雄少女と大国の姫君
ロザリー王女の来訪から数日が経過した。
依然としてロザリーは、人目もはばからずネザクに迫り、結婚をほのめかす言葉を繰り返している。そのせいか、学院生たちの間では、ネザクとロザリーの婚姻は、あたかも既成事実のように広まっていた。
だが、学院には、この状況を黙って見ていられない人物もいる。──その最たる者は、カグヤだろう。と、誰もがそう思っていた。特に学院関係者は、彼女がいずれ王女とその一行に危害を加えるのではないかと気が気でなかったのだが、意外なことにその気配はない。
どころか、彼女は助けを求めて自分に泣きついて来たネザクに対し、こう言った。
「駄目よ、ネザク。自分のことなんだから、自分で解決しなさい」
「で、でも……」
「でも、じゃないわ。別に難しいことじゃないでしょう? 嫌なら断ればいいのだし」
カグヤがそう言うと、ネザクは何とも言えない顔になった。
「そ、その……嫌だってわけじゃないんだ。い、今までだって、僕のことを好きだって言ってくれた人はいっぱいいるし……それとは少し違うけど、ロザリーさんだって悪い人じゃないし……」
「だったら、結婚してあげればいいじゃない」
「うう……」
ネザクの態度は煮え切らない。『皆に好かれる魔王様』を目指す彼には、自分を好きだと言ってくれる相手を突き放すような真似はできないらしい。
しょんぼりと肩を落とし、自分の部屋を後にするネザクを見送ったカグヤは、やれやれと息をつく。
「……あなたも、余計な真似をしては駄目よ。あの子のためにならないんだから」
カグヤが呼びかけた相手は、闇色の髪の少女である。ネザクと二人でここを訪れた彼女は、カグヤに言われて一人、この場に残っていた。
「ネザクは、悩んでいる。その原因は、あの女だ」
「そうね。でも、彼女は彼に危害を加えたかしら?」
「…………」
被害はない。だからこそ、リゼルもカグヤの元に相談に来たのだ。それでも、ネザクの悩みようは尋常なものではない。リゼルには、どうしてもそれが心配だった。
「ふふ。本当にあなたは……ネザクのことが自分の子供みたいに可愛いのね?」
「ネザクは可愛い」
同意するように頷くリゼル。
「ええ。でも、だからこそ、あの子が自分で乗り越えるべきことなのよ。……好かれることも大切だけど、『好きになる』ことはもっと大切だわ。他の誰でもない、『ただ一人』を選ぶ。それは、あの子のような存在にとって、とても大変なことかもしれない。でも、それができた時こそ、あの子は本当の自分になれる。……わたしはそう思うわ」
カグヤのつぶやきを、リゼルは黙って聞き続けていた。
──教師の他に、学院のカウンセラーを務めるアズラル・エクリプスは、珍しい客を迎えていた。彼がこの学院でこうした相談を受け始めて以来、初めて訪れる客だ。
「とはいえ、この状況……」
アズラルは、相談机の向こう側に腰かけた少女を見つめて小さくぼやく。
「……で、エリザくん。言葉はまとまらなくて構わないから、まずは口を開いてごらん?」
黙ったままの赤毛の少女、エリザの姿を見つめながら、アズラルは優しく声をかける。実のところ、エリザはその外見だけを見れば、アズラルにとって好みのど真ん中ともいえる少女だ。
だから、そんな少女と一対一で会話ができるだけでもそれなりに楽しい気分になれるはずなのだが、どうにも嫌な予感がしていた。そして、案の定、彼女から告げられた相談の中身はと言えば……
「なんか最近、気持ち悪いんだ。……ご飯も喉を通らないし、むかむかしちゃって訓練にも身が入らない。友達にも迷惑を掛けちゃうし……どうしたんだろう、あたし……」
抽象的な困りごと。だが、アズラルは曲がりなりにも多くの相談をここで受け続けている。だから、彼女にその後、二つ三つの質問をしてみただけで、その『悩み事』のとりあえずの分類はできてしまった。
「……なんてことだ。まさかこの娘から『恋愛相談』をされることになるとはね」
声には出さず、頭を抱える。もちろん、相談自体は大した内容ではない。初心な少女が一人、自身の恋心に気付かぬままに恋敵の出現にうろたえ、無意識の嫉妬に思い悩んでいる。ただ、それだけのものだ。
