第106話 少年魔王と大国の姫君
獣人国家バーミリオンを襲った未曽有の災厄を見事に鎮め、華々しく凱旋帰国を遂げた一行。しかし、意気揚々と帰還した彼らを待ち受けていたのは、まったく予期せざるものだった。
──学院長室の来賓用長椅子に腰かける一人の少女。銀のティアラに薄紅色のプリンセスドレス。十代半ばにしてアリアノートから呪詛の視線を注がれかねない彼女の豊かな胸元は、こうした身分の女性にしては珍しく、大きく開かれている。
そんな少女のすぐ後ろには、何故か貧乏ゆすりを続けたまま立つ、細身の男性の姿がある。
「セバスチャン。少しは落ち着けませんの?」
「は……、申し訳ございません。姫様」
背後で忙しなく身体を揺する従者の気配に、不快げな声を出す少女の声は、いかにも人の上に立つことに慣れた立場の人間のものだ。セバスチャンと呼ばれた男は、ようやく身体の動きを止める。
しかし、アルフレッドにはわかる。彼は護衛として、かなりの戦闘能力を有している。魔法の腕は不明だが、少なくとも単純な身のこなしや近接戦闘の技量だけを見れば、相当の手練れだろう。
「……さて、聞こえなかったようですので、もう一度言わせていただきますわ。アルフレッド。わたくしは、ネザク様をお迎えに参りましたの」
驚愕のあまり身体を硬直させたアルフレッドに、少女は表情一つ変えず、先ほどと同じ言葉を繰り返す。
「あ、い、いえ……すみません。驚いてしまったもので……。で、ですが、迎えにとは、どういうことでしょうか?」
どうにかそう言い返すアルフレッドだが、頭の中は真っ白だった。元々、政治的な駆け引きなどは不慣れな彼だ。助けを求めるように同席するエルムンドやエリックに目を向けるが、彼らもまた、この想定外の事態に戸惑いは隠せない。
「わたくしは、ネザク様と婚姻を結ばせていただきました」
少女は頬を赤らめ、うっとりとした口調で言う。どうやら先ほどまでの無表情は、威厳を保つために感情を押し殺していたためのものらしい。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
あまりの展開に、つい声を荒げるアルフレッド。するとそこに、セバスチャンが冷たい声音で口を挟む。
「無礼であろう。アルフレッド殿」
「すみません」
アルフレッドは、素直に謝罪する。
目の前の少女、ロザリー・エレンタードは、この国の第一王女であり、アルフレッドの立場では逆らいようもない相手だ。しかし、そんな彼女の口から出た言葉は、まるで理解しがたいものだった。
「し、しかし、お言葉ですが……、彼はクレセント王国の月影の巫女、ミリアナの養子でもあります。そうそう簡単に婚姻と言うわけには……」
「黙りなさい。……わたくしは子供の使いではありません。そのようなことは承知の上です。お父様の了解も、クレセントとの話も、すべては取り付けてあるのですから」
「な……」
ますます理解できない。ベルモント二世の思惑はともかく、クレセント側が、あのミリアナが、そんな話を簡単に了解するはずがないのだ。するとそこに、再びセバスチャンが口を挟んでくる。
「この婚姻は、クレセントと我が国の友好の懸け橋となりましょう。めでたきことです」
その言葉に、アルフレッドは弾かれたように顔を上げ、セバスチャンを睨む。つまり、両国は『魔王』という規格外の戦力について、『共有』することで妥協した。そういうことなのだろう。ミリアナと言えど、クレセント王国の王ではない以上、そこまで強硬に反対することもできなかったのかもしれない。
「どうかされましたかな? アルフレッド殿」
水色の怜悧な瞳。長身痩躯のこの従者は、よく見ればわずかにその耳が尖っている。それはとりもなおさず、彼がエルフ族の血を引いていることを意味していた。人種の坩堝たるエレンタード王国ではさして珍しいことではないが、その高い武勇で国王の大事な一人娘の護衛をこなし、学院側との交渉役まで同時に引き受けているとなれば、ただ者ではあり得ない。
「いえ、なんでもありません。お話は分かりました。ですが……本人の話も聞く必要があるでしょう。ご承知の通り、彼は……強引に命令を聞かせられるような相手ではありませんから」