しかし、今や世界に名の知れた英雄少女が少年魔王に恋をして、その恋敵が大国の姫君であるとなれば、もはや『初心な少女の悩み事』では済まされない。非常にデリケートで、厄介な問題だ。
「……どうする。どうするんだ、僕? ここでの正解は一体なんなんだ? 考えろ、考えるんだ」
ぶつぶつとつぶやくアズラル。するとエリザは、申し訳なさそうな顔で頭を下げてくる。
「……ごめんなさい。こんなわけのわかんない相談されても、先生だって困るよね」
いつもは元気いっぱいの英雄少女から力無く頭を下げられ、さすがのアズラルも胸を痛ませた。そして彼は、決断する。──なるようになれ、と。
「はっはっは。僕を馬鹿にしているのかい? 言っておくけれど、僕に分からないことなんてないさ。まあ、任せておきたまえ。君の悩み事は、僕がしっかり解決してあげよう」
「え? 本当!? ありがとう、アズラル先生!」
破れかぶれで声を張り上げるアズラルに、目を輝かせたエリザが勢いよく頭を下げてくる。
「うん……。まあ、なるようにしか、ならないよね?」
若干の後悔を抱きつつ、それでも後に引けない黒霊賢者は、英雄少女に『解決策』を語り始めるのだった。
──魔王ネザクと王女ロザリー。ここ数日では通例行事となってしまった、昼休みの二人の蜜月の時。遠巻きに見つめる大勢の生徒の視線など、ロザリーはまるで気にも留めていない。庶民の視線を気にするようでは、王族など勤まらない。彼女にそう教え込んだのは、セバスチャンだ。
ベルモント二世が最も信頼を置く腹心の部下。エルフ族の出でありながら、エレンタードの宮廷内でめきめきと頭角を現してきた彼は、ネザクに対する色仕掛けの指南を王女に施していた。
それも、クレセント王国が二人の婚姻を認めるにあたり、提示してきた条件ゆえだ。恐らくはミリアナの意向も含まれているだろうその条件──それは『魔王本人の同意』だった。
幸いにしてロザリーは魔王に惚れ込んでおり、彼女の容貌は王宮でも群を抜いて優れている。加えて、十五歳ながらも女性的な魅力にあふれた肢体は、男なら誰もが生唾を飲み込むものだ。そして、魔王が王宮に滞在していた時の情報などを分析する限り、彼は自分に向けられる好意に弱く、押しに弱いタイプに見える。
ならば、徹底的にロザリーに押させるのだ。それがセバスチャンに課せられた使命だった。
そして、その目論見通り、ロザリーは今もネザクに寄り添い、ネザクは彼女の胸の開いたドレスから見える白い谷間を前に、顔を真っ赤にしてうつむいている。
「はい。ネザク様、あーん」
「う、うん。あーん」
高貴な王女に手ずから食べ物を口に運んでもらい、魔王はまんざらでもない顔をしている。少なくとも、セバスチャンにはそう見えた。このまま行けば、そう遠くないうちに目的は達成できる。最悪でもネザクに学院卒業後の婚姻を約束させればいいだけなのだ。
しかし、そんな彼の目論見も、黒霊賢者の『もういいや。めんどくさいから、どうとでもなっちゃえ』的な行動の結果、脆くも崩れることになる。
いつものようにセバスチャンが周囲の生徒を近寄らせまいと目を光らせていると、何を思ったか一人の少女が歩いてくるのが見えた。
「なんだね、君は。ここでは王女殿下がお食事中だ。これ以上、近づくんじゃない」
威圧的な態度で見下ろすセバスチャン。彼の鋭い眼光は、これまでネザク達に近寄ろうとして来た幾人もの生徒たちを震え上がらせ、追い払ってきた。それでも強硬に近づこうとする生徒もいたが、セバスチャンはこれでも特殊な訓練を積んできた武闘派だ。力尽くでお引き取りを願った。
いかに英雄候補生とは言え、所詮は子供だ。大の大人である自分に敵うはずもない。そうタカをくくっていたが、しかし、今度ばかりは相手が悪かった。
「なんだよ、おっさん。あそこにいるのは、あたしの友達なんだ。友達に近づいて何が悪い」
意志の強そうな赤銅色の瞳で睨みあげられ、わずかに怯むセバスチャン。だが同時に、やれやれと首を振る。
「馬鹿め。王女殿下との婚姻が決まったという時点で、彼はもうお前などとは住む世界が違うのだ。身の程を知れ」