国家権力に従う身の上としては、この状況において、他に言葉もない。
「……うふふ。そうですわね。……ああ、早く、ネザク様にお会いしたいわ。あの時からこの日を、何度夢見たことか……」
夢見心地で呟く王女を背後から見下ろし、セバスチャンは歪んだ笑みを浮かべている。
「……これは、早急に対策を練る必要があるな」
胸中でつぶやくアルフレッド。もちろん、ネザクはこの話を断るだろう。そして本来なら、話はそれで終わりのはずだ。しかし、今のセバスチャンの笑みを見ていると、それだけでは済まないような気がしてならなかった。
──学院に帰還したネザクは、いつにも増して多くの生徒たちに囲まれていた。彼が学院を留守にしたのは約半月あまりのことではあったが、その間、生徒たちの間では様々なうわさが飛び交い、彼の無事を祈る集会まで開かれていた。
さらに帰還直後に広まった、バーミリオンの『獣の災厄』の噂。それを鎮圧したネザク達の活躍ぶりを知るにつけ、生徒たちはついにこらえきれなくなったらしい。休み時間ともなれば連日のようにネザクの周囲に詰めかけ、彼の冒険譚を聞きたがった。
「……大した人気ですわね」
学院の大講堂にて、カグヤによる黒魔術の講義が終わった直後のこと。行動の一角に群がる人の群れを見つめて、リリアは呆れたようにつぶやいた。
「……みんな、ちょっと図々しくないかな?」
それまで隣に座っていたネザクの側から引き離されたことで、不満げな顔をするエリザ。珍しく非難めいた言葉を口にする彼女に、リリアは悪戯っぽく笑い返す。
「そんなに不満なら、あそこに割って入って取り返して来ればいいじゃない」
「な! 何を言ってるんだよ。別にあたしはそんなんじゃ……」
だが、エリザが顔を赤くして否定しようとした、その時だった。大講堂の扉がガラリと開き、そこから一人の少女と一人の従者が姿を現す。
「エレンタード王国、第一王女、ロザリー・エレンタード殿下の御成りである!」
よく通る男性の声は、従者から発せられたものだ。その場の全員が振り向く中、悠然と花道を進むがごとく歩くのは、気品漂う一人の少女。銀の額冠を見るまでもない。大国の姫君としての凛とした佇まいは、自然とネザクの周囲に集まる生徒たちをも退かせた。
波が引くように分かれた生徒たちの間を進み、彼女、ロザリー王女は呆気にとられて固まったままのネザクへと微笑みかけ、ゆっくりと歩み寄る。
「え? う、うそ……もしかして、ロザリーさん?」
ネザクが呼びかけた瞬間だった。ロザリーは微笑を喜色満面の笑みに変え、感極まったとばかりに駆け出して、そのままネザクへと飛びついた。
「ああ! ネザク様! ネザク様! お会いしとうございました! ロザリーは、ロザリーは……この日を、ずっと待ち望んでおりました!」
そう言って、少年の胸元にすがりつく。
一瞬の静寂の後、大講堂に大歓声がわき起こる。大陸中央の華たるエレンタード王国。その姫君が彼らのアイドル、少年魔王ネザクにしっかりと抱きつき、愛の言葉を叫んだのだ。生徒たちは一様に、大興奮に包まれていた。
「な、な、ななな!」
身体を震わせ、唸るエリザ。自分でも何がそんなに気に入らないのかわからないが、とにかく、胸の中が気持ち悪い。怒りとも言えず、何と表現して良いかわからない感情が胸の中で渦を巻く。
「エリザ?」
気遣わしげにリリアに声を掛けられたエリザは、ようやく我に返ったものの、もはや我慢できなかった。
「ごめん、リリア。……先に部屋に帰ってるね」
そう言い残し、ロザリーが入ってきた側とは反対の入口から出ていくエリザだった。
「驚きましたわね……。まさか、一国の王女がライバルだなんて……」
エリザの後姿を心配そうに見送りながらも、同時に、リリアは心の中で別の感想も抱いている。
「ふむ。一人の男を巡って、庶民上がりの英雄少女と大国の姫君が恋のバトルを繰り広げるか。……君の好きそうな展開だな」
「ええ、まったくもって、そうですわね。エリザには悪いけれど、逆にこれで少しは火が付いたりしてくれれば……」
リリアは、無意識のうちに相槌を返しながら、ふと気づく。今、自分は誰と話をしているのだろう?