蔑んだ目で言った彼は、この時、大事なことを失念していた。少年魔王に並び立つ武勇の持ち主。英雄少女エリザ・ルナルフレア。それが真紅の髪の少女であるという事実を。あの式典の折、遠目から見た少女は式典用に正装していたということも、彼がその事実に気付かない一因となってしまった。
彼がそのことに思い至ったのは、無理矢理突破しようとする少女に足払いを掛けようとして回避され、反対に自分の腕を絡め捕られ、恐ろしい勢いで宙に放りあげられた後のことだった。
セバスチャンが地面にキスを決めるよりも早く、エリザはネザクとロザリー、二人の元に歩み寄る。
「あ! エ、エリザ……」
ネザクはなぜか、狼狽えたようにエリザを見た。どことなく頼りなげで、叱られることを恐れているようなそんな顔が、エリザには気に入らない。
「……ネザク。一個聞きたいんだけど、いいかな?」
エリザはそんな自分の感情を表に出さないように抑え、ゆっくりと問いかける。
「駄目ですわ。今、ネザク様は王女であるわたくしとお話をしているのです。爵位も持たない平民は、下がりなさい。今なら従者への狼藉は見逃してあげますわ」
しかし、そこにロザリーが割り込んできた。かつての深窓の姫君は、恋のために凛として立ち上がり、英雄少女に気迫のこもった眼差しを向けている。かつての叙勲式の折には、そんな視線に圧倒されたこともあるエリザだったが、今回はそうはならなかった。
赤銅色の瞳に意志の光を宿し、まっすぐに王女を見つめ返す。
「あたしはネザクに話してるんだ。ロザリー。あんたにもその後、話があるから、少し黙っててよ」
「な! なな……」
あまりにも無礼な物言い。けれどそれ以上に、ロザリーは赤毛の少女が放つ火の玉のような気迫に押され、言葉を失う。そして、そうしている間にも、エリザはネザクに問いかけを続けている。
「ロザリーと結婚するって、本当?」
「え? い、いや……そ、そんなこと……」
ない、と言おうとして、ネザクはロザリーに目を向ける。懇願するように自分を見るロザリーの視線に、ネザクは言葉を続けられない。
「いや、それはまあ、いいや。……あたしが気になっているのは、ひとつだけだよ。この学院を辞めて、ロザリーと一緒に王都に行くの?」
「い、行かないよ!」
エリザの問いに、ネザクは即答を返す。するとすぐさま、ロザリーが憐みを誘うようにネザクの身体にすがりつき、潤んだ瞳で彼を見上げる。
エリザは、それを憎々しげに見つめていた。しかし、ネザクはと言えば……
「ごめん。ロザリーさん。僕はこの学院を離れたくないんだ。……僕は、エリザたちと一緒に過ごす、この学院での生活が大好きなんだ」
申し訳なさそうに頭を下げ、謝罪の言葉を口にする。その言葉に、ロザリーはショックを受けたようだった。しかし、それでも気を取り直したように笑みを浮かべる。
「そうですわね。学業もおろそかにしてはいけませんわ。ネザク様が卒業するまで、わたくしもここでお供させていただいます。その上で、卒業後に式を挙げることにいたしましょう」
「う……そ、それは……」
最初からそんなシナリオでもあったのか、ロザリーはすらすらと淀みなく言い放ち、ネザクに選択肢を与えない。そうした上で、勝ち誇ったようにエリザを見上げるロザリー。
しかし、エリザはと言えば、
「うん。それでいいんじゃないか?」
と言い放った。ロザリーは驚きに目を丸くする。彼女にとって、エリザは間違いなく恋敵だ。これまでの状況からして、それは明らかだった。だというのに、エリザは二人の婚姻を容認するようなことを言う。
「エ、エリザ?」
震える声にロザリーが振り向いて見れば、ネザクもまた、ショックを受けたような顔でエリザを見上げている。その顔に、なぜかロザリーは胸の痛みを覚えてしまう。
「それって卒業してからの話だろ? だったら、その時、ネザクが自分で判断して決めればいい。誰かに押し付けられるんじゃなく……『自分の意志』でね」
力強い声を受け、再び視線を戻してみれば、そこには英雄少女の朗らかな笑顔がある。
「そ、それで、あなた……本当によろしいんですの?」