錆びた扉が軋むような動きで、首だけを声のする方へ巡らすリリア。
「う、ああ……」
「どうした?」
例によって、講堂の後ろの席。そこに、彼はいた。秀麗な顔に斜めに走る刀傷。黒い長髪からは白く尖った耳が覗いている。いつものごとく、いつものとおり。性質の悪さなら、他の追随を許さぬ男。
──彼の名は、ルーファス・クラスタ。
とはいえ、死にゆく者の名など、覚えることに意味は無いのかもしれない。
「一体いつの間に! そこに居くさりやがりましたの、この変態!」
どうにか制御を成功させ、彼女は掌から赤い槍を突き出した。すると、それはそのまま、ルーファスをあっさりと貫いた。ぐらりと傾き、倒れ込もうとするルーファスの身体。
「え? 嘘? どうして!? 今のは避けられるようにしたはずですわよ! ちょ、ちょっと、しっかりしなさい! そ、そんなまさか……と、とにかく回復魔法を!」
慌てふためくリリア。そもそも致命傷になるような場所を狙ってはいないが、こうもまともに命中してしまっては、大怪我は免れない。
しかし、回復魔法用の触媒を探すリリアの前で、身体を貫かれたはずのルーファスの姿は、溶けるように消えていく。
「ふむ。自分の姿を白霊術で再現するという手法も、悪くは無いな」
再び声がした方を見れば、少し離れた場所に、改めて見えるルーファスの姿。
「え? え?」
眼に涙を浮かべたまま、困惑した顔で瞬きを繰り返すリリア。
「悪いな。実験をさせてもらった。君の《紅天槍》への対抗手段のひとつだ」
「じ、実験!?」
怒りに声を荒げるリリアだったが、ルーファスは構わず言葉を続ける。
「もっとも……今回の一番の収穫は、君が俺の身を心配して、涙まで見せてくれたという点かもしれんがな」
いつも無表情な彼には珍しく、その顔には微笑めいたものが浮かんでいた。
「……こ、この! 馬鹿にしてくれて!」
顔を赤くして震えるリリア。その蒼い目には、壮絶な怒気が灯っている。
「む? い、いや、ちょっと待て。今のは冗談のつもりはない」
慌てて言い繕うルーファスだが、リリアの怒りは収まらない。彼にしてみれば、先ほど言葉は冗談抜きで彼女が自分の身を案じてくれたことを嬉しく思ってのものだった。しかし、いつものごとく、それを言うべき場面が完全に間違っていた。
「うるさい! ……こうなったら、徹底的にやってやるわ!」
「だから、待てと……」
「問答無用! 発動、《黒雷破》!」
収束することもなく、でたらめに放たれた雷撃。それはルーファスの逃げ場を奪い、同時に周囲に残っていた数人の生徒たちまで巻き込んで炸裂する。
水鏡兵装ではなく、拡散して放たれた雷撃は、もとより人の命を奪うほどの威力は無い。それでも巻き込まれた生徒にしてみれば、災難と言うよりほかはなかった。
一方、大講堂の一角では、依然としてロザリーがネザクに向かって愛の言葉をささやき続けている。
「ああ、お慕い申しています。ネザク様……」
「え? い、いや、その……」
十五歳にしては酷く豊満なその身体を擦りつけんばかりに寄せてくるロザリーに、ネザクはかつてない困惑を感じていた。
恋情に潤む瞳。甘く囁きかけるような吐息。どれもこれも、実は、ネザクには初めてのものだった。これまでも多くの女性が自分を可愛がり、過剰なまでのスキンシップをしてきてはいたものの、それらはすべて、ここまで明確な『恋心』によるものではなかった。
性的な魅力をアピールしてくる相手なら、アクティラージャという前例がある。しかし、彼女は人外の『魔』であり、どちらかと言えば、照れるネザクの顔見たさの行動でもあった。
だから、こんな風に正真正銘、自分を性的に陥落せしめようとして、女性の身体を武器に迫ってこられた経験など、彼にはこれまでなかったのだ。
「う、うう……ど、どうしよう」
すでに周囲の野次馬たちは、セバスチャンの手によって追い払われている。大講堂の後方にいた者たちもまた、《黒雷破》を喰らって痙攣している数人を除き、リリアも含めて講堂から立ち退いていた。
「そうそう、ネザク様?」
ロザリーは甘えるようにネザクの胸に擦りつけていた顔を上げ、満面の笑みで語りかける。
「え? な、なに?」
狼狽えるネザクに、とどめの一言。
「二人の結婚式は、できるだけ盛大にしましょうね」
次回「第107話 英雄少女と大国の姫君」