彼女の意外な言葉にロザリーは思わず、そんな問いを口にする。するとエリザは、一転して彼女に鋭い視線を向けてきた。
「……ロザリー。あたしは、アンタと一緒にいる時のネザクが好きじゃない。なんだか気に入らないし、ムカムカする」
「…………」
ロザリーは圧倒されたように黙り込む。
「正直に言うとさ……それがどうしてなのか、自分でもわからないんだ。でも、ひとつだけわかってることがある」
言いながら、ネザクに視線を向けるエリザ。
「ネザクは、あたしたちの大切な『仲間』だ。だからあたしは、アンタがネザクを自分の『もの』のように扱うことが許せない」
「……そ、そんなこと、ありませんわ。わたくしは、ネザク様を本当にお慕いして……」
「そんなことを言ってるんじゃないんだよ。ロザリー。アンタはさ……今まで一度だって、ネザクの意思を確認しようとしたことがあったかな? 同意を求めるんじゃなく、意見を聞こうとしたことがあったかな?」
「そ、それは……」
ロザリーは言葉に詰まる。確かに、セバスチャンから教わった男性を口説くための手練手管のなかには、そんなものは含まれていなかった。だが、そんなことが言えようはずもない。
「まあ、自分の意見くらい『聞かれなくても自分で言え』って感じだし、アンタだけが悪いとは言わないよ」
「うん。ごめん……。僕がもっと、はっきり言うべきだったんだ」
ネザクは申し訳なさそうに頭を下げる。
「い、いえ、ネザク様は悪くありませんわ……」
だが、ロザリーがネザクに慰めの言葉をかける暇もなく、エリザはかぶせるように言葉を続ける。
「……だから、ロザリー。アンタに一つだけ、お願いしたいんだ」
「え?」
これまでの話の流れから一転して、エリザは穏やかな顔で笑いながら、ロザリーを真摯に見つめてくる。
「王女様だろうとなんだろうと、関係ない。ネザクを『ちゃんと』見てやってくれないか?」
「わ、わたくしが、ネザク様を見ていないとでも?」
「ああ。だってロザリーは、ネザクについて、趣味とか好物とか特技とか、何も知らないだろ? まあ、それは別にしたって、そもそも自分のしていることをネザクが喜んでるのか、嫌がってるのか、想像したこともないんじゃないか?」
「……あ」
その言葉に、ロザリーは気付かされる。魔王ネザクは、彼女にとって窮地に陥った自分を助けてくれた白馬の王子様だ。しかし、彼女は、それ以前に彼が感情を持った一人の人間であることを考えていなかった。
「学院の皆はネザクのことを……まあ、ちょっとやり過ぎなくらいに『愛して』くれている。だから、ネザクが嫌がることをするのだって、全部『わかっていて』やってるんだ」
「ちょっと待って? それってどう考えても、すっごく性質の悪いいじめだよね!?」
ネザクが叫ぶも、無視するように二人の少女の会話は続く。
「……それが『お願い』だと言うのですか?」
「まあ、その上で、ネザクのことを『愛して』あげてほしいってとこかな?」
「あ、愛して……」
『今までお前の行動には、愛がない』──暗にそう指摘されたロザリーは、あまりの衝撃に眩暈さえ覚えていた。
「……ず、随分と余裕ですのね。敵に塩を送るような真似をして」
「え? なにが?」
きょとんと目を丸くするエリザ。明らかにわかっていない様子だった。こうして話をしてみれば、嫌でも気づかされる。ネザクとエリザ。この二人は好きあっている。付き合っていないのがせめてもの救いだが、それさえ時間の問題に思える。
だから、ロザリーは決めた。
「……エリザ・ルナルフレア。わたくしは、貴女に宣戦布告いたしますわ」
「え? い、いや、だから……なにが?」
「わたくし、貴女には絶対に負けません。いつか絶対、ネザク様を本当の意味で振り向かせてみせますわ!」
ドレスの裾を振り払い、エリザに向かって指を突きつける。
「う、うーん。よくわかんないけど……」
エリザは首を傾げて唸る。しかし、それも長くは続かない。
「まあ、いいや。じゃあ、わかった! その勝負、受けて立つぜ、ロザリー!」
細かいことは気にしない。とにもかくにも英雄少女は、大国の姫君からの宣戦布告を胸を張って受け止めたのだった。
次回「第108話 白き巨木と異変の前兆